IMprevu ―予期せぬ出来事―

天野斜己

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本編

No,16 真唯の決心

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「おそよう……?」

【インカローズ】に挨拶をしてお水をあげて。
その横に、一条さんからのシャルル・マルランを飾る。


フッ


思わず自嘲の苦笑が漏れてしまう。
何度飾っても、この安アパートに、この豪奢な花は似合わない。恩師であるシャルル・マルランに捧げるために、この薔薇を創り出したメイアン氏も、こんな貧相な部屋に飾られてしまって、草葉の陰で嘆いているに違いない。

……フランスの“草葉の陰”って、どないなもんだろう?

またまた明後日の方向へ行きそうになった思考は、お腹の虫に邪魔されて。食べられれば何でもいいやと思って、トーストにバターを塗って食べた。
ただ、珈琲には拘った。
中身はインスタントと安い牛乳だが、WEDGWOOD、セージグリーンの【コロンビア】のカフェ・オ・レ・ボウルになみなみとたっぷりのカフェ・オ・レを作って、そしていつもは入れない珈琲シュガーを入れてゆっくりと飲んだ。甘いものが欲しい気分だったのだ。

良かった。
一晩、眠ったお陰で、こんな自分の拘りを発揮出来るようになった事が嬉しかった。

真唯の部屋にはテレビがない。ラジオも聞かない。
何かBGMが欲しくなって、CDを漁った。いつもは問答無用で、ジョアン・ジルベルトを筆頭とするボサ・ノヴァを聞くのだが、一条さんとの事を思い出しそうになったので止めた。SADEでは甘過ぎて悶絶しそうだし、スザンヌ・ヴェガでは自己否定のズンドコまで落ちて行きそうだ。だからと言って、マイケル・ジャクソンやジャネット、ドリカムの気分でもない。
散々、悩んで結局、アンテナにした。ちょっとアンニュイな今の気分にピッタリだ。


軽ろやかなフレンチ・ボッサのアンテナの歌声を聞きながら、お気に入りのWEDGWOODで熱々のカフェ・オ・レを啜りながら……視線はどうしても、出窓の【シャルル君】に向かってしまう。



一条さんの本気を疑うわけじゃない。


ただ、あまりにあの男性ひとの隣に似合わない自分がイヤなだけなのだ。




―――それに……一条さんが本気なのだとしたら、余計に障害になる事が、真唯にはある―――





トゥルルル……
トゥルルル……

どこかで音がする。

……それが自分の家の電話の呼び出し音だと気付くまで、真唯には数瞬の時間を要した。


トゥルルル……
トゥルルル……


時間を見れば、もうすぐ三時だ。
真唯には、土曜日のこんな時間に電話を掛けてくるような友人はいない。
……心当たりがあるとすれば、あの男性ひとしかいない……


トゥルルル……
トゥルルル……
トゥルルル……


エンドレスで鳴り続ける電話に、真唯はとうとう根負けした。

……これで田舎の父さんか母さんだったりするオチだったら、どんなに気が楽だろう。普段なら、あの二人からの電話なんて願い下げだけれど、現在いまなら大歓迎出来るだろう自信がある。



「…はい、もしもし。お待たせしまして、済みません…牧野です。」

『ああ、真唯さん、良かった!何かあったのではないかと心配しました!
 …もしかして、眠ってらっしゃいましたか? だったら、申し訳ありません。』


……悪い予感ほど、良く当たる。
相手が一条だと認識した途端、真唯の舌はフリーズしてしまった。

返事をしない真唯には構わず、一条は一人話し続ける。


『やっと仕事が一段落して、ようやく昼食の時間がとれたので』

そして仕事の忙しさや、秘書の山中らの手際の悪さを愚痴る。
……普段は、こんな事は決して言わない男性ひとだ。仕事の愚痴など初めて聞いた。
……やっと取れた食事の時間なら、ちゃんと食べてしっかり休息して欲しい。 ……アタシに電話などしていないで。


『…真唯さん…何かおっしゃって下さい。
 一言、貴女の声が聞きたくて、お電話したんですよ?』

焦れた一条さんに、よっぽど(一言)と言いたい欲求が湧いたが、真唯はその危険な誘惑を押し殺した。


クスリ


思わず漏れた小さな微笑に、真唯の固さがようやく解けた。
だが、その声は一条さんにまで届いてしまったようで、

『ああ、笑って頂けましたね! 無言よりずっと良い!
どんな発想の展開の行方でも構わないので、笑って下さい!!』

いきなり笑えと言われても、真唯も困る。だが、フリーズしたはずの舌が動いてくれそうな事に安心する。

「一条さん。ようやく取れた昼食時間なら、有効に使って下さい。きっと山中さんが、どこかの料亭の栄養満点のお弁当を用意して下さっているんでしょう?」

やっと喉から出て来た、真唯にしては普通まともな言葉で安心するが、今度は一条さんが無言になってしまった。

「…一条さん…? 私、何かおかしな事を言いましたか?」

不安になってしまったが、一条さんの次の台詞はまたまた真唯を固まらせてしまいそうなものだった。


『…あ、済みません! 感激してるんですよ…貴女の声で私の名前を呼んで頂けて…愛していますよ、私の真唯…』



―――ああ……一条さんこそ、そんな艶のある低音ヴァリトン・エロ・ヴォイスで、アタシの名を囁かないで―――




『…愛の言葉は返して下さらなくて、結構ですよ。ただ、私の名を呼んでいて…』



そんな一条さんの言葉にハッとなる。

「…一条さんっ! …私…」


『…だから、結構です、と申し上げました。お気になさらないで下さい。
 …いいんですよ。 …貴女が自然に言えるようになるまで待ちますから…』



一条さんの深い思い遣りに、泣けてきそうになる。


―――でも、私は貴方にそこまで甘えてしまってもいいの……?―――




その時、急に一条さんの様子が変わった。

『ああ、残念。タイムリミットだ。
 お茶を持って来た山中が鬼のように睨んでいる。
 仕方がない。彼が私のために手配してくれた弁当を食べますよ。
 …真唯さんも…私がいなくても、ちゃんとマトモなものを食べて下さいね。』

さっきまでの色っぽい雰囲気ムードが急に消えたが、真唯はこの方が気が楽だ。

「…はい、努力します。 …一条さんも栄養をとって、お仕事頑張って下さい。」


だが、一条は一条だった。

『貴女のその言葉で、午後も元気に仕事が出来そうですよ!
 はりきって仕事を片付けて、早く貴女に逢いに行ける時間を作ります。
 …それまで大人しく待っていて下さいね。 …私の可愛い真唯…』



結局、真唯を赤面させて、一条さんの電話は切れた。






切れてしまっている受話器をそうっと握り締める。


……まるで、一条さんの手に縋るように……




とっくに冷めてしまったカフェ・オ・レをゆっくりと飲み干して……


真唯は静かに決意した。





――― 一条さんのためにも、このままで良いはずがない。キチンと自分の中で答えを出さなくては―――





そうだ、京都へ……じゃなくて。


奈良へ……行きたいけど、少し遠いから。


鎌倉辺りへ行って……自分を見つめ直してこよう。



真唯はネットを繋いで紅葉情報を確かめ、今月後半か来月上旬の、鎌倉散策を決めたのだった。







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