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去年のリッチな夜でした

その35

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 全く、世の中と言う奴は、変な所で『便利』に出来てるもんだ。
 車の運転席から外の様子を眺めつつ、薬師寺弘樹は他人ひとごとのようにそんな感慨を抱いたのだった。
 時刻は、朝の十時を回った辺りである。
 商店街に軒を連ねる店の多くが営業を始める頃ではあったが、同時に、通勤通学時間帯を過ぎた路上は人の流れがまばらになりつつあったのだった。
 朝日を受けた路面が、白く輝い見える。
 その光に浮かぶ建物の一つに、薬師寺は車のフロントガラス越しに目を向けていた。
 路肩に停められた緑色のスポーツカーの斜交いに、そのビルは屹立している。それ自体は特に目立つ箇所も見当たらぬ、灰色の雑居ビルである。
 しかるに『そこ』こそが、忘れもしない一週間前、宵闇の中から突如として現れ出でた『蜘蛛』の元来たる場所であり、同時に、一連の『薬』の出所であろうと推察される場所であった。
 あれ程強力な使い魔の残した『痕跡』を辿たどる作業自体は、して難しいものではなかったらしい。薬師寺と鬼塚が市立病院に運ばれた翌日には、責任者である白井自らが追跡の結果を伝えに来たのである。
 その調査結果には、薬師寺も鬼塚もそこまで驚きはしなかった。
 しかし、両者が入院している五日ばかりの間に、事態は目まぐるしい速度で進展を遂げたのだった。
 問題のビルの所有者が『安木商事』、指定暴力団の傘下に収まる反社会的勢力であると判明した直後から、県警へと速やかな連携が取られたらしく、水面下で対策が急速に進んだ。
 そもそも、焦点となる『密売人の殺害』の関与以外にも、公共料金の未払いや路上での恐喝及び乱闘など、様々な火種がすでいくつもき散らされてくすぶり続けていたらしい。
 後は何を『決め手』として検挙に打って出るか、県警側でもタイミングを見計らっていた最中で起きたのが、先の一件であった。
 無論、県警のトップに決断を求められるだけの、我らがトップの交渉手腕も大きく影響しているのは疑いの無い所であるだろうが。
 薬師寺がそこまで回想した時、道の向こうから数台の警察車両が近付いて来た。サイレンは鳴らさず、朝の街並みを静かに進むその車列を、薬師寺は向かいから眺めていた。
「……お出でなすったか」
 助手席で、同じく前方を見ていた鬼塚が、ぼそりと呟いた。
「所轄に腰を上げさせたんだ。これにて一件落着って流れンなりゃいいが……」
「さて、何を以って『解決』とすべきなのか……」
 鬼塚が鼻息交じりに漏らした言葉に、薬師寺は冴えない表情を浮かべたのだった。
 人通りの依然少ない路地に、警察車両が相次いで停められて行く。
 朝の日差しが、一連の様子を淡白に照らし出していた。

