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本編
No,96 【番外編】専務秘書・山中一道の憂鬱 其の一
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霞が関に用があり、警察庁、警視庁の前を通る度に叫びたくなる。
『お巡りさん、俺の横に犯罪者が座っています。逮捕して下さい!』
しかし、ウチの専務は、一時間もしないうちに釈放されるだろう。
いや、そもそも、逮捕状そのものが、裁判所から発布される事はない。
この人の前には、日本の国家権力は無力なのである。
※ ※ ※
この不景気な世界で、常にV字上がりに業績を上げ続けている、スーパーゼネコン・緋龍院建設。
巨大コングロマリット・緋龍院グループを母体とするが、吸収合併などで手に入れた会社ではない。日本、いや、世界の政財界の裏側まで隠然たる影響力を及ぼすと言われる、緋龍院本家の前当主・緋龍院京司老の父親が設立した会社が起源となっている、同族経営による会社なのである。
だからと言って血筋だけが勝っている無能者に、会社経営が…ましてや、スーパーゼネコンの維持が務まるはずもない。代々の社長達が傑物だった事に間違いはないが、実を言うとバブル崩壊時はかなりヤバかったのだ。
その屋台骨を建て直した立役者が、当時、本社の土木管理本部土木企画部部長であった、一条貴志、その人なのだった。
それから、10年後。
俺、山中一道に辞令が下された。
「……え!? 俺が…いえ、私が専務秘書ですか!?」
「そうだ。新役員に昇格した新しい専務からの、直々のご指名だぞ。君にとっても、昇進になる。頑張りたまえ。」
「はい! ありがとうございます!!」
……あの瞬間の感激を返して欲しいと、つくづく思う。
当時、俺は、50代後半のうだつの上がらない常務の秘書をしていた。この男がまた、東大出を鼻に掛ける嫌味な男だった。過剰な場所での接待を好み賄賂も平気で受け取る、バブル時代の甘い夢を引き摺っているような俗物だったのである。東海大出身の俺を見下し、顎で使われていた。
まあ俺も緋龍院建設と云う一流企業に就職出来た事が恩の字であると黙って耐えていたのだが、秘書室の染谷室長が人格者で、俺の仕事振りをしっかり見ていて評価してくれていたからこそ耐えられたと云うのも大きい。
その染谷室長から『頭に叩き込んでおくように』と渡された、新しいボスになる【一条新専務】の個人データファイルが社外秘なのは勿論だが、“極秘”扱いになっている事には驚いた。
その経歴は、実に華麗なものだった。一条財閥の流れを汲む、旧華族・一条家の出身で、幼稚舎から高等学校までエスカレーター式の私立の名門校・緋龍院学院に学んだが、付属の大学には進学せずに、オックスフォード大学に留学している。卒業後、帰国し、緋龍院建設関東支店に入社。意外にも現場のたたきあげで、メキメキと頭角を現し、本社の土木管理本部土木企画部管理課に栄転後、チームリーダー、主任、課長、土木企画部部長を歴任。土木管理本部部長補佐を経て、部長職と常務をすっ飛ばして、今年4月に39歳の若さで専務執行役員に昇進した。
特筆すべきは十ヶ国語を操り、海外出張を繰り返している点だ。
海外事業本部へ行けば良かったのに、などと思った疑問は、備考欄を見て驚愕し…納得した。
『本名・緋龍院貴志。現社長・緋龍院京一郎氏の実弟。
尚、本件は、上層部の一部の人間が知る極秘事項故、他言は厳禁。』
……なんて事だ。……彼は、創業者一族に連なる人だったのだ。だったら、海外に重点をおく部に配属される訳はない。本社の心臓部分に等しい部署で当然だ。
しかし、なぜ、一条姓を名乗っているのだろう……
ただ、確かな事は、緋龍院ブランドを排除し、実力で今の地位に昇りつめたと云う事だ。その一点だけでも充分、尊敬に値すると思った。
