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去年のリッチな夜でした

その32

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 翌日、同じような昼の日差しが差し込む職員室に、月影司は戻ったのであった。
 昼休みに入ってすぐ、校庭や廊下からは大勢の歓声が届き、窓から吹き込む風を後押ししているかのようであった。
 そして程無く、司は自分にあてがわれた机の前で立ち止まるついでに、隣の机で小難しい表情を一人浮かべているリウドルフへと話し掛ける。
「どうしたんです、先週から? 授業の時以外はめっきり塞ぎ込んでいるようで」
「ああ、まあ、面倒事に首を突っ込んでるからねぇ、今」
 顔は机に向けたまま、リウドルフはいささか行儀悪く答えた。
 彼は今、机の上に置いたタブレット端末を覗き込んでいる最中であった。そのタブレット端末の液晶画面には、何らかの構造式がずらりと並んで映し出されていた。
「……ちょっと待ってくれよ。ここは二重結合を持って来るべきなのか? だが、これだとこの先どう派生させる?」
 時間柄、若しくは陽気柄、穏やかな賑わいの只中に置かれた職員室内で只一人、リウドルフは机の上で額を押さえた。
 その隣の席へ、司も腰を下ろす。
「何やら悪戦苦闘の御様子。天下の大化学者も頭を抱える程の難題となると、これはもう、次の世代へ期待を込めて託すより他無いのでしょうか?」
「そんなこたァ無い! 今に組成から分子構造からことごとすべからく解析して見せよう! 何世紀にも渡る我が遍歴へんれき矜持きょうじに賭けて!」
 丁度ちょうど向かいの席を通り掛かった女性教諭が、思わず驚いた表情を浮かべたが、結局何も言わずに通り過ぎて行った。
 多少大袈裟に見得を切った後、リウドルフは椅子の背凭せもたれに寄り掛かった。
 そうして背筋を一度伸ばすと、彼はかたわらで今も面白そうにこちらを眺める司へと目を向ける。
「……何、たまには『流行り』に乗ってみるのも悪くないかと思ってね。校長から周知を受けた手前もあるし、可愛い教え子達が如何わしい輩にたぶらかされない内に、手を打っておく必要もあるかと思った訳だ」
「それで寝食を忘れて没頭されるのは結構ですが、教師としても一社会人としても、公序良俗に反する真似だけはつつしんで下さいね。御存知の通り、この国では『薬物』の使用や購入については兎角厳しいのです」
 司ににこやかに指摘されて、リウドルフは天井を仰いで鼻息をいた。
「と釘を刺された所で、この御時勢、『薬』なんかネットで簡単に手に入るのも事実だしなぁ。実際、いとも簡単に手に入ったよ。『林檎リンゴ』に『薬』と打ち込むだけで検索に引っ掛かるんだから、いやはや怖ろしい時代になったもんだ」
 そう言った所で、リウドルフは司へ瞳だけを向けた。
「いや勿論もちろん、『国際託宣統括機関 I O S O 』に連絡済みではあるよ。独自に調査してみる意思も含めて、警察に便宜べんぎを図るよう要請もしておいたし」
「合わせて、『薬』の購入費用も経費で落としてくれと?」
「そうそう。だからこそ、目ぼしい成果を上げなきゃ、いよいよ肩身が狭い思いをする事になる訳だ。ぐずぐずしてると、あちこちから変な目で見られかねないし」
 ぼやくように司へ答えた後、リウドルフは依然椅子に寄り掛かったまま、机上のタブレット端末を見下ろした。その液晶画面に映し出された複雑な構造式を眺める内、リウドルフの目元に徐々にしわが寄って行った。
「しかし、思いのほか厄介な相手なんだよな、これが。分子構造もそうだが、何を原料としているのかがまるで判らない。何かの異性体(※同じ原子を配しながら、異なる分子構造を持つ物質)であるのかさえ判別出来ない状況だ。いくら分析を進めても、むしろ進めれば進める程、製造工程に疑問が湧いて来る。何かをベースとしたデザイナードラッグ(※異性体を利用した、所謂いわゆる『マイナーチェンジ』型の脱法ドラッグ)なのか、全く新種の薬物なのか……」
