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三年目の新婚クライシス
No,256 五月闇 其の七 【貴志SIDE】
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俺が記憶を失って三日目の晩。
俺の帰宅を待ちうけていた“妻”である女性から意外な提案をされた。
偽名を呼ぶと。その方が良いだろうと。
「一条さん」
初めて彼女から呼ばれるその名前は、酷い違和感を伴って俺の耳に響いた。
河合と云う名の専属トレーナーの元、俺は朝のトレーニングを開始した。
聞けば、以前は確かに朝から一時間のメニューをこなしていたそうだ。けれど、ある日突然『次回からは特にメニューを設定しないで自由にやりたい。』と“俺”が言い出したそうだが、後に同棲を始めた事を知り納得したそうだ。『朝は奥さまとゆっくりなさっていたのでしょうね。』とからかい交じりに言われた時は無表情が鉄仮面になるかと思った。
身体が恐ろしく鈍っているのを感じた。加齢に寄るものもあるとは思うが、それにしたってトレーニングをさぼり過ぎだ。歳に関わらずに筋力は維持しようと努力すれば、いくらでも可能なのだから。思えば駅の階段から落ちたと云うのも情けない。咄嗟にどうにか出来なかったのかと苛立ちは増すばかりだ。それを言い出したら、この俺が『老人を助けた』と云う事からして信じられないのだが。考えても覚えてない事は仕方がない。俺は衰えた筋力を取り戻す為にも黙々と身体を動かした。
そしてすぐに気付かされた身体の変化。それは猛烈に感じる空腹感だ。やはり俺は、朝食をしっかり摂る習慣がついてしまってるようだった。夜も満足に眠れていないのだ。せめて食事だけはしっかり摂らなければ、最悪の場合は倒れてしまう。これ以上周りに迷惑は掛けられない。 ……だが、“妻”である女性に『朝食は必要ない』と大見得を切ってしまった手前、支度を頼む事は愚か、自分で用意して食べるのも気が引けた。仕方なく俺はSPの車の後部座席で朝食を摂るようになった。そこら辺の喫茶店でモーニングなど摂っていたら、下手な不和の噂を招きかねない。
自慢でも自惚れでもなく、俺はもてる。鬱陶しい程に女からの秋波が絶える事はない。幼い頃からそうだった。緋龍院学院の幼稚舎や初等部時代から俺をめぐる勝手な女たちの醜い諍いを見せられていれば、“女”と云う生物に幻想を抱く事もなくなろうと云うものだ。女は表面的なモノしか見ない。俺の面に惹かれるか、あるいは緋龍院家のブランドに魅かれるかのどちらかでしかない。そして高二の秋、母親の不義と、父親だと信じていた男性の死の真相を知らされた瞬間。俺の女性不信は決定的なものとなった。女に心底幻滅し、結婚願望は愚か、まともな恋愛感情などと云うものは一生持てないだろうと思った。己の身体に流れる血が酷く汚らわしかった。自分のDNAはこの世界に遺してはいけないと思った。それでも難儀なもので、性欲だけは正常な男子として一人前にあるとくる。“自分”と云う存在に心底嫌気がさし、我と我が身を滅したい欲望に駆られたが、何の縁も所縁もない筈の祖父からの態度や言葉に救われた。そして少しは前向きになれ、自分の源流を知りたいなどと云う希望を見出す事が出来るまでになったのだが。英国で俺を待っていたのは更なる絶望と、それを補って余りある幸運な出会いだった。
オックスフォードで声を掛けられた伯爵家の子息、ギルバート・バッカス。彼を通じて知る事が出来所属する事を許された【CLUB NPOE】と云う巨大な組織。ここで得た数々の出会いは生涯の宝だと胸を張って言える。人生の視野を広げ、人脈を築き、哲学的かつ形而上学的な議論を戦わせ、交流を深め広げてゆくのは何より楽しかった。そこで嗜んだ遊びの数々も人生を豊かにする彩りになってくれた。特にチェスは面白かった。代わりに囲碁や将棋を教えれば、頭の良い彼らはすぐにルールを飲み込み良い対戦相手になってくれた。
