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本編
No,55 真唯、【非日常】とのお別れ
しおりを挟む現在、真唯は、魔法の解けたシンデレラの気分を味わっていた。
眼に映るのは、出窓に飾られた【インカローズ】と、ミュシャの【羽根】
豪奢な夜景に彩られたリビングや、広いキッチンではない。
真唯を暖めてくれるのは、足元のコタツのみ。
快適なエアコンや、隅々まで行き届いた床暖房ではない。
―――何より、あの存在が……あの男性の笑顔がない―――
※ ※ ※
この六日間、夢のようだった。
……初夢だとしたら、随分、長い間眠っていたものだと、自分を自嘲う。
……ちょっとした初詣には出掛けたものの、どこへもゆかず、誰にも邪魔されずに、本当に二人だけで過ごした至福の時間。
まあ、強いて言えば、四日の日に千葉の実家に電話した時はさすがに五月蠅かったが。
……本当は母親との会話なんて一条さんに聞かれたくなかったから、テレカを使える場所で電話する心算だったのだ。だが一条さんが『この寒いのに、外で電話なんてとんでもない! 私に聞かれたくないのなら仕事部屋を提供しますから、この家から電話なさって下さい!!』と押し切られたのだ。
ただ、いくら防音完備だからと言って、一条さんの大事な仕事部屋に入るほど図々しくはない。寝室……は、夜の事を思い出して居た堪れなくなるから、空部屋になっている八畳の部屋にお邪魔させてもらった。
真唯からの電話だと理解った途端、開口一番、母親に『親不孝者!!』と罵られた。 ……もう、痛くも痒くもない。決まり文句であるはずの『おめでとう』を口にしなかったのは、お互いさまだ。とりあえず用意していたシナリオ通り旅行に出掛けていた事にし、電話代が勿体ないから連絡出来ずにいたと話せば少し向こうのトーンが落ちた。親は真唯がスマホを持っている事を知らない。長距離電話が勿体ないと云う娘の理屈を信じたようだ。『……お土産はあるんでしょうね。』『あるわけないじゃん。母さんが欲しいのは食べ物でしょ。いつ、そっちに行けるかなんて分からないもん。』『やっぱり、あんたは親不孝モンだっ!!!』 ……思わず子機を耳から離した。
………親は気付いていまい……真唯が意識して“帰る”と云う言葉を使わない事を。
が。父親が電話に出たのには驚いた。どんなに母親が激昂しても、今まで一度も出て来た事などなかったのに。真唯は心の耳栓を用意した。この父は叩き上げの植木職人で気に入らない事があると、とにかく怒鳴るのだ。 ……怒鳴れば、相手が言う事を聞くと思っているのだ。
だが、この日の父親は怒鳴らなかった。『明けまして、おめでとう。』静かに言われた。調子が狂った真唯だが、相手に言われれば返すのは最低の礼儀だ。『…明けまして、おめでとうございます…』とりあえず返事をすると、『旅行が悪い事だとは言わん。だが、出発する前に連絡なり出来たはずだ。 …親は心配する。』 ……片腹痛いわ。アタシはあんたを親だなんて思ってない。今生での“父親役”だと認識しているに過ぎない。『…とにかく今年のお盆には帰って来なさい。ご先祖さまが帰って来るんだ。家族全員でお迎えするのは当然の事だ。 …いいな。』
……この家長を意識しての命令口調も気に入らない。 ……お盆にご先祖さまが帰って来る…? ……バカな事を言うなと思う。ご先祖さまは、子孫の守護霊になっているのが普通だ。いつも、一緒に居て下さるのだ。
『…まだ、夏の予定なんて分からないけど…努力してみます。』 ……大ウソだ。誰が行くものかと思う。だが、こうでも言わなければ電話が終わらない。案の定、とりあえずの返事に満足した父親はすぐに電話を切ってくれた。 ……ありがたい。この父親の良いところは母親と違って、近所の噂話などを口にしないところだ。これが母親だったら隣の家の奥さんとの会話やら、近所どころか市内の噂話を延々と続けるところだった。
時計を見ると、軽く一時間を超えていて。えらい苦行を終わらせた気分の真唯が部屋を出ると『お疲れ様でした。』と労わってくれた一条さんの抱擁が嬉しかった。
※ ※ ※
両親との会話を思い出した真唯は心底疲れた気分になった。ここ何年も真唯は帰省をしていない。『お盆』と云う概念を信じていない真唯は、こう云う事を派手にやる田舎にうんざりしているのだ。
……お盆休みは優里ちゃんを誘って、奈良にでも行ってやろうか。
……いっそ四国で、お遍路さんでもやってみようか。
先祖供養だと言えば、あの親どもも反対出来まい。
しかし。
そこまで考えて真唯の顔は赤くなる。
……夏休みは、インティ・ライミに返事をして直ぐの長期休暇だ。一条さんが真唯を離してくれるとは思えない……
そして、すっかりOKの返事をする気でいる事に気が付いて、真唯は更に赤くなった。
【インティ・ライミ】の日。きっと毎年のようにしてくれる事を、一条さんは今年もしてくれる心算だろう。
その時に言うのだ。
―――……YESと……―――
……晴れれば良いなと思う。空だから、やっぱり晴れ……しかも快晴だったら気持ちが良いだろう。
まあ、天気はあまり関係ないと云えばないのだが……
『もう、すっかり気持ちは固まっていらっしゃるようではありませんか?