「西洋の知見で紐解ひもとけないと来れば、残るは『漢方』のたぐいぐらいでしょうかね?」
 司の差し挟んだ言葉に、リウドルフは渋面を作った。
「そこも考えたんだがねぇ……『漢方』とも少し異なるようなんだ。構造式に近い所は見出せるんだが……」
「そもそも、『薬』と『毒』と言う違いがありますしね。自分で引き合いに出しておいて何ですが、人体に害を及ぼす『漢方』と言うのも無い訳で」
 司は整頓の行き届いた机から教材を取り出すのと一緒に、しんみりとした声で指摘した。
 椅子に寄り掛かったまま、リウドルフが頭の後ろで両手を組む。
「そりゃそうだが、薬剤師としての観点から言えば、土台『薬』と『毒』には明確な区分なんか無い。『漢方』を含めた植物由来の薬、つまりはアルカロイドを抽出して作られた薬なんて、その多くが元々は毒として用いられて来た代物なんだし、現在使用されてる抗癌剤や向精神薬なんかも格好の事例となるだろう。『毒』に成り得ない『薬』など存在しない。『薬』も過ぎれば『毒』となる、だ」
 一方、その様子を尚も面白そうに眺めながら、司はまた言葉を差し込む。
「……そして、『毒』は加減で『薬』となる。貴方にも見当が付かないとなれば、余程入り組んだ作りの『毒』ないし『薬』なのでしょうが、私も『本職』の都合上、一つ思い当たる節があります」
「へぇ、該当する薬効の物が仙丹にあるのかね?」
 リウドルフが、おもむろに司へと首を巡らせた。
 その彼の見つめる先で、司はゆっくりと一つの単語を吐き出す。
「『蟲毒こどく』」
 して強くもない語気が、確かに空気を震わせた。
 その刹那、リウドルフの両眼がにわかに見開かれる。
 校庭で騒いでいるらしい生徒達の声が、それぞれの席に着いた両者の間を素通りした。
「……いや、あれは……」
 眉をひそめて独白してすぐ、リウドルフは椅子から身を起こすなり口元を押さえた。
「いや、待てよ……そうか、薬効に当たるものを上手く抽出出来れば……!」
 表情を一変させたリウドルフの隣で、司は小さく肩をすくめた。
「実を言いますと、中国大使館から先頃通知が来ていたんですよ。あちらの公安部が長年動向をうかがっていた犯罪者が、こちらへ流れ着いた疑いが強まったと。もし、『それ』が一連の『薬』の出所に潜んでいるのだとしたらあるいは、と素人なりに勘繰かんぐってみたのですが」
 しかるに、いささかばつが悪そうな響きを含んだその言葉も、今のリウドルフの意識にはほとんど届いていない様子であった。
 張り詰めた面持ちを浮かべたリウドルフは、頭の中で何かを反復させるように、眼差しを中空に据えていたのである。事実、この時の彼の脳裏では、さながらメトロノームのように、いくつもの思案が目まぐるしく往復を繰り返していたのだった。
 昼休みの終了を告げるチャイムが、校舎に鳴り響いた。

 そしてその夜、リウドルフは市立病院のスタッフルームの片隅で、テーブルに置かれたノートパソコンの画面を睨んでいたのであった。
 時刻は十時を回り、院内もひっそりとした空気に包まれている。宿直の医師や看護師を除いて多くの職員が帰宅した今、六畳程の広さのスタッフルームもまた閑散としていた。
 そんな静けさの中、リウドルフは脇目も振らず、パソコンの画面に表示される無数の情報を独り凝視し続けたのだった。
 そうして、静寂の内にどれ程かの時間が過ぎた頃、その肩に手が置かれた。
 椅子に腰掛けたままリウドルフが首を巡らせてみれば、背後に初老の男が佇んでいた。
「これは院長先生。お疲れ様です」
「御精が出ますな」
 リウドルフの後ろに立った初老の男は、にこやかに言った。
 丸々とした体躯をスーツに包んだその男、山田やまだおさむは、スタッフルームの隅の方で取り残されたように作業を続けるリウドルフへ笑顔を向けたのだった。
 これから帰宅する所なのだろうか。
 良く整った相手の身形みなりを確認して、リウドルフも姿勢を正した。
 その彼の前で、山田は軽く会釈する。
「今夜もまた遅くまで残られて、きちんとした雇用契約を結んだ訳でもないのに申し訳無い」
