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本編
No,65 真唯、新歌舞伎座デビュー
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真唯は歌舞伎が大好きだ。
初めて観たのは、中学校の歌舞伎鑑賞教室と称して、町の文化会館のような場所で行われたもので演目ももう覚えてはいないが、他の殆どの生徒が退屈してしまう中、真唯は舞台の上で繰り広げられる日本の伝統文化の様式美の粋とも云える“傾く”文化に夢中になっていた。
短大に入って、秘密の副収入のお陰でフトコロと時間に余裕が出来た真唯は、旧・歌舞伎座にも出掛けて行き、その素晴らしさに圧倒された。見るもの、聴くもの全てが新鮮で、ダイナミックで緻密で斬新で……。真唯はアッと云う間に、歌舞伎の魅力に改めて惹かれたのである。
中でも大好きだったのは、中村勘九郎、後の勘三郎丈である。
コクーン歌舞伎や野田秀樹演出による映画や平成中村座など、意欲的に様々なものに挑戦するその魂に魅せられた。
数々の浮き名を流したのは女として許せんものを感じるが、思えばあの池波先生も遊郭推進論者だったから、まあ見逃してやろうと云う気持ちだったのだ(苦笑)。
それ故に、彼の早過ぎる死はショックなどと云うものではなかった。新しく完成した新・歌舞伎座に足を運ぶ気になれないほど大ショックだったのである。
松竹歌舞伎会に入り、新春大歌舞伎を観ないと新年が始まった気にならないとか云うほどのファンだった訳でもないので、すっかり歌舞伎から足が遠のいてしまった真唯だったのだが、情報だけは入って来ていた。
一条さんである。
緋龍院建設が歌舞伎座のオフィシャルパートナーだったからである。
だから、今月行われる【鳳凰祭三月大歌舞伎】の情報もいち早く教えてくれた。
『真唯さんのお好きな玉三郎が藤娘を舞いますよ。
それもあの勘三郎の遺児の七之助とともに【二人藤娘】ですよ。
それに、あの鬼平を演った吉右衛門が【勧進帳】の弁慶ですよ。
ご覧になりたくはありませんか?』
流石は一条さんである。真唯の好みのド真ん中ストレートを射抜いて来る。
真唯が望むなら、初日の昼の部、夜の部の桟敷席を用意してくれると言うのだ。
だが、初日が3月2日であると聞いて、真唯は即効、お断りを申し上げた。何故ならば、越谷市で行われる【鼓童】の公演のチケット予約開始日だったからである。鼓童には以前から興味を寄せていたのだが、坂東玉三郎を芸術監督として迎えての創作作品「神秘」には、激しく心揺さぶられ都心へ行くよりもよほど近い場所での公演に胸をワクワクさせていたのである(ちなみに能と文楽の公演もあって、これにも心惹かれた真唯ではあったが、真唯の1人での公演観賞を嫌う恋人の事を思い、潔く諦めた)。
恋人のお誘いはお断りした真唯ではあったが、藤娘と弁慶は観たい。
勘三郎丈を亡くした心の痛みも、大分薄れて来た。ここらで遅ればせながら、新歌舞伎座にお出掛けするのも良いかも知れない。
だが、昼の部を観るか、夜の部を観るか、ギリギリまで悩んだ。だが、演目の豪勢さで昼の部に軍配が上がった。【身替座禅】も【藤娘】も、真唯の大好きな演目である。
でも、吉右衛門丈の弁慶は捨て難い。いっそ、幕見席で観ようかと悩んだが、昼の部を桟敷席で観た後のソレはあんまりだろうと諦めた。ただ、昼の部の松羽目物で吉右衛門が女形を演ると知って、改めて楽しみになったのだった。
……しかし、バレエの25,000円は惜しくて、歌舞伎座の20,000円は惜しくないのだから不思議と言えば不思議だが、桟敷席は特別な席である。その差かも知れないと、真唯は勝手に納得している。
※ ※ ※
真唯はその日、特別にお洒落をして芝居に臨んだ。
一条さんがリザさんの処で購入してくれた、ピンクのアンサンブルニットにインカローズのブレスレット。それにあわせてイヤリングもインカローズにしようかと迷ったのだが、結局はいつものムーンストーンのイヤリングにしてしまった。相変わらずスッピンだが、その昔、パリに行った時に買ったルージュをひいた。まとう香りは、勿論、【IMprevu】である。
いつもは通勤に使う電車も、こんな時は乗り込むのがとても楽しい。いつもは降りる八丁堀の駅を通過する真唯の口元がほんのり綻ぶ。
そして、定式幕がデザインされている東銀座の駅に久々に降り立った真唯を待っていたのは、正しく“傾きワールド”だった。
「歌舞伎座タワー」と云う名のビルが新歌舞伎座の背後に建っていて、【GINZA KABUKIZA】と云う複合施設になっているのは知っていたが、その地下2階【木挽町広場】が地下鉄を抜けた途端に広がっているのは圧巻だった。
特に一周年を迎える今年は“桜まつり 鳳凰祭”と称したイベントが開催され、広場正面の左には桜の番傘と鳳凰の描かれた歌舞伎座の瓦が、右には桜を展示してこのお祭りの彩りに花を添えている。
