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三年目の新婚クライシス
No,275 五月闇 其の二十六
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「貴志さん! たかしさんっ!! 死んじゃやだ、たかしさんっ!!」
「真唯さん、上井様は頭を打っています! 揺らしてはいけません!!」
「救急車は呼びましたから、落ち着いてしっかりなさって下さいっ!!」
身を呈してアタシを庇ってくれた貴志さんが倒れて動かなくなってしまって、意識がないのが怖くて思わず縋り付いて揺さ振ってしまったけど。『頭を打った人間を動かしてはいけない。』なんて常識は頭から抜け落ちてしまってた。SPさんたちがいなかったら、アタシはもっと恐慌状態になってしまっていただろう。怪我して血が止まってくれなくて。止血しようと患部を押さえたハンカチが血で濡れて染まってゆくのが怖くて堪らなかった。それから間もなく来てくれた救急車に同乗したけど、隊員さんたちとの受答えは彼らがしてくれて。受け入れ先が決まるまでが酷く長くもどかしく感じた。
搬送された病院ではすぐにも手術室に運ばれてゆくかと思われたが、患部を診た医師が処置をすると色々な検査に回される事になった。出血の割に怪我自体は大した事はないが、意識がないため脳内の様子が懸念されるらしい。アタシは脳外科の待合室で煩悶を抱えて待つ事となった。
アタシが山頂で写真を撮らなかったら。
アタシが富士塚に登らなかったら。
アタシが富士塚に行かなかったら。
アタシが浅間神社に行かなかったら。
アタシがツアーの後で真っ直ぐ帰宅してたら。
アタシのせいだ。
アタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだ
神様、仏様、ヴィラコチャ様。
世界中のどんな神様だっていい。
貴志さんを助けて下さい。
あの男性の生命を奪るのなら、アタシの命を差し出します。
どうか、あの男性を助けて下さい。
お祖父さま、彼を連れて逝かないで下さい。
あの夫は、アタシに必要な大切な大切な男性なんです。
あの男性を連れて逝くくらいなら……いっそアタシを連れて逝って下さい。
祈るような気持ちで、待合室の椅子に座ってた。いや実際、祈ってたけど。
貴志さんが全身で庇ってくれたので、アタシ自身にはかすり傷一つない事が余計に居たたまれない。慰めるように誰かの手が肩に置かれたりしたみたいだけど、誰の手かなんて気にはしてなかった。SPさんの中の誰かだろうとは理解ってたから。アタシにすれば永遠にも感じられる時間が過ぎて。担当医師に呼ばれた時には心臓が冷え縮む心地だった。
「…貴志さん…っ、…良かった…!」
脳外の医師に『検査の結果、異常はありませんでした。』と言われた時は心底ホッとした。脳震盪に寄る意識の混濁があるかも知れないが経過をみるしかないと言われ、もう夜も遅いので入院する事となった。入院に必要なグッズは知っている。一時帰宅して一応リストを見ながら必要な道具や衣類を揃えて、そして再び病室に戻り枕辺に腰掛ける。また個室であり、付き添いの必要はないと言われたが、そこは押し切った。聞けば、かつての神田の病院でもそのような遣り取りがあったらしいが、生憎記憶にはない。アタシの今日のツアーの荷物なんかマンションのアタシの部屋に放り入れてしまった事などどーでもいい余談でしかない。
雨で地面がぬかるんでて貴志さんの背中が泥だらけになってた事は、かなり時間が経ってからようやく気が付いた。夫の頭部の出血で、アタシの脳は一杯だったから。当然アタシの全身も雨で濡れてたけれど、SPさんに注意されるまで気が付かなかった。慌てて着替えたけど、のんびりシャワーを浴びる気分になれなくて、簡単に身体を拭いただけだった。気が急いてて、仕方なかったのだ。夏風邪を引いてしまったら、真性の馬鹿の証だろう(自嘲笑)。
貴志さんの前髪を梳いて額に触れ。
指を滑らせ頬を撫でると、温かくて生きてる事が実感出来て嬉しくなる。
患部の包帯は痛々しいけれど。
……生きててくれさえすれば、それで良い……例えまた、記憶が失われてしまったとしても、アタシはもう逃げない。耐えてみせる。 ……だから。
「…貴志さん…眼を覚まして、アタシを見て…」
今夜はここでずっと貴方の寝顔を見てるから。
起きた時、優しく微笑んでくれなくて良い。
また、あの『ダイヤモンドダスト』に晒されても構わない。
もう耐性ついちゃったんだから、バッチコイ♪
その綺麗な瞳にアタシを映して。
でも、今は。
「…お寝みなさい…良い夢を…」
ソッと額に接吻を落とし、心の中で呟いた。
『痛いの、痛いの、飛んでけ~♪』
と。
(…ん~…頭を撫でる貴志さんの掌、気持ち良い…)
……え!?
