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三年目の新婚クライシス
No,244 夢見草の魅せる夢
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アタシは世間一般で云う「花見」と云うものが好きではない。
花を見るとはただのお題目であり、要はお酒が飲みたいだけの宴会だ。ただの宴会ならばまだ良い。中には何を勘違いしているのか、それとも野外と云う事で開放的になるのか、普段ならしないような悪ふざけまでやらかす輩まで出て来る始末である。
花見とは古来、貴族が梅を観賞した事から始まったとされる風趣に富んだ遊び事だったのだ。それが歳を経て時代が下って江戸時代には、武士も町民もこぞって“花見”と称して桜の下で宴会をするようになっていった。娯楽の少なかった時代ならまだ理解る。日本の四季それぞれの花や風情を楽しむ、ゆかしい風習だ。だが、娯楽が溢れている現代において、ただのドンチャン騒ぎと化してしまっている事が嘆かわしい。遥か昔の上野公園でのKY商事の狂乱を思い出し頭痛を感じるが、イヤな事は早く忘れてしまいたい。眼前に広がる桜景色に見入り、フルートグラスに注がれたシャンパンを一口含み。陶然となってしまう。
平日の午後。アタシは浜離宮にやって来ていた。正式名称・浜離宮恩賜庭園。元は甲府藩の下屋敷の庭園であったが、将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開園された。文字通り、お上から下々の者へと賜った公園なのである。春の柔らかな日差しが降り注ぐ中、御門付近の染井吉野が満開で、湖入の池辺りの八重桜はちらほらと咲き始め、鬱金桜などの珍しい品種はまだまだこれからだ。ここは良い。純粋に桜の花を観賞する人々が集う。真昼間だから当然だが、酔漢など一人もいない。カップルや親子連れ。そして、アタシ同様、“おひとりさま”を楽しむ男女がスマホやデジカメ、中には本格的な一眼レフカメラを抱え、春爛漫の華を楽しんでいる。厳密に言えばアタシはもう既に伴侶がいる身であるが、待ち人がやって来るまではこのゆったりとした時間を束の間の独身気分で楽しみたい。ひととおり園内を歩いたアタシはもう一つのお楽しみ、ホテル【コンラッド東京】にやって来た。春限定の「桜のシャンパン・アフタヌーンティー」フェアが開催されているからである。自慢ではないが、アタシは【コンラッド東京】の上客だ。ホテルマンたちに顔を覚えられている。ラウンジやレストランを利用しているし、お泊りも何回かしているから。ロビーラウンジ【トゥエンティエイト】の入口に立てば、スタッフが心得た様に眺めの良い席に案内してくれる。その名の通り28Fに在るこのラウンジからは東京湾の素晴らしい眺望と共に浜離宮が一望のもとに見渡せ、天気が良いせいかレインボーブリッジに、特徴的なテレビ局やお台場のホテルまで見える。しばし、その景色に見惚れ。ほどなくしてオーダーした物が運ばれて来るが、それを見た瞬間にホウッと感嘆のため息を吐きたくなってしまう。
『CONRAD』と透かしの入った透明な階段トレーに飾られた、桜色の競演。
二種類のスコーンを中心に扇状にフィンガーフードが彩り良く並べられているのだが、春や桜を意識して作られたのだろうスイーツたちは食べるのが勿体ないほど美しく可愛い。サーヴされたシャンパンは、モエ・エ・シャンドンだった。これが飲み放題だと云うのだから、今回のコースはお得である(それなりに値段が張るのは仕方が無い/苦笑)。アタシがブログをやっている事を薄々感付いているらしいスタッフは気を利かせてか「ボトルも撮影なさいますか?」と聞いてくれる。「ありがとうございます。お願いします。」とお言葉に甘えて、ボトルとシャンパングラス、ラベルのアップをデジカメにおさめさせて頂いて。丁寧にお礼を言うと、「とんでもございません。ごゆっくりお過ごし下さいませ。」と一礼して、ボトルを手に去ってゆく。華やかなアフタヌーンティーのセットを、納得のいくアングルで撮れるまで撮って。「頂きます」合掌して、手をつけ始めた。ゆっくりじっくり味わおう。……これが、最後のコンラッドでのティータイムになるのだから。
立ち昇る泡にうっとり見入り。グラスに口をつけると、芳醇な芳香が鼻腔を擽り、これからの午後のひと時の期待感を膨らませてくれる。シャンパンで口を湿らせ、先ずはスコーンに手を伸ばした。クロテッドクリームと桜ジャムで、サクッとした食感としっとりした柔らかさを味わう。思わずにっこりと顔が綻ぶ。 ……次はどれにしようか、迷い悩む時間も楽しい。桜の花びらが散らされたプチケーキで口福を味わい。眼下に見降ろせる桜の花々に見惚れ……シャンパンを味わう。
……これが、上井真唯の“花見”である。