だったらインティ・ライミまでなんて私を焦らさないで、今すぐに私の求婚を受けて下さっても良いのではありませんか?』
一条さんに言われた言葉だ。
……別に焦らしている心算なんかない。
……ただ、一条専務の婚約者と云う立場に尻ごみしてしまうだけ。
……だから、もう少しだけ……心の準備をする時間が欲しい……
正直にそう言ったら、あの優しい一条さんは『…了解りました…お待ちます。』と納得してくれた。
※ ※ ※
……そう…これがKY商事クラスの会社員の男性などから貰ったシンプルな指環だったりしたら、真唯ももっと気軽に考える事が出来て、すぐにでも指環をしていただろう。
だが相手は、あの緋龍院建設の専務さんなのだ。
本来、真唯にとって一条さんは、雲の上の男性なのだ。
……もう去年になってしまった、初冬の江ノ島で見た富士山を思い出す。
あの山は「竹取物語」で、かぐや姫が天に帰る直前、帝に渡した不死の薬を燃やしたと言われる山だ(神仏習合時代「かくや姫」が富士山の御祭神であった事を知る人はあまりいないかも知れない)。
……一条さんが実は天上人で、月の世界に帰ると云われても別に驚かないだろうと思う。却って、真唯なんかをここまで愛してくれる特異な趣味は、この世界の人間ではなかったためだと納得出来そうだ。
一条さんに不死の薬を渡されるなんて、これ以上の拷問はない。真唯には富士山登山なんて根性はないから、そこで燃やす事は出来ない。
真唯の誕生日に、素敵な思い出をいっぱい貰った大空に撒いてしまうだろう。
……そう云えば、散骨が可能な空ってどこなんだろう……結構な手続きと費用が掛かるけれど、ヘリコプターや気球からまく事が可能なはず……
またまた明後日な事を考え始めてしまった自分を、意志の力で元に戻す。
そして、今年の禁句にしようと思っていた“自分なんか”と云う言葉を心の中で吐いてしまった事を自戒する。
……自分自身に誓ったのだ。
自己否定と自己卑下が大得意な“真唯”ではなく、自分を優しく諭してくれた【真唯】なら好きになれるかも知れない。 ……何より、あんなに真唯を愛してくれる男性を哀しませたくはないと……
※ ※ ※
1月5日の今日。
せめて夕飯をご一緒したいと言ってくれる一条さんを振り切って、真唯は一条さんお手製ブランチをご馳走になってすぐに自宅アパートに送って貰った。
一刻も早く、【日常】に戻りたかったのだ。
大掃除はしたものの、随分留守にしてしまった部屋の掃除もしたかった。(一条さんの部屋に持って行った着替えはコインランドリーででも纏めて洗おうと思っていたのだが、『私の着替えを任せている業者に依頼しますから。』との一条さんのお言葉に甘える事にした。)
送ってもらうトランザムの中で、真唯のアパートの専用駐車場を使わせて欲しいと言う一条さんに、免許も持ってない車の事などまるで知らない真唯は(なるほど、コインパーキングよりは経済的で効率的かも知れない。)と思い。だが次の瞬間、そんな頻度で真唯のアパートに来る心算でいる“恋人”に照れてしまった真唯だった。
“お別れのキス”は、マンションの玄関で済ませて来た。名残り惜しそうな一条さんに、あのムーンストーンのイヤリングとマナーモードにしたスマホを常に持つ事を約束させられ、真唯は車を降りた。そして、運転席にまわった。慌ててウィンドウを下ろす一条さんに、もう一回上げてくれるようお願いして。
【ア・イ・シ・テ・ル】
口パクで呟きながら、ノックを五回した。
ドリカムを気取ってみたのだ。
『真唯さんっ!!』
ドアを開けて出て来る一条さんに捕まる前に、
『送って下さって、ありがとうございましたっ!』
言い捨てて、脱兎の如く駆け出した。
出窓に立った真唯の耳にトランザムのホーンが五回鳴って、さっき送信した“お休みなさい”のメールに『近所迷惑です!!』と追記したのは言うまでもない。