たまに社食で見掛けるその人は、同じ男から見ても綺麗と云える顔立ちをしており、ノンフレーム眼鏡がその端正な容貌を引き立てていた。緋龍院とは縁戚関係にある一条家の御曹司である点と、順調に出世街道を走るエリートとして、またイケメンの“メガネ男子”として、特に女性社員からは絶大な人気を誇っていた。しかし、食事は常に男性の部下か同僚、上司と共にとり、女性と一緒にいるところを見掛けた事はない。……女性関係が派手らしい噂はあったが、社内の女性に手を出した事は皆無で、華々しい女性遍歴も全て過去のものになりつつある。今は男性社員からも慕われる、硬派な男として理想的な人物に見えた。ちなみに裸眼の視力が、両目ともに1.5以上あり、あの眼鏡が伊達だと知ったのは、完全な余談である。
……この男なら…仕えるボスとして、尊敬出来るかも知れない。
一条貴志氏の趣味・嗜好など、人物の全体像を把握すべくファイルを読み込んで行く。これから配属される新専務の下での仕事に新たな遣り甲斐を感じ、ワクワクしていたこの時が…現在から思えば、一番幸福な時間だった…と、思わず遠い眼になってしまうのだった。
※ ※ ※
「おはようございます。本日から、一条専務の秘書として務めさせて頂きます、山中一道と申します。お役に立てるよう、一所懸命、頑張らさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します!」
「…合格。」
「…は…?」
「今では放送用語でも『一生懸命』を使う事が多いが、転じる元になった『一所懸命』とは、その昔、武士が賜った「一か所」の領地を命がけで守り、それを生活の糧にして生きた事に由来する言葉だ。使う日本語は、正しくありたいものだ。」
「……は。……ありがとうございます。」
俺と、一条貴志新専務との初めて交わした会話は、日本語の講義だった。十ヶ国語を操ると云うのは、伊達じゃないらしい。…きっと、その国の言語の成り立ちからして理解を深めていくのだろう。
「私の個人ファイルは読み込んでくれた事と思うが、一箇所だけ訂正がある。」
「は、何でしょうか?」
「趣味の欄だ。ファイルには、『ビリヤード、ダーツ、ポロ、チェス』などが挙げられていたと思うが。」
「はい。…それは間違いと云う事ですか?」
「対外的には、そう答えている。…本当の趣味は、読書と…株だ。」
「……株…ですか…。」
「そうだ…見たまえ。」
専務のマホガニーのデスクの上には、用意されているデスクトップパソコンの横に、専務が持ち込んだノーパソが広げられていた。それを俺の方にクルリと反転させると、そこにはチャートが表示されていた。 ……どうやら、日経平均株価のチャートらしい。俺がその画面を確かに見た事を確認すると、もう一度反転させて元に戻す。
「数少ない趣味なんだ。…見逃してくれ。」
……生真面目だと思っていた印象が、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。
『専務の趣味は、読書と株』と、脳内データファイルに上書きする。
「……一条専務が何をされていらっしゃろうとも、仕事の業務に差し支えなければ、一向に構いません。一介の秘書如きの関知する事ではございません。」
……もし、許されるなら、あの瞬間に戻って言い添えたい!
……『犯罪に問われる事がなければ』と云う一言をっ!!
ノックの音と共に、第二秘書に任命されている坂崎さんが、珈琲を持って入室して来た。
「一条専務、おはようございます。第二秘書の坂崎比奈子と申します。どうぞ、よろしくお願い致します。これからは、何なりとお申し付け下さいませ。」
にっこりと微笑うその眼は、獲物を狙う猛禽類のようだ。
……どうでもいいけど、そのルージュ、ちょっと濃すぎないかい…?
