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ラブラブ新婚編
No,161 【ジゼル】の舞台の、その後で
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【ジゼル】
「白鳥の湖」「ラ・シルフィード」と共に、“三大バレエ・ブラン”の一つに数えられる、ロマンティック・バレエの傑作である。
真唯は、色んな女性たちの踊った【ジゼル】を観て来た。
森下さんのジゼルは、ひたすら素敵だった。
村娘の可憐なジゼル。
心臓を弱いのを隠し、陽気に明るく生きようとする。
そして、恋をする。
身分を隠したアルブレヒトと。
しかし、アルブレヒトに裏切られる。
……彼には既に、婚約者がいたのだ。
彼の裏切りに、狂乱に陥るジゼル。
そして、やがて息絶えて死んでしまうのだ。
結婚を前に亡くなると処女である乙女たちは、精霊になってしまう。
森の沼の畔の墓場。
夜中にここに迷い込んで来る人間たちを、死ぬまで踊らせるのだ。
ウィリーの女王・ミルタによって、仲間に迎え入れられるジゼル。
そこへ、ジゼルに恋するあまりアルブレヒトの正体を暴いた青年・ヒラリオンが、許しを乞いにやって来る。
だがジゼルが心動かされる事はなく、女王ミルタの命令によってウィリーたちの死の踊りに巻き込まれ、死の沼へ突き落とされるのを見ているだけだ。
やがて、もう一人の青年が訪れる。
アルブレヒトだ。
ジゼルを死なせた哀しみと悔恨に、打ちひしがれているのだ。
亡霊となったジゼルが、アルブレヒトの前に現れ。
二人で踊られるパ・ド・ドゥ。
真唯は、二幕のこの幻想的な踊りが大好き……だった。
ミルタとウィリー達は、ヒラリオンと同じように、アルブレヒトも殺そうとする。
が、しかし。
ジゼルは、彼女たちに命乞いをするのである。
自分を裏切り、死に追いやった男性を……許すのである。
その為に時が過ぎ、やがて朝の鐘が鳴り朝日が射し始める中、ウィリーたちは墓に戻っていく。
アルブレヒトの命は助かり、ジゼルは朝の光を浴びアルブレヒトに別れを告げて……消えていくのだ。
……一人、アルブレヒトを残して。
東京バレエ団創立五十周年記念シリーズの一つである、今日の【ジゼル】
質の高さは、相変わらずだ。
一糸乱れぬコール・ド・バレエは、去年、やはり創立五十周記念の祝祭ガラで踊られた、「影の王国」でも如実に表れていた。……見事だった。二十四人もいて、トゥの立てる音さえ乱れないのだから……感嘆に値する。
『ほら、真唯! 何か言わないと、貴志さんに失礼でしょう!
……今日は、ありがとうございました!! とか。
……渡辺さんも良かったけど、森下さんのレベルまではまだまだですね、とか。
……何とか言いなさいよ! 貴志さんを心配させるでしょう!?』
心の中では色々と言っているのだが、喉から声が出てくれない。
……そうして、ようやく出て来た言葉は……
「…貴志さん…今日は、【椿屋珈琲店】へ行くのを止めて良いですか…?」
そんな言葉だった。
※ ※ ※
JRの上野駅は、いつも人が溢れている。
普段は人混みが大嫌いな真唯は、しかし、今日はその、人々のざわめきに安心する。
人、人、人の波である。
真唯は貴志さんと共に、上野駅構内の「ハードロックカフェ」と云う有名店横のエスカレーターを上り、アトレの中に入って行く。カレーうどんで有名な店やステーキ、お寿司の店の並びに真唯の目的の店はあった。