ぼんやり寝起きの頭で思ってしまった後に、昨日の出来事を瞬時に思い出して。
バチッと音がしそうな勢いで眼を開けると、そこには貴志さんの姿があったけど。
何故か、瞬時に消滅した。
!!??
ガバッと起き上がると、アタシは何故かベッドに寝ていて。
……貴志さんが床で土下座をしていた。
状況がイマイチ理解出来なくて、頭上にデッカイ疑問符を浮かべながらベッドを降りると貴志さんに歩み寄り彼の前に正座した。病室の床だけど、そんなの気にしてられなかった。夫の行動が理解出来なくて。
「…あの~…貴志さん…貴方は病人なんですから、ベッドに戻って寝てて下さい…」
「…………………………」
「…あの…とりあえず、土下座をやめて頂けませんでしょうか…?」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」 ……う~む、困った。
と、思ってると。
「申し訳ありませんでしたァッ!!」
……う~ん、確実に、フォントが倍になってます。
「…謝られる理由が理解らないんですが…むしろ、アタシを庇って怪我をされたんですから、アタシが謝るべきで、」
次の瞬間、アタシの言葉を遮って叫ばれた言葉を、アタシは生涯忘れる事は出来ないだろう。
「記憶喪失なんかになっておりまして、申し訳ありませんでしたァッッ!!!」
ぽかんと呆けてしまったが、貴志さんの言葉がじわじわと脳に沁み込んでくると。
一瞬後、涙がブワッと噴き出した。
後に、涙ってあんな風に出るもんなんだなァって感心してしまったけど、その時のアタシはンな事に構ってなんかられなくて。身体が震えて来た。「…ほ…ホントに…?」ヤバイ。声まで震えてる。
「はい! 真唯さんに辛くあたってしまいまして、お詫びのしようもございませんっ!!」
床に額を擦り付けているその様子に、貴志さんの後悔が滲んで見えて。
「…たか…っ、…もうっ、はなっ…さな…っ」
ガバッと擬音がしそうな勢いで顔を上げた貴志さんだったけど、アタシの顔を見て表情が歪んだ。そして彼も震える声で聞いてくる。土下座の姿勢はそのままで。
「…すみません…抱きしめたいのですが…いいでしょうか…?」
なんて。
「…いいに…っ、…きま…っ」
「真唯さん…っ!!」
次の瞬間には、その腕の中に抱きしめられてた。
温かい胸、懐かしい温もり、慕わしい空気感。
間違いない。彼はアタシの夫だ。大事な旦那さまだ。
やっと。やっと、戻って来てくれた。
「…真唯さんっ…私の真唯さん…っ、…申し訳ありませんでした…っ」
抱きしめてくれる腕の力が嬉しくて。強い力が幸せで。
膝立ちでアタシは夫の腕の中で泣き崩れたのだった。
朝食配膳の看護師さんの訪れに我に返った瞬間は遅かった。
怒られ呆れられ、それでもニヤけた顔は元に戻らなかった。
朝食を取る貴志さんをうっとりと見つめて、食べ終わった食器を廊下のワゴンに戻すついでに大事な事を思い出した。貴志さんの個室の前で立哨していたSPさんたちに事の次第を告げると、満面の笑みで言われた。「良かったです。おめでとうございます!」と。アタシもにっこり微笑み返してお礼を言ったら、小さいポップな紙袋を渡されて。何だろうと思う間もなく説明された。「真唯さんの朝食です。昨夜も何も食べていないのですから、召し上がって下さい。」近所でも評判のパン屋で購入して参りましたと言う彼のお気持ちを有難く頂戴する事にしたら、院内の自販機でコーヒーまで買って来てくれて。素敵な人たちに囲まれてる喜びを噛み締めた。最敬礼でお礼を言って中に入って、貴志さんの前でアタシも朝食を頂いた。ちなみにアタシたちはソファーにおさまってる。貴志さんがどうしてもベッドに戻ってくれないのだ。頭を打ってるのだから、『予断を許さないんですよ。』と言っても頑として聞いてくれない。どうやらアタシの前で寝ると云う状況が許せないらしい。(仕方ないなァ~)と思いつつも、評判だと言うSPさんの心尽くしを味わう。うん、デニッシュもベーグルサンドも、とっても美味しい。“美味しい”と思える事が素直に嬉しく、そして有難い。コーヒーも美味で、自販機の物とは思えないくらいだ。
