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去年のリッチな夜でした

その29

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『土井康介様。土井康介様』
 名前を呼ばれて、康介は腰掛けていたソファから立ち上がった。
 窓を通して、蝉の声が伝わって来る。壁一面の明かり窓から差し込む日差しは未だ強く、大きな窓には全てロールスクリーンが下ろされていた。
 同じく順番を待っていた人々の後に続いて、康介は程無く、会計の前まで移動した。
「こちらが処方箋となります。薬局に提出して下さい」
 初老の女性に渡された一枚の紙を、康介は物憂げに眺める。細かい文面など判らないが、『それ』が目の前に在ると言う確たる事実が、康介の視界と気分をにわかに重くしたのであった。
 それでも少しして、彼は一礼して歩き出すと、見せ付けるように今もまばゆい光が降り注ぐ外へ向かおうとした。
 その矢先の事であった。
「あれ、康介じゃん」
 聞き慣れた声が、矢庭に耳に届いた。
 康介が驚いて顔を上げた斜交いに、金子透が立っていた。
 正に今、正面玄関のガラス戸を潜って来たばかりの所であったろうか。二人の少年は、病院の入口近く、待合スペースの外れの方で顔を合わせたのであった。
「何? お前、怪我したの?」
 日に良く焼けた透は、外の日差しそのままに朗らかに声を掛けて来た。
 対する康介は、何処かばつが悪そうに、依然として浮かない面持ちで短く答える。
「ああ、ちょっと……」
「お前、夏休みの練習も休みがちだったもんなぁ。大丈夫かよ?」
「うん。先生にも言ってあるから……」
 一切の屈託無く、純粋に心配そうに訊ねて来る透へ、康介は歯切れ悪く答えた。
 しかる後、康介は思い出したように相手を見遣る。
「お前は? どっか痛めたのかよ?」
「いやぁ、親父の見舞いだよ、見舞い」
 透が少し照れ臭そうに答えると、康介もいささか驚いた表情を浮かべる。
「え? どっか悪いの、お父さん?」
「いや、それが全っ然。痔だよ、痔。切痔で入院してんの」
 苦笑を浮かべて、透は実に開けっ広げに打ち明けたのだった。
「何だか本人はずっと浮かない顔しててさ、思い詰めた様子で母ちゃんと話し込んでたかと思ったら、いきなり入院するとか言い出しやがんの。んな、痔でなぁ、一週間もなぁ」
「ああ……」
 相手に合わせて康介も苦笑を浮かべたが、一方で同情的な眼差しを相手に返した。
「……でも、それで苦しんでる本人には一大事なんじゃないのか? はたからどう見えてても」
「そりゃそうだろうけどさぁ、何か長い事ふさぎ込んでたから、変に心配しちゃったよ、こっちは。最初っから、もっとオープンに話しゃいいものを」
「はは……」
 乾いた笑いを、康介は漏らしていた。
 この時、康介の視界から、透の姿は急速に遠退いて行ったのだった。
 透ばかりではない。
 待合スペースで呼び出しを待つ人々も、玄関から新たに病院へ入る人も、外へと出て行く人も、せわしなく往来する看護師や事務員も、全てが湾曲した視界の外へと押し出されていたのであった。
 遠い前方で、透が尚も何事かをしゃべっている。
 ……そうだ……
 ……言ってしまえ……
 ……話してしまえ……
 康介の脳裏で、冷たく硬い声が鳴り響いた。
 まるで、傷のうずきの如くに。
 ……話したっていいだろう、『こいつ』には……
 ……『こいつ』には……
 ……でも……
 康介は、乾いた唇を静かに結んだ。
 ……でも、そうしたら、『こいつ』は……
 ……『こいつ』は一体どんな目で、こっちを見て来るんだろう……
 ……どんな眼差しを、『俺』に向けて来るんだろう……
 ……どんな風に、『俺』を……
 ……『俺』を……
 透は、至って朗らかに話し続けていた。
 全く以っていつもの通り、練習の合間に垣間見せる天衣無縫の態度そのままに、今も『こいつ』は当たり前の振る舞いを続ける。
 こちらの胸の内など気付きもせずに。
「母ちゃんの話じゃ、一昨日は下剤呑んでひいひい言ってたらしくって。まずは腸ン中を空っぽにしなきゃいけないんだとかで、手術に入る前から大変だったらしいわ。今日辺りんなりゃ、多少は元気ンなってるかなと思って来たんだけど」
 困ったように笑った透へ、康介も笑顔を返した。
「んじゃあ、励ましの言葉も掛けてやれよ。おじさんも退屈してるかも知んないし」
 そう言った後、康介は片手を上げた。
「じゃ、俺はこれで」
「おう。わりいな、何か引き止めたみたいで」
「いや、引き止めてたのはこっちだろ。早くおじさんトコへ行ってやれよ」
 康介が苦笑交じりに指摘すると、透も片手を上げて見せた。
「んじゃ。お前も早く怪我治せよ」
「ああ……」
 そう告げて自分の横を歩き去って行く透の姿を、康介は肩越しに見送っていた。
 その面持ちは硬く、目元には責めるともすがるとも付かぬ険相が表れていた。
 ……違う……
 康介の脳裏で、再び声が湧き上がる。
 ……違うんだよ……
 ……俺は本当は……
 ……本当は……!
 外から伝わる蝉の声も、順番を待つ人々の話し声も、呼び出しを掛ける放送の声すらも、玄関前で独り立ち尽くす康介の耳には届いていなかった。
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