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三年目の新婚クライシス
No,262 五月闇 其の十三
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アタシの引っ越しの段ボール箱の中には、特大の赤の太字で「マル秘」と書かれた箱がある。アタシの精神の傷が癒えるまでは“封印”しておこうと思ってた箱だ。この先いつ開ける事が出来るのか理解らない。いや、開ける日が来るのかさえ、分からなかった物だ。
中身は勿論、『貴志さん』に関する物だ。
初めてのクリスマスを過ごした夜にプレゼントした景徳鎮のペアマグと、彼からプレゼントされたダイヤと月長石のイヤリング。初めてのヴァレンタインを過ごした夜にシャンパントリュフと共にプレゼントしたWEDGWOODのブルームのペアマグ。信州旅行のお土産のアタシの手作りのガラスのコップ。結婚後の初めてのホワイトデー・クルージングで手作りのマカロンと共にプレゼントされた月長石のネックレス。仏蘭西で迎えた誕生日にプレゼントされたWEDGWOODのコーヒーセット【MAI】。一年目の結婚記念日に出雲であげた夫婦箸。結婚二周年と『貴志さん』の誕生日を祝ったクロノスのペア・ウォッチ。慰安旅行になったアタシの誕生日に貰ったハートのペア・ネックレス。そして。
二度目の求婚の時にプレゼントされた婚約指環。
指環を右手の薬指に通しながら、アタシ達の歴史に想いを馳せる。
実は『一条さん』のマンションに置いて来た婚約指環は、最初の求婚の時にクリスマスに貰ったダイヤでキンキラキンの指環だ。アタシのリクエストで誕生日に貰った婚約指環は……どうしても、手放せなかった。これなら月長石のシンプルな物だからそんなに高価じゃないだろうし。何より。
沈みゆく太陽と富士山に見守られながら交わした接吻は忘れられない大切な思い出だ。
―――けれど。
彼は忘れてしまった。
事故だから仕方がない。
『貴志さん』だって忘れたくて忘れた訳ではない。
彼が悪い訳ではない。彼を助ける事が出来なかったSPさんや、ましてや彼が助けたお婆さんが悪い訳でもない。誰もどうしようもない事だったのだ。
理性では理解ってた。
でも、感情が納得しなかったのだ。
彼から冷たい瞳で見られる事が耐えられなかった。
夫の中から妻の存在が消えてしまった事がどうしようもなく哀しかった。
妻の存在を冷たい瞳と態度で全否定する夫がどうしようもなく遣る瀬なかった。
あの優しい瞳で見つめられて、優しい声で愛を囁かれない事がどうしようもなく切なかった。
だから。
逃げたのだ。
あの冷たい瞳から。
冷たく怖い『一条さん』から。
でも、そこで。良く考えてみる。
思い返してみる。
『一条さん』の態度を。
確かに最初はすごく冷たかった。
『ダイヤモンドダスト』とまで評された凍り付くような視線と態度が、アタシの脆い精神をメチャメチャにしてグチャグチャに破壊し尽くした。『貴志さん』の愛に満ちた優しい視線と態度しか知らなかったアタシを容赦なく脅かした。
けれど、思い出す。
ある時から徐々に優しくなっていった『一条さん』を。
アタシの身体を心配して一緒に夕飯を取ってくれるようになった事を。
カフェ・オ・レを飲みながら彼が朝食を食べるのを見ていて。
アタシの手作りのお弁当を持って嬉しそうに出勤して行った彼の表情を。
……ああ……どうして、気が付かなかったのだろう……
『一条さん』は紛れもなく、アタシの愛した『貴志さん』その男性なのだ。
いや、真実は理解っていたのだ。精神の奥底では。
……ただ…これ以上、傷付くのが怖かったのだ……
……彼が記憶を取り戻すのを待つ事さえ放棄してしまいたくなる程に……
『貴志さんが永久に記憶を取り戻さない可能性』
それを考えるのが怖くて。怖くて、怖くて、怖くて堪らなかった。