「ありがとう。これから、よろしく。…下がって良いよ。」
「…あの、すみません! 一口、飲んでみて、感想を聞かせて下さい。…専務のお好みの味を覚えたいので!!」
……必死だな……言われた通り、眼鏡を外して珈琲を飲んだ専務は、「…うん、これで良い」と答えたが……表情は素っ気ない。でも、そんな事にもめげずに(あるいは、気付かずに)、パアッと顔を輝かせた坂崎さんは、「嬉しい! ありがとうございます!」と元気良く去って行った。
……会社に何しに来てるんだか……
坂崎さんのパワーに圧倒された俺はため息を押し殺して、初日のスケジュール確認を始めた。
一言で言って、一条専務は、“デキる”上司だった。
仕事に妥協は許さない。部下には厳しいが、自分にはそれ以上に厳しい。
そして、部下を気遣う優しさを持っている。
だが、専務になって三ヶ月。
彼の堪忍袋の緒が切れた。
「坂崎はダメだ。」
……同感だ。
彼女は決して無能な人間ではない。やるべき最低限の事はやっている。
しかし、秘書たる者、それだけではダメなのだ。
上司の仕事の先を読み、それに対応する準備をすべく、常に緊張感を持っていなければならない。
……しかも、それどころか……専務を狙う秋波がハンパない。
トドメは、社食での出来事だ。
その日、俺と専務は、会社の食堂にやって来ていた。
……こんな処も、俺が専務に好印象を持っている点だ。あの常務だったら、絶対に社食など利用しない。1つ、3,000円から5,000円もする、料亭の幕の内弁当を手配させていたものだ。
緋龍院建設の食堂は、安くてボリュームがあって、おまけに美味い。会社の方針で、調理人は常に厳選されていた。銀座の外れの高層ビルの最上階にあるため眺めも良い。窓際は人気の席だ。
2人で1番人気のA定食にして、トレ―の上に湯気のたつ美味そうな定食を持ち、さて、どこに座ろうかと見回したら、さすがに昼時、ほとんど満席状態だ。
そんな時。
「一条専務~~、こちら、空いてますよ~~。よろしかったら、いらして下さ~~い!」
坂崎さんが、大声で呼んでいる。
一瞬、その場の雰囲気がザワリとゆれるが、彼女はどこ吹く風だ。
見れば6人掛けのテーブルに、3人の女性と共に座っている。秘書室の面々だ。留守番を残して交代で昼食をとるのだが……悪いところに来てしまった。
そう思ったのは専務も同じだったようで、一瞬、表情が歪んだように見えたが、そんな表情はすぐに消して、冷静な顔で「…ありがとう、助かるよ。」と礼を言って座った。
いそいそと椅子を引かれたり、お茶を持って来てもらうのにも、いちいち礼を言っているのが、女性にとってはポイントが高いのだろう。
最初は当たり障りのない仕事の話をしていた彼女たちは、俺と専務の食事が終盤に差し掛かっているのを見てとると……牙をむいて来た。
「一条専務は、恋人はいらっしゃるんですか?」
……直球だな、オイ。
「……いや……」
……『キャー!!』と云う、彼女たちの心の声が聴こえるようだ……
「会社の創立記念パーティーには、いつも、お1人でいらっしゃっていますが…パートナーが必要ではありませんか?」
……『私が、私がっ!!』と云う、……以下、同文。
「……必要ない……」
「梅小路家のご令嬢とご歓談されていましたが…お親しいんですか?」
「……別に…単なる知り合いだ。」
「お見合いなんか、降るようにあるんでしょうね。」
「……面倒で、全部断っている。」
「大学時代は留学されていらっしゃったそうですが、学生時代にもお付き合いされていた方はいらっしゃらないんですか?」
「……女性の友人は沢山いた……」
……俺は話し掛けられないので、黙々と食べながら会話を聞いている。
……別に聞きたくて聞いてる訳じゃない。イヤでも耳に入って来るんだ。
……彼女たちの瞳が異様にギラギラして見えるのは、きっと、気のせいなんかじゃない。 ……一条専務のようなハイスペックな男は、超優良物件だ。万が一にでも落とせば、確実に玉の輿だろう。
……一条の姓でコレなのだ。
緋龍院の本名が知られたら……考えたくない。
その後、俺は仕事と偽って、食べ終えた専務を救出した。食後のお茶をゆっくり飲ませて差し上げられなかったのが気になっていたのだが、専務室に戻って『ありがとう。助かったよ。』と礼を言われて安心した。同情した俺は、せめてもと思って珈琲を淹れて差し上げたのだが、『…美味い。ありがとう。』と言われて、この専務の下に配属になって良かったとつくづく思った。
