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去年のリッチな夜でした

その30

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 扉を開いた途端、真っ先に舞い込んで来たのは旋風つむしだった。
 次いで、外の明るさが目に飛び込む。
 塔屋ペントハウスの敷居をまたいだ所で、中村三郎は目を二三度しばたたいた。
 春の昼下がり、日差しは燦々と降り注ぎ、屋上をくまなく照らし出していた。
 と言って、お天道様にわざわざ照らされる程の値打ちのある空間であるか否かは、中村の目にも怪しい所であった。土台、一面が剥き出しのコンクリートに覆われ、室外機が並ぶだけの殺風景な場所である。
 それでも、青空を広く望めれば、幾分いくぶんかは心の静養になろうと言うものだ。
 そう思った中村の感慨が引っ繰り返ったのは、屋上を歩き始めて実に五秒も経たぬ内の事であった。
 屋上の角の手摺てすりに、『あいつ』が寄り掛かっていた。
 昼の日差しの下でも尚、血色の悪い肌をさらした中国人、『チェン』が。
 間に敷居も何も無い、屋上と言う空間での事である。『チェン』もすぐに、新たに現れた中村の姿に気付いたようであった。
「やあ……」
 吹き抜ける風に、低い声が流れた。
 『チェン』は手摺に背中を預けたまま、自分の方へと歩いて来る中村へと言葉を遣す。
「また来たのか、あんた。随分と甲斐甲斐しいね」
「仕事だからな……」
 中村がにこりともせずに答えると、『チェン』は目を細めて笑った。
「じゃあ、しょうがない。勤め人の悲しい所だね」
 ここ二週間程で、『こいつ』の話す言葉もかなり流暢なものに変わって来ていた。仕事を円滑に進める手前、無論喜ぶべき変化ではあるのだろうが、中村には、そのコミュニケーションの熟達具合が、かえって自分の胸の内をのぞき込まれているように思えてならなかったのだった。
 とまれ、そんな相手の手前、一メートル程の距離を置いて、中村は足を止めた。
 そうして、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出しながら、彼はかたわらに立つ『チェン』へと訊ねる。
「そっちはどうしたんだ? 珍しいじゃないか。こうして仕事場から出て来るなんて」
たまには外の空気を吸いたい時もある」
「へぇ、お前さんでも、そんな風に思う時があるんだな」
 小さく一笑しながら、中村は煙草に火を付ける。
 細い紫煙が、屋上の端に立ち昇った。
 その様子を眺めていた『チェン』が、今度は鼻先で笑った。
「面白いね、日本人リーベンレンて。『薬』にはとやかく言う癖に、煙草にはまるで無関心なんだから」
「そうでもない。煙草これだって年々締め付けが厳しくなってる。大体、お前の国元だって、扱いは似たようなもんだろ? 『薬』絡みの犯罪に関しちゃ、日本以上に刑罰が重かったはずだ」
「そうだったかな。法律なんて気にした事も無かったから判んないな」
 中村がいささか不機嫌に言葉を返しても、『チェン』は顔色を特段変える事も無かった。
 それから、『チェン』は手摺てすりに寄り掛かったまま、空を仰いだ。
 小さな浮浪雲はぐれぐもが、両者の頭上に漂っていた。
 十秒程の沈黙を挟んだ後、中村は眼差しは前に据えたまま、おもむろに口を開く。
「……お前、何でこの稼業に就こうと思った?」
 落ち着いた声で訊ねられて、『チェン』は顔を中村の方へと向ける。
 その中村は依然として前を向いたまま、『チェン』に横顔をさらしたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「お前ぐらいの知識と技術があれば、もっと他に稼ぎ方も見付けられたんじゃないか? 普通に薬剤師にも研究者にもなれたろうに、どうして、こんな切った張ったの世界に身を置こうと思った?」