そして思い知る。
アタシがいかに夫に依存していたのかを。
貴志さんが全力で“上井真唯”を肯定してくれてたからこそ……夫が妻の存在を許してくれてたからこそ……アタシは夫の傍で笑っていられた事を。
【緋龍院貴志】と云う男性と出会えた奇跡を。
そんな彼から愛されてると云う奇跡を忘れて。
アタシはいつしか夫の存在に、彼から愛される事に慣れて……慣れ切って、驕り高ぶってしまっていたのだ。だからこそ浅間大社で、あんなに傲慢なご祈願が出来たのだ。
一冊のアルバムを取り出して、眺める。
そこに収まってるのは、全部貴志さんとのツーショットだ。
スマホを彼に返す前にどうしても手元に留めておきたくて、プリントアウトしておいた写真だ。アタシのデジカメで撮っておいたものと一緒に整理されてる。初めての山梨旅行のぎこちないアタシの微笑みは、伊勢神宮やフランス旅行を経て、浅草の雷門前では満面の笑みで映ってる。自己意識が極端に低くて自分の写真が大嫌いだったアタシが、男の人と笑顔でツーショットを撮る事が出来るようになるなんて夢にも思わなかった。
昇仙峡の写真を見ると思い出す。初めての男の人との旅行に緊張しつつも、いつしか心の底から楽しんでしまっていた事を。そして重要な事を思い出してしまった。それは今年の一月、富士山五社めぐりをした時にも行った【北口本宮冨士浅間神社】に、まだ恋人だった彼と参拝させて頂いた時の事を。彼はアタシの為に御神木を守ってくれた。その時に心に誓った事を。
(……ああ……アタシは……)
自己卑下とサヨナラしようと思った。
でも、それは、隣に彼がいればこそなのだ。
貴志さん。
貴志さん、貴志さん…っ。
貴志さん、貴志さん、貴志さん……っ!
アタシは久し振りに指にした婚約指環を握り締めて、その場に泣き崩れた。
身体中の水分を出し尽くしたんじゃないかと思うほど泣いて。
アタシは心の中の悲しみをようやく吐き出す事が出来た。
一生分の涙を出し尽くしたんじゃないかと思う。
久々に爽快な心持である。
夕飯はうんと精のつく物が食べたい。
栄養をしっかり摂って、一から出直すのだ。
泣き過ぎで顔が酷い事になってるけど、そんな事気にしない。
三十路過ぎの干物に戻りかけ女を舐めんな★(笑)
だけど。
かなり“お洒落心”が戻って来た事を感じる。
封印を解いた箱の下の方に入れておいた物を広げる。
今年のホワイトデーに旦那さまから買って頂いた和風小物の数々だ。
紫陽花の花の刺繍がワンポイントになってるティッシュケースと折り畳み傘を今日から使おう。こんな雨の日のお出掛けにピッタリだ。でも、出掛ける前にやる事がある。それは玄関にお線香を置く事だ。ここに引っ越して来た日。本棚に【My 神棚】は安置した。初日にお線香をあげた。けど、それっきりだ。玄関にお線香も置いてない。玄関にお線香を置く事は風水で“お清め”の意味があるとされるが、アタシはその事はあんまり意識してない。市販の芳香剤より仄かなお香の薫りが好きなだけなのだ。あの日小町通りで貴志さんに買ってもらった高級お線香を、可愛いお地蔵さまがちんまりと鎮座してる香皿で焚いて。玄関の隅にソッと置いて、アタシは外出した。
駅前までは結構な距離があるけど、あんなに楽しみにしていた傘でお出掛け出来るのでお散歩気分で楽しめた。「ご飯の國」は今日もそれなりに混んでいる。アタシはカウンターに陣取るとメニューに手を伸ばした。出されたお冷はすぐに飲んでしまった。どうやらかなり喉が渇いていたようだ。申し訳ない気持ちで二杯目を頼んでそれを飲みながらメニューを吟味する。お昼がお魚だったから、夕飯はお肉にしようかな。ここはハンバーグも絶品なんだよね。そう思ってたのだが、ある一点に眼が吸い寄せられてそれを注文する事にした。お米の種類は指定出来ないけど気にしない。
「うな丼をお願いします。」