何気ない一言の礼が、心底、嬉しいのだ。
……かつての上役は、何をしても礼1つ言わない人間だったから、余計にそう感じるのだろう。
この1件で、一条専務はしばらく社食は使わなくなった。外食で済ませるか、俺が手配する1,000円から3,000円の弁当を食べるようになっていった。料亭の弁当ではない。どちらかと云えば庶民的な弁当屋の、栄養バランス重視の仕出し弁当をリクエストされた。どうしても社食を使わなければならない時は、“彼女たち”と時間が合わないよう徹底的に時間をずらされ…他にどうしようもない場合は、俺が弁当屋かコンビニまで使いに走ったりしたのだった―――
かくして、遂に坂崎さんはお役御免となった。
それだけではない。次の第二秘書には、是非、男性をとの専務のたっての希望で、染谷室長が選んだのは、新卒の小林と云う青年だった。
……仕方がない。
ベテラン勢は、既に他の役員付きになっていたからだ。
「よろしくお願いします!!」
90度に腰を折る小林君は、早稲田卒のフレッシュマンだ。何気に体育会系なのが嬉しい。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。」
握手を求めて来た一条専務に、感激したように両手でブンブンと音が出そうなほど振っている様子も初々しい。
35歳にして、専務役員秘書と云う重責にとどまらず、新人教育まで任される事になった訳だが、その時俺は、面倒臭さなんて微塵も感じなかった。染谷室長に『大変だとは思うが、なに、君になら任せられる。大丈夫だ。』と太鼓判を押されて、彼に認められている事が誇らしく思えたほどだった。
だから、この時。
彼らの恨みを買ってしまっていたなどとは、夢にも思わなかったのだ―――
『お巡りさん、俺の横に犯罪者が座っています。逮捕して下さい!』
しかし、ウチの専務は、一時間もしないうちに釈放されるだろう。
いや、そもそも、逮捕状そのものが、裁判所から発布される事はない。
この人の前には、日本の国家権力は無力なのである。
※ ※ ※
この不景気な世界で、常にV字上がりに業績を上げ続けている、スーパーゼネコン・緋龍院建設。
巨大コングロマリット・緋龍院グループを母体とするが、吸収合併などで手に入れた会社ではない。日本、いや、世界の政財界の裏側まで隠然たる影響力を及ぼすと言われる、緋龍院本家の前当主・緋龍院京司老の父親が設立した会社が起源となっている、同族経営による会社なのである。
だからと言って血筋だけが勝っている無能者に、会社経営が…ましてや、スーパーゼネコンの維持が務まるはずもない。代々の社長達が傑物だった事に間違いはないが、実を言うとバブル崩壊時はかなりヤバかったのだ。
その屋台骨を建て直した立役者が、当時、本社の土木管理本部土木企画部部長であった、一条貴志、その人なのだった。
それから、10年後。
俺、山中一道に辞令が下された。
「……え!? 俺が…いえ、私が専務秘書ですか!?」
「そうだ。新役員に昇格した新しい専務からの、直々のご指名だぞ。君にとっても、昇進になる。頑張りたまえ。」
「はい! ありがとうございます!!」
……あの瞬間の感激を返して欲しいと、つくづく思う。
当時、俺は、50代後半のうだつの上がらない常務の秘書をしていた。この男がまた、東大出を鼻に掛ける嫌味な男だった。過剰な場所での接待を好み賄賂も平気で受け取る、バブル時代の甘い夢を引き摺っているような俗物だったのである。東海大出身の俺を見下し、顎で使われていた。
まあ俺も緋龍院建設と云う一流企業に就職出来た事が恩の字であると黙って耐えていたのだが、秘書室の染谷室長が人格者で、俺の仕事振りをしっかり見ていて評価してくれていたからこそ耐えられたと云うのも大きい。
その染谷室長から『頭に叩き込んでおくように』と渡された、新しいボスになる【一条新専務】の個人データファイルが社外秘なのは勿論だが、“極秘”扱いになっている事には驚いた。