女との社交術もここで学んだ。見せかけの敬意を持って“淑女”として扱えば、女共はいくらでもこちらの都合の良い駒として動いてくれる。普段はあまり動かない表情筋を動かし、甘い台詞の一つでも囁けば簡単に犯れるのだ。殊に特権階級意識の強い傲慢な女に夢中になられるのは面白かった。普段はツンと澄ました表情を快楽に歪ませ、己に従わせるのは得も言われぬ快感だった。勿論避妊は怠らなかった。己の子など必要ない。妊娠でもされたと言われたら、迷わず『堕ろせ』と冷たく言い放てる自信があった。そしてある日、一つの可能性に気が付いた。先祖が近親相姦を繰り返した負の産物「無精子症」だ。緋龍院家でも一条家でも偶に出ると云う“劣等”の烙印を押される病。しかし、俺からすれば、この上ない希望であり福音であった。希みを掛けて検査を受けてみれば、俺は見事に賭けに勝つ事が出来た。神などと云う存在は信じてもいないが、福音を齎された事には“何か”に感謝を捧げたい気分になれた。以来、“女”とは俺にとって単なる性欲処理であり、あるいは支配欲を満たす道具であり、体のいい“駒”でしかなかった。
そんな俺が、自ら希んだ唯一の女性。
異常な程に執着し、あれ程嫌悪した“結婚”と云う手段を取っても手に入れたいと切望した“妻”。
『一条』と云う母方の姓は、『緋龍院』と云う権威を隠す良い隠れ蓑だった。俺は他人と仲良くなり、絆が深まる程に『一条』と呼ばれる事を好んだ。現に岩屋に呼ばれる時は『上井』などと云う訳の理解らない姓名で呼ばれるよりは、余程心地良く感じたものなのに。
なぜだろう?
上井真唯と云う妻。
この女性に呼ばれると、誤魔化し切れない胸の痛みを感じるのは。
……だが、耐えなければ。
彼女はこの俺の為に、わざわざ申し入れてくれたのだから。
上井真唯。
彼女は知れば知る程、俺の中の“女”と云う概念から外れてゆく女性だった。
あの御方のお気に入りなどと云う女性を興信所を使って調べる訳にもゆかなくて、久し振りに従弟と連絡を取って理由を話して訪ねてみれば。人懐っこい笑顔で他人の懐に潜り込み夢中にさせてしまう天性の人たらしでありながら、その複雑な生い立ち故に決して他人を信じる事のなかった男も何と結婚していた。そして“俺”の妻である彼女に酷く同情的だった。
「…そうか…あんなに愛してたお前に忘れられてるなんて…真唯ちゃんも相当キツいだろうなァ…」と。
耳を疑う台詞は聞き飽きたと思っていたのに、それでもやはり驚きは隠す事が出来ずに従弟の悲痛な表情を呆然と見る事しか出来なかった。そして次々と明かされてゆく彼女との事情、エピソードの数々にはもはや圧倒されるしかなかった。そして従弟の妻からも熱弁をふるわれた。いかに『真唯』と云う女性が誠実で、真摯に俺を愛しているかを。
更に気になる事を言われた。
「…真唯さん、大丈夫かしら…ちゃんとご飯食べてるかしら…」
と。
彼女とはあれ以来、滅多に顔を合わせる事は無かった。
いや、正直なところを言えば、俺の方から避けていたのだが。
そんな事を言われれば気にもなってしまう。
とは言え、そんなに深刻に心配してなかった事も確かだ。
なにしろ、あの食道楽振りなのだ。
例え何があろうとも、彼女の食が細くなるとは思えなかった。
事実、東北を中心に起こったと云う震災の折にも、彼女は元気に動き回っていたのだから。その際の活躍振りは、ブログで詳細に知っているからこそ、俺の中の女性の概念を打ち破る要因になってくれてもいたのだが。
とにかく、あの御方の御名刺を頂戴した女性に万が一の事があってはならないと、俺は翌日彼女の様子をSPから聞く事にしたのだが。どうしてもっと早く気付かなかったのかと己を責める事となるのであった。