掃除が終わった真唯がした事は、食糧の補充だった。と言っても、別に自炊に目覚めた訳ではない。インスタントコーヒーや常備食のカップ麺の買い足しをしたり、それに新しい牛乳、本日の夕飯は何よりも重要だ。駅前の24時間スーパーは今日も盛況だった。きっと真唯と同じく明日からの休み明けに備えているのだろう。レジに並びながら、レジ打ちのパートさんはお正月も働いていたのだろうかと、畏敬の念を抱いたりもした。
家までの道のりをテクテク歩くのも良い運動になる。運動…と考えて、真唯の瞳が真剣になる。一条さんは、マンションにある専属トレーナー付きのトレーニングルームで身体を鍛えているそうだ。
『スーツを着こなす為には、ある程度の身体造りが必要だと英国で学びました。』そう言って。
……自分も何か始めようか……真唯もいきなりジムに通う事なんて考えてない。何かスポーツを始めてみたり、文化センターで教室に通ってみたりするのも良いかも知れない。
……そー云えば、ケーナ習ってみたかったんだよな~~。あの名曲【コンドルは飛んで行く】なんて吹けるようになったりしたら、最高だろーな~~……昔、行ったフォルクローレのコンサートは良かったなァ~~……
とにかく!
何か探してみようと決心する真唯だったが、何が原因でそんな事に興味を持ったのかは、自身の精神の安定のために無視させて頂いた。
帰宅した真唯は久々におコタの電源を入れ、スーパーで買った十六穀米弁当をチンして食べた。
……このところ、贅沢ばかりしていたから丁度良い。スーパーのお弁当を美味しく頂けた事が、真唯にはひどく嬉しく感じた。
食後のコーヒーには、ネスカフェゴールドブレンドだ。某少佐は今も愛飲しているだろうか。たっぷりのカフェ・オ・レにしたそれを飲みながら、早速PCを立ち上げた。
一条さんの家にいる時もブログにはログインしていた。初詣の事をアップしたのだ。勿論、一条さんの事は抜きで。
ただ、一条さんと過ごすお正月があんなり幸福で、「アケオメ」のメールが元旦に出来なかったのが律儀な真唯には心残りだった。毎年欠かさず行っていたのに。ネットの友人たちには申し訳ない事をしたと思う。
そして三日の日はわざわざ一条さんに、真唯のアパートまで送ってもらったのも申し訳なかったと思う。来ていた年賀状をチェックして、出していない分はきちんと賀状を送りたかったから仕方がない。メールも年賀状も三日には出せたので、三が日のうちと云う事で勘弁して頂きたいと願う。
閑話休題。
近場のスポーツセンターや文化センターを検索してみる。すると、あるある、ありとあらゆるものが、これでもかと出て来た。
殺陣……見るのは大好きだ。
合気道……興味はあるが、ちょっと……
ボクシングエクササイズ………
カンフー……別に強くなりたいわけではない。
ヨガ……ヨーギンに任せた。
水泳……長続きする自信がない。
ジョギング……上に同じ。
ゴルフ……興味ナッシング。
テニス……中学3年間で懲りた。
スカッシュ……んな反射神経ない。
少し目先を変えてみた。
フラ……別にハワイに行きたいわけではない。
フラメンコ……あれはやるものではなく、観るものだ。
ベリーダンス…………
そして、次の項目に真唯の眼が引き寄せられた。
健康美バレエ……良いかも知ンない。
しかし、その次の項目に更に強く惹き付けられた。
【美容クラシックバレエ】
詳細をクリックして、レオタード使用必須ではない事に安心する。
だが、今から受講するには半端な月だ。
(とにかく一回、見学に行ってみよう)
そう決心してウキウキとしていた真唯は、大事な事を丸っとすっかり忘れていた事に気付けなかったのだった。
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