何杯目かのシャンパンをお代わりして、クラッカーに乗せられたスモークサーモンとキャビアのハーモニーを楽しんでいる時だった。ザワリと空気が揺れたのは。見れば思った通りの姿が入口から入って来るところで、足早に飛んで来たのは恐らくここの支配人だろう。アタシの待ち合わせの相手は視線一つで挨拶をしようとしていた男性を黙らせていた。『構うな。』と言外の意を込めて。そして真っ直ぐこのテーブルに杖をつきながらゆっくりとやって来る。アタシは立ち上がって迎えた。
「久し振りだな…元気だったかな…?」
「こんにちは、お久し振りです。今日はありがとうございます。お手柔らかにお願いします、お祖父さま。」
「ウォッホッホッ! 念願の真唯ちゃんとのデートだから、楽しみだのう。」
※ ※ ※
……そうなのだ。
本日は何を隠そう、泣く子も黙る天下の緋龍院グループの実質上の支配者である、緋龍院京司お祖父さまと“デート”なのだ。 ……血迷ってません…本気です……。仕方がないじゃありませんか。お祖父さまに『…二年も過ぎてしまって今更で申し訳ありませんが、百寿のお祝いをさせて頂きたいんです。 …何か欲しい物はございませんか…?』とお尋ねしたら、よりにもよって『…そうじゃのう…一回で良いから、真唯ちゃんとデートをしてみたいのう…ああ、勿論、貴志は抜きでな…』とのご要望があったのだから。
はい、正直に申し上げます。
―――完全なる、現実逃避してました。
ハラハラと舞い落ちる桜の花びらを見ては、先日の夢を思い出し。
気もそぞろで、とてもではありませんが、いつもの様に純粋に楽しめません。
コンラッドでのアフタヌーン・ティーについては、これが最後だと思えば悔いの残らない様に心頭を滅却して楽しまさせて頂きました。日本語、おかしい? 放っとけ(自棄笑)。 ……ああ、ソムリエさん…お祖父さまにシャンパンをサーヴする手が少し震えてますよ……お気持ちは痛いほど理解ります……
「…おお…公園の桜が美しいのお…」
「…ええ…ここは浜離宮の桜の絶景ポイントなんです…」
「…昔を思い出すのお…」
「…お祖父さまも、浜離宮に行かれた事があるんですか…?」
「…勿論じゃよ…あそこをお気に入りの宮さまがいらしての…よく連れ回されたもんじゃ…」
「………………………」 ……お祖父さま……もしかして、GHQの命令でここが公園になる前のお話しですか……ってか、普通に皇族とお付き合いされてたんですか……(遠い目)。
「…多少の植え替えはあるが、桜だけは昔と変わらんなあ…」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「…お祖父さま…桜とシャンパン、少しは楽しんで頂いてますか…?」
「…おお、勿論じゃとも…モエのシャンパンは儂も大好物での…」
「…貴志さんにモエの里に連れて行ってもらった時に、お祖父さまにお土産買って来て差し上げれば良かったですね…」
「……そんな事を普通に儂に言ってくれるのは…真唯ちゃんぐらいなもんじゃな……」
「………………………」 ……お祖父さま…コングロマリットの長老なんて、実は案外寂しいものなのかも知れない……
「………………………」
それからアタシとお祖父さまは、ただ無言で過ごしたが。
今日の“デート”が決定した瞬間から感じていた息詰まる様な緊張感も、最初に感じた存在感の巨きさから感じてしまう威圧感も。いつの間にか綺麗に消えてしまっていた事に気付いたのは。「…御前…失礼ですが、そろそろお時間です…」と、お祖父さまのSPさんが知らせてくれた時だった。
次の目的地は、千駄ヶ谷にある【国立能楽堂】である。都内に能楽堂はいくつか存在するが歌舞伎座が歌舞伎のメッカである様に、国立能楽堂はその歴史と規模から能・狂言の殿堂とされる。アタシは何回かお能や狂言を観に来た事があるのだが、どう頑張っても脇正面の後方の席しか取る事が出来なかったのだ。こう云うものには当然の如く固定ファンが数多くいてFC(?)の様なものが存在して、良い席は全てその方々にキープされてしまうのだ。だから、諦めていたのだが。それが正面の席の真ン前で見られるなんて大感激だ!! ちなみに本日のアタシの装いは黒地に桜柄のお着物ワンピである。例によって優里ちゃんに見立ててもらったのだが、桜花とその花を咲かせて下さる木花開耶姫さまに敬意を表したかった。それと同時にお祖父さまに恥をかかせない為でもある。お祖父さまは渋いお着物をお召しだが生憎アタシに教養がないので、明らかに高級品と理解る着物がしかしどんなものであるかは理解らない。けれどお祖父さまに馴染んでキリッとキマって見える。水戸の御老公さまが現代に生きていたら、このような格好をしてらっしゃるに違いない。周りに座っていらっしゃるのは、お年を召した方ばかりだ。お着物なんぞも当たり前にお召しになっている。歌舞伎座とは似て非なる空間だ。遮る物のない視界に、正面の重厚な松の枝振りを捉えて。アタシは心地好い緊張の中、静かに開演の瞬間を待った。ドキドキと高鳴る胸の鼓動を堪えて。
※ ※ ※