また、お客様を賑々しくお迎えする“かわら版”のパフォーマンスが披露されていて、お江戸の昔にタイムスリップし、これから芝居小屋に入るようなワクワク感を盛り上げてくれている。広場の売店の一角では、全国の桜菓子や春の和雑貨が販売されていて、静岡松崎町産の柔らかい桜葉など素材にこだわったと云う「道明寺桜もち」なんかはとても美味しそうだ。真唯は今年は桜の開花が早いので、来週の週末頃に一条さんを特等席にご招待する予定でいる。この桜もちは絶好のおやつになってくれそうだが、生菓子はすぐに固くなってしまう。非常に残念である。
桜の枝が随所に飾られ来るべき春の訪れを待ちかねているようだが、非常時には約3000人の帰宅困難者が3日間ほど待機できるだけのスペースと食料などを提供する機能をもつ事を知る人はあまりいないだろう。
いよいよ外に出て、新歌舞伎座とのご対面である。表面上はまったくと言って良い程変わっていない事にホッとするが、やはり後ろのビルが邪魔だ。……と思うが、一条さんの会社がここの建設に関わっていたのだろう事を思うと、これは真唯のトップシークレットだ。
その一条さんとは、今日は完全な別行動である。もともと今日は他に用事があると言って週末デートを断っていたのだが、直前の昨日、実は……と白状しておいた。どうせブログをアップしてしまえばバレる事なのだ。それなら自分の口から先に言っておきたかった。しばらくは憮然としていた一条さんだったが、最後には『仕方がないですねぇ…貴女と云う方は…』とため息で許してくれた。
地下鉄を上がって行った処に、【歌舞伎稲荷】さまが無事にあらっしゃった事にホッとする。先ずは何はともあれご挨拶である。住所と氏名を名乗り、本日、歌舞伎鑑賞の機会を頂きご縁を頂けた事に、感謝申し上げる。
看板の錦絵をながめつつ玄関を入ると真っ赤な色彩の空間に包まれ、フワッとした足元の感触に(ああ~、いよいよか~~)との高揚感が生まれる。「大間」と呼ばれるホワイエは、赤い柱の間に西陣織の布で仕上げた壁、足元も赤いじゅうたんで鮮やかに彩られている。デザインされているのは、幸せを呼ぶと云われる「昨鳥」の文様である。
そこここにたむろしていらっしゃる着物姿の年配のご婦人方に、歌舞伎がお好きだと言う一条さんのお母様の陰を見て少しだけブルーになってしまうが、次の瞬間にはニッコリ笑ってその陰を追い払う。
さあ、今日は“おひとりさま贅沢”を満喫するゾ~♪
笑うかどには福きたる。笑顔には笑顔が寄って来る。
アタシのような1人の人間のところへも案内嬢は丁寧に寄って来てくれる。
いつもは隣にいる男性に阿るような美人さんが来るのだが、今日はそんな事はない。純粋にお客様をご案内しようと使命に燃える女性が来てくれる。こんな女性に、桟敷席のチケットを見せて席に案内してもらえるのがちょっぴり快感だったりするのだ。アタシは桟敷席は、断然、西側派だ。多少スポットライトが眩しいくらい我慢出来る。なんたって、花道が手が届きそうな距離にあるのだから。
……ここで観る、弁慶の飛び六方は格別だろうなァ~~~
諦めたはずの想いが蘇るのはどうしようもない。夜の部の【加賀鳶】に興味が持てなかったのだから仕方がない。実は【日本振袖始】は、ちょっぴり興味があったのだ。“岩長姫実は八岐大蛇”を玉三郎丈が演るなんて、何とも魅惑的なキャスティングではないか。だが岩長姫は、邇々芸命に振られてしまった事で有名な残念な容姿の姫君なのだ。 ……それが自分を見るようで、真唯には居た堪れなかったのだ。
夜の事は思い切ろう!
改めて劇場内を見渡す。客席の座席も観やすさ、聴きやすさを細かく配慮され、音響も完璧。最新の免震構造、LSD電気、太陽光発電を備えた、正に21世紀の歌舞伎の劇場空間なのだ。しかし、変わらないものもある。3階席はいわゆる“大向こう”、「中村屋!」とか、「成田屋!」などと大声で叫ばれるアレである。今日も通を自任している人々が陣取っている。役者からすれば、これ以上頼もしい応援団はいないだろうし、観客にとっても役者との一体感を感じる事の出来る大切な潤滑油なのだ。
劇場内の売店で珈琲を買い、一緒に買ったパンフを桟敷席でペラペラ捲っていると、「あの~、今日はご同席、よろしくお願いします。」と遅れてやって来た隣の人に声を掛けられた。わざわざ挨拶してくれるなんて、丁寧な方だ。この方となら長い時間ご一緒しても苦痛ではないだろうと真唯も振り返って、にこやかに「こちらこそ、よろしくお願いします」と挨拶した。
が、しかし。
そのスーツの男性は何を思ったのか、真唯の顔をジ~~ッと見て来る。(なんだ、なんだ!? 喧嘩なら買うわよ! と言いたいところだがこれからご一緒するのに、あんまり気まずい雰囲気になりたくないのにな~~)と思っていると、ふいに、
「……まきのさん…?
……もしかして…牧野秀美さんじゃありませんか…?」
などとフルネームで呼ばれてしまう。
すっかり上井真唯モードでいた真唯は正直、(ゲッ!)と思ってしまうものの、まさか取引会社の人間だったりしたら大事だ。引き攣り笑いを浮かべ、(誰だっけ? 誰だっけ!?)と思いながら、頭の中でKY商事に訪れる会社の営業の男性を検索してみるのだが、一向に眼の前の男性と合致しない。にこにこしていた方が真唯の困った様子に気付いたようで、「あ~~、覚えてないのも仕方ないか」と呟いた。
「……俺、高校の同級生だった小出誠なんだけど…覚えてない…?」
……そんなの覚えてられるかっ!
……って、よくアタシが分かったわね…その事に敬意を表したい。
「……小出君…?