持参の文庫本を読んでると、それはほどなくやって来た。専門店や高級店だと肝吸いが付いて来るが、ここは普通のお吸い物だ。でも、それで充分。「頂きます。」合掌してタレが程良いうな丼を頬張った。一口含んで微笑みが浮かぶ。それからはモリモリと食べる事に専念した。眼の前の鰻さんに感謝の念を抱きながらも、アタシの意識は別のトコロへ飛んでいた。食後には近くのドトールでドリップバッグコーヒーを買った。アタシの好きなハワイ・コナをお手軽に楽しめるから。スタバは庶民には敷居が高いんだよね(苦笑)。「ご飯の國」で食後のお茶は頂いたけど、どうしても美味しい珈琲が飲みたかったのだ。帰ったら久し振りにWEDGWOODのピンクのブルームマグで飲もう。想像しただけで頬が緩む。
「ただ今。」
帰宅してそう言える事が嬉しかった。この言葉は部屋の神様へのご挨拶と、待っててくれたすべての物さんたちへのお礼だ。お香の薫りが出迎えてくれるのも心地好い。傘は玄関に置いて、小さなバッグと荷物は机の上に。珈琲を淹れる前にやる事がある。
涼しげなガラスの香皿と香立てを出して、開封したばかりの鎌倉のお線香を焚く。そして久し振りに【My 神棚】に置いて、ご無沙汰を謝罪して今まで“待って頂いた事”への感謝の祈りを捧げる。跪けば目線はかなり下になってサラスヴァーティー女神様の御絵姿をお見上げする形になれる。心に思い描くのは貴志さんと緋龍院のお祖父さまの姿だ。特にお祖父さまには、あの世から随分心配させてしまっている事だろう。
鰻を見ると思い出すのは、あの夏の日、貴志さんに奢って頂いた、ひつまぶしだ。銀座の竹葉亭より美味しく感じたのも道理だ。あの時は空腹のせいだと思い込んでたけど、行田さんの事を知れば当たり前の事だったと理解る。思えばあの日から貴志さんに奢って頂く事が“普通”になっていったのだ。見事に“餌付け”されてた訳だ(笑)。口が奢ってゆかないようにしてた事も今となれば懐かしい思い出だ。お祖父さまとはお花見をしながらシャンパンアフタヌーンティーをご一緒して。特等席でお能を観せて頂いて、行田さんのお店で春の味をご馳走になって。そして言われたのだ。
『…冥土の土産をありがとう…貴志の事を頼む…あれを幸せにしてやっておくれ』
と。
もう無理だと思ってた。
あの世でお祖父さまに再会出来たら土下座をしてでも謝ろうと。
でも……あの男性はアタシの幸福にこそ、必要不可欠な大切な人間なんだ。
貴志さんはもう離婚届を役所に提出して、とっくに受理されてるかも知れない。アタシと貴志さんの離婚は正式に成立してて、貴志さんにも何を今更って嘲笑われるだけかも知れない。だけど、ここで行動を起こさなければ、アタシは一生後悔する。
……恐くて一度は逃げ出してしまったアタシだけど…まだ間に合うだろうか……今ならば、まだ……
中身は勿論、『貴志さん』に関する物だ。
初めてのクリスマスを過ごした夜にプレゼントした景徳鎮のペアマグと、彼からプレゼントされたダイヤと月長石のイヤリング。初めてのヴァレンタインを過ごした夜にシャンパントリュフと共にプレゼントしたWEDGWOODのブルームのペアマグ。信州旅行のお土産のアタシの手作りのガラスのコップ。結婚後の初めてのホワイトデー・クルージングで手作りのマカロンと共にプレゼントされた月長石のネックレス。仏蘭西で迎えた誕生日にプレゼントされたWEDGWOODのコーヒーセット【MAI】。一年目の結婚記念日に出雲であげた夫婦箸。結婚二周年と『貴志さん』の誕生日を祝ったクロノスのペア・ウォッチ。慰安旅行になったアタシの誕生日に貰ったハートのペア・ネックレス。そして。
二度目の求婚の時にプレゼントされた婚約指環。
指環を右手の薬指に通しながら、アタシ達の歴史に想いを馳せる。
実は『一条さん』のマンションに置いて来た婚約指環は、最初の求婚の時にクリスマスに貰ったダイヤでキンキラキンの指環だ。アタシのリクエストで誕生日に貰った婚約指環は……どうしても、手放せなかった。これなら月長石のシンプルな物だからそんなに高価じゃないだろうし。何より。
