IMprevu ―予期せぬ出来事―

天野斜己

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三年目の新婚クライシス

No,276 五月闇 終章

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「…まったく…真唯ちゃんも甘いわねェ…」
 「…そうでしょうか…ご本人にすれば、拷問に近いものがあると思いますけど…」

 帝都ホテルのリザさんのお部屋で、美味しいアイスコーヒーをご馳走になりつつアタシは苦笑いを漏らしていた。




 貴志さんは退院翌日には出勤して、いつもの通りの通常運転に戻っていた。
アタシとしては少しでも休んで欲しかったのだが、ご本人が自分に鞭打つみたいに働きたがったので仕方がない。それでかれの罪悪感の軽減に役立つのならばとアタシは眼を瞑る事にしたのだ。
あの後、現金なもので、アタシの食欲はすっかり戻ってしまった。旬の茄子を使った炒め物や夏野菜の煮物なんてついつい食べ過ぎてしまう程だ。ご飯のお代わりをすると、旦那さまが喜んで下さるせいもあったりする(照)。夏バテ? 何それ、美味しいの? って感じだ。ちなみに夫の退院の数日後、生理アレがやって来た。アタシは割と規則的にやって来る体質タイプなのだが、ずっと止まってしまっていたのだ。普通アレが止まると、既婚女性ならば妊娠の可能性を疑うのだろうが、アタシの場合はそんな事関係ないから全然考えてなかった。ってか、忘れてた。却ってお腹が痛くならなくて、有り難かったぐらいだ。なんつって。実は、酷い腹痛を抱えながらニヤニヤする、気持ち悪いヤツになってました。はい、馬鹿です。何とでも呼んでやって下さい(笑)。さすがに二日目になると痛みを我慢する事が出来なくて薬にお世話になってしまいましたが。
だから退院直後からアタシを確かめるように抱きたがった旦那さまだったけど、少しの間禁欲させてしまう事となった。でも、『抱きしめて寝るだけでも幸せです。』と言ってくれて、かれの温かな腕の中で眠るのは至福のひと時だった。馴染んだ【DUENDE】の香りに包まれながら。



 君江さんには『本当に良うございました。』と泣かれ、明石さんも真っ赤に泣きはらした眼で出勤して来て『真唯さん、良かったですね!』と手をギュウギュウと握られた。正直痛かったけど、彼女を心配させてしまったと思うと文句なんか言えなくて『ありがとうございます。ご心配をおかけしました。』とお礼を言い、謝罪する事しか出来なかった。
トーシローは何にも言わなかった。彼女はいつもそうだ。こちらが何も言わない限り、黙ってスルーしてくれる。きっとギルさんから色々聞いてるだろうに、自分からは何もアクションしてこないのだ。その代わり。一度ひとたび相談すれば、どんな事をしても力になってくれる。頼りになる有り難い友人なのだ。ギルさんとの事を変に気負ってなくて良かった。あの子は、安定のマイペースで却って安心だ。
マッツンや室井さんは今回の事は何も知らないし、言う心算もない。
もう済んでしまった事であり、乗り越えた事なのだ。
ただ、優里ちゃんだけは。
 深水さん経由で話が伝わってしまったみたいで、紫さん共々泣かれてしまったのだった。『…真唯さん…っ、…わたしがうんと年下で頼りないのは自覚してますけど、愚痴の聞き役くらいにはなれますから…っ』と。そんな健気なには、ただ謝る事しか出来なくて。秋に開催予定の興福寺中金堂再建記念特別展 「運慶展」には必ずご一緒する事を約束されられたのだった。
そして四人が帰った後、貴志さんが告白してくれた。
アタシが拒食症になってる事を紫さんが見抜いていた事を。深水さんに相談に行った時、紫さんがポツリと漏らした一言がヒントになったのだと。『…情けないから、黙っていたかったんですが…それも何だか、気が咎めて…』と。アタシはただ黙って驚く事しか出来なかった。紫さんとはそんなに付き合いがある訳じゃない。精々、ギエムの【ボレロ】を観に行ったくらいだ。 ……綺麗な女性ひとだとは思ってたけど、精神こころこまやかな女性かただったんだなァ……旦那さんの深水さんには父の御水の事でもお世話になったし、もうあの夫婦には頭が上がんない…ってか、足向けて眠れない…っ!!

