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去年のリッチな夜でした
その38
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昼休みに入ると、校内はすぐに賑やかさを増した。
康介もまた周囲に倣って、仲間達と共に購買部へと赴く。同じように階下に向かう生徒達で、階段には人垣が出来上がっていたのであった。
そうして、康介は中央階段を下り切り、職員室の手前にやって来た。
その時の事であった。
職員室の出入口近くに、『あの男』が立っていた。
担当する授業を終えて、丁度戻って来た所なのであろうか。片手に教材を抱えた、貧相な体格の男性教諭が、生徒の列に埋もれる康介と殆ど偶然目を合わせたのだった。
康介が、怪訝な表情を浮かべた。
人の頭を幾つか越えた先で、その刹那、相手が僅かに面持ちを変化させたのである。
汚れの目立つ皺だらけの白衣を着た、冴えない風貌のその男は、少し離れた所を歩く康介の姿を認めるなり、一転して目元を硬くしたようであった。
そして、そのまま職員室に入ろうともせず、『その男』は生徒の列の横で立ち止まっていた。
ややあって、康介もまた仲間達と共に、『その男』、リウドルフの隣を横切ろうとした。
「……土井康介、と言うのは君だね?」
声が、出し抜けに上がった。
驚いて足を止めた康介を、リウドルフが見つめていた。
「……そうですけど……」
康介は、思わず揺らいだ声を漏らしていた。
突然呼び止められて狼狽えた事もあったが、この時の彼は、ろくに面識も無い筈の相手の遣す眼差しに、言い知れぬ不安を覚えたのであった。
いや、こうして顔を合わせてみれば、かつて出会った事もあったかも知れない。新年度の始まる直前、部活動の最中に数秒だけ顔を合わせた謎めいた相手、それが目の前の外国人であった事を康介は思い返した。
急に足を止めた康介を訝ったのか、付近の友人達も銘々に立ち止まる。
その康介へと向け、リウドルフは真っ直ぐな眼差しを送った。
「市立病院で、君の診察記録を見掛けた」
何の前置きも無しにリウドルフが言葉を吐き出した刹那、相対する康介の顔が一瞬にして張り詰める。
あたかも、面皮に薄氷が走って行くように。
職員室の戸口の手前に佇んだまま、リウドルフは傍らの少年へと話し掛ける。
「君の通院履歴は、およそ半年前で止まったままになってるな。その後はどうした? 他に掛かり付け医がいるのか?」
「……な、何で、そんな事……」
淡々と質問を投げ掛けるリウドルフの前で、康介は声を震わせた。
「君の『病気』は自然治癒する類のものではない筈だ。通院を止めて、今は一体どうしてる?」
「何なんだ、あんた、突然!? 何で、そんな事知ってんだ!?」
仲間の前で思わず後退りした康介は、怯えと警戒が入り混じる視線を、目の前に立つ教師へ送り付けたのだった。
対するリウドルフは飽くまでも穏やかに、そして冷ややかに、眼前の少年を見据える。
「俺の本業は医者なんだ。難病で苦しむ人間が近くにいれば、手を差し伸べる義務がある。取り分け、君の場合は多発せ……」
瞬間、康介の顔が大きく引き攣った。
多発性硬……
あの忌まわしい単語が、刺々しい電流となって頭の芯で火花を散らす。
「そんなの、あんたにゃ関係無いだろッ!!」
直後、仲間達を始め、付近の生徒達が驚く程の声を康介は唐突に上げていたのだった。
聞きたくなかった。
皆まで言わせたくなかった。
分けても今この時、隣に『あいつ』の居る中では断じて。
「何? どうしたの?」
透が、すっかり狼狽した声を漏らした。
その透の前で、康介はリウドルフを指差しながら、俄然敵愾心を剥き出しにして言い募る。
「人の個人情報を勝手に漁るな!! 何覗き見てんだ!! コンプラ違反だぞ、こんなの!! 何なんだ、お前!?」
廊下の真ん中で、全身の毛を逆立てるように喚き散らすなり、康介は足早にその場を歩き去って行った。
何やら呆気に取られていた友人達も、ややあってその後を追う。
最後に、透だけが、職員室の手前で未だ佇むリウドルフへ不安げな眼差しを寄せた後、仲間の後に続いた。
リウドルフは一人、物憂げな面持ちを湛えていた。
と、そこへ、後ろから声が掛けられる。
「おや、どうされました、テオさん?」
リウドルフが首を巡らせた先に、司が立っていた。
廊下の向こうから生徒に混じって歩いて来た司は、リウドルフの隣で足を止める。