「あんたが言うの、それ?」
 『チェン』が眉根を寄せて苦笑を遣すと、中村も渋面を作る。
「お前がこうしてお天道様の光を浴びに出て来たんだ。俺だって多少は真っ当な事を言う気分にもなるさ。春の陽気の所為せいだ」
「変な人」
 『チェン』はまた一笑したが、ややあって息を吐くと、中村と同じく視線を前へと向けたのであった。
「……ただ何となくだよ。何となく。『薬』の作り方にしたって、元は人から教わったものだもの」
 しんみりとした物言いに、中村がわずかに首を巡らせる。
 その彼の見遣った先で、『チェン』は切れ長の目を細めた。
「俺が生まれた所は山奥の農村だった。外に出てから思い返してみれば、『前時代的』って言葉がぴったり当てまる、そんな有触れた片田舎だった」
 そう切り出してから、『チェン』は中村をふと一瞥した。
「『文革ウェングー』は知ってる?」
 問われた中村は、煙草をくわえたまま『チェン』へ目を向けた。
「『文化大革命ウェンファーダーグンミン』だろ? 半世紀ぐらい前に起きた『知識階級インテリゲンチャ』に対する一大排撃運動……いや、国を挙げての単なる内ゲバか……」
 中村がしたる興味ものぞかせずに言うと、『チェン』もうなずいた。
「俺も学校の授業で聞いたぐらいだけども、その頃に紅衛兵ホンウェイビンの目を逃れて移り住んで来たって言う爺さんが、村にいたんだよ。人付き合いは悪かったけどね。でも、子供の頃は面白がって、怖いもの見たさって言うの?、兎に角子供っぽい好奇心から、その爺さんへ出入りしていた」
「ああ、その『爺さん』てのが『術者』だったと……」
「そういう事。俺の直接の『師父シーフー』って事になるのかな」
 これと言って懐かしさもにじませず、全くの他人事のように解説した『チェン』を、中村は横目で見つめた。
 その後、中村は煙草を一旦いったん口から外すと、その灰を足元に落としながら、ふと鼻息をく。
「で、その後に村を離れて黒社会入りしたのか」
「そうだね。丁度ちょうど改革開放ガイグカイファン』とか言って、世の中盛り上がっていた頃だったから、外の様子を確かめてみようって気になったのかも知れない」
 やはり無頓着に、『チェン』は述懐じゅっかいした。
 そうして、『チェン』は再び空を仰ぐ。
 屋上にたたずむ彼らの頭上には、淀む所の何一つ無い、水色の明るい空が何処までも広がっていた。
「だから、『何で』なんて訊かれても困るんだよ。何もかも『偶々たまたま』さ。俺はただ、その時々の周りの要望に何となく応えて来ただけだ。術を教わったのも偶々たまたまなら、教わった知識や技術が必要だって、最初に言って来たのが黑手党ヘイショウダンの連中だったのも偶々たまたま日本ここにこうして今居るのも、大した理由なんか無い。全部偶然の産物だ」
「物の弾みって奴かね、要するに……」
 中村はまた煙草を口に戻し、気の無い相槌を打ったが、相手を流し見たその瞳の奥には、細くも鋭い光が瞬いていた。
 嘘とは違うようだが、本意全てでもないのだろうな。
 『こいつ』が、あんな『眼』をした奴が、まるで無気力に、他人に顎先で使われるがまま、状況にただ流されるがまま、唯々いい諾々だくだくと暮らして行けるとは到底思えない。
 大体、それならそもそも、国元の暗黒街にいてすらうとまれて、こうして異国に流れ着くような事態なぞ招かなかったはずである。
 ……『こいつ』の『望み』は何なんだ?
 胸の奥で新たに浮かんだ疑念に押されるように、中村は煙を勢い良く吐き出した。
 舞い込んだ風が、両者の間に漂う煙をたちまち押し流して行く。
 春の昼下がりは、ひたぶるに長閑のどかであった。
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