 山中さんは、イの一番に来てくれた。
 勿論、由美センセもご一緒に。
 『本当に良かったです! 社長の惚気を聞かないと調子狂っちゃって!!』
なんて、こっちは喜んで良いのか不明なコメントを頂いてしまった(苦笑)。
そして報告してくれた。
 来月挙式する事が無事に決まったそうだ。
 夏休みを利用しての挙式は都内のホテルの教会チャペルでごく内輪で行われるそうだ。
 貴志さんとお呼ばれされて快諾したけど、『いや~、ホント良かったですよ! 記憶のない上井社長を呼ぶのも気が引けてたんですよ。やっぱり、「一条専務」の頃からお世話になってますから、その頃の記憶のある大恩人をキチンと呼びたかったので。』とおっしゃっていたのは、まごうかたなき本音だろう。
うん、やっぱり良かった。
もし万が一、結婚式が行われた後に記憶が戻って、その代わり今度は挙式の事を忘れでもしたら目も当てられないもんね(苦笑)。山中さんにはこちらこそ色々お世話になってたから、アタシもキチンとお祝いしたいしね。そんな男性ひとと由美センセの結婚式だ。一生に一度の事なんだから、晴れの舞台にケチなんかつけたくないもんね。お式の後、簡単な披露宴パーティーをして、新婚旅行はウィーンに行くそうだ。
 『ホントは国立バレエ団を観に行きたいんだけど、シーズンオフだから仕方ないわよね。』
と、由美センセは残念そうだ。
……いや~、とっておきの裏技があるんですけど……ちょぉ~っとなァ……。『…そーですよね…仕方ないですよねェ…』なんて笑って誤魔化すアタシを許して下さい!! でも、マニュエル・ルグリに迷惑掛けられないし! 他人様ひとさまのヴァカンスを邪魔しちゃいけないと思うんでっ!! ええ、本気マジでっっ!!!
 腕を組んでニコニコで帰ってゆくお二人はホントに幸せそうだった。お式に何を着て行こうか、お祝いは何をプレゼントすれば良いか、幸せな悩みで頬が緩んだ。バレエは観れないかも知れないが、
折角の新婚旅行ハニー・ムーンだから楽しんで来て頂きたい。


そう思って銀座に買い物に出て来て、リザさんに連絡を取って。
そうして冒頭の場面シーンへと戻るのである。







 「で、結局、貴志はどうしてる訳?」
 「勿論、従ってくれましたよ。涙を飲んで。」
 「…涙を飲んでってのが、泣かせるわねェ…」
 「いーんです! 今までが、贅沢し過ぎだったんです!!」


……そうなのだ。

 実は、『アタシのお願い』とは。
 今まで入会してたバレエ団や松竹歌舞伎会、その他諸々の会を退会して。
 二度とアタシに過剰な贅沢をさせない旨の誓約をしてもらったのだ。

 当然の如く、かれの抵抗は凄まじかった。
リアルで泣き落としされたのは初めてだ。
 一瞬、(…え…目薬…?)って、ドン引いた。
だが、かれ本気マジだった。
 真剣ガチに涙を流していたのだ。
あんな事は婚約時のS○Xの回数の交渉以来の事だと思う。
けれど、アタシには、『対・貴志さん用の必殺技』がある。



 『…それくらいの事をして頂かなければ、アタシの精神こころの傷は癒せませんよ…?』



 正に傷口に塩を塗りこむかの如くの痛恨の一撃クリティカルヒットを喰らい、貴志さんは撃沈したのであった。






そして今一つ。
ついでとばかりに、『お願い』した事がある。
それは、有給休暇を取る事。

 大体、貴志さんは、忙し過ぎるのだ。
 会社を拡張したばかりの社長さんである事は理解ってる。
だけど、モノには限度があるのだ。失業者が大量発生して、「就職浪人」「就職難民」などと云う言葉が創り出されるこのご時世に忙しいのは結構な事かも知れないが、休日はしっかり休んで頂きい。アタシを心配してわさわざ連絡を下さった岩屋さんにも確認したのだが、「アイ’s_Books」には「リフレッシュ休暇」なるものもキチンと制定されていたのだ。その場で岩屋さんに相談してOKを頂いて、山中さんにスケジュール調整をお願いする事にした。快く協力して下さる確約を頂いて非常に有難く感じたが、聞けばお二人とも心配してたそうだ。かれが「働き過ぎだ」と。かくして「アイ’s_Books」では貴志さんがこの休暇の取得者の第一号になりそうだ。岩屋さんもおっしゃってた。『社長が率先して休暇を取れば、社員たちも取りやすくなるだろ』と、むしろ喜んでおられた。勿論、夏休みもしっかり休んで頂く予定だ。実はその際、SPさんたちにも夏休みを取って頂きたかった。思えば今回の騒動ではSPさんたちに多大なるご迷惑をお掛けしてしまった。そのお詫びとせめてもの感謝の気持ちを表したかったのだ。けれども、リザさんを通して相談した【提督閣下アドミラル】には逆に諭されてしまった。
 『マイの気持ちは理解るけどね、SP達かれらには負担になるよ。こう云う職種の人間は余計な休みを貰うと却って雇い主の安全を心配してしまうものなんだよ。「自分がいなくて今頃どうしているだろう?」なんてね。因果な商売だけど、それが彼らの仕事に対する矜持プライドだから。それを奪わないでやってくれないかな?』
と。
それを聞いたアタシは、またもや自分を恥じる事となった。
 自分の自己満足で、SPさんたちに負担を掛けたい訳ではないのだ。
だからささやかな事ではあるが、二十人在籍する皆さんのお顔と名前を全部覚えて。
 何かがあった時には名前を呼んでを見てお礼を言うようにしてる。
ホントに小さな事だが、喜んで貰えているみたいなので続行する心算だ。