「すっごく素敵な舞台でした! お能がストーリー性のある舞台劇だと云う事は知ってた心算なんですが…精神性の高さが本当に素晴らしかったですっ!!」
アタシはさっきから大興奮である。
本日の演目は【嵐山】であった。
時の帝に仕える家臣が、大和国吉野から都の西の嵐山に移植した桜の様子を見てくるようにとの勅命を受け。勅使として嵐山にやって来た家臣は美しく咲き誇る桜と、花守の老人夫婦と出会うのだが……
「木守明神の凛々しく若々しい男神振り! 勝手明神のたおやかな女神の美しさ! そして、荒々しくも力強い蔵王権現の舞いの何もかもが凄くって…嗚呼ァ…言葉に出来る自信がないです…っ!!」
「…そう言う割には、嬉しそうじゃな…そこまで喜んでもらえれば、わざわざ引っ張り出した甲斐があるわい。」
「あんなに凄い席でお能を楽しめるなんて…お祖父さまのお陰です…っ」
「ウォッホッホッ! 貴志に恨まれそうじゃな。」
お祖父さまとそんな会話をしているところへ「お待たせ致しました。」と、着物を粋に着こなした女将さんのような女性が持って来て下さったのは、お祖父さまが注文した“おまかせ”の一品料理だった。
「…うわァ…綺麗…」
思わず声が漏れてしまう。
それは、黒塗りの箱の中に閉じ込められた宝石箱の様なお弁当だった。
鯛の鹿の子造り、烏賊、鮪のお造り。海老の旨煮、鮑の焼白子酢、唐墨、真名鰹のつけ焼きなどの八寸。筍などの焚合わせに、錦糸玉子を散らした彩り鮮やかなお寿司。まるで“春”を凝縮したような逸品だった。
「…なんか、食べるのが勿体ないみたい…」
「何を言っておる。折角作った板前の行田が泣いてしまうぞ。」
「…ここのご主人は、行田さんとおっしゃるんですか…?」
「ああ、そうじゃ。」
「…では、その行田さんに感謝して…頂きます。」
合掌して、眼の前のお祖父さまに一礼して、アタシは箸をつけたけど。
合掌するアタシに注がれるお祖父さまの柔らかな眼差しに気付く事はなかった。
お能が終わった後、どこに連れて行かれるのかとドキドキしていたアタシは、かなり昔に恋人になるずっと以前に貴志さんに連れて来て頂いた事のあるお店に不審を抱く。座席は20にも満たない古民家風の小さなお店だ。それでもさり気なく飾られた店内の生け花や陶器や掛け軸なんかがすごく上品だ。ライトアップされた瀟洒な庭は手入れが行き届いていて、落ち着いた佇まいなのだ。 ……貴志さんだけなら不審には思わなかった……しかし今日の相手は、緋龍院のお祖父さまなのだ……なまじな処に連れて来られる筈がない……。食べ終わった後、聞いて後悔した。何と政財界の要人のみが知る看板の出ていない隠れた名店で、格式ある名料亭の板場を長い間任されていた板長さんが後進に道を譲って引退した後、こっそりと趣味で開いた完全予約制の店なのだと言う。
……何たる事だ…っ、…鎌倉の神村さんみたいなトコじゃないか…貴志さんめ…帰ったら、とっちめて殺る……っ!!
食前に聞いてなくてつくづく良かったと思いながら購入したパンフを開く。
【嵐山】は、満開の桜に華やぐ京都は嵐山を舞台とした、春の能である。
日本人が古来より抱いてきた、“桜の樹には神々が宿る”と云う想いを体現したかの様な能だ。 ……鎌倉でも、そして今回も……“春”そのものを瞳で見て、舌でも味わってる……こいつァは、春から縁起が良いわへ♪
中入りの間狂言の【猿聟】も、実に面白かった。
吉野の猿が、嵐山の猿の処へ聟入りすると云うストーリーなのだが、猿の格好をした狂言師が「キャキャ」「キャッキャッ」「キャアキャア」などの“猿語”でしか話せないため、真面目に演れば演るほど笑えるのだ。おめでたい宴席の狂言なので、観ている間お酒が欲しくなって困ってしまった(苦笑)。今飲んでいるのはお祖父さまが注文して下さった【菊理媛】と云う何とも神々しい有り難い御名の日本酒だ。……美味しい…とても、美味しいのだが……生憎、白山信仰に浪漫を感じないアタシは、こんな時は気分的には【コノハナサクヤヒメ】が飲みたくなってしまうのだが……
などと、高級そうなお酒を頂きながらもちょっと安めのお酒を恋しく思ってたら、お祖父さまからお声が掛かった。
「…で…?」
「…は…?」
「…とぼけんでも良いわい…急に儂に会いたいなどと…何か用があったのだろう…?」
「………………………」 ……やっぱり…理解っちゃいますよね……
「…真唯ちゃんの事じゃから、他の輩の様に昇進の根回しとか、何かのおねだりだとは思わんが…」
「……ただ単に、お祖父さまにお会いしたかったからだとは…思っては頂けないんでしょうか…?」
「………………………」
バッグの中から出した物をテーブルの上に置く。丁寧にラッピングされて、リボンが掛けられている物はひと目で贈り物だと理解るだろう。それを黙ってしまわれたお祖父さまに向けて差し出した。けれど、お祖父さまは手を出そうとはされず、それを眺めるだけだ。
「………………………」
「…安物で申し訳ないのですが、ガマ口型の眼鏡ケースです…老眼鏡入れに使って頂けると嬉しいんですが…」