……理解ってる。アタシの精神の問題なのだ。貴志さんが記憶喪失になった時、コーヒーの味が全くしなかったみたいに。
あの時の絶望を思えば、今の幸せが尚更精神に沁み入る気がする。
何事もない平和な“日常”が一番有り難く尊いものだと云う事を噛み締めつつ。
あの後、検診で異常がない事が確認されて、貴志さんは退院を許された。
で、マンションに戻って来たのだが、貴志さんのアタシに対する“お姫様扱い”が凄いのだ。アタシとしては念のため静かに寝てて欲しいのに、上げ膳据え膳は勿論、下にも置かないとはこの事かと思う程のサーヴィス振りで。放っておいたら、お持て成しされてしまいそうだ。自宅なのに。貴志さんは全てを思い出し、記憶がなかった時の事も覚えているようだ。どうやら、半端ない罪悪感を抱えてらっしゃると思われる。
『事故だったんですから、気にしないで下さい。』
言っても無駄だった。
用事を言い付けろと言われても困るのだ。
命令して下さい、と言われるともっと困る。
アタシは、貴志さんと一緒にいられれば、ただそれだけで良いのだ。
貴志さんが、アタシだけを見つめてくれて。
いつもの魅惑の低音で、アタシだけに囁いてくれて。
結婚指環を、婚約指環を、ペア・ネックレスをしてくれて。
いつもの日常が戻って来てくれればそれだけで。
でも、それでは、夫の気が済まないみたいなので。
少しだけ考えて。
『命令』ではなく、『お願い』をした。
「真唯さん、上井様は頭を打っています! 揺らしてはいけません!!」
「救急車は呼びましたから、落ち着いてしっかりなさって下さいっ!!」
身を呈してアタシを庇ってくれた貴志さんが倒れて動かなくなってしまって、意識がないのが怖くて思わず縋り付いて揺さ振ってしまったけど。『頭を打った人間を動かしてはいけない。』なんて常識は頭から抜け落ちてしまってた。SPさんたちがいなかったら、アタシはもっと恐慌状態になってしまっていただろう。怪我して血が止まってくれなくて。止血しようと患部を押さえたハンカチが血で濡れて染まってゆくのが怖くて堪らなかった。それから間もなく来てくれた救急車に同乗したけど、隊員さんたちとの受答えは彼らがしてくれて。受け入れ先が決まるまでが酷く長くもどかしく感じた。
搬送された病院ではすぐにも手術室に運ばれてゆくかと思われたが、患部を診た医師が処置をすると色々な検査に回される事になった。出血の割に怪我自体は大した事はないが、意識がないため脳内の様子が懸念されるらしい。アタシは脳外科の待合室で煩悶を抱えて待つ事となった。
アタシが山頂で写真を撮らなかったら。
アタシが富士塚に登らなかったら。
アタシが富士塚に行かなかったら。
アタシが浅間神社に行かなかったら。
アタシがツアーの後で真っ直ぐ帰宅してたら。
アタシのせいだ。
アタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだアタシのせいだ
神様、仏様、ヴィラコチャ様。
世界中のどんな神様だっていい。
貴志さんを助けて下さい。
あの男性の生命を奪るのなら、アタシの命を差し出します。
どうか、あの男性を助けて下さい。
お祖父さま、彼を連れて逝かないで下さい。
あの夫は、アタシに必要な大切な大切な男性なんです。
あの男性を連れて逝くくらいなら……いっそアタシを連れて逝って下さい。
祈るような気持ちで、待合室の椅子に座ってた。いや実際、祈ってたけど。
貴志さんが全身で庇ってくれたので、アタシ自身にはかすり傷一つない事が余計に居たたまれない。慰めるように誰かの手が肩に置かれたりしたみたいだけど、誰の手かなんて気にはしてなかった。SPさんの中の誰かだろうとは理解ってたから。アタシにすれば永遠にも感じられる時間が過ぎて。担当医師に呼ばれた時には心臓が冷え縮む心地だった。