【麻布茶房】
レトロな雰囲気の漂う、真唯のお気に入りの店である。
日曜日の午後とあって、店内は混雑していた。ボードに名前を書いて待つのだが、真唯たちの前に五人の名前があった。これでは何分待ちになるか理解らない。
だが、真唯は待つ気でいた。……今日は、【椿屋珈琲店 上野茶廊】へ行く気分になれない……
幸い十分ほどで、待つ人のための椅子に座る事が出来た。
……貴志さんには、充分過ぎるほど不審に思われているに違いない。
バレエ鑑賞の後にはいつも、煩いほどに良く喋り、そうでなければパンフを繰り返し読み返して、夢の世界への再突入をはかるのだから。
しかし今日は……そんな気にはなれない……
結局、四十分ほど待たされた真唯たちは、ようやく店内に案内される。
店内に入るなり眼に飛び込んで来るのは、壁面に飾られた横長の巨きな額だ。
中の絵は、祇園祭の山鉾巡行のようだ。
趣味の良い骨董品が品良く、さり気なくディスプレイされている。シックで落ち着いたインテリアに精神が和む。二人掛けのテーブルに案内され、お絞りとお冷とメニューを置いて、店員は去ってゆく。メニューを吟味したが……結局はいつもの「抹茶アイスぜんざいと珈琲のセット」にした。貴志さんは珈琲だけを頼んでいた。
何の会話もない気まずい沈黙の中、注文した物はすぐにやって来た。
いつもながらの伊万里焼のコーヒーカップに……抹茶アイスと小豆と白玉の絶妙なコラボが生み出す馴染んだ味に、束の間、心癒される。
「…そろそろ、何をお考えなのか…教えては頂けませんか…?」
「………………………」
しびれをきらせたのは、貴志さんだった。
……ああ……なにか、言わなくちゃ……それが例え、貴志さんを傷付ける事になったとしても……
「…思い出してしまったんです…“一条さん”に裏切られた時の事を…」
向かい側で息をのむ気配がするが……一度出た言葉は止まらなかった。
「…アタシは、結婚を約束した男性に…偽名を名乗られていたんです…」
……今度は、貴志さんが黙ってしまう番だった。
「…しかも、「アイ’s_Books」の社長と云う立場を隠されていました…
…哀しかった…一条さんの事を信じられなくなりました…」
「………………………」
「…アルブレヒトのように、婚約者がいた訳ではないけれど…
…彼には…一条さんには、許婚者を名乗る女性がいました…」
「………………………」
「…アタシがジゼルなら…許せない…きっとアタシは貴志さんを…自ら、精霊たちの死の踊りに引き摺り込んでしまう…」
「………………………」
「…アタシだって許したい! …無償の愛で包み込むように、たった一人の愛しい貴志さんを愛したい…っ!! …でも、そんなの無理だって気付いてしまったんです…アタシは…妻失格です…」
「………………………」
……無言の貴志さんが怖くて、俯いてしまった顔が上げられない……貴志さんの反応が、こんなにも怖くて堪らない……少し残っていた抹茶アイスが溶けてしまうが、手をつける気にもならない……
無言の果てに、貴志さんは言葉をくれた。
「…貴女が妻失格だと言うなら、私は夫失格です…
…でも、もうダメですよ…今更、逃がしてあげられない…」
まさかの嬉しい言葉に、ゆっくり顔を上げると、瞳があった。
咄嗟に眼を反らせようとしたが、にっこりと微笑まれ。
意外な反応に反らせる事が出来なくなってしまった。
……夫が飲んでるカップも伊万里焼だろうか…?