「………………………」
「…今月、貴志さんと鎌倉に行った時に、和雑貨のお店で購入したんです…」
「………………………」
「…お祖父さまに喜んで頂ける物が思い浮かばなくて…いっそ『肩たたき券』でも作ろうかと思ったんですが…」
「…『肩たたき券』か…真唯ちゃんからなら貰ってみたかったのう…」
「…お祖父さま…」
「…すまんかったのう、真唯ちゃん…この歳になると、ついつい人の裏を勘ぐってしまう…いや、歳のせいばかりではないがの…」
そう言うと、お祖父さまはやっとプレゼントに手を伸ばして下さった。「…開けてもいいかの…?」「勿論です!」優しい手つきで包みを開けたお祖父さまは中を見ると皺だらけの顔をにっこりと微笑ませ。「…ありがとう…本当に、ありがとう…」と繰り返しおっしゃって下さった。
例え、アタシが何かを隠している事を、薄々理解ってはいても。
―――言えない。
まさか、お祖父さまが亡くなる夢をみたなんて―――
それはただただ静かな夢だった。
立派な桜の樹の下に一人の老人が立っていたのだ。
最初、アタシはその男性が誰だか理解らなかった。
ただ、とても……慕わしい人物だとしか。
随分昔に亡くなったお祖父ちゃんかとも思った。
けれど、懐かしく感じられないから、違うと理解った。
そして、その正体が緋龍院のお祖父さまだと気付いた瞬間。
夢の中でのアタシはハッキリと理解ったのだ。
その男性が、既にこの世の人間ではないと―――
それに気付いた時。
お祖父さまはアタシを振り向き。
微笑ったのだ。
桜が舞い散る中、その微笑みはひどく静謐だった。
胸が痛くなる程。
お祖父さまに駆け寄りたいのに、足が動かない。
声を掛けたいのに、喉がひりついた様に声が出てくれない。
焦っている内に、急に一陣の風が吹き。
桜の花びらが花吹雪となり、アタシに襲い掛かって来た。
咄嗟に両腕で顔を庇い。
気が付くと、お祖父さまの姿は消えていたのだった。
眼が覚めた時。
アタシは泣いていた。
どうしても涙が止まらなかった。
偶々、休日出勤の代休に休めた貴志さんが、運良く早朝からトレーニングルームに行っててくれてホントに助かった。見咎められたら、誤魔化せる自信がなかったから。 ……この感情の揺れを……緋龍院のお祖父さまの寿命がもう長くはないかも知れない……そんな根拠のない確信を。
お祖父さまは、孤独の中で独りで苦しんでた貴志さんの、緋龍院家で味方になって下さった唯一の方だと聞いている。何かお礼がしたかった。何か親孝行の真似事をしたかった。アタシと貴志さんの“両親運”は超絶に悪い。アタシは牧野の両親と和解したとは云え、わだかまりが完全に消えた訳ではない。アタシは出来る事なら“親孝行”ではなく、“お祖母ちゃん孝行”したかった。幼い頃、両親から精神的虐待を受けてた時、唯一の精神の拠り所となってくれたお祖母ちゃんに、もっともっと恩返ししたかった。
だから。このまま手をこまねいて何もせずに後悔したくなかった。
けれど相手は、天下の緋龍院京司老だ。
幸い結婚した翌年に紹介された時、プライベートな連絡先を頂いてはいたが、簡単に事は運ばないだろう。などと思ってたら、呆気ないほど簡単に連絡がとれて却って慌てた。そして咄嗟に出てしまった言い訳が『百寿のお祝い』だったのだから、我ながら苦しい言い訳だったとは思う。しかも、何とか貴志さんの都合をつけてもらおうと思ってたら、伺ったお祖父さまのご希望が『貴志さん抜きのアタシとのデート』だったのだ。普通にお茶をして観劇をしたいと云うから頭を抱えた。貴志さんにお伺いを立てたら『お祖父さまのご希望を叶えて差し上げて下さい。』とにっこり笑顔で言われて後には引けなくなってしまった。そしてお祖父さまと相談し合って決まったプランが本日のコースだったのである。
夕飯はお祖父さまにお任せするのはまだ良い。お能もお祖父さまの趣味を考えれば頷けるし、脇正面でしか観た事がないのに正面の最前列だと云うのも、アタシにすれば願ったり叶ったりだ。
けれど、普通にお茶とのご希望には、頭痛が痛くなる気分だった。自慢ではないが、アタシは都内なら穴場のカフェや大抵のホテル事情は網羅している。お祖父さまとだったら、どんな超高級なお店やホテルに行ったって、おかしくはないだろう。けれど、あの緋龍院グループの支配者と行くには、あまりにもアタシにリスクが大き過ぎる。アタシは今後そのお店に足を運び難くなるだろう。緋龍院の関係者だと知られ腫れ物に触る様な扱いは真っ平だ。お祖父さまに楽しんで頂ける事を最優先に、そしてアタシの今後の事を鑑みて一番無難な選択をした。時節を楽しんで頂ける“お茶”を提案したのだ。
……どこでも視線が痛かったけどね…っ、…阿る様なねっとりとした視線に辟易したけどね…っ!!
いいもん! 今後、コンラッド東京にも国立能楽堂にも行かないもん!! 帝都ホテルの方が好きだし、セルリアンタワーでだってお能は演ってるもんね!!!