沈みゆく太陽と富士山に見守られながら交わした接吻は忘れられない大切な思い出だ。
―――けれど。
彼は忘れてしまった。
事故だから仕方がない。
『貴志さん』だって忘れたくて忘れた訳ではない。
彼が悪い訳ではない。彼を助ける事が出来なかったSPさんや、ましてや彼が助けたお婆さんが悪い訳でもない。誰もどうしようもない事だったのだ。
理性では理解ってた。
でも、感情が納得しなかったのだ。
彼から冷たい瞳で見られる事が耐えられなかった。
夫の中から妻の存在が消えてしまった事がどうしようもなく哀しかった。
妻の存在を冷たい瞳と態度で全否定する夫がどうしようもなく遣る瀬なかった。
あの優しい瞳で見つめられて、優しい声で愛を囁かれない事がどうしようもなく切なかった。
だから。
逃げたのだ。
あの冷たい瞳から。
冷たく怖い『一条さん』から。
でも、そこで。良く考えてみる。
思い返してみる。
『一条さん』の態度を。
確かに最初はすごく冷たかった。
『ダイヤモンドダスト』とまで評された凍り付くような視線と態度が、アタシの脆い精神をメチャメチャにしてグチャグチャに破壊し尽くした。『貴志さん』の愛に満ちた優しい視線と態度しか知らなかったアタシを容赦なく脅かした。
けれど、思い出す。
ある時から徐々に優しくなっていった『一条さん』を。
アタシの身体を心配して一緒に夕飯を取ってくれるようになった事を。
カフェ・オ・レを飲みながら彼が朝食を食べるのを見ていて。
アタシの手作りのお弁当を持って嬉しそうに出勤して行った彼の表情を。
……ああ……どうして、気が付かなかったのだろう……
『一条さん』は紛れもなく、アタシの愛した『貴志さん』その男性なのだ。
いや、真実は理解っていたのだ。精神の奥底では。
……ただ…これ以上、傷付くのが怖かったのだ……
……彼が記憶を取り戻すのを待つ事さえ放棄してしまいたくなる程に……
『貴志さんが永久に記憶を取り戻さない可能性』
それを考えるのが怖くて。怖くて、怖くて、怖くて堪らなかった。
そして思い知る。
アタシがいかに夫に依存していたのかを。
貴志さんが全力で“上井真唯”を肯定してくれてたからこそ……夫が妻の存在を許してくれてたからこそ……アタシは夫の傍で笑っていられた事を。
【緋龍院貴志】と云う男性と出会えた奇跡を。
そんな彼から愛されてると云う奇跡を忘れて。
アタシはいつしか夫の存在に、彼から愛される事に慣れて……慣れ切って、驕り高ぶってしまっていたのだ。だからこそ浅間大社で、あんなに傲慢なご祈願が出来たのだ。
一冊のアルバムを取り出して、眺める。
そこに収まってるのは、全部貴志さんとのツーショットだ。
スマホを彼に返す前にどうしても手元に留めておきたくて、プリントアウトしておいた写真だ。アタシのデジカメで撮っておいたものと一緒に整理されてる。初めての山梨旅行のぎこちないアタシの微笑みは、伊勢神宮やフランス旅行を経て、浅草の雷門前では満面の笑みで映ってる。自己意識が極端に低くて自分の写真が大嫌いだったアタシが、男の人と笑顔でツーショットを撮る事が出来るようになるなんて夢にも思わなかった。
昇仙峡の写真を見ると思い出す。初めての男の人との旅行に緊張しつつも、いつしか心の底から楽しんでしまっていた事を。そして重要な事を思い出してしまった。それは今年の一月、富士山五社めぐりをした時にも行った【北口本宮冨士浅間神社】に、まだ恋人だった彼と参拝させて頂いた時の事を。彼はアタシの為に御神木を守ってくれた。その時に心に誓った事を。
(……ああ……アタシは……)
自己卑下とサヨナラしようと思った。
でも、それは、隣に彼がいればこそなのだ。
貴志さん。
貴志さん、貴志さん…っ。
貴志さん、貴志さん、貴志さん……っ!