……そんな明後日な事を考えて……いつもの調子が戻りつつある事にホッとし……あまりに現金な自分に呆れてしまう。
「…真唯さんは真面目ですね…無償の愛と言いますが…そんなものが存在するのか甚だ疑問ですね。…親の愛だけは、無償の愛だと言う人間もいますが…私たちはそれが嘘である事を知っています。…大体、私も貴女にそんなものは望んでいないし…私の愛は無償ではありません。」
「…貴志さんからは、いつも沢山のものを頂いてますけど…無償で…貴志さんはアタシにお金を払わせて下さらないじゃないですか…」
「…私は、金より巨きなものを貴女から頂いています…私一人に向けられる“貴女の愛”と云う金には代えられないものを…私たちは、“ギブ・アンド・テイク”…丁度良い関係だと思いますよ。…お願いですから、妻失格などと哀しい事はおっしゃらないで下さい…」
「…どう考えても、貴志さんばっかり負担が大きいと思います…アタシには、それに見合ったものをあげているとは、とても…」
「…頂いていますよ…充分過ぎるほどにね…」
「…貴志さん…貴方は、アタシに甘過ぎます…」
「…良いんですよ…私がそうしたいんですから…ただ…結婚前の事は、本当に申し訳なく思ってます。」
「…あ…っ! …あれは、出来れば忘れて下さい…別に今更、貴志さんの事を責める心算はありませんから…」
「…帰ったら、ゆっくり言い訳をさせて下さい…帰ったら…ね。」
「…貴志さん…」
ようやく、ぎこちない微笑みを返すだけの余裕が出て来て……アタシは、溶ける寸前の抹茶アイスの救出に成功した。……抹茶の風味を味わって……小豆の甘さを、珈琲で中和させる。
「…それにしても、何回か「ジゼル」をご一緒していますが…そんなに、渡辺嬢のジゼルは強烈でしたか…」
「それはありません! 渡辺さんは確かに技術は素晴らしいものをお持ちですが、森下さんの格には、まだまだですっ!!」
「…やっと、本来の“真唯さんらしさ”が戻って来ましたね…バレエ鑑賞の後はそうしておいでの方が、ずっと良いですよ。」
「…貴志さん…ありがとうございます…」
「…どういたしまして。」
久し振りの和風甘味と、レトロな雰囲気を心ゆくまで味わって。
真唯は旦那さまと、上野を後にしたのだった。
※ ※ ※
帰宅後、君枝さんの作ってくれる美味しい夕飯を頂いて。
一番風呂は、旦那さまに使って頂いて。
真唯は、リザさんに貰った舶来のハーブの入浴剤を使った。
……精霊気分を味わいたかったのだ。
ウィリーなどの亡くなった、哀しい乙女の精霊などではない。
豊かな森に生きる、土や水や草木や花の……吹き渡る風の精霊だ……
束の間、精霊気分を味わった真唯奥さまは、快楽の神の如く振る舞う旦那さまに美味しく頂かれてしまわれて。
ピロートークで、静かに謝罪された。
一条の姓を使い続けた事。
緋龍院の姓を、真唯の反応が怖くて……なかなか明かす事が出来なかった事。
「アイ’s_Books」の社長である事は、岩屋さんの事もあり、明かす事が出来なかった事。
そして、例のお嬢様の事も正直に教えてもらえた。
当時施工していた案件がらみで、断れない見合いを持ち込まれた事。
一応会うだけは会ったが、誓って疾しい事はしていないと断言された。
そしてそのお嬢様も今では心を入れ替え、お腹の子供の本当の父親と仲良くやっているとの事だった。
……そうなんだ……あの傲慢そうだったお嬢様も、愛する男性と幸せになって、我が子を産むんだ……真唯の両親の子育ては失敗してしまったけれど、彼女はうまくやって欲しい……アタシみたいな不幸な子供を作って欲しくない……
ヒュプノスに引き込まれてしまう直前。
酷く満たされた心地になった真唯の頭をよぎったのは、ジゼルの面影だった。
……万が一、貴志さんに裏切られるような事があったら……アタシは、彼を許せるだろうか…?
……死して尚……彼を愛し続ける事が、果たして出来るだろうか…?
多分、許せない。
無償の愛なんて……アタシには無理だ。
……ホントに無理…?
……アタシは、貴志さんの幸福を望んではいないの…?