そんな屈託を抱えながらもお付き合いした甲斐あってか、お祖父さまには殊の外喜んで頂けたみたいで。帰りの車の中では後部座席で二人で並んで座って、ずっと手を握られてて。けど、降りる瞬間、アタシを見つめる優しい瞳と言われた言葉に呼吸が止まった。
「…冥土の土産をありがとう…貴志の事を頼む…あれを幸せにしてやっておくれ」
と。
―――そして。
それが、アタシが緋龍院のお祖父さまと交わした、最期の言葉となったのであった。
花を見るとはただのお題目であり、要はお酒が飲みたいだけの宴会だ。ただの宴会ならばまだ良い。中には何を勘違いしているのか、それとも野外と云う事で開放的になるのか、普段ならしないような悪ふざけまでやらかす輩まで出て来る始末である。
花見とは古来、貴族が梅を観賞した事から始まったとされる風趣に富んだ遊び事だったのだ。それが歳を経て時代が下って江戸時代には、武士も町民もこぞって“花見”と称して桜の下で宴会をするようになっていった。娯楽の少なかった時代ならまだ理解る。日本の四季それぞれの花や風情を楽しむ、ゆかしい風習だ。だが、娯楽が溢れている現代において、ただのドンチャン騒ぎと化してしまっている事が嘆かわしい。遥か昔の上野公園でのKY商事の狂乱を思い出し頭痛を感じるが、イヤな事は早く忘れてしまいたい。眼前に広がる桜景色に見入り、フルートグラスに注がれたシャンパンを一口含み。陶然となってしまう。
平日の午後。アタシは浜離宮にやって来ていた。正式名称・浜離宮恩賜庭園。元は甲府藩の下屋敷の庭園であったが、将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開園された。文字通り、お上から下々の者へと賜った公園なのである。春の柔らかな日差しが降り注ぐ中、御門付近の染井吉野が満開で、湖入の池辺りの八重桜はちらほらと咲き始め、鬱金桜などの珍しい品種はまだまだこれからだ。ここは良い。純粋に桜の花を観賞する人々が集う。真昼間だから当然だが、酔漢など一人もいない。カップルや親子連れ。そして、アタシ同様、“おひとりさま”を楽しむ男女がスマホやデジカメ、中には本格的な一眼レフカメラを抱え、春爛漫の華を楽しんでいる。厳密に言えばアタシはもう既に伴侶がいる身であるが、待ち人がやって来るまではこのゆったりとした時間を束の間の独身気分で楽しみたい。ひととおり園内を歩いたアタシはもう一つのお楽しみ、ホテル【コンラッド東京】にやって来た。春限定の「桜のシャンパン・アフタヌーンティー」フェアが開催されているからである。自慢ではないが、アタシは【コンラッド東京】の上客だ。ホテルマンたちに顔を覚えられている。ラウンジやレストランを利用しているし、お泊りも何回かしているから。ロビーラウンジ【トゥエンティエイト】の入口に立てば、スタッフが心得た様に眺めの良い席に案内してくれる。その名の通り28Fに在るこのラウンジからは東京湾の素晴らしい眺望と共に浜離宮が一望のもとに見渡せ、天気が良いせいかレインボーブリッジに、特徴的なテレビ局やお台場のホテルまで見える。しばし、その景色に見惚れ。ほどなくしてオーダーした物が運ばれて来るが、それを見た瞬間にホウッと感嘆のため息を吐きたくなってしまう。
『CONRAD』と透かしの入った透明な階段トレーに飾られた、桜色の競演。
二種類のスコーンを中心に扇状にフィンガーフードが彩り良く並べられているのだが、春や桜を意識して作られたのだろうスイーツたちは食べるのが勿体ないほど美しく可愛い。サーヴされたシャンパンは、モエ・エ・シャンドンだった。これが飲み放題だと云うのだから、今回のコースはお得である(それなりに値段が張るのは仕方が無い/苦笑)。アタシがブログをやっている事を薄々感付いているらしいスタッフは気を利かせてか「ボトルも撮影なさいますか?」と聞いてくれる。「ありがとうございます。お願いします。」とお言葉に甘えて、ボトルとシャンパングラス、ラベルのアップをデジカメにおさめさせて頂いて。丁寧にお礼を言うと、「とんでもございません。ごゆっくりお過ごし下さいませ。」と一礼して、ボトルを手に去ってゆく。華やかなアフタヌーンティーのセットを、納得のいくアングルで撮れるまで撮って。「頂きます」合掌して、手をつけ始めた。ゆっくりじっくり味わおう。……これが、最後のコンラッドでのティータイムになるのだから。
立ち昇る泡にうっとり見入り。グラスに口をつけると、芳醇な芳香が鼻腔を擽り、これからの午後のひと時の期待感を膨らませてくれる。シャンパンで口を湿らせ、先ずはスコーンに手を伸ばした。クロテッドクリームと桜ジャムで、サクッとした食感としっとりした柔らかさを味わう。思わずにっこりと顔が綻ぶ。 ……次はどれにしようか、迷い悩む時間も楽しい。桜の花びらが散らされたプチケーキで口福を味わい。眼下に見降ろせる桜の花々に見惚れ……シャンパンを味わう。
……これが、上井真唯の“花見”である。