一週間以上外出はしていないと聞いた時は、それ程事態を深刻に受け止めてはいなかった。塞ぎがちになれば、外出を控える事もあるだろう、と。だが、スーパーやコンビニにさえ行く事がないと云う点が気になった。彼女のSP主任の話によれば、以前は自身で必ず買い物に行き節約主婦の見本のような真似をしていたと言うのだから。良家のお嬢様が行かないのとは訳が違う。“影”もSPも口を揃えて言う。彼女は“普通の女性”だと。一般家庭で育ち、普通のOLをしていた女性はフラリと夜中にコンビニに行く図も珍しくはない。夜は家政婦が買い物をしてくるから良いとして、朝昼はどうしているのだろうか。朝食はしっかり摂るように力説していた彼女が朝昼を抜いてるとは考え難いのだが。通常の紹介所ではなく、【CLUB NPOE】の人脈を通じて雇ったと云う山田君枝と云う年配の女性に連絡をして話しを聴いてみれば『…はい、確かにメッキリ食欲が落ちてしまって…おかずも残してしまわれます…事情が事情ですから、私も心配はしていたのですが…』などと言われてしまう始末だ。
『…真唯さん、大丈夫かしら…ちゃんとご飯食べてるかしら…』
……まさか…そんな……
帰宅したその日の夜、冷凍庫と冷蔵庫の中を確認して、ゴミ箱を漁ってみれば綺麗なものだった。
だが、しかし。これは綺麗過ぎる。
これではまるで、人が暮らしていない部屋のようだ。
ゾクリと背筋を寒気が走った。
山田と云う家政婦の話しでは、明日の昼に食べるようにと冷凍した飯と夕飯の残り物がある筈なのだから。
緊急招集を掛けた彼女のSP主任である瀬尾の、俺からの話しを聴いた後の行動は素早かった。このマンションの警備部を何と言って誤魔化したのか、それは知らない。【緋龍院警備保障】が直轄するマンションであった事も幸いしたかも知れない。俺の最上階の部屋の廊下の防犯カメラの映像を入手してくれたが、そのチェックには俺も自ら加わった。そしてすぐに見つけてしまった。彼女が家政婦が帰った後部屋を出る様子と、ダストシュートにゴミを捨てている場面を。カメラが設置されていた場所も幸いした。部屋の出入とダストシュートのチェックは重要だ。いくら専用カードキーがないと動かないエレベーターを使うフロアーとは云え、賊はどこから侵入するか知れたものではないのだし、ダストシュートは最悪の場合には脱出経路に成りかねないのだから。念の為にと日にちを遡ってみれば、それは正しく俺が記憶を失った直後からだった。ダストシュートの前で合掌して小さく頭を下げる姿をSPたちと共に声もなく見つめてしまった。女性SPの小さな嗚咽が聴こえたが、それを慰める事の出来る者は存在しなかった。
信じられない。
信じたくはない。
あんなに“食”を愛していた筈の女性の姿を。
だが、スマホと同じで、防犯カメラは嘘を吐けない。
映し出す映像は真実なのだ。
―――この瞬間。
己の事しか考えていなかった自分を、俺は猛烈に恥じたのだった。
俺の帰宅を待ちうけていた“妻”である女性から意外な提案をされた。
偽名を呼ぶと。その方が良いだろうと。
「一条さん」
初めて彼女から呼ばれるその名前は、酷い違和感を伴って俺の耳に響いた。
河合と云う名の専属トレーナーの元、俺は朝のトレーニングを開始した。
聞けば、以前は確かに朝から一時間のメニューをこなしていたそうだ。けれど、ある日突然『次回からは特にメニューを設定しないで自由にやりたい。』と“俺”が言い出したそうだが、後に同棲を始めた事を知り納得したそうだ。『朝は奥さまとゆっくりなさっていたのでしょうね。』とからかい交じりに言われた時は無表情が鉄仮面になるかと思った。
身体が恐ろしく鈍っているのを感じた。加齢に寄るものもあるとは思うが、それにしたってトレーニングをさぼり過ぎだ。歳に関わらずに筋力は維持しようと努力すれば、いくらでも可能なのだから。思えば駅の階段から落ちたと云うのも情けない。咄嗟にどうにか出来なかったのかと苛立ちは増すばかりだ。それを言い出したら、この俺が『老人を助けた』と云う事からして信じられないのだが。考えても覚えてない事は仕方がない。俺は衰えた筋力を取り戻す為にも黙々と身体を動かした。