ちなみに。
いつもの“同居人”の植物だが。
 【インカローズ】に続き【スノウホワイト】まで枯らしてしまったアタシの精神的苦痛ダメージは大きくて、しばらくはいいやと思ってたのだが。あるホームセンターの園芸コーナーに行った時、一目で惹かれてしまったがいたのだ。近付いてみて。見れば見る程アタシ好みの容姿で、どうしてもおうちに連れて帰りたくなってしまった。それに。確かに聞こえたのだ。『…どうせ、あたしなんか…』って云ういじけたような囁きを。薔薇のように綺麗で可憐な真紅の花なのに、その言葉が不思議で。近くの店員さんに事情を聞いて納得した。話によると、ベゴニアと云う種類なのだが、この時期に花を付けているのはかなり異常な事であるらしい。『…普通は春に花が咲いて、夏は一旦閉じて…秋に再び咲く種類なんですが…』担当者さんも困惑気味で『…もしお買い上げ頂けましたら、勉強させて頂きますが…』と云う一言に腹が決まった。(決めた! このコは、ウチの子だ♪)と。早速購入して家に持って帰って窓辺に飾って。そして話し掛けた。
 『…貴女は要らないなんかじゃないよ…アタシが貴女を大事にするから、元気で長生きしてね…』と。
 名前は勿論、【インカローズ】だ。ピンクじゃなくて真紅だが、細かい事は気にしない(笑)。興味が湧いて花言葉を調べて益々惚れ込んだ。


 『幸せな日々』


それが、ベゴニアの花言葉。
このマンションでの二代目の【インカローズ】だが、このコはアタシが幸せにしてあげるのだ。そう決心して、毎日水遣りやお世話を楽しんでたりする。少しでも長生きして欲しい。最初の【インカローズ】や【スノウホワイト】の分まで。心なしか最近では生き生きして、綺麗な花を咲かせてくれてる。この上井真唯アタシのモノなのだ。多少規格外でも全然構わない。綺麗に精一杯咲いて、そして天寿を全うして頂きたい。



リザさんとその後もお喋りして。実はアタシの誕生日である【インティ・ライミ】には、あの超豪華特急【オリエント急行エクスプレス】のチケットを手配していた事を貴志さんから白状されて。『あんなのは、定年後で良いんです★』と怒った事なんかを愚痴ったり、お礼参りに参拝した事などの話をして。呆れられ笑われて、アタシはリザさんの元を辞したのだ。「…でも…ホントに良かったわ…もう二度とあの子を、見放さないであげて…」などと云うお言葉を頂戴して。





 帝都ホテルを出れば、夏のは傾いていてもまだ充分明るい。



……そうなのだ。


アタシは、あの新宿の浅間神社に再び参拝させて頂いた。

 思えばあの日。
あの浅間神社の富士塚登頂が分岐点ターニングポイントになったのだ。
アタシは貴志さんの記憶が戻らなくても良いと思ってた。
けど。やっばり、戻ってみれば。
 『…ああ…アタシが好きになったのは、やっぱりこの男性ひとだったんだ…』
と、思ってしまうのだ。


きっと木花開耶姫さまの思し召しだったのだろう。
 由美センセが新婚旅行から帰って来たら、富士山五社や出雲大社の東京分祠にも二人でお礼参りに行かなければならない。






ねえ、貴志さん。


アタシに会う前の貴方に会えて、アタシは良かったと思ってる。


 強くて優しくて。
そして、脆くて繊細な青年時代の貴方に出会う事が出来たから。


 貴方の精神こころを、少しは理解ってあげられるようになった気がするの。


それに。


こんな事、普通じゃあり得ないでしょ?


ホントにアタシって、トコトン“普通”からかけ離れてるんだね(笑)。


“氷の貴公子”のダイヤモンドダストって、メッチャ怖かったよ。


だけど。


あそこまでしないと自分を守れないほど過酷な魑魅魍魎が蠢く世界で、貴方はたった一人で戦って来たんだね。


でも、もう大丈夫。


もう氷の仮面で、精神こころを鎧う必要はないからね。


 永久凍土に凍らせなくても、貴方の精神こころは守られる。


 貴方は【緋龍院】でも【一条】でもない、【上井】と云う名の平凡な一般市民なんだから。


それに。
もう独りじゃないよ。


アタシって云う、伴侶がちゃんと付いてるんだから。


アタシが守ってあげるからね。


 今回の出来事は。


あなたと云う存在と出会えた奇跡を改めて考えされられる機会であると同時に。


あなたの、その繊細な精神こころを守れるように、強くなれるように。
 神々様が与えて下さった試練だと思えるから。


 身体的な安全は、プロフェッショナルなSPさんたちがしっかり護って下さるから大丈夫。


だから。


 精神的なものは、アタシがあなたの守護者ガーディアンになるから。


 地球を包む大気のように。


 生きるために必要な水や空気のように。


あなたが生きる上で、絶対不可欠な存在でいられるように。


 努力し続けるから。


ずっと側にいさせてね。


これからも、あなたと幸せな日々を紡いでゆけるように―――






そうしてアタシは。
つい先日、遅い梅雨明けが発表されたばかりの初夏の日差しの中に、軽やかに足を踏み出したのだった。








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