アタシは久し振りに指にした婚約指環を握り締めて、その場に泣き崩れた。
身体中の水分を出し尽くしたんじゃないかと思うほど泣いて。
アタシは心の中の悲しみをようやく吐き出す事が出来た。
一生分の涙を出し尽くしたんじゃないかと思う。
久々に爽快な心持である。
夕飯はうんと精のつく物が食べたい。
栄養をしっかり摂って、一から出直すのだ。
泣き過ぎで顔が酷い事になってるけど、そんな事気にしない。
三十路過ぎの干物に戻りかけ女を舐めんな★(笑)
だけど。
かなり“お洒落心”が戻って来た事を感じる。
封印を解いた箱の下の方に入れておいた物を広げる。
今年のホワイトデーに旦那さまから買って頂いた和風小物の数々だ。
紫陽花の花の刺繍がワンポイントになってるティッシュケースと折り畳み傘を今日から使おう。こんな雨の日のお出掛けにピッタリだ。でも、出掛ける前にやる事がある。それは玄関にお線香を置く事だ。ここに引っ越して来た日。本棚に【My 神棚】は安置した。初日にお線香をあげた。けど、それっきりだ。玄関にお線香も置いてない。玄関にお線香を置く事は風水で“お清め”の意味があるとされるが、アタシはその事はあんまり意識してない。市販の芳香剤より仄かなお香の薫りが好きなだけなのだ。あの日小町通りで貴志さんに買ってもらった高級お線香を、可愛いお地蔵さまがちんまりと鎮座してる香皿で焚いて。玄関の隅にソッと置いて、アタシは外出した。
駅前までは結構な距離があるけど、あんなに楽しみにしていた傘でお出掛け出来るのでお散歩気分で楽しめた。「ご飯の國」は今日もそれなりに混んでいる。アタシはカウンターに陣取るとメニューに手を伸ばした。出されたお冷はすぐに飲んでしまった。どうやらかなり喉が渇いていたようだ。申し訳ない気持ちで二杯目を頼んでそれを飲みながらメニューを吟味する。お昼がお魚だったから、夕飯はお肉にしようかな。ここはハンバーグも絶品なんだよね。そう思ってたのだが、ある一点に眼が吸い寄せられてそれを注文する事にした。お米の種類は指定出来ないけど気にしない。
「うな丼をお願いします。」
持参の文庫本を読んでると、それはほどなくやって来た。専門店や高級店だと肝吸いが付いて来るが、ここは普通のお吸い物だ。でも、それで充分。「頂きます。」合掌してタレが程良いうな丼を頬張った。一口含んで微笑みが浮かぶ。それからはモリモリと食べる事に専念した。眼の前の鰻さんに感謝の念を抱きながらも、アタシの意識は別のトコロへ飛んでいた。食後には近くのドトールでドリップバッグコーヒーを買った。アタシの好きなハワイ・コナをお手軽に楽しめるから。スタバは庶民には敷居が高いんだよね(苦笑)。「ご飯の國」で食後のお茶は頂いたけど、どうしても美味しい珈琲が飲みたかったのだ。帰ったら久し振りにWEDGWOODのピンクのブルームマグで飲もう。想像しただけで頬が緩む。
「ただ今。」
帰宅してそう言える事が嬉しかった。この言葉は部屋の神様へのご挨拶と、待っててくれたすべての物さんたちへのお礼だ。お香の薫りが出迎えてくれるのも心地好い。傘は玄関に置いて、小さなバッグと荷物は机の上に。珈琲を淹れる前にやる事がある。
涼しげなガラスの香皿と香立てを出して、開封したばかりの鎌倉のお線香を焚く。そして久し振りに【My 神棚】に置いて、ご無沙汰を謝罪して今まで“待って頂いた事”への感謝の祈りを捧げる。跪けば目線はかなり下になってサラスヴァーティー女神様の御絵姿をお見上げする形になれる。心に思い描くのは貴志さんと緋龍院のお祖父さまの姿だ。特にお祖父さまには、あの世から随分心配させてしまっている事だろう。
鰻を見ると思い出すのは、あの夏の日、貴志さんに奢って頂いた、ひつまぶしだ。銀座の竹葉亭より美味しく感じたのも道理だ。あの時は空腹のせいだと思い込んでたけど、行田さんの事を知れば当たり前の事だったと理解る。思えばあの日から貴志さんに奢って頂く事が“普通”になっていったのだ。見事に“餌付け”されてた訳だ(笑)。口が奢ってゆかないようにしてた事も今となれば懐かしい思い出だ。お祖父さまとはお花見をしながらシャンパンアフタヌーンティーをご一緒して。特等席でお能を観せて頂いて、行田さんのお店で春の味をご馳走になって。そして言われたのだ。
『…冥土の土産をありがとう…貴志の事を頼む…あれを幸せにしてやっておくれ』
と。
もう無理だと思ってた。
あの世でお祖父さまに再会出来たら土下座をしてでも謝ろうと。
でも……あの男性はアタシの幸福にこそ、必要不可欠な大切な人間なんだ。
貴志さんはもう離婚届を役所に提出して、とっくに受理されてるかも知れない。アタシと貴志さんの離婚は正式に成立してて、貴志さんにも何を今更って嘲笑われるだけかも知れない。だけど、ここで行動を起こさなければ、アタシは一生後悔する。
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