…あ…もしかして…“まこっちゃん”て呼ばれていた…学級委員の…?」
顔を見て話しているうちに、段々と思い出してくる。
世話好きでイケメンで、結構モテていた幼な顔が眼の前の男の人と合致していく。
「あ! 思い出してくれた? 良かった~~」
嬉しそうな表情の彼に、なかなか思い出せなかった事が申し訳なく思えて来る。
「ご免なさいね。
でも小出君は、よく私の事、分かったね。
図書委員で、印象薄かったでしょうに。」
「すぐは分からなかったよ。
…だって、綺麗になったもん、牧野さん。
さすが、東京でOLしてると、違うね。」
「またまた~~。お世辞言ったって、何にも出て来ないよ。
…あ! お茶くらい、淹れてあげるね。」
会社のお客さんじゃないけど、男の人を見るとポットに手が伸びてしまうのはOL生活をやっている性だ。今の時代、“お茶くみは女の仕事”なんて言ってるところは少ないのかも知れないが、KY商事ではその伝統は生きている。
「あ! そんな心算で言ったわけじゃないのに…!
……でも、ありがとう。嬉しいよ。」
にこにこ顔を一層微笑ませて真唯の淹れたお茶を美味しそうに啜ってくれれば、真唯とてもにっこり笑顔になってしまう。幼馴染(?)と偶然の再会をして、真唯の久々の歌舞伎観賞の幕は開けられた。
一幕目はアッと言う間に終わってしまった。歌舞伎ならではの様式美溢れる華やかな祝祭劇【寿曽我対面】を充分堪能した真唯には、更なるお楽しみが待っている。「桟敷幕の内」と呼ばれる桟敷席でしか味わえないお弁当である。真唯は、こう云う日はうんと豪華に過ごす事にしている。事前に電話予約をしておいて、清算はパンフを買ったついでに済ませておいた。
先ずはアップのための写真をデジカメに収めようとしていたところに、「うわ~、豪勢だな~~」と声がかかる。……そうだ、1人じゃなかったんだ……。見れば、彼は海苔巻とお稲荷さんのお弁当を広げている。そんな彼から見れば、確かに旬の春を感じられる素材がふんだんに使われ、彩り良く品良く盛られた真唯のお弁当は豪勢に見えるだろう。
「……私、新歌舞伎座に来るのは初めてなんだ。こんな日くらい贅沢したって、罰当たらないでしょ?」
「……あ、嫌味に聞こえたんだったら、ゴメン! 俺みたいな安月給取りは、ここまで出て来る電車賃もバカにならないからね。」
「……小出君、もしかして、まだ田舎にいるの…?」
「うん。実は母校の教師だったりする。」
「うわ~、スゴイじゃない! 今の時代、公務員が一番、安泰だよ!」
その昔、学校司書に憧れた事のある真唯は、心からそう言ったのだが、小出君は曖昧に微笑むだけで「まあね」としか言わなかった。そして、広げたお弁当に箸をつけ始める。真唯も(頂きます)と合掌して、楽しみにしていたお弁当を味わう事に専念し始めた。
……モンペなどが社会問題となっている現在、田舎と云う狭い社会の中、真唯などには思いもよらぬ苦労があるのかも知れない。久々に会った同窓生に愚痴めいた事を言わない小出君に好感を持った真唯は、当たり障りのない話題として今日の演目の事を振って見た。すると、意外に歌舞伎好きらしい小出君は食いついて来てくれて、思いもかけず会話が弾み楽しい食事となった。
「俺も好きな事は好きなんだけどさ~、なかなか田舎から出て来る勇気がなくて。今日だって、叔母さんから譲られたチケットが無かったら、こんなきらびやかな処、来られないよ。」
思いっ切り同感な真唯は、
「私だってこんな贅沢、年に一度あれば良いほうだよ~~」
そうだ、そうだ。それが通常の感覚なのだ。それを昼の部も夜の部も、両方初日に桟敷席を用意すると云う一条さんが異常なのだ。少し前に体験させられた、ものすごい贅沢を思い出して、『やっと普通の人に会えた~~、友よ~~』と言って抱き付きたい心地だ。……実際にやったら、大いに問題アリなので実行はしないが。
こんな処で同好の士と会えて、“普通の金銭感覚を持つ男性”と話は弾みに弾んで。
帰りはどこかでお茶して行こうと云う話になった。
―――【身替座禅】に笑い、藤娘の艶姿に酔う真唯に、熱っぽい視線を送る彼の瞳の色には気付かずに。
更には一階席のほぼ中央から、視線で人を殺せるほどの嫉妬の炎を燃やす男性の存在に気付かずに―――
※ ※ ※
「あ~~、やっぱり思い切って来てみて良かったよ!
牧野さんのお陰でホントに楽しめたよ!!」
「私は何にもしてないよ。ただ、おしゃべりに付き合っただけだよ。」
「でも、歌舞伎を観に行くって云うだけで変な人認定もされないし、東京土産も要求されないし。」
「東京に住んでて、東京土産を要求するなんて、どんな業突く張りよ、ソレ。」
アハハハと笑い合う小出君の足元には、真唯が諦めた桜もちと桜マカロンが山と積まれている。同僚の女性たちに何を買うか迷っている彼に、真唯がアドバイスしたのだ。
因みに真唯たちがいるのは、銀座三愛ビルのドトールだ。真唯としては、歌舞伎の余韻を愉しむのには、いつもの椿屋珈琲店か壹眞珈琲店に行きたかったのだが、『銀座って珈琲が千円するってホント?』と怖々聞いて来る彼を連れて行く勇気はなかった。それに小出君に、自分が払うと言われても困ってしまう。やはりこう云う時は、明朗会計な処が良い。
「しっかし、歌舞伎座はやっぱりスゴイな~、休憩時間に緞帳紹介なんて田舎じゃ考えられない。」
「フフ……確かにね。」
「それにあんなでっかいビルが建ってて、日本庭園なんか造っちゃうんだから東京モンはやっぱりスゴイよ。」
……この言葉には頷くだけに留めて、珈琲を啜る事で誤魔化した。
何故なら、あんな処にあんな庭園が必要かと、疑問に思うからだ。
【先人の碑】も結構だが、お稲荷さまこそ此処に祀られるべきだ。
本来お社は、建物の最上階に祀られるべきものなのだから。
おまけにその庭園の帰りの「五右衛門階段」には沢山の「鳳凰の鬼瓦」があって、ひとつだけが「逆さ鳳凰」でソレを見つけた人は“幸せになれる”とか云うのだ。真唯は勿論、探さなかった。探せなかったら不幸になると云うのなら、してみろってんだっ!! ……などと、妙な処で天の邪鬼的な処が顔を覗かせるのだ。
……などとぼんやりしていたものだから、小出君の言葉に咄嗟に反応出来なかった。
「……え…? な、なに…?