リウドルフは、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや、何でもない」
「そうですか」
にこやかに相槌を打った後、司はそんな相手を徐に覗き込むと、囁くように言葉を遣す。
「……警察に動きが見られました」
廊下を行き交う生徒達の声に紛れて、その言葉が他所へ漏れる事は無かった。
只一人、僅かに目を細めたリウドルフが、傍らに立つ司へ鋭い眼差しを送る。
「確かか?」
「ええ。こちらを」
司は頷いて見せると、顔の前に拳を持ち上げ、ゆっくりと指を開いた。
彼の掌の中央に、一人の小人が座り込んでいた。
萌黄色の狩衣に身を包んだ、親指程の背丈の小さな童であった。
「……何だ、こりゃ?」
些か呆気に取られた様子を覗かせたリウドルフへ、司は微笑を湛えて答える。
「式神の一種ですね。あの『二人組』が置いて行った『見張り』でしょう」
「……『見張り』ね。可愛げがあるだけまだいいが……」
鼻息を吐くと、リウドルフは司の掌に収まった小人を見下ろす。萌黄色の狩衣を着た小人は、まるで木陰で昼寝でもしているかのように、司の掌の上で背を丸めて座り込んだまま動かずにいた。
「『これ』の視覚を通す事で、術者は遠くに居ながらにして、こちらの状況を把握する事が出来るのでしょう。なので、今回はそれを逆に利用させて貰いました。この個体を通じて、あちらの様子を伺ってみたのです。無論、向こうに気取られないよう慎重に」
事も無げに司は言ってのけると、リウドルフの顔を改めて見つめた。
「二時間程前、県警とあの『二人組』が、市内の反社会的勢力のアジトに家宅捜索を行ないました。恐らく、そここそが例の『毒鳥』の『巣』であり、問題の『薬物』の製造元であると思われます」
説明を遣した司を、リウドルフは物憂げに見遣る。
「……で、現場では今正に何かトラブってる真っ最中だと」
「おやおや、随分と察しが良いですね」
「そんな楽しそうに話し掛けて来りゃ、流石に見当が付くよ。付くようになった」
やはりにこやかに答えた司へ、リウドルフが疲れを乗せた眼差しを送った。
然る後、彼は義眼の表に鋭い眼光を乗せる。
「……詳しい状況は?」
廊下を行き交う生徒達の話し声が徐々に大きくなって行く傍ら、二人の教師は密やかに言葉を交わし続ける。
昼の眩い日差しが、窓から差し込む中での事であった。
康介もまた周囲に倣って、仲間達と共に購買部へと赴く。同じように階下に向かう生徒達で、階段には人垣が出来上がっていたのであった。
そうして、康介は中央階段を下り切り、職員室の手前にやって来た。
その時の事であった。
職員室の出入口近くに、『あの男』が立っていた。
担当する授業を終えて、丁度戻って来た所なのであろうか。片手に教材を抱えた、貧相な体格の男性教諭が、生徒の列に埋もれる康介と殆ど偶然目を合わせたのだった。
康介が、怪訝な表情を浮かべた。
人の頭を幾つか越えた先で、その刹那、相手が僅かに面持ちを変化させたのである。
汚れの目立つ皺だらけの白衣を着た、冴えない風貌のその男は、少し離れた所を歩く康介の姿を認めるなり、一転して目元を硬くしたようであった。
そして、そのまま職員室に入ろうともせず、『その男』は生徒の列の横で立ち止まっていた。
ややあって、康介もまた仲間達と共に、『その男』、リウドルフの隣を横切ろうとした。
「……土井康介、と言うのは君だね?」
声が、出し抜けに上がった。
驚いて足を止めた康介を、リウドルフが見つめていた。
「……そうですけど……」
康介は、思わず揺らいだ声を漏らしていた。
突然呼び止められて狼狽えた事もあったが、この時の彼は、ろくに面識も無い筈の相手の遣す眼差しに、言い知れぬ不安を覚えたのであった。
いや、こうして顔を合わせてみれば、かつて出会った事もあったかも知れない。新年度の始まる直前、部活動の最中に数秒だけ顔を合わせた謎めいた相手、それが目の前の外国人であった事を康介は思い返した。
急に足を止めた康介を訝ったのか、付近の友人達も銘々に立ち止まる。
その康介へと向け、リウドルフは真っ直ぐな眼差しを送った。
「市立病院で、君の診察記録を見掛けた」
何の前置きも無しにリウドルフが言葉を吐き出した刹那、相対する康介の顔が一瞬にして張り詰める。
あたかも、面皮に薄氷が走って行くように。
職員室の戸口の手前に佇んだまま、リウドルフは傍らの少年へと話し掛ける。