そうだ。
許す事は出来ないかも知れない。
けれど。
愛し続ける事なら出来る。
……貴志さん……貴方をアタシは守ってあげる……一条の家からも……緋龍院の家からも……例え…アタシ自身からでも……
※ ※ ※
―――ヒュプノスの深い眠りに捕らわれてしまった真唯は知らない。
ジュピター、別名・ゼウスは、天界を支配する神々の王であり、女性の結婚生活を守護する女神・ヘラを娶りながら、酷く好色で様々な女神・精霊・人間たちに手を出して、多くの子供をつくっている。また、酷く怒りっぽく乱暴で、彼の機嫌が悪いと地震が起こり、海が荒れると怖れられた。
真唯の旦那さまは好色ではなかったが、一度怒らせれば酷く恐ろしい方である。
―――真唯は、知らなかった。
例のお嬢様、沼倉裕樺が、妊娠半年を過ぎて自分の体形が変わりゆく事に恐怖と怒りを覚え、夫となる男や胎児への愛情など、欠片も育ってはいない事を。
緋龍院建設の社長令息・隆男の恋人である、西江麻由嬢に魔の手が忍び寄りつつある事を……
真唯は、知る由もなかったのだ―――
「白鳥の湖」「ラ・シルフィード」と共に、“三大バレエ・ブラン”の一つに数えられる、ロマンティック・バレエの傑作である。
真唯は、色んな女性たちの踊った【ジゼル】を観て来た。
森下さんのジゼルは、ひたすら素敵だった。
村娘の可憐なジゼル。
心臓を弱いのを隠し、陽気に明るく生きようとする。
そして、恋をする。
身分を隠したアルブレヒトと。
しかし、アルブレヒトに裏切られる。
……彼には既に、婚約者がいたのだ。
彼の裏切りに、狂乱に陥るジゼル。
そして、やがて息絶えて死んでしまうのだ。
結婚を前に亡くなると処女である乙女たちは、精霊になってしまう。
森の沼の畔の墓場。
夜中にここに迷い込んで来る人間たちを、死ぬまで踊らせるのだ。
ウィリーの女王・ミルタによって、仲間に迎え入れられるジゼル。
そこへ、ジゼルに恋するあまりアルブレヒトの正体を暴いた青年・ヒラリオンが、許しを乞いにやって来る。
だがジゼルが心動かされる事はなく、女王ミルタの命令によってウィリーたちの死の踊りに巻き込まれ、死の沼へ突き落とされるのを見ているだけだ。
やがて、もう一人の青年が訪れる。
アルブレヒトだ。
ジゼルを死なせた哀しみと悔恨に、打ちひしがれているのだ。
亡霊となったジゼルが、アルブレヒトの前に現れ。
二人で踊られるパ・ド・ドゥ。
真唯は、二幕のこの幻想的な踊りが大好き……だった。
ミルタとウィリー達は、ヒラリオンと同じように、アルブレヒトも殺そうとする。
が、しかし。
ジゼルは、彼女たちに命乞いをするのである。
自分を裏切り、死に追いやった男性を……許すのである。
その為に時が過ぎ、やがて朝の鐘が鳴り朝日が射し始める中、ウィリーたちは墓に戻っていく。
アルブレヒトの命は助かり、ジゼルは朝の光を浴びアルブレヒトに別れを告げて……消えていくのだ。
……一人、アルブレヒトを残して。
東京バレエ団創立五十周年記念シリーズの一つである、今日の【ジゼル】
質の高さは、相変わらずだ。
一糸乱れぬコール・ド・バレエは、去年、やはり創立五十周記念の祝祭ガラで踊られた、「影の王国」でも如実に表れていた。……見事だった。二十四人もいて、トゥの立てる音さえ乱れないのだから……感嘆に値する。
『ほら、真唯! 何か言わないと、貴志さんに失礼でしょう!