……ごめんなさい、もう一回言って。」
「……あ…うん。 ……牧野さんは、恋人…いる?」
……なんで、そんな事聞くの? と云う質問はからくも堪えた。
「……う、うん、まあね。 …一応、いるよ。」
「……一応なんだ……」
「……こ、小出君こそ素敵な彼女、いるんでしょ?
学生時代、あんなにモテたんだもん!!」
「……少し前まではね。 …今はフリー。」
「……あ、…そうなんですか…申し訳ございません。」
「なんで、いきなり敬語?」
「あ、いえ…なんとなく…」
「気にしないでいいよ…
…やっぱり素敵な女性には、彼氏がちゃんといるんだな…」
……いやいや、奥さん、こんな格好に誤魔化せられちゃいけませんぜ。
いつもは、立派な干物女ですから(誰が奥さんだ/セルフ突っ込み)。
「…俺、名刺作ってないんだけど…ケーバン教えてもらっても良いかな?」
携帯を取り出して、赤外線登録(?)しようとしている彼に慌てて言いつのる。
「…あ…ご免なさい。私、ケータイ持ってないの」
「…え…? …ホントに…?」
「…うん。
…必要性を感じなくて…あ、でも、家のナンバーだったら教えられるよ!」
「…じゃあ、俺もケーバン教えとくから、暇な時にでも掛けて来てよ。」
そう言って、お互いメモに連絡先を書いて教えあった。
……イカン。
何だか話題が変な方向に転がって来たので、ムードがオカシクなってる。
何とか立て直さなければ!!
そんな真唯の心の叫びが聞こえた訳でもないだろうに、
「…そろそろ、出ようか…」
と小出君が席を立ってくれたので、心底助かったとホッとした真唯なのであった。
※ ※ ※
その後、駅で別れた小出君は、大きなお土産袋を片手に田舎へと帰って行った。
真唯はと云えば、少し足を延ばして帝都ホテルへと向かい、京都に本店がある老舗日本料理のお店で懐石料理のディナーコースを注文し、リッチな気分に浸った。
飲み物はモエ・エ・シャンドンがあったのでそれを頼んだ。
立ち昇る泡にうっとり魅入り、今日の舞台の余韻を遅まきながら味わう。
老舗の味に舌鼓を打った後は、最上階のスカイ・ラウンジへと向かった。
クロークにコートを預け、店の入り口に立っただけで黒服が心得たように一番奥の静かな個室のようなフロアーに案内してくれる。一条さんと共に、顔を覚えてもらっている証拠だ。
お1人さまなのに、4人掛けの窓際の良い席に通された真唯は、今日観た【二人藤娘】を彷彿とさせる紫色のカクテルが飲みたくて、バイオレット・ギムレットを頼んだ。
辛くもなく、甘くもない。 ……真唯の現在の気分に丁度良い。
“おひとりさま贅沢”を満喫する心算でいたのに、とんだ邪魔が入ってしまった。
……まあ、楽しかったから、良かったケド。
……あんな会話の流れになったからと云って、小出君が私を…? なんて勘違いするほど自惚れ屋ではない。最後の連絡先交換も、深い意味はないのだろう。ケーバン交換くらい誰でも気楽にやっている事だと知っている。小出君にしてみれば、ただの社交辞令だったのかも知れないし。
少々気怠い思いで窓の外に眼をやれば、都会の夜景が眼に入って来て……真唯の気分が少しだけ浮上した。
折角、楽しみに出掛けて来たのだから、思いっ切り楽しまなければ損ではないか。
……いつの間にか力が入っていた肩の力を抜けば、ピアノの生演奏と共に、騒々しい喧騒が遠くに聴こえて来る。
そう云う意味で、ここは有り難い。
適度に静かで、適度に人のおしゃべりが聴こえて。
―――真唯の独りきりの時間を邪魔する他人は誰もいないから。
今日、幕間に舞台写真を購入しようとして3Fへ行った時、亡くなった名優さんの写真が飾られている処を通った。最後の場所に、まだまだ若い勘三郎丈の写真を見つけて切なくなり、思わず合掌してしまった真唯だった。その後、1Fに降りて来て、人垣が出来ているのを大間で見掛けた。きっと、どこかのお偉いさんが名刺交換責めに会っているのだろうと、真唯は輪の中の人が気の毒になってしまった。
決して、他人事ではないからだ。
先ず、初日に出掛けていれば、真唯は一条さんと共に、その洗礼を間違いなく受けていただろうからだ。
……やっぱり、“おひとりさま”は気楽で良い。
……一条さんも小出君くらいの身分(?)だったら良いのにと、つくづく想う。
……小出君と付き合うなんて、欠片も思わないけれど……
―――……一条さん……どうして、貴方は、一条家の御曹司で…緋龍院建設の専務なんかしてるの……?―――
初めて観たのは、中学校の歌舞伎鑑賞教室と称して、町の文化会館のような場所で行われたもので演目ももう覚えてはいないが、他の殆どの生徒が退屈してしまう中、真唯は舞台の上で繰り広げられる日本の伝統文化の様式美の粋とも云える“傾く”文化に夢中になっていた。