何杯目かのシャンパンをお代わりして、クラッカーに乗せられたスモークサーモンとキャビアのハーモニーを楽しんでいる時だった。ザワリと空気が揺れたのは。見れば思った通りの姿が入口から入って来るところで、足早に飛んで来たのは恐らくここの支配人だろう。アタシの待ち合わせの相手は視線一つで挨拶をしようとしていた男性を黙らせていた。『構うな。』と言外の意を込めて。そして真っ直ぐこのテーブルに杖をつきながらゆっくりとやって来る。アタシは立ち上がって迎えた。
「久し振りだな…元気だったかな…?」
「こんにちは、お久し振りです。今日はありがとうございます。お手柔らかにお願いします、お祖父さま。」
「ウォッホッホッ! 念願の真唯ちゃんとのデートだから、楽しみだのう。」
※ ※ ※
……そうなのだ。
本日は何を隠そう、泣く子も黙る天下の緋龍院グループの実質上の支配者である、緋龍院京司お祖父さまと“デート”なのだ。 ……血迷ってません…本気です……。仕方がないじゃありませんか。お祖父さまに『…二年も過ぎてしまって今更で申し訳ありませんが、百寿のお祝いをさせて頂きたいんです。 …何か欲しい物はございませんか…?』とお尋ねしたら、よりにもよって『…そうじゃのう…一回で良いから、真唯ちゃんとデートをしてみたいのう…ああ、勿論、貴志は抜きでな…』とのご要望があったのだから。
はい、正直に申し上げます。
―――完全なる、現実逃避してました。
ハラハラと舞い落ちる桜の花びらを見ては、先日の夢を思い出し。
気もそぞろで、とてもではありませんが、いつもの様に純粋に楽しめません。
コンラッドでのアフタヌーン・ティーについては、これが最後だと思えば悔いの残らない様に心頭を滅却して楽しまさせて頂きました。日本語、おかしい? 放っとけ(自棄笑)。 ……ああ、ソムリエさん…お祖父さまにシャンパンをサーヴする手が少し震えてますよ……お気持ちは痛いほど理解ります……
「…おお…公園の桜が美しいのお…」
「…ええ…ここは浜離宮の桜の絶景ポイントなんです…」
「…昔を思い出すのお…」
「…お祖父さまも、浜離宮に行かれた事があるんですか…?」
「…勿論じゃよ…あそこをお気に入りの宮さまがいらしての…よく連れ回されたもんじゃ…」
「………………………」 ……お祖父さま……もしかして、GHQの命令でここが公園になる前のお話しですか……ってか、普通に皇族とお付き合いされてたんですか……(遠い目)。
「…多少の植え替えはあるが、桜だけは昔と変わらんなあ…」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「…お祖父さま…桜とシャンパン、少しは楽しんで頂いてますか…?」
「…おお、勿論じゃとも…モエのシャンパンは儂も大好物での…」
「…貴志さんにモエの里に連れて行ってもらった時に、お祖父さまにお土産買って来て差し上げれば良かったですね…」
「……そんな事を普通に儂に言ってくれるのは…真唯ちゃんぐらいなもんじゃな……」
「………………………」 ……お祖父さま…コングロマリットの長老なんて、実は案外寂しいものなのかも知れない……
「………………………」
それからアタシとお祖父さまは、ただ無言で過ごしたが。
今日の“デート”が決定した瞬間から感じていた息詰まる様な緊張感も、最初に感じた存在感の巨きさから感じてしまう威圧感も。いつの間にか綺麗に消えてしまっていた事に気付いたのは。「…御前…失礼ですが、そろそろお時間です…」と、お祖父さまのSPさんが知らせてくれた時だった。
次の目的地は、千駄ヶ谷にある【国立能楽堂】である。都内に能楽堂はいくつか存在するが歌舞伎座が歌舞伎のメッカである様に、国立能楽堂はその歴史と規模から能・狂言の殿堂とされる。アタシは何回かお能や狂言を観に来た事があるのだが、どう頑張っても脇正面の後方の席しか取る事が出来なかったのだ。こう云うものには当然の如く固定ファンが数多くいてFC(?)の様なものが存在して、良い席は全てその方々にキープされてしまうのだ。だから、諦めていたのだが。それが正面の席の真ン前で見られるなんて大感激だ!! ちなみに本日のアタシの装いは黒地に桜柄のお着物ワンピである。例によって優里ちゃんに見立ててもらったのだが、桜花とその花を咲かせて下さる木花開耶姫さまに敬意を表したかった。それと同時にお祖父さまに恥をかかせない為でもある。お祖父さまは渋いお着物をお召しだが生憎アタシに教養がないので、明らかに高級品と理解る着物がしかしどんなものであるかは理解らない。けれどお祖父さまに馴染んでキリッとキマって見える。水戸の御老公さまが現代に生きていたら、このような格好をしてらっしゃるに違いない。周りに座っていらっしゃるのは、お年を召した方ばかりだ。お着物なんぞも当たり前にお召しになっている。歌舞伎座とは似て非なる空間だ。遮る物のない視界に、正面の重厚な松の枝振りを捉えて。アタシは心地好い緊張の中、静かに開演の瞬間を待った。ドキドキと高鳴る胸の鼓動を堪えて。
※ ※ ※
「すっごく素敵な舞台でした! お能がストーリー性のある舞台劇だと云う事は知ってた心算なんですが…精神性の高さが本当に素晴らしかったですっ!!」
アタシはさっきから大興奮である。
本日の演目は【嵐山】であった。