「君の通院履歴は、およそ半年前で止まったままになってるな。その後はどうした? 他に掛かり付け医がいるのか?」
「……な、何で、そんな事……」
淡々と質問を投げ掛けるリウドルフの前で、康介は声を震わせた。
「君の『病気』は自然治癒する類のものではない筈だ。通院を止めて、今は一体どうしてる?」
「何なんだ、あんた、突然!? 何で、そんな事知ってんだ!?」
仲間の前で思わず後退りした康介は、怯えと警戒が入り混じる視線を、目の前に立つ教師へ送り付けたのだった。
対するリウドルフは飽くまでも穏やかに、そして冷ややかに、眼前の少年を見据える。
「俺の本業は医者なんだ。難病で苦しむ人間が近くにいれば、手を差し伸べる義務がある。取り分け、君の場合は多発せ……」
瞬間、康介の顔が大きく引き攣った。
多発性硬……
あの忌まわしい単語が、刺々しい電流となって頭の芯で火花を散らす。
「そんなの、あんたにゃ関係無いだろッ!!」
直後、仲間達を始め、付近の生徒達が驚く程の声を康介は唐突に上げていたのだった。
聞きたくなかった。
皆まで言わせたくなかった。
分けても今この時、隣に『あいつ』の居る中では断じて。
「何? どうしたの?」
透が、すっかり狼狽した声を漏らした。
その透の前で、康介はリウドルフを指差しながら、俄然敵愾心を剥き出しにして言い募る。
「人の個人情報を勝手に漁るな!! 何覗き見てんだ!! コンプラ違反だぞ、こんなの!! 何なんだ、お前!?」
廊下の真ん中で、全身の毛を逆立てるように喚き散らすなり、康介は足早にその場を歩き去って行った。
何やら呆気に取られていた友人達も、ややあってその後を追う。
最後に、透だけが、職員室の手前で未だ佇むリウドルフへ不安げな眼差しを寄せた後、仲間の後に続いた。
リウドルフは一人、物憂げな面持ちを湛えていた。
と、そこへ、後ろから声が掛けられる。
「おや、どうされました、テオさん?」
リウドルフが首を巡らせた先に、司が立っていた。
廊下の向こうから生徒に混じって歩いて来た司は、リウドルフの隣で足を止める。
リウドルフは、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや、何でもない」
「そうですか」
にこやかに相槌を打った後、司はそんな相手を徐に覗き込むと、囁くように言葉を遣す。
「……警察に動きが見られました」
廊下を行き交う生徒達の声に紛れて、その言葉が他所へ漏れる事は無かった。
只一人、僅かに目を細めたリウドルフが、傍らに立つ司へ鋭い眼差しを送る。
「確かか?」
「ええ。こちらを」
司は頷いて見せると、顔の前に拳を持ち上げ、ゆっくりと指を開いた。
彼の掌の中央に、一人の小人が座り込んでいた。
萌黄色の狩衣に身を包んだ、親指程の背丈の小さな童であった。
「……何だ、こりゃ?」
些か呆気に取られた様子を覗かせたリウドルフへ、司は微笑を湛えて答える。
「式神の一種ですね。あの『二人組』が置いて行った『見張り』でしょう」
「……『見張り』ね。可愛げがあるだけまだいいが……」
鼻息を吐くと、リウドルフは司の掌に収まった小人を見下ろす。萌黄色の狩衣を着た小人は、まるで木陰で昼寝でもしているかのように、司の掌の上で背を丸めて座り込んだまま動かずにいた。
「『これ』の視覚を通す事で、術者は遠くに居ながらにして、こちらの状況を把握する事が出来るのでしょう。なので、今回はそれを逆に利用させて貰いました。この個体を通じて、あちらの様子を伺ってみたのです。無論、向こうに気取られないよう慎重に」
事も無げに司は言ってのけると、リウドルフの顔を改めて見つめた。
「二時間程前、県警とあの『二人組』が、市内の反社会的勢力のアジトに家宅捜索を行ないました。恐らく、そここそが例の『毒鳥』の『巣』であり、問題の『薬物』の製造元であると思われます」
説明を遣した司を、リウドルフは物憂げに見遣る。
「……で、現場では今正に何かトラブってる真っ最中だと」
「おやおや、随分と察しが良いですね」
「そんな楽しそうに話し掛けて来りゃ、流石に見当が付くよ。付くようになった」
やはりにこやかに答えた司へ、リウドルフが疲れを乗せた眼差しを送った。
然る後、彼は義眼の表に鋭い眼光を乗せる。
「……詳しい状況は?」
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