短大に入って、秘密の副収入のお陰でフトコロと時間に余裕が出来た真唯は、旧・歌舞伎座にも出掛けて行き、その素晴らしさに圧倒された。見るもの、聴くもの全てが新鮮で、ダイナミックで緻密で斬新で……。真唯はアッと云う間に、歌舞伎の魅力に改めて惹かれたのである。
中でも大好きだったのは、中村勘九郎、後の勘三郎丈である。
コクーン歌舞伎や野田秀樹演出による映画や平成中村座など、意欲的に様々なものに挑戦するその魂に魅せられた。
数々の浮き名を流したのは女として許せんものを感じるが、思えばあの池波先生も遊郭推進論者だったから、まあ見逃してやろうと云う気持ちだったのだ(苦笑)。
それ故に、彼の早過ぎる死はショックなどと云うものではなかった。新しく完成した新・歌舞伎座に足を運ぶ気になれないほど大ショックだったのである。
松竹歌舞伎会に入り、新春大歌舞伎を観ないと新年が始まった気にならないとか云うほどのファンだった訳でもないので、すっかり歌舞伎から足が遠のいてしまった真唯だったのだが、情報だけは入って来ていた。
一条さんである。
緋龍院建設が歌舞伎座のオフィシャルパートナーだったからである。
だから、今月行われる【鳳凰祭三月大歌舞伎】の情報もいち早く教えてくれた。
『真唯さんのお好きな玉三郎が藤娘を舞いますよ。
それもあの勘三郎の遺児の七之助とともに【二人藤娘】ですよ。
それに、あの鬼平を演った吉右衛門が【勧進帳】の弁慶ですよ。
ご覧になりたくはありませんか?』
流石は一条さんである。真唯の好みのド真ん中ストレートを射抜いて来る。
真唯が望むなら、初日の昼の部、夜の部の桟敷席を用意してくれると言うのだ。
だが、初日が3月2日であると聞いて、真唯は即効、お断りを申し上げた。何故ならば、越谷市で行われる【鼓童】の公演のチケット予約開始日だったからである。鼓童には以前から興味を寄せていたのだが、坂東玉三郎を芸術監督として迎えての創作作品「神秘」には、激しく心揺さぶられ都心へ行くよりもよほど近い場所での公演に胸をワクワクさせていたのである(ちなみに能と文楽の公演もあって、これにも心惹かれた真唯ではあったが、真唯の1人での公演観賞を嫌う恋人の事を思い、潔く諦めた)。
恋人のお誘いはお断りした真唯ではあったが、藤娘と弁慶は観たい。
勘三郎丈を亡くした心の痛みも、大分薄れて来た。ここらで遅ればせながら、新歌舞伎座にお出掛けするのも良いかも知れない。
だが、昼の部を観るか、夜の部を観るか、ギリギリまで悩んだ。だが、演目の豪勢さで昼の部に軍配が上がった。【身替座禅】も【藤娘】も、真唯の大好きな演目である。
でも、吉右衛門丈の弁慶は捨て難い。いっそ、幕見席で観ようかと悩んだが、昼の部を桟敷席で観た後のソレはあんまりだろうと諦めた。ただ、昼の部の松羽目物で吉右衛門が女形を演ると知って、改めて楽しみになったのだった。
……しかし、バレエの25,000円は惜しくて、歌舞伎座の20,000円は惜しくないのだから不思議と言えば不思議だが、桟敷席は特別な席である。その差かも知れないと、真唯は勝手に納得している。
※ ※ ※
真唯はその日、特別にお洒落をして芝居に臨んだ。
一条さんがリザさんの処で購入してくれた、ピンクのアンサンブルニットにインカローズのブレスレット。それにあわせてイヤリングもインカローズにしようかと迷ったのだが、結局はいつものムーンストーンのイヤリングにしてしまった。相変わらずスッピンだが、その昔、パリに行った時に買ったルージュをひいた。まとう香りは、勿論、【IMprevu】である。
いつもは通勤に使う電車も、こんな時は乗り込むのがとても楽しい。いつもは降りる八丁堀の駅を通過する真唯の口元がほんのり綻ぶ。
そして、定式幕がデザインされている東銀座の駅に久々に降り立った真唯を待っていたのは、正しく“傾きワールド”だった。
「歌舞伎座タワー」と云う名のビルが新歌舞伎座の背後に建っていて、【GINZA KABUKIZA】と云う複合施設になっているのは知っていたが、その地下2階【木挽町広場】が地下鉄を抜けた途端に広がっているのは圧巻だった。
特に一周年を迎える今年は“桜まつり 鳳凰祭”と称したイベントが開催され、広場正面の左には桜の番傘と鳳凰の描かれた歌舞伎座の瓦が、右には桜を展示してこのお祭りの彩りに花を添えている。
また、お客様を賑々しくお迎えする“かわら版”のパフォーマンスが披露されていて、お江戸の昔にタイムスリップし、これから芝居小屋に入るようなワクワク感を盛り上げてくれている。広場の売店の一角では、全国の桜菓子や春の和雑貨が販売されていて、静岡松崎町産の柔らかい桜葉など素材にこだわったと云う「道明寺桜もち」なんかはとても美味しそうだ。真唯は今年は桜の開花が早いので、来週の週末頃に一条さんを特等席にご招待する予定でいる。この桜もちは絶好のおやつになってくれそうだが、生菓子はすぐに固くなってしまう。非常に残念である。