そしてすぐに気付かされた身体の変化。それは猛烈に感じる空腹感だ。やはり俺は、朝食をしっかり摂る習慣がついてしまってるようだった。夜も満足に眠れていないのだ。せめて食事だけはしっかり摂らなければ、最悪の場合は倒れてしまう。これ以上周りに迷惑は掛けられない。 ……だが、“妻”である女性に『朝食は必要ない』と大見得を切ってしまった手前、支度を頼む事は愚か、自分で用意して食べるのも気が引けた。仕方なく俺はSPの車の後部座席で朝食を摂るようになった。そこら辺の喫茶店でモーニングなど摂っていたら、下手な不和の噂を招きかねない。
自慢でも自惚れでもなく、俺はもてる。鬱陶しい程に女からの秋波が絶える事はない。幼い頃からそうだった。緋龍院学院の幼稚舎や初等部時代から俺をめぐる勝手な女たちの醜い諍いを見せられていれば、“女”と云う生物に幻想を抱く事もなくなろうと云うものだ。女は表面的なモノしか見ない。俺の面に惹かれるか、あるいは緋龍院家のブランドに魅かれるかのどちらかでしかない。そして高二の秋、母親の不義と、父親だと信じていた男性の死の真相を知らされた瞬間。俺の女性不信は決定的なものとなった。女に心底幻滅し、結婚願望は愚か、まともな恋愛感情などと云うものは一生持てないだろうと思った。己の身体に流れる血が酷く汚らわしかった。自分のDNAはこの世界に遺してはいけないと思った。それでも難儀なもので、性欲だけは正常な男子として一人前にあるとくる。“自分”と云う存在に心底嫌気がさし、我と我が身を滅したい欲望に駆られたが、何の縁も所縁もない筈の祖父からの態度や言葉に救われた。そして少しは前向きになれ、自分の源流を知りたいなどと云う希望を見出す事が出来るまでになったのだが。英国で俺を待っていたのは更なる絶望と、それを補って余りある幸運な出会いだった。
オックスフォードで声を掛けられた伯爵家の子息、ギルバート・バッカス。彼を通じて知る事が出来所属する事を許された【CLUB NPOE】と云う巨大な組織。ここで得た数々の出会いは生涯の宝だと胸を張って言える。人生の視野を広げ、人脈を築き、哲学的かつ形而上学的な議論を戦わせ、交流を深め広げてゆくのは何より楽しかった。そこで嗜んだ遊びの数々も人生を豊かにする彩りになってくれた。特にチェスは面白かった。代わりに囲碁や将棋を教えれば、頭の良い彼らはすぐにルールを飲み込み良い対戦相手になってくれた。
女との社交術もここで学んだ。見せかけの敬意を持って“淑女”として扱えば、女共はいくらでもこちらの都合の良い駒として動いてくれる。普段はあまり動かない表情筋を動かし、甘い台詞の一つでも囁けば簡単に犯れるのだ。殊に特権階級意識の強い傲慢な女に夢中になられるのは面白かった。普段はツンと澄ました表情を快楽に歪ませ、己に従わせるのは得も言われぬ快感だった。勿論避妊は怠らなかった。己の子など必要ない。妊娠でもされたと言われたら、迷わず『堕ろせ』と冷たく言い放てる自信があった。そしてある日、一つの可能性に気が付いた。先祖が近親相姦を繰り返した負の産物「無精子症」だ。緋龍院家でも一条家でも偶に出ると云う“劣等”の烙印を押される病。しかし、俺からすれば、この上ない希望であり福音であった。希みを掛けて検査を受けてみれば、俺は見事に賭けに勝つ事が出来た。神などと云う存在は信じてもいないが、福音を齎された事には“何か”に感謝を捧げたい気分になれた。以来、“女”とは俺にとって単なる性欲処理であり、あるいは支配欲を満たす道具であり、体のいい“駒”でしかなかった。
そんな俺が、自ら希んだ唯一の女性。
異常な程に執着し、あれ程嫌悪した“結婚”と云う手段を取っても手に入れたいと切望した“妻”。
『一条』と云う母方の姓は、『緋龍院』と云う権威を隠す良い隠れ蓑だった。俺は他人と仲良くなり、絆が深まる程に『一条』と呼ばれる事を好んだ。現に岩屋に呼ばれる時は『上井』などと云う訳の理解らない姓名で呼ばれるよりは、余程心地良く感じたものなのに。
なぜだろう?