その経歴は、実に華麗なものだった。一条財閥の流れを汲む、旧華族・一条家の出身で、幼稚舎から高等学校までエスカレーター式の私立の名門校・緋龍院学院に学んだが、付属の大学には進学せずに、オックスフォード大学に留学している。卒業後、帰国し、緋龍院建設関東支店に入社。意外にも現場のたたきあげで、メキメキと頭角を現し、本社の土木管理本部土木企画部管理課に栄転後、チームリーダー、主任、課長、土木企画部部長を歴任。土木管理本部部長補佐を経て、部長職と常務をすっ飛ばして、今年4月に39歳の若さで専務執行役員に昇進した。
特筆すべきは十ヶ国語を操り、海外出張を繰り返している点だ。
海外事業本部へ行けば良かったのに、などと思った疑問は、備考欄を見て驚愕し…納得した。
『本名・緋龍院貴志。現社長・緋龍院京一郎氏の実弟。
尚、本件は、上層部の一部の人間が知る極秘事項故、他言は厳禁。』
……なんて事だ。……彼は、創業者一族に連なる人だったのだ。だったら、海外に重点をおく部に配属される訳はない。本社の心臓部分に等しい部署で当然だ。
しかし、なぜ、一条姓を名乗っているのだろう……
ただ、確かな事は、緋龍院ブランドを排除し、実力で今の地位に昇りつめたと云う事だ。その一点だけでも充分、尊敬に値すると思った。
たまに社食で見掛けるその人は、同じ男から見ても綺麗と云える顔立ちをしており、ノンフレーム眼鏡がその端正な容貌を引き立てていた。緋龍院とは縁戚関係にある一条家の御曹司である点と、順調に出世街道を走るエリートとして、またイケメンの“メガネ男子”として、特に女性社員からは絶大な人気を誇っていた。しかし、食事は常に男性の部下か同僚、上司と共にとり、女性と一緒にいるところを見掛けた事はない。……女性関係が派手らしい噂はあったが、社内の女性に手を出した事は皆無で、華々しい女性遍歴も全て過去のものになりつつある。今は男性社員からも慕われる、硬派な男として理想的な人物に見えた。ちなみに裸眼の視力が、両目ともに1.5以上あり、あの眼鏡が伊達だと知ったのは、完全な余談である。
……この男なら…仕えるボスとして、尊敬出来るかも知れない。
一条貴志氏の趣味・嗜好など、人物の全体像を把握すべくファイルを読み込んで行く。これから配属される新専務の下での仕事に新たな遣り甲斐を感じ、ワクワクしていたこの時が…現在から思えば、一番幸福な時間だった…と、思わず遠い眼になってしまうのだった。
※ ※ ※
「おはようございます。本日から、一条専務の秘書として務めさせて頂きます、山中一道と申します。お役に立てるよう、一所懸命、頑張らさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します!」
「…合格。」
「…は…?」
「今では放送用語でも『一生懸命』を使う事が多いが、転じる元になった『一所懸命』とは、その昔、武士が賜った「一か所」の領地を命がけで守り、それを生活の糧にして生きた事に由来する言葉だ。使う日本語は、正しくありたいものだ。」
「……は。……ありがとうございます。」
俺と、一条貴志新専務との初めて交わした会話は、日本語の講義だった。十ヶ国語を操ると云うのは、伊達じゃないらしい。…きっと、その国の言語の成り立ちからして理解を深めていくのだろう。
「私の個人ファイルは読み込んでくれた事と思うが、一箇所だけ訂正がある。」
「は、何でしょうか?」
「趣味の欄だ。ファイルには、『ビリヤード、ダーツ、ポロ、チェス』などが挙げられていたと思うが。」
「はい。…それは間違いと云う事ですか?」
「対外的には、そう答えている。…本当の趣味は、読書と…株だ。」
「……株…ですか…。」
「そうだ…見たまえ。」
専務のマホガニーのデスクの上には、用意されているデスクトップパソコンの横に、専務が持ち込んだノーパソが広げられていた。それを俺の方にクルリと反転させると、そこにはチャートが表示されていた。 ……どうやら、日経平均株価のチャートらしい。俺がその画面を確かに見た事を確認すると、もう一度反転させて元に戻す。
「数少ない趣味なんだ。…見逃してくれ。」
……生真面目だと思っていた印象が、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。
『専務の趣味は、読書と株』と、脳内データファイルに上書きする。
「……一条専務が何をされていらっしゃろうとも、仕事の業務に差し支えなければ、一向に構いません。一介の秘書如きの関知する事ではございません。」
……もし、許されるなら、あの瞬間に戻って言い添えたい!