時の帝に仕える家臣が、大和国吉野から都の西の嵐山に移植した桜の様子を見てくるようにとの勅命を受け。勅使として嵐山にやって来た家臣は美しく咲き誇る桜と、花守の老人夫婦と出会うのだが……
「木守明神の凛々しく若々しい男神振り! 勝手明神のたおやかな女神の美しさ! そして、荒々しくも力強い蔵王権現の舞いの何もかもが凄くって…嗚呼ァ…言葉に出来る自信がないです…っ!!」
「…そう言う割には、嬉しそうじゃな…そこまで喜んでもらえれば、わざわざ引っ張り出した甲斐があるわい。」
「あんなに凄い席でお能を楽しめるなんて…お祖父さまのお陰です…っ」
「ウォッホッホッ! 貴志に恨まれそうじゃな。」
お祖父さまとそんな会話をしているところへ「お待たせ致しました。」と、着物を粋に着こなした女将さんのような女性が持って来て下さったのは、お祖父さまが注文した“おまかせ”の一品料理だった。
「…うわァ…綺麗…」
思わず声が漏れてしまう。
それは、黒塗りの箱の中に閉じ込められた宝石箱の様なお弁当だった。
鯛の鹿の子造り、烏賊、鮪のお造り。海老の旨煮、鮑の焼白子酢、唐墨、真名鰹のつけ焼きなどの八寸。筍などの焚合わせに、錦糸玉子を散らした彩り鮮やかなお寿司。まるで“春”を凝縮したような逸品だった。
「…なんか、食べるのが勿体ないみたい…」
「何を言っておる。折角作った板前の行田が泣いてしまうぞ。」
「…ここのご主人は、行田さんとおっしゃるんですか…?」
「ああ、そうじゃ。」
「…では、その行田さんに感謝して…頂きます。」
合掌して、眼の前のお祖父さまに一礼して、アタシは箸をつけたけど。
合掌するアタシに注がれるお祖父さまの柔らかな眼差しに気付く事はなかった。
お能が終わった後、どこに連れて行かれるのかとドキドキしていたアタシは、かなり昔に恋人になるずっと以前に貴志さんに連れて来て頂いた事のあるお店に不審を抱く。座席は20にも満たない古民家風の小さなお店だ。それでもさり気なく飾られた店内の生け花や陶器や掛け軸なんかがすごく上品だ。ライトアップされた瀟洒な庭は手入れが行き届いていて、落ち着いた佇まいなのだ。 ……貴志さんだけなら不審には思わなかった……しかし今日の相手は、緋龍院のお祖父さまなのだ……なまじな処に連れて来られる筈がない……。食べ終わった後、聞いて後悔した。何と政財界の要人のみが知る看板の出ていない隠れた名店で、格式ある名料亭の板場を長い間任されていた板長さんが後進に道を譲って引退した後、こっそりと趣味で開いた完全予約制の店なのだと言う。
……何たる事だ…っ、…鎌倉の神村さんみたいなトコじゃないか…貴志さんめ…帰ったら、とっちめて殺る……っ!!
食前に聞いてなくてつくづく良かったと思いながら購入したパンフを開く。
【嵐山】は、満開の桜に華やぐ京都は嵐山を舞台とした、春の能である。
日本人が古来より抱いてきた、“桜の樹には神々が宿る”と云う想いを体現したかの様な能だ。 ……鎌倉でも、そして今回も……“春”そのものを瞳で見て、舌でも味わってる……こいつァは、春から縁起が良いわへ♪
中入りの間狂言の【猿聟】も、実に面白かった。
吉野の猿が、嵐山の猿の処へ聟入りすると云うストーリーなのだが、猿の格好をした狂言師が「キャキャ」「キャッキャッ」「キャアキャア」などの“猿語”でしか話せないため、真面目に演れば演るほど笑えるのだ。おめでたい宴席の狂言なので、観ている間お酒が欲しくなって困ってしまった(苦笑)。今飲んでいるのはお祖父さまが注文して下さった【菊理媛】と云う何とも神々しい有り難い御名の日本酒だ。……美味しい…とても、美味しいのだが……生憎、白山信仰に浪漫を感じないアタシは、こんな時は気分的には【コノハナサクヤヒメ】が飲みたくなってしまうのだが……
などと、高級そうなお酒を頂きながらもちょっと安めのお酒を恋しく思ってたら、お祖父さまからお声が掛かった。
「…で…?」
「…は…?」
「…とぼけんでも良いわい…急に儂に会いたいなどと…何か用があったのだろう…?」
「………………………」 ……やっぱり…理解っちゃいますよね……
「…真唯ちゃんの事じゃから、他の輩の様に昇進の根回しとか、何かのおねだりだとは思わんが…」
「……ただ単に、お祖父さまにお会いしたかったからだとは…思っては頂けないんでしょうか…?」
「………………………」
バッグの中から出した物をテーブルの上に置く。丁寧にラッピングされて、リボンが掛けられている物はひと目で贈り物だと理解るだろう。それを黙ってしまわれたお祖父さまに向けて差し出した。けれど、お祖父さまは手を出そうとはされず、それを眺めるだけだ。
「………………………」
「…安物で申し訳ないのですが、ガマ口型の眼鏡ケースです…老眼鏡入れに使って頂けると嬉しいんですが…」
「………………………」
「…今月、貴志さんと鎌倉に行った時に、和雑貨のお店で購入したんです…」
「………………………」
「…お祖父さまに喜んで頂ける物が思い浮かばなくて…いっそ『肩たたき券』でも作ろうかと思ったんですが…」
「…『肩たたき券』か…真唯ちゃんからなら貰ってみたかったのう…」
「…お祖父さま…」