桜の枝が随所に飾られ来るべき春の訪れを待ちかねているようだが、非常時には約3000人の帰宅困難者が3日間ほど待機できるだけのスペースと食料などを提供する機能をもつ事を知る人はあまりいないだろう。
いよいよ外に出て、新歌舞伎座とのご対面である。表面上はまったくと言って良い程変わっていない事にホッとするが、やはり後ろのビルが邪魔だ。……と思うが、一条さんの会社がここの建設に関わっていたのだろう事を思うと、これは真唯のトップシークレットだ。
その一条さんとは、今日は完全な別行動である。もともと今日は他に用事があると言って週末デートを断っていたのだが、直前の昨日、実は……と白状しておいた。どうせブログをアップしてしまえばバレる事なのだ。それなら自分の口から先に言っておきたかった。しばらくは憮然としていた一条さんだったが、最後には『仕方がないですねぇ…貴女と云う方は…』とため息で許してくれた。
地下鉄を上がって行った処に、【歌舞伎稲荷】さまが無事にあらっしゃった事にホッとする。先ずは何はともあれご挨拶である。住所と氏名を名乗り、本日、歌舞伎鑑賞の機会を頂きご縁を頂けた事に、感謝申し上げる。
看板の錦絵をながめつつ玄関を入ると真っ赤な色彩の空間に包まれ、フワッとした足元の感触に(ああ~、いよいよか~~)との高揚感が生まれる。「大間」と呼ばれるホワイエは、赤い柱の間に西陣織の布で仕上げた壁、足元も赤いじゅうたんで鮮やかに彩られている。デザインされているのは、幸せを呼ぶと云われる「昨鳥」の文様である。
そこここにたむろしていらっしゃる着物姿の年配のご婦人方に、歌舞伎がお好きだと言う一条さんのお母様の陰を見て少しだけブルーになってしまうが、次の瞬間にはニッコリ笑ってその陰を追い払う。
さあ、今日は“おひとりさま贅沢”を満喫するゾ~♪
笑うかどには福きたる。笑顔には笑顔が寄って来る。
アタシのような1人の人間のところへも案内嬢は丁寧に寄って来てくれる。
いつもは隣にいる男性に阿るような美人さんが来るのだが、今日はそんな事はない。純粋にお客様をご案内しようと使命に燃える女性が来てくれる。こんな女性に、桟敷席のチケットを見せて席に案内してもらえるのがちょっぴり快感だったりするのだ。アタシは桟敷席は、断然、西側派だ。多少スポットライトが眩しいくらい我慢出来る。なんたって、花道が手が届きそうな距離にあるのだから。
……ここで観る、弁慶の飛び六方は格別だろうなァ~~~
諦めたはずの想いが蘇るのはどうしようもない。夜の部の【加賀鳶】に興味が持てなかったのだから仕方がない。実は【日本振袖始】は、ちょっぴり興味があったのだ。“岩長姫実は八岐大蛇”を玉三郎丈が演るなんて、何とも魅惑的なキャスティングではないか。だが岩長姫は、邇々芸命に振られてしまった事で有名な残念な容姿の姫君なのだ。 ……それが自分を見るようで、真唯には居た堪れなかったのだ。
夜の事は思い切ろう!
改めて劇場内を見渡す。客席の座席も観やすさ、聴きやすさを細かく配慮され、音響も完璧。最新の免震構造、LSD電気、太陽光発電を備えた、正に21世紀の歌舞伎の劇場空間なのだ。しかし、変わらないものもある。3階席はいわゆる“大向こう”、「中村屋!」とか、「成田屋!」などと大声で叫ばれるアレである。今日も通を自任している人々が陣取っている。役者からすれば、これ以上頼もしい応援団はいないだろうし、観客にとっても役者との一体感を感じる事の出来る大切な潤滑油なのだ。
劇場内の売店で珈琲を買い、一緒に買ったパンフを桟敷席でペラペラ捲っていると、「あの~、今日はご同席、よろしくお願いします。」と遅れてやって来た隣の人に声を掛けられた。わざわざ挨拶してくれるなんて、丁寧な方だ。この方となら長い時間ご一緒しても苦痛ではないだろうと真唯も振り返って、にこやかに「こちらこそ、よろしくお願いします」と挨拶した。
が、しかし。
そのスーツの男性は何を思ったのか、真唯の顔をジ~~ッと見て来る。(なんだ、なんだ!? 喧嘩なら買うわよ! と言いたいところだがこれからご一緒するのに、あんまり気まずい雰囲気になりたくないのにな~~)と思っていると、ふいに、
「……まきのさん…?
……もしかして…牧野秀美さんじゃありませんか…?」
などとフルネームで呼ばれてしまう。
すっかり上井真唯モードでいた真唯は正直、(ゲッ!)と思ってしまうものの、まさか取引会社の人間だったりしたら大事だ。引き攣り笑いを浮かべ、(誰だっけ? 誰だっけ!?)と思いながら、頭の中でKY商事に訪れる会社の営業の男性を検索してみるのだが、一向に眼の前の男性と合致しない。にこにこしていた方が真唯の困った様子に気付いたようで、「あ~~、覚えてないのも仕方ないか」と呟いた。
「……俺、高校の同級生だった小出誠なんだけど…覚えてない…?」
……そんなの覚えてられるかっ!
……って、よくアタシが分かったわね…その事に敬意を表したい。
「……小出君…?