「…貴志さん…っ、…良かった…!」
脳外の医師に『検査の結果、異常はありませんでした。』と言われた時は心底ホッとした。脳震盪に寄る意識の混濁があるかも知れないが経過をみるしかないと言われ、もう夜も遅いので入院する事となった。入院に必要なグッズは知っている。一時帰宅して一応リストを見ながら必要な道具や衣類を揃えて、そして再び病室に戻り枕辺に腰掛ける。また個室であり、付き添いの必要はないと言われたが、そこは押し切った。聞けば、かつての神田の病院でもそのような遣り取りがあったらしいが、生憎記憶にはない。アタシの今日のツアーの荷物なんかマンションのアタシの部屋に放り入れてしまった事などどーでもいい余談でしかない。
雨で地面がぬかるんでて貴志さんの背中が泥だらけになってた事は、かなり時間が経ってからようやく気が付いた。夫の頭部の出血で、アタシの脳は一杯だったから。当然アタシの全身も雨で濡れてたけれど、SPさんに注意されるまで気が付かなかった。慌てて着替えたけど、のんびりシャワーを浴びる気分になれなくて、簡単に身体を拭いただけだった。気が急いてて、仕方なかったのだ。夏風邪を引いてしまったら、真性の馬鹿の証だろう(自嘲笑)。
貴志さんの前髪を梳いて額に触れ。
指を滑らせ頬を撫でると、温かくて生きてる事が実感出来て嬉しくなる。
患部の包帯は痛々しいけれど。
……生きててくれさえすれば、それで良い……例えまた、記憶が失われてしまったとしても、アタシはもう逃げない。耐えてみせる。 ……だから。
「…貴志さん…眼を覚まして、アタシを見て…」
今夜はここでずっと貴方の寝顔を見てるから。
起きた時、優しく微笑んでくれなくて良い。
また、あの『ダイヤモンドダスト』に晒されても構わない。
もう耐性ついちゃったんだから、バッチコイ♪
その綺麗な瞳にアタシを映して。
でも、今は。
「…お寝みなさい…良い夢を…」
ソッと額に接吻を落とし、心の中で呟いた。
『痛いの、痛いの、飛んでけ~♪』
と。
(…ん~…頭を撫でる貴志さんの掌、気持ち良い…)
……え!?
ぼんやり寝起きの頭で思ってしまった後に、昨日の出来事を瞬時に思い出して。
バチッと音がしそうな勢いで眼を開けると、そこには貴志さんの姿があったけど。
何故か、瞬時に消滅した。
!!??
ガバッと起き上がると、アタシは何故かベッドに寝ていて。
……貴志さんが床で土下座をしていた。
状況がイマイチ理解出来なくて、頭上にデッカイ疑問符を浮かべながらベッドを降りると貴志さんに歩み寄り彼の前に正座した。病室の床だけど、そんなの気にしてられなかった。夫の行動が理解出来なくて。
「…あの~…貴志さん…貴方は病人なんですから、ベッドに戻って寝てて下さい…」
「…………………………」
「…あの…とりあえず、土下座をやめて頂けませんでしょうか…?」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」 ……う~む、困った。
と、思ってると。
「申し訳ありませんでしたァッ!!」
……う~ん、確実に、フォントが倍になってます。
「…謝られる理由が理解らないんですが…むしろ、アタシを庇って怪我をされたんですから、アタシが謝るべきで、」
次の瞬間、アタシの言葉を遮って叫ばれた言葉を、アタシは生涯忘れる事は出来ないだろう。
「記憶喪失なんかになっておりまして、申し訳ありませんでしたァッッ!!!」
ぽかんと呆けてしまったが、貴志さんの言葉がじわじわと脳に沁み込んでくると。
一瞬後、涙がブワッと噴き出した。
後に、涙ってあんな風に出るもんなんだなァって感心してしまったけど、その時のアタシはンな事に構ってなんかられなくて。身体が震えて来た。「…ほ…ホントに…?」ヤバイ。声まで震えてる。