「何、私は眠らなくても余りこたえない体質でしてね。他のスタッフが仕事に追われているのに、自分だけ暇を持て余しているのも何だか後ろめたいので、こうして勝手に助っ人にしゃしゃり出ている次第で。ああ、手当の事なら御心配無く。後で『国際医学団体協議会 C I O M S 』なり『世界保健機関 W H O 』なりの尻を叩いて、自治体の方にでも請求させますから。そちらに御迷惑が掛からないよう取り計らって」
 事も無げに言った後、リウドルフはテーブルに置いたパソコンの画面を一瞥する。
「……それに、今日の居残りは好きでやっている事ですよ。個人的な調べ物の為に病院の記録をあさらせて頂くのも恐縮ですが、これまで見過ごして来た『事実』が大量に隠れているのではないかと思いまして。主に血液検査の方面で」
「人の役に立つ調べ物なのでしたら、どうぞ腰を据えて行なって下さい。幸い、今の所、急患も運ばれて来ませんからなぁ」
 窓の外をちらと垣間見ながら山田が言うと、リウドルフはわずかに首を傾かせた。
「……そう言えば、こちらの病院でも、人手不足は問題になっているのですか?」
 リウドルフの問い掛けに、山田は丸い顔を戻してそれを縦に動かした。
「ええ、残念ながら。まだ、地方の医療施設程深刻と言う訳ではありませんが」
 しんみりとした物言いに、リウドルフも幾度いくどうなずく。
「こればかりは、人口減少に歯止めを掛けない限り、どうしようも無いでしょうなぁ。他所よそから紛れ込んで来た独り者が、偉そうに御託を抜かせる立場でもありませんが、どうした所で『頭数』が減れば、一人当たりに伸し掛かる『仕事量』と『課税額』は増えて行く一方ですから」
 そう言うと、リウドルフもまた窓の外へ目を移す。
 高台に建てられた病院の窓からは、遠くの夜景が良く望めた。小さな光を銘々に輝かせたビルやマンションの群は今日も変わらず、宵闇の中で何処か所在無さそうにたたずんでいる。
 近くて遠いその景色を、リウドルフは義眼の表に映し込んだ。
「諸々の流動化、既婚女性や高齢者の積極的再雇用など盛んにうたってみた所で、結局は朝三暮四の域を出ないでしょう。どうにかして社会の『分母』を増やさない限り、この問題は決して解決を見る事は無いでしょうね」
 それから、彼は顔を前に戻して目を細める。
「耳通りの良い派手な経済政策を打ち出して、その場の気勢だけは上げられたとしても、精々せいぜい五年もすれば鍍金メッキは剥がれて発条ゼンマイも切れる。所詮は何も変わっていないのだと言う事実を否応無しに突き付けられる度に、いずれ本当に立ち行かなくなるのではないかとの不安ばかりが募って行く……」
「かも知れませんが、その『不安』に向き合うのも『我々』の務めでありますので」
 山田が穏やかに遣した指摘に、リウドルフも苦笑を浮かべた。
御尤ごもっともですね。立場もわきまえずに失言を重ねました。どうか平に御容赦を」
 そう告げて、リウドルフは小さく頭を下げた。
 それから程無くして、山田はスタッフルームを去り、室内には再びリウドルフだけが残された。
 辺りは、相変わらず静かであった。
 パソコンの画面に眼差しを据えながら、リウドルフは独り言つ。
「……『黄金の林檎ゴールドアップル』、か……」
 少なくとも、ギリシャとスカンジナビア半島に伝わる神話の中に、『それ』は登場する。かの『生命の樹』と同じく神域にのみ自生し、至高の存在たる選ばれし『神々』に、決して衰えぬ『活力』を与えたのだと言う。
 似たような効力を持つ伝説上の果実は、他所の伝承の中にも複数存在している。
「……だが、所詮は『御伽噺おとぎばなし』の産物だ。苦海に身を沈めて何を切望しようと、『在り得ないもの』をいつまでも追い求めていれば、いずれ必ず、重い『代償』を背負わされる事となる。それが泡沫うたかたの存在たる『人』の『限界』なのだ……」
 むしろ己の胸の奥深くに染み込ませるように、孤高の賢人は独白した。
 パソコンを操作する乾いた音が、深夜の病院の片隅にいつまでも鳴り響く。
 快晴の夜空に、白い三日月が昇っていた。

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