…あ…もしかして…“まこっちゃん”て呼ばれていた…学級委員の…?」
顔を見て話しているうちに、段々と思い出してくる。
世話好きでイケメンで、結構モテていた幼な顔が眼の前の男の人と合致していく。
「あ! 思い出してくれた? 良かった~~」
嬉しそうな表情の彼に、なかなか思い出せなかった事が申し訳なく思えて来る。
「ご免なさいね。
でも小出君は、よく私の事、分かったね。
図書委員で、印象薄かったでしょうに。」
「すぐは分からなかったよ。
…だって、綺麗になったもん、牧野さん。
さすが、東京でOLしてると、違うね。」
「またまた~~。お世辞言ったって、何にも出て来ないよ。
…あ! お茶くらい、淹れてあげるね。」
会社のお客さんじゃないけど、男の人を見るとポットに手が伸びてしまうのはOL生活をやっている性だ。今の時代、“お茶くみは女の仕事”なんて言ってるところは少ないのかも知れないが、KY商事ではその伝統は生きている。
「あ! そんな心算で言ったわけじゃないのに…!
……でも、ありがとう。嬉しいよ。」
にこにこ顔を一層微笑ませて真唯の淹れたお茶を美味しそうに啜ってくれれば、真唯とてもにっこり笑顔になってしまう。幼馴染(?)と偶然の再会をして、真唯の久々の歌舞伎観賞の幕は開けられた。
一幕目はアッと言う間に終わってしまった。歌舞伎ならではの様式美溢れる華やかな祝祭劇【寿曽我対面】を充分堪能した真唯には、更なるお楽しみが待っている。「桟敷幕の内」と呼ばれる桟敷席でしか味わえないお弁当である。真唯は、こう云う日はうんと豪華に過ごす事にしている。事前に電話予約をしておいて、清算はパンフを買ったついでに済ませておいた。
先ずはアップのための写真をデジカメに収めようとしていたところに、「うわ~、豪勢だな~~」と声がかかる。……そうだ、1人じゃなかったんだ……。見れば、彼は海苔巻とお稲荷さんのお弁当を広げている。そんな彼から見れば、確かに旬の春を感じられる素材がふんだんに使われ、彩り良く品良く盛られた真唯のお弁当は豪勢に見えるだろう。
「……私、新歌舞伎座に来るのは初めてなんだ。こんな日くらい贅沢したって、罰当たらないでしょ?」
「……あ、嫌味に聞こえたんだったら、ゴメン! 俺みたいな安月給取りは、ここまで出て来る電車賃もバカにならないからね。」
「……小出君、もしかして、まだ田舎にいるの…?」
「うん。実は母校の教師だったりする。」
「うわ~、スゴイじゃない! 今の時代、公務員が一番、安泰だよ!」
その昔、学校司書に憧れた事のある真唯は、心からそう言ったのだが、小出君は曖昧に微笑むだけで「まあね」としか言わなかった。そして、広げたお弁当に箸をつけ始める。真唯も(頂きます)と合掌して、楽しみにしていたお弁当を味わう事に専念し始めた。
……モンペなどが社会問題となっている現在、田舎と云う狭い社会の中、真唯などには思いもよらぬ苦労があるのかも知れない。久々に会った同窓生に愚痴めいた事を言わない小出君に好感を持った真唯は、当たり障りのない話題として今日の演目の事を振って見た。すると、意外に歌舞伎好きらしい小出君は食いついて来てくれて、思いもかけず会話が弾み楽しい食事となった。
「俺も好きな事は好きなんだけどさ~、なかなか田舎から出て来る勇気がなくて。今日だって、叔母さんから譲られたチケットが無かったら、こんなきらびやかな処、来られないよ。」
思いっ切り同感な真唯は、
「私だってこんな贅沢、年に一度あれば良いほうだよ~~」
そうだ、そうだ。それが通常の感覚なのだ。それを昼の部も夜の部も、両方初日に桟敷席を用意すると云う一条さんが異常なのだ。少し前に体験させられた、ものすごい贅沢を思い出して、『やっと普通の人に会えた~~、友よ~~』と言って抱き付きたい心地だ。……実際にやったら、大いに問題アリなので実行はしないが。
こんな処で同好の士と会えて、“普通の金銭感覚を持つ男性”と話は弾みに弾んで。
帰りはどこかでお茶して行こうと云う話になった。
―――【身替座禅】に笑い、藤娘の艶姿に酔う真唯に、熱っぽい視線を送る彼の瞳の色には気付かずに。
更には一階席のほぼ中央から、視線で人を殺せるほどの嫉妬の炎を燃やす男性の存在に気付かずに―――
※ ※ ※
「あ~~、やっぱり思い切って来てみて良かったよ!
牧野さんのお陰でホントに楽しめたよ!!」
「私は何にもしてないよ。ただ、おしゃべりに付き合っただけだよ。」
「でも、歌舞伎を観に行くって云うだけで変な人認定もされないし、東京土産も要求されないし。」
「東京に住んでて、東京土産を要求するなんて、どんな業突く張りよ、ソレ。」
アハハハと笑い合う小出君の足元には、真唯が諦めた桜もちと桜マカロンが山と積まれている。同僚の女性たちに何を買うか迷っている彼に、真唯がアドバイスしたのだ。
因みに真唯たちがいるのは、銀座三愛ビルのドトールだ。真唯としては、歌舞伎の余韻を愉しむのには、いつもの椿屋珈琲店か壹眞珈琲店に行きたかったのだが、『銀座って珈琲が千円するってホント?』と怖々聞いて来る彼を連れて行く勇気はなかった。それに小出君に、自分が払うと言われても困ってしまう。やはりこう云う時は、明朗会計な処が良い。
「しっかし、歌舞伎座はやっぱりスゴイな~、休憩時間に緞帳紹介なんて田舎じゃ考えられない。」
「フフ……確かにね。」
「それにあんなでっかいビルが建ってて、日本庭園なんか造っちゃうんだから東京モンはやっぱりスゴイよ。」
……この言葉には頷くだけに留めて、珈琲を啜る事で誤魔化した。
何故なら、あんな処にあんな庭園が必要かと、疑問に思うからだ。
【先人の碑】も結構だが、お稲荷さまこそ此処に祀られるべきだ。
本来お社は、建物の最上階に祀られるべきものなのだから。
おまけにその庭園の帰りの「五右衛門階段」には沢山の「鳳凰の鬼瓦」があって、ひとつだけが「逆さ鳳凰」でソレを見つけた人は“幸せになれる”とか云うのだ。真唯は勿論、探さなかった。探せなかったら不幸になると云うのなら、してみろってんだっ!! ……などと、妙な処で天の邪鬼的な処が顔を覗かせるのだ。
……などとぼんやりしていたものだから、小出君の言葉に咄嗟に反応出来なかった。
「……え…? な、なに…?