「はい! 真唯さんに辛くあたってしまいまして、お詫びのしようもございませんっ!!」
床に額を擦り付けているその様子に、貴志さんの後悔が滲んで見えて。
「…たか…っ、…もうっ、はなっ…さな…っ」
ガバッと擬音がしそうな勢いで顔を上げた貴志さんだったけど、アタシの顔を見て表情が歪んだ。そして彼も震える声で聞いてくる。土下座の姿勢はそのままで。
「…すみません…抱きしめたいのですが…いいでしょうか…?」
なんて。
「…いいに…っ、…きま…っ」
「真唯さん…っ!!」
次の瞬間には、その腕の中に抱きしめられてた。
温かい胸、懐かしい温もり、慕わしい空気感。
間違いない。彼はアタシの夫だ。大事な旦那さまだ。
やっと。やっと、戻って来てくれた。
「…真唯さんっ…私の真唯さん…っ、…申し訳ありませんでした…っ」
抱きしめてくれる腕の力が嬉しくて。強い力が幸せで。
膝立ちでアタシは夫の腕の中で泣き崩れたのだった。
朝食配膳の看護師さんの訪れに我に返った瞬間は遅かった。
怒られ呆れられ、それでもニヤけた顔は元に戻らなかった。
朝食を取る貴志さんをうっとりと見つめて、食べ終わった食器を廊下のワゴンに戻すついでに大事な事を思い出した。貴志さんの個室の前で立哨していたSPさんたちに事の次第を告げると、満面の笑みで言われた。「良かったです。おめでとうございます!」と。アタシもにっこり微笑み返してお礼を言ったら、小さいポップな紙袋を渡されて。何だろうと思う間もなく説明された。「真唯さんの朝食です。昨夜も何も食べていないのですから、召し上がって下さい。」近所でも評判のパン屋で購入して参りましたと言う彼のお気持ちを有難く頂戴する事にしたら、院内の自販機でコーヒーまで買って来てくれて。素敵な人たちに囲まれてる喜びを噛み締めた。最敬礼でお礼を言って中に入って、貴志さんの前でアタシも朝食を頂いた。ちなみにアタシたちはソファーにおさまってる。貴志さんがどうしてもベッドに戻ってくれないのだ。頭を打ってるのだから、『予断を許さないんですよ。』と言っても頑として聞いてくれない。どうやらアタシの前で寝ると云う状況が許せないらしい。(仕方ないなァ~)と思いつつも、評判だと言うSPさんの心尽くしを味わう。うん、デニッシュもベーグルサンドも、とっても美味しい。“美味しい”と思える事が素直に嬉しく、そして有難い。コーヒーも美味で、自販機の物とは思えないくらいだ。
……理解ってる。アタシの精神の問題なのだ。貴志さんが記憶喪失になった時、コーヒーの味が全くしなかったみたいに。
あの時の絶望を思えば、今の幸せが尚更精神に沁み入る気がする。
何事もない平和な“日常”が一番有り難く尊いものだと云う事を噛み締めつつ。
あの後、検診で異常がない事が確認されて、貴志さんは退院を許された。
で、マンションに戻って来たのだが、貴志さんのアタシに対する“お姫様扱い”が凄いのだ。アタシとしては念のため静かに寝てて欲しいのに、上げ膳据え膳は勿論、下にも置かないとはこの事かと思う程のサーヴィス振りで。放っておいたら、お持て成しされてしまいそうだ。自宅なのに。貴志さんは全てを思い出し、記憶がなかった時の事も覚えているようだ。どうやら、半端ない罪悪感を抱えてらっしゃると思われる。
『事故だったんですから、気にしないで下さい。』
言っても無駄だった。
用事を言い付けろと言われても困るのだ。
命令して下さい、と言われるともっと困る。
アタシは、貴志さんと一緒にいられれば、ただそれだけで良いのだ。
貴志さんが、アタシだけを見つめてくれて。
いつもの魅惑の低音で、アタシだけに囁いてくれて。
結婚指環を、婚約指環を、ペア・ネックレスをしてくれて。
いつもの日常が戻って来てくれればそれだけで。
でも、それでは、夫の気が済まないみたいなので。
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