「…すまんかったのう、真唯ちゃん…この歳になると、ついつい人の裏を勘ぐってしまう…いや、歳のせいばかりではないがの…」
そう言うと、お祖父さまはやっとプレゼントに手を伸ばして下さった。「…開けてもいいかの…?」「勿論です!」優しい手つきで包みを開けたお祖父さまは中を見ると皺だらけの顔をにっこりと微笑ませ。「…ありがとう…本当に、ありがとう…」と繰り返しおっしゃって下さった。
例え、アタシが何かを隠している事を、薄々理解ってはいても。
―――言えない。
まさか、お祖父さまが亡くなる夢をみたなんて―――
それはただただ静かな夢だった。
立派な桜の樹の下に一人の老人が立っていたのだ。
最初、アタシはその男性が誰だか理解らなかった。
ただ、とても……慕わしい人物だとしか。
随分昔に亡くなったお祖父ちゃんかとも思った。
けれど、懐かしく感じられないから、違うと理解った。
そして、その正体が緋龍院のお祖父さまだと気付いた瞬間。
夢の中でのアタシはハッキリと理解ったのだ。
その男性が、既にこの世の人間ではないと―――
それに気付いた時。
お祖父さまはアタシを振り向き。
微笑ったのだ。
桜が舞い散る中、その微笑みはひどく静謐だった。
胸が痛くなる程。
お祖父さまに駆け寄りたいのに、足が動かない。
声を掛けたいのに、喉がひりついた様に声が出てくれない。
焦っている内に、急に一陣の風が吹き。
桜の花びらが花吹雪となり、アタシに襲い掛かって来た。
咄嗟に両腕で顔を庇い。
気が付くと、お祖父さまの姿は消えていたのだった。
眼が覚めた時。
アタシは泣いていた。
どうしても涙が止まらなかった。
偶々、休日出勤の代休に休めた貴志さんが、運良く早朝からトレーニングルームに行っててくれてホントに助かった。見咎められたら、誤魔化せる自信がなかったから。 ……この感情の揺れを……緋龍院のお祖父さまの寿命がもう長くはないかも知れない……そんな根拠のない確信を。
お祖父さまは、孤独の中で独りで苦しんでた貴志さんの、緋龍院家で味方になって下さった唯一の方だと聞いている。何かお礼がしたかった。何か親孝行の真似事をしたかった。アタシと貴志さんの“両親運”は超絶に悪い。アタシは牧野の両親と和解したとは云え、わだかまりが完全に消えた訳ではない。アタシは出来る事なら“親孝行”ではなく、“お祖母ちゃん孝行”したかった。幼い頃、両親から精神的虐待を受けてた時、唯一の精神の拠り所となってくれたお祖母ちゃんに、もっともっと恩返ししたかった。
だから。このまま手をこまねいて何もせずに後悔したくなかった。
けれど相手は、天下の緋龍院京司老だ。
幸い結婚した翌年に紹介された時、プライベートな連絡先を頂いてはいたが、簡単に事は運ばないだろう。などと思ってたら、呆気ないほど簡単に連絡がとれて却って慌てた。そして咄嗟に出てしまった言い訳が『百寿のお祝い』だったのだから、我ながら苦しい言い訳だったとは思う。しかも、何とか貴志さんの都合をつけてもらおうと思ってたら、伺ったお祖父さまのご希望が『貴志さん抜きのアタシとのデート』だったのだ。普通にお茶をして観劇をしたいと云うから頭を抱えた。貴志さんにお伺いを立てたら『お祖父さまのご希望を叶えて差し上げて下さい。』とにっこり笑顔で言われて後には引けなくなってしまった。そしてお祖父さまと相談し合って決まったプランが本日のコースだったのである。
夕飯はお祖父さまにお任せするのはまだ良い。お能もお祖父さまの趣味を考えれば頷けるし、脇正面でしか観た事がないのに正面の最前列だと云うのも、アタシにすれば願ったり叶ったりだ。
けれど、普通にお茶とのご希望には、頭痛が痛くなる気分だった。自慢ではないが、アタシは都内なら穴場のカフェや大抵のホテル事情は網羅している。お祖父さまとだったら、どんな超高級なお店やホテルに行ったって、おかしくはないだろう。けれど、あの緋龍院グループの支配者と行くには、あまりにもアタシにリスクが大き過ぎる。アタシは今後そのお店に足を運び難くなるだろう。緋龍院の関係者だと知られ腫れ物に触る様な扱いは真っ平だ。お祖父さまに楽しんで頂ける事を最優先に、そしてアタシの今後の事を鑑みて一番無難な選択をした。時節を楽しんで頂ける“お茶”を提案したのだ。
……どこでも視線が痛かったけどね…っ、…阿る様なねっとりとした視線に辟易したけどね…っ!!
いいもん! 今後、コンラッド東京にも国立能楽堂にも行かないもん!! 帝都ホテルの方が好きだし、セルリアンタワーでだってお能は演ってるもんね!!!
そんな屈託を抱えながらもお付き合いした甲斐あってか、お祖父さまには殊の外喜んで頂けたみたいで。帰りの車の中では後部座席で二人で並んで座って、ずっと手を握られてて。けど、降りる瞬間、アタシを見つめる優しい瞳と言われた言葉に呼吸が止まった。
「…冥土の土産をありがとう…貴志の事を頼む…あれを幸せにしてやっておくれ」
と。
―――そして。
それが、アタシが緋龍院のお祖父さまと交わした、最期の言葉となったのであった。
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