……ごめんなさい、もう一回言って。」
「……あ…うん。 ……牧野さんは、恋人…いる?」
……なんで、そんな事聞くの? と云う質問はからくも堪えた。
「……う、うん、まあね。 …一応、いるよ。」
「……一応なんだ……」
「……こ、小出君こそ素敵な彼女、いるんでしょ?
学生時代、あんなにモテたんだもん!!」
「……少し前まではね。 …今はフリー。」
「……あ、…そうなんですか…申し訳ございません。」
「なんで、いきなり敬語?」
「あ、いえ…なんとなく…」
「気にしないでいいよ…
…やっぱり素敵な女性には、彼氏がちゃんといるんだな…」
……いやいや、奥さん、こんな格好に誤魔化せられちゃいけませんぜ。
いつもは、立派な干物女ですから(誰が奥さんだ/セルフ突っ込み)。
「…俺、名刺作ってないんだけど…ケーバン教えてもらっても良いかな?」
携帯を取り出して、赤外線登録(?)しようとしている彼に慌てて言いつのる。
「…あ…ご免なさい。私、ケータイ持ってないの」
「…え…? …ホントに…?」
「…うん。
…必要性を感じなくて…あ、でも、家のナンバーだったら教えられるよ!」
「…じゃあ、俺もケーバン教えとくから、暇な時にでも掛けて来てよ。」
そう言って、お互いメモに連絡先を書いて教えあった。
……イカン。
何だか話題が変な方向に転がって来たので、ムードがオカシクなってる。
何とか立て直さなければ!!
そんな真唯の心の叫びが聞こえた訳でもないだろうに、
「…そろそろ、出ようか…」
と小出君が席を立ってくれたので、心底助かったとホッとした真唯なのであった。
※ ※ ※
その後、駅で別れた小出君は、大きなお土産袋を片手に田舎へと帰って行った。
真唯はと云えば、少し足を延ばして帝都ホテルへと向かい、京都に本店がある老舗日本料理のお店で懐石料理のディナーコースを注文し、リッチな気分に浸った。
飲み物はモエ・エ・シャンドンがあったのでそれを頼んだ。
立ち昇る泡にうっとり魅入り、今日の舞台の余韻を遅まきながら味わう。
老舗の味に舌鼓を打った後は、最上階のスカイ・ラウンジへと向かった。
クロークにコートを預け、店の入り口に立っただけで黒服が心得たように一番奥の静かな個室のようなフロアーに案内してくれる。一条さんと共に、顔を覚えてもらっている証拠だ。
お1人さまなのに、4人掛けの窓際の良い席に通された真唯は、今日観た【二人藤娘】を彷彿とさせる紫色のカクテルが飲みたくて、バイオレット・ギムレットを頼んだ。
辛くもなく、甘くもない。 ……真唯の現在の気分に丁度良い。
“おひとりさま贅沢”を満喫する心算でいたのに、とんだ邪魔が入ってしまった。
……まあ、楽しかったから、良かったケド。
……あんな会話の流れになったからと云って、小出君が私を…? なんて勘違いするほど自惚れ屋ではない。最後の連絡先交換も、深い意味はないのだろう。ケーバン交換くらい誰でも気楽にやっている事だと知っている。小出君にしてみれば、ただの社交辞令だったのかも知れないし。
少々気怠い思いで窓の外に眼をやれば、都会の夜景が眼に入って来て……真唯の気分が少しだけ浮上した。
折角、楽しみに出掛けて来たのだから、思いっ切り楽しまなければ損ではないか。
……いつの間にか力が入っていた肩の力を抜けば、ピアノの生演奏と共に、騒々しい喧騒が遠くに聴こえて来る。
そう云う意味で、ここは有り難い。
適度に静かで、適度に人のおしゃべりが聴こえて。
―――真唯の独りきりの時間を邪魔する他人は誰もいないから。
今日、幕間に舞台写真を購入しようとして3Fへ行った時、亡くなった名優さんの写真が飾られている処を通った。最後の場所に、まだまだ若い勘三郎丈の写真を見つけて切なくなり、思わず合掌してしまった真唯だった。その後、1Fに降りて来て、人垣が出来ているのを大間で見掛けた。きっと、どこかのお偉いさんが名刺交換責めに会っているのだろうと、真唯は輪の中の人が気の毒になってしまった。
決して、他人事ではないからだ。
先ず、初日に出掛けていれば、真唯は一条さんと共に、その洗礼を間違いなく受けていただろうからだ。
……やっぱり、“おひとりさま”は気楽で良い。
……一条さんも小出君くらいの身分(?)だったら良いのにと、つくづく想う。
……小出君と付き合うなんて、欠片も思わないけれど……
―――……一条さん……どうして、貴方は、一条家の御曹司で…緋龍院建設の専務なんかしてるの……?―――
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