……今日は、ありがとうございました!! とか。
……渡辺さんも良かったけど、森下さんのレベルまではまだまだですね、とか。
……何とか言いなさいよ! 貴志さんを心配させるでしょう!?』
心の中では色々と言っているのだが、喉から声が出てくれない。
……そうして、ようやく出て来た言葉は……
「…貴志さん…今日は、【椿屋珈琲店】へ行くのを止めて良いですか…?」
そんな言葉だった。
※ ※ ※
JRの上野駅は、いつも人が溢れている。
普段は人混みが大嫌いな真唯は、しかし、今日はその、人々のざわめきに安心する。
人、人、人の波である。
真唯は貴志さんと共に、上野駅構内の「ハードロックカフェ」と云う有名店横のエスカレーターを上り、アトレの中に入って行く。カレーうどんで有名な店やステーキ、お寿司の店の並びに真唯の目的の店はあった。
【麻布茶房】
レトロな雰囲気の漂う、真唯のお気に入りの店である。
日曜日の午後とあって、店内は混雑していた。ボードに名前を書いて待つのだが、真唯たちの前に五人の名前があった。これでは何分待ちになるか理解らない。
だが、真唯は待つ気でいた。……今日は、【椿屋珈琲店 上野茶廊】へ行く気分になれない……
幸い十分ほどで、待つ人のための椅子に座る事が出来た。
……貴志さんには、充分過ぎるほど不審に思われているに違いない。
バレエ鑑賞の後にはいつも、煩いほどに良く喋り、そうでなければパンフを繰り返し読み返して、夢の世界への再突入をはかるのだから。
しかし今日は……そんな気にはなれない……
結局、四十分ほど待たされた真唯たちは、ようやく店内に案内される。
店内に入るなり眼に飛び込んで来るのは、壁面に飾られた横長の巨きな額だ。
中の絵は、祇園祭の山鉾巡行のようだ。
趣味の良い骨董品が品良く、さり気なくディスプレイされている。シックで落ち着いたインテリアに精神が和む。二人掛けのテーブルに案内され、お絞りとお冷とメニューを置いて、店員は去ってゆく。メニューを吟味したが……結局はいつもの「抹茶アイスぜんざいと珈琲のセット」にした。貴志さんは珈琲だけを頼んでいた。
何の会話もない気まずい沈黙の中、注文した物はすぐにやって来た。
いつもながらの伊万里焼のコーヒーカップに……抹茶アイスと小豆と白玉の絶妙なコラボが生み出す馴染んだ味に、束の間、心癒される。
「…そろそろ、何をお考えなのか…教えては頂けませんか…?」
「………………………」
しびれをきらせたのは、貴志さんだった。
……ああ……なにか、言わなくちゃ……それが例え、貴志さんを傷付ける事になったとしても……
「…思い出してしまったんです…“一条さん”に裏切られた時の事を…」
向かい側で息をのむ気配がするが……一度出た言葉は止まらなかった。
「…アタシは、結婚を約束した男性に…偽名を名乗られていたんです…」
……今度は、貴志さんが黙ってしまう番だった。
「…しかも、「アイ’s_Books」の社長と云う立場を隠されていました…
…哀しかった…一条さんの事を信じられなくなりました…」
「………………………」
「…アルブレヒトのように、婚約者がいた訳ではないけれど…
…彼には…一条さんには、許婚者を名乗る女性がいました…」
「………………………」
「…アタシがジゼルなら…許せない…きっとアタシは貴志さんを…自ら、精霊たちの死の踊りに引き摺り込んでしまう…」
「………………………」
「…アタシだって許したい! …無償の愛で包み込むように、たった一人の愛しい貴志さんを愛したい…っ!! …でも、そんなの無理だって気付いてしまったんです…アタシは…妻失格です…」
「………………………」
……無言の貴志さんが怖くて、俯いてしまった顔が上げられない……貴志さんの反応が、こんなにも怖くて堪らない……少し残っていた抹茶アイスが溶けてしまうが、手をつける気にもならない……
無言の果てに、貴志さんは言葉をくれた。
「…貴女が妻失格だと言うなら、私は夫失格です…
…でも、もうダメですよ…今更、逃がしてあげられない…」
まさかの嬉しい言葉に、ゆっくり顔を上げると、瞳があった。
咄嗟に眼を反らせようとしたが、にっこりと微笑まれ。
意外な反応に反らせる事が出来なくなってしまった。
……夫が飲んでるカップも伊万里焼だろうか…?