 その五日前、病室を訪れた近藤将之は渋面を作るなり、開口一番に悪態をいたのだった。
「ったく、人から仕入れたネタをこっそり使うから、仲良くそういう目にうんだよ。これだから公安は……」
 それぞれに宛がわれたベッドの上で、薬師寺と鬼塚は、互いに示し合わせたかのように視線を脇へと逸らした。ベッド脇に吊るされた点滴パックが、窓から差し込む日差しを浴びて、きらきらと無邪気に輝いた。
 挨拶代わりに文句を垂らした後、病床に就いた二人の前で、近藤は頭をいた。
「田子の野郎にしてもなぁ、動きは追ってたんだが、よもや殺されるたぁ思わなかった。早くにお縄に付いときゃ良かったもんを……」
 いささか残念そうに呟く近藤の向かいで、鬼塚が口先を尖らせる。
「だあって、しょうがないじゃないっスかぁ。うちらもいい加減、形振なりふり構ってらんなくなってたんスから。溺れる者はわらにもすがるんスよ。自分で言うのも何だけど」
「で、人が知らずに落としてったわらへ勝手にすがった挙句、二人そろってまたぞろ病院のお世話ンなったと」
 溜息交じりに近藤が指摘すると、薬師寺もベッドの上で鼻息をいた。
「こっちも毎回、好きでババ引いてんじゃないですよ。今回は自業自得と言われると苦しいですけど」
「近藤さんは? 相変わらず、行方不明の売人の足取りを追ってんですか?」
 鬼塚の質問に、近藤は肩をすくめて見せた。
「ああ。だが、マジでここいらが切り上げ時かもな。『暗室そっち』の領分になったんだろ、この一件ヤマは?」
「ええ……」
 それまでよりも神妙な口調で問うた近藤へ、薬師寺も同様に真顔で首を縦に振った。
 近藤は足元に目を落として、今一度頭をく。
「じゃあ、無力な一般人は精々せいぜい足手まといになんねえ内に引っ込むとするよ。公務員だって命あっての物種だからな」
 そう宣言した後、しかし、近藤はわずかに眼光を強めて、目の前の二人へと問い掛ける。
「……んで、事件の全体像ってのは見えて来たのか?」
「一応はね」
 鬼塚が短く答えた。
「なら、帰り掛けの駄賃に一応お聞かせ願いたいね、そっちの事情って奴も。図らずも捜査に協力した形ンなった訳だし、多少は誠意を見してくれたってバチは当たんねえよなぁ?」
 壮年の警官の遣した図々しくももっともな訴えを受けて、病床の二人はそれぞれに肩を落としたのだった。
 窓ガラス越しに、小鳥のさえずりが病室に染み渡る。
「……まあ、まず前提として、そもそも例の『薬』が、短期間に何だってここまでシェアを伸ばせたのか、ってのがあって、それは価格もそうなんですけど、合致する『ニーズ』を持った顧客が多かったってのが原因の一つとしてあるみたいなんスわ」
 ベッドの上で胡坐あぐらいて、鬼塚が切り出した。
「『需要ニーズ』ってぇと? 単純にハイになりたいって訳じゃなかったのか?」
 小首を傾げた近藤の前で、鬼塚が揉み上げの辺りを人差し指でいた。
「それもあんでしょうけど、『薬』の効能として特に重宝されたのは、疲れも眠気もブッ飛ぶってトコだったんだそうで」
 鬼塚の説明の後、薬師寺はベッドの端に腰掛けると、溜息交じりに言葉を継いだ。
「俺らがこのヤマに当たる切っ掛けになった事例に、市内のナイトクラブで、客の一人が突然倒れたってのがあったんですが、そいつが最近やっと意識を取り戻して、ぽつぽつと自供を始めるようになったんですよ」
 言いながら、薬師寺は眼差しを宙に持ち上げる。
「……まあ、話自体は実に他愛の無いもので、社会人になって仕事にも慣れて、身の回りの色んな物事に目を向ける余裕も出来て、で、そいつは次第に夜遊びに夢中になってったんだそうです」
「新社会人あるあるだな。そいつの場合はクラブ通いに沼ったって寸法か」
 近藤の差し挟んだ言葉に、薬師寺は相手に顔を戻してうなずいた。
「店の関係者曰く、一年足らずの間に、すっかり顔馴染みになってたんだとか」
 隣のベッドで、鬼塚が大袈裟に肩をすくめて見せる。
「俺もたまに行くんスけど、やっぱ、楽しい代わりに疲れんスよね、ああいうトコって。夜通し踊り明かすとなりゃあ尚更なおさら
 薬師寺が、少し目を細めて説明を続ける。
「なので、そいつも段々と、仕事と遊びの両立がキツくなって来てたんだそうです。そんな折、同じクラブの客から、良い『眠気覚まし』になるって紹介されたのが、例の『薬』を始める切っ掛けになったんだそうで」
「おいおい、『眠気覚まし』って、そこらの栄養ドリンク飲んどきゃいいだろ、そんなの。何もヤバい薬に手ェ出さなくたって」
 近藤が呆れた口振りでぼやくと、鬼塚が疲れた口調で言葉を返す。
「そりゃその通りなんですけど、使った奴らの話じゃ、やっぱ効き目が全然違うんですって。科警研の報告じゃ、使用者の神経細胞を活性化させて、所謂いわゆる『意識を研ぎ澄ます』状態に強制的に持ってくらしいんですわ」
「使用者の供述を信じるなら、言動がおかしくなる程、極端に気分が高揚したり、妙な快感を得られたりするたぐいの代物ではないそうです。充実感や自信が湧くとは言ってましたが」
 薬師寺が捕捉を遣した後、近藤は腕組みをして険しい面持ちを浮かべた。
「……つっても、害が少なそうに聞こえてもよぉ、結局は『違法薬物』なんだろ? 現に意識不明者が何人も出てる訳なんだし」
 その指摘に、薬師寺も真顔で首肯しゅこうする。
「正にその通り。神経を強引に活性化させる、まして依存症になればそれをずっと繰り返す事になる訳ですから、体にどんどん無理が積み重なって行くんですよ。自律神経系が次第に機能不全に陥り、最終的には心肺にきちんとした命令が伝わらなくなって、『呼吸困難』の『意識不明』で倒れる事態に行き着く訳です」
 薬師寺の言葉の後で、鬼塚が片方の眉を持ち上げて宙を見上げた。
「……案外、全国の行倒れや睡眠中の突然死なんかも深く掘り下げりゃあ、根っ子の繋がった案件がいくつも出て来んじゃないスかね?」
 そこで、薬師寺は目元を歪めた。
「ドーピングと同じで、どうしたって自分の体はだませない。他人よりもまず自分に誤魔化しが効かないんですよ、こういうのは。それでも手を出す奴らってのは、そうは考えないもんなんでしょうが。『自分だけは大丈夫』、『自分だけは共存出来る』、『少しだけなら』、『用量を守ってさえいれば』、どいつもこいつもそんな風に考えて……」
 何か良くない過去を思い起こしたのか、薬師寺はうつむき加減で首を左右に振った。
 珍しく感情を表に出した相手に影響されてか、近藤も苦い面持ちをたたえる。
「実際は、そう思ったが最後、すでに地獄の一丁目に足を踏み入れてるもんだ。中毒者あるあるだな」
 外で雲が掛かったのか、窓から差し込む日差しがかすかにかげった。
 風に煽られた街路樹が、梢をざわめかせた。
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