……『犯罪に問われる事がなければ』と云う一言をっ!!
ノックの音と共に、第二秘書に任命されている坂崎さんが、珈琲を持って入室して来た。
「一条専務、おはようございます。第二秘書の坂崎比奈子と申します。どうぞ、よろしくお願い致します。これからは、何なりとお申し付け下さいませ。」
にっこりと微笑うその眼は、獲物を狙う猛禽類のようだ。
……どうでもいいけど、そのルージュ、ちょっと濃すぎないかい…?
「ありがとう。これから、よろしく。…下がって良いよ。」
「…あの、すみません! 一口、飲んでみて、感想を聞かせて下さい。…専務のお好みの味を覚えたいので!!」
……必死だな……言われた通り、眼鏡を外して珈琲を飲んだ専務は、「…うん、これで良い」と答えたが……表情は素っ気ない。でも、そんな事にもめげずに(あるいは、気付かずに)、パアッと顔を輝かせた坂崎さんは、「嬉しい! ありがとうございます!」と元気良く去って行った。
……会社に何しに来てるんだか……
坂崎さんのパワーに圧倒された俺はため息を押し殺して、初日のスケジュール確認を始めた。
一言で言って、一条専務は、“デキる”上司だった。
仕事に妥協は許さない。部下には厳しいが、自分にはそれ以上に厳しい。
そして、部下を気遣う優しさを持っている。
だが、専務になって三ヶ月。
彼の堪忍袋の緒が切れた。
「坂崎はダメだ。」
……同感だ。
彼女は決して無能な人間ではない。やるべき最低限の事はやっている。
しかし、秘書たる者、それだけではダメなのだ。
上司の仕事の先を読み、それに対応する準備をすべく、常に緊張感を持っていなければならない。
……しかも、それどころか……専務を狙う秋波がハンパない。
トドメは、社食での出来事だ。
その日、俺と専務は、会社の食堂にやって来ていた。
……こんな処も、俺が専務に好印象を持っている点だ。あの常務だったら、絶対に社食など利用しない。1つ、3,000円から5,000円もする、料亭の幕の内弁当を手配させていたものだ。
緋龍院建設の食堂は、安くてボリュームがあって、おまけに美味い。会社の方針で、調理人は常に厳選されていた。銀座の外れの高層ビルの最上階にあるため眺めも良い。窓際は人気の席だ。
2人で1番人気のA定食にして、トレ―の上に湯気のたつ美味そうな定食を持ち、さて、どこに座ろうかと見回したら、さすがに昼時、ほとんど満席状態だ。
そんな時。
「一条専務~~、こちら、空いてますよ~~。よろしかったら、いらして下さ~~い!」
坂崎さんが、大声で呼んでいる。
一瞬、その場の雰囲気がザワリとゆれるが、彼女はどこ吹く風だ。
見れば6人掛けのテーブルに、3人の女性と共に座っている。秘書室の面々だ。留守番を残して交代で昼食をとるのだが……悪いところに来てしまった。
そう思ったのは専務も同じだったようで、一瞬、表情が歪んだように見えたが、そんな表情はすぐに消して、冷静な顔で「…ありがとう、助かるよ。」と礼を言って座った。
いそいそと椅子を引かれたり、お茶を持って来てもらうのにも、いちいち礼を言っているのが、女性にとってはポイントが高いのだろう。
最初は当たり障りのない仕事の話をしていた彼女たちは、俺と専務の食事が終盤に差し掛かっているのを見てとると……牙をむいて来た。
「一条専務は、恋人はいらっしゃるんですか?」
……直球だな、オイ。
「……いや……」
……『キャー!!』と云う、彼女たちの心の声が聴こえるようだ……