……そんな明後日な事を考えて……いつもの調子が戻りつつある事にホッとし……あまりに現金な自分に呆れてしまう。
「…真唯さんは真面目ですね…無償の愛と言いますが…そんなものが存在するのか甚だ疑問ですね。…親の愛だけは、無償の愛だと言う人間もいますが…私たちはそれが嘘である事を知っています。…大体、私も貴女にそんなものは望んでいないし…私の愛は無償ではありません。」
「…貴志さんからは、いつも沢山のものを頂いてますけど…無償で…貴志さんはアタシにお金を払わせて下さらないじゃないですか…」
「…私は、金より巨きなものを貴女から頂いています…私一人に向けられる“貴女の愛”と云う金には代えられないものを…私たちは、“ギブ・アンド・テイク”…丁度良い関係だと思いますよ。…お願いですから、妻失格などと哀しい事はおっしゃらないで下さい…」
「…どう考えても、貴志さんばっかり負担が大きいと思います…アタシには、それに見合ったものをあげているとは、とても…」
「…頂いていますよ…充分過ぎるほどにね…」
「…貴志さん…貴方は、アタシに甘過ぎます…」
「…良いんですよ…私がそうしたいんですから…ただ…結婚前の事は、本当に申し訳なく思ってます。」
「…あ…っ! …あれは、出来れば忘れて下さい…別に今更、貴志さんの事を責める心算はありませんから…」
「…帰ったら、ゆっくり言い訳をさせて下さい…帰ったら…ね。」
「…貴志さん…」
ようやく、ぎこちない微笑みを返すだけの余裕が出て来て……アタシは、溶ける寸前の抹茶アイスの救出に成功した。……抹茶の風味を味わって……小豆の甘さを、珈琲で中和させる。
「…それにしても、何回か「ジゼル」をご一緒していますが…そんなに、渡辺嬢のジゼルは強烈でしたか…」
「それはありません! 渡辺さんは確かに技術は素晴らしいものをお持ちですが、森下さんの格には、まだまだですっ!!」
「…やっと、本来の“真唯さんらしさ”が戻って来ましたね…バレエ鑑賞の後はそうしておいでの方が、ずっと良いですよ。」
「…貴志さん…ありがとうございます…」
「…どういたしまして。」
久し振りの和風甘味と、レトロな雰囲気を心ゆくまで味わって。
真唯は旦那さまと、上野を後にしたのだった。
※ ※ ※
帰宅後、君枝さんの作ってくれる美味しい夕飯を頂いて。
一番風呂は、旦那さまに使って頂いて。
真唯は、リザさんに貰った舶来のハーブの入浴剤を使った。
……精霊気分を味わいたかったのだ。
ウィリーなどの亡くなった、哀しい乙女の精霊などではない。
豊かな森に生きる、土や水や草木や花の……吹き渡る風の精霊だ……
束の間、精霊気分を味わった真唯奥さまは、快楽の神の如く振る舞う旦那さまに美味しく頂かれてしまわれて。
ピロートークで、静かに謝罪された。
一条の姓を使い続けた事。
緋龍院の姓を、真唯の反応が怖くて……なかなか明かす事が出来なかった事。
「アイ’s_Books」の社長である事は、岩屋さんの事もあり、明かす事が出来なかった事。
そして、例のお嬢様の事も正直に教えてもらえた。
当時施工していた案件がらみで、断れない見合いを持ち込まれた事。
一応会うだけは会ったが、誓って疾しい事はしていないと断言された。
そしてそのお嬢様も今では心を入れ替え、お腹の子供の本当の父親と仲良くやっているとの事だった。
……そうなんだ……あの傲慢そうだったお嬢様も、愛する男性と幸せになって、我が子を産むんだ……真唯の両親の子育ては失敗してしまったけれど、彼女はうまくやって欲しい……アタシみたいな不幸な子供を作って欲しくない……
ヒュプノスに引き込まれてしまう直前。
酷く満たされた心地になった真唯の頭をよぎったのは、ジゼルの面影だった。
……万が一、貴志さんに裏切られるような事があったら……アタシは、彼を許せるだろうか…?
……死して尚……彼を愛し続ける事が、果たして出来るだろうか…?
多分、許せない。
無償の愛なんて……アタシには無理だ。
……ホントに無理…?
……アタシは、貴志さんの幸福を望んではいないの…?
そうだ。
許す事は出来ないかも知れない。
けれど。
愛し続ける事なら出来る。
……貴志さん……貴方をアタシは守ってあげる……一条の家からも……緋龍院の家からも……例え…アタシ自身からでも……
※ ※ ※
―――ヒュプノスの深い眠りに捕らわれてしまった真唯は知らない。
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―――真唯は、知らなかった。
例のお嬢様、沼倉裕樺が、妊娠半年を過ぎて自分の体形が変わりゆく事に恐怖と怒りを覚え、夫となる男や胎児への愛情など、欠片も育ってはいない事を。
緋龍院建設の社長令息・隆男の恋人である、西江麻由嬢に魔の手が忍び寄りつつある事を……
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