上井真唯と云う妻。
この女性に呼ばれると、誤魔化し切れない胸の痛みを感じるのは。
……だが、耐えなければ。
彼女はこの俺の為に、わざわざ申し入れてくれたのだから。
上井真唯。
彼女は知れば知る程、俺の中の“女”と云う概念から外れてゆく女性だった。
あの御方のお気に入りなどと云う女性を興信所を使って調べる訳にもゆかなくて、久し振りに従弟と連絡を取って理由を話して訪ねてみれば。人懐っこい笑顔で他人の懐に潜り込み夢中にさせてしまう天性の人たらしでありながら、その複雑な生い立ち故に決して他人を信じる事のなかった男も何と結婚していた。そして“俺”の妻である彼女に酷く同情的だった。
「…そうか…あんなに愛してたお前に忘れられてるなんて…真唯ちゃんも相当キツいだろうなァ…」と。
耳を疑う台詞は聞き飽きたと思っていたのに、それでもやはり驚きは隠す事が出来ずに従弟の悲痛な表情を呆然と見る事しか出来なかった。そして次々と明かされてゆく彼女との事情、エピソードの数々にはもはや圧倒されるしかなかった。そして従弟の妻からも熱弁をふるわれた。いかに『真唯』と云う女性が誠実で、真摯に俺を愛しているかを。
更に気になる事を言われた。
「…真唯さん、大丈夫かしら…ちゃんとご飯食べてるかしら…」
と。
彼女とはあれ以来、滅多に顔を合わせる事は無かった。
いや、正直なところを言えば、俺の方から避けていたのだが。
そんな事を言われれば気にもなってしまう。
とは言え、そんなに深刻に心配してなかった事も確かだ。
なにしろ、あの食道楽振りなのだ。
例え何があろうとも、彼女の食が細くなるとは思えなかった。
事実、東北を中心に起こったと云う震災の折にも、彼女は元気に動き回っていたのだから。その際の活躍振りは、ブログで詳細に知っているからこそ、俺の中の女性の概念を打ち破る要因になってくれてもいたのだが。
とにかく、あの御方の御名刺を頂戴した女性に万が一の事があってはならないと、俺は翌日彼女の様子をSPから聞く事にしたのだが。どうしてもっと早く気付かなかったのかと己を責める事となるのであった。
一週間以上外出はしていないと聞いた時は、それ程事態を深刻に受け止めてはいなかった。塞ぎがちになれば、外出を控える事もあるだろう、と。だが、スーパーやコンビニにさえ行く事がないと云う点が気になった。彼女のSP主任の話によれば、以前は自身で必ず買い物に行き節約主婦の見本のような真似をしていたと言うのだから。良家のお嬢様が行かないのとは訳が違う。“影”もSPも口を揃えて言う。彼女は“普通の女性”だと。一般家庭で育ち、普通のOLをしていた女性はフラリと夜中にコンビニに行く図も珍しくはない。夜は家政婦が買い物をしてくるから良いとして、朝昼はどうしているのだろうか。朝食はしっかり摂るように力説していた彼女が朝昼を抜いてるとは考え難いのだが。通常の紹介所ではなく、【CLUB NPOE】の人脈を通じて雇ったと云う山田君枝と云う年配の女性に連絡をして話しを聴いてみれば『…はい、確かにメッキリ食欲が落ちてしまって…おかずも残してしまわれます…事情が事情ですから、私も心配はしていたのですが…』などと言われてしまう始末だ。
『…真唯さん、大丈夫かしら…ちゃんとご飯食べてるかしら…』
……まさか…そんな……
帰宅したその日の夜、冷凍庫と冷蔵庫の中を確認して、ゴミ箱を漁ってみれば綺麗なものだった。
だが、しかし。これは綺麗過ぎる。
これではまるで、人が暮らしていない部屋のようだ。
ゾクリと背筋を寒気が走った。
山田と云う家政婦の話しでは、明日の昼に食べるようにと冷凍した飯と夕飯の残り物がある筈なのだから。
緊急招集を掛けた彼女のSP主任である瀬尾の、俺からの話しを聴いた後の行動は素早かった。このマンションの警備部を何と言って誤魔化したのか、それは知らない。【緋龍院警備保障】が直轄するマンションであった事も幸いしたかも知れない。俺の最上階の部屋の廊下の防犯カメラの映像を入手してくれたが、そのチェックには俺も自ら加わった。そしてすぐに見つけてしまった。彼女が家政婦が帰った後部屋を出る様子と、ダストシュートにゴミを捨てている場面を。カメラが設置されていた場所も幸いした。部屋の出入とダストシュートのチェックは重要だ。いくら専用カードキーがないと動かないエレベーターを使うフロアーとは云え、賊はどこから侵入するか知れたものではないのだし、ダストシュートは最悪の場合には脱出経路に成りかねないのだから。念の為にと日にちを遡ってみれば、それは正しく俺が記憶を失った直後からだった。ダストシュートの前で合掌して小さく頭を下げる姿をSPたちと共に声もなく見つめてしまった。女性SPの小さな嗚咽が聴こえたが、それを慰める事の出来る者は存在しなかった。
信じられない。
信じたくはない。
あんなに“食”を愛していた筈の女性の姿を。
だが、スマホと同じで、防犯カメラは嘘を吐けない。
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