「会社の創立記念パーティーには、いつも、お1人でいらっしゃっていますが…パートナーが必要ではありませんか?」
……『私が、私がっ!!』と云う、……以下、同文。
「……必要ない……」
「梅小路家のご令嬢とご歓談されていましたが…お親しいんですか?」
「……別に…単なる知り合いだ。」
「お見合いなんか、降るようにあるんでしょうね。」
「……面倒で、全部断っている。」
「大学時代は留学されていらっしゃったそうですが、学生時代にもお付き合いされていた方はいらっしゃらないんですか?」
「……女性の友人は沢山いた……」
……俺は話し掛けられないので、黙々と食べながら会話を聞いている。
……別に聞きたくて聞いてる訳じゃない。イヤでも耳に入って来るんだ。
……彼女たちの瞳が異様にギラギラして見えるのは、きっと、気のせいなんかじゃない。 ……一条専務のようなハイスペックな男は、超優良物件だ。万が一にでも落とせば、確実に玉の輿だろう。
……一条の姓でコレなのだ。
緋龍院の本名が知られたら……考えたくない。
その後、俺は仕事と偽って、食べ終えた専務を救出した。食後のお茶をゆっくり飲ませて差し上げられなかったのが気になっていたのだが、専務室に戻って『ありがとう。助かったよ。』と礼を言われて安心した。同情した俺は、せめてもと思って珈琲を淹れて差し上げたのだが、『…美味い。ありがとう。』と言われて、この専務の下に配属になって良かったとつくづく思った。
何気ない一言の礼が、心底、嬉しいのだ。
……かつての上役は、何をしても礼1つ言わない人間だったから、余計にそう感じるのだろう。
この1件で、一条専務はしばらく社食は使わなくなった。外食で済ませるか、俺が手配する1,000円から3,000円の弁当を食べるようになっていった。料亭の弁当ではない。どちらかと云えば庶民的な弁当屋の、栄養バランス重視の仕出し弁当をリクエストされた。どうしても社食を使わなければならない時は、“彼女たち”と時間が合わないよう徹底的に時間をずらされ…他にどうしようもない場合は、俺が弁当屋かコンビニまで使いに走ったりしたのだった―――
かくして、遂に坂崎さんはお役御免となった。
それだけではない。次の第二秘書には、是非、男性をとの専務のたっての希望で、染谷室長が選んだのは、新卒の小林と云う青年だった。
……仕方がない。
ベテラン勢は、既に他の役員付きになっていたからだ。
「よろしくお願いします!!」
90度に腰を折る小林君は、早稲田卒のフレッシュマンだ。何気に体育会系なのが嬉しい。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。」
握手を求めて来た一条専務に、感激したように両手でブンブンと音が出そうなほど振っている様子も初々しい。
35歳にして、専務役員秘書と云う重責にとどまらず、新人教育まで任される事になった訳だが、その時俺は、面倒臭さなんて微塵も感じなかった。染谷室長に『大変だとは思うが、なに、君になら任せられる。大丈夫だ。』と太鼓判を押されて、彼に認められている事が誇らしく思えたほどだった。
だから、この時。
彼らの恨みを買ってしまっていたなどとは、夢にも思わなかったのだ―――
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※表紙画像/【イラストAC】NORIMA様
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