167 / 183
去年のリッチな夜でした
その29
しおりを挟む
*
『土井康介様。土井康介様』
名前を呼ばれて、康介は腰掛けていたソファから立ち上がった。
窓を通して、蝉の声が伝わって来る。壁一面の明かり窓から差し込む日差しは未だ強く、大きな窓には全てロールスクリーンが下ろされていた。
同じく順番を待っていた人々の後に続いて、康介は程無く、会計の前まで移動した。
「こちらが処方箋となります。薬局に提出して下さい」
初老の女性に渡された一枚の紙を、康介は物憂げに眺める。細かい文面など判らないが、『それ』が目の前に在ると言う確たる事実が、康介の視界と気分を俄かに重くしたのであった。
それでも少しして、彼は一礼して歩き出すと、見せ付けるように今も眩い光が降り注ぐ外へ向かおうとした。
その矢先の事であった。
「あれ、康介じゃん」
聞き慣れた声が、矢庭に耳に届いた。
康介が驚いて顔を上げた斜交いに、金子透が立っていた。
正に今、正面玄関のガラス戸を潜って来たばかりの所であったろうか。二人の少年は、病院の入口近く、待合スペースの外れの方で顔を合わせたのであった。
「何? お前、怪我したの?」
日に良く焼けた透は、外の日差しそのままに朗らかに声を掛けて来た。
対する康介は、何処かばつが悪そうに、依然として浮かない面持ちで短く答える。
「ああ、ちょっと……」
「お前、夏休みの練習も休みがちだったもんなぁ。大丈夫かよ?」
「うん。先生にも言ってあるから……」
一切の屈託無く、純粋に心配そうに訊ねて来る透へ、康介は歯切れ悪く答えた。
然る後、康介は思い出したように相手を見遣る。
「お前は? どっか痛めたのかよ?」
「いやぁ、親父の見舞いだよ、見舞い」
透が少し照れ臭そうに答えると、康介も些か驚いた表情を浮かべる。
「え? どっか悪いの、お父さん?」
「いや、それが全っ然。痔だよ、痔。切痔で入院してんの」
苦笑を浮かべて、透は実に開けっ広げに打ち明けたのだった。
「何だか本人はずっと浮かない顔しててさ、思い詰めた様子で母ちゃんと話し込んでたかと思ったら、いきなり入院するとか言い出しやがんの。んな、痔でなぁ、一週間もなぁ」
「ああ……」
相手に合わせて康介も苦笑を浮かべたが、一方で同情的な眼差しを相手に返した。
「……でも、それで苦しんでる本人には一大事なんじゃないのか? 傍からどう見えてても」
「そりゃそうだろうけどさぁ、何か長い事塞ぎ込んでたから、変に心配しちゃったよ、こっちは。最初っから、もっとオープンに話しゃいいものを」
「はは……」
乾いた笑いを、康介は漏らしていた。
この時、康介の視界から、透の姿は急速に遠退いて行ったのだった。
透ばかりではない。
待合スペースで呼び出しを待つ人々も、玄関から新たに病院へ入る人も、外へと出て行く人も、忙しなく往来する看護師や事務員も、全てが湾曲した視界の外へと押し出されていたのであった。
遠い前方で、透が尚も何事かを喋っている。
……そうだ……
……言ってしまえ……
……話してしまえ……
康介の脳裏で、冷たく硬い声が鳴り響いた。
まるで、傷の疼きの如くに。
……話したっていいだろう、『こいつ』には……
……『こいつ』には……
……でも……
康介は、乾いた唇を静かに結んだ。
……でも、そうしたら、『こいつ』は……
……『こいつ』は一体どんな目で、こっちを見て来るんだろう……
……どんな眼差しを、『俺』に向けて来るんだろう……
……どんな風に、『俺』を……
……『俺』を……
透は、至って朗らかに話し続けていた。
全く以っていつもの通り、練習の合間に垣間見せる天衣無縫の態度そのままに、今も『こいつ』は当たり前の振る舞いを続ける。
こちらの胸の内など気付きもせずに。
「母ちゃんの話じゃ、一昨日は下剤呑んでひいひい言ってたらしくって。まずは腸ン中を空っぽにしなきゃいけないんだとかで、手術に入る前から大変だったらしいわ。今日辺りんなりゃ、多少は元気ンなってるかなと思って来たんだけど」
困ったように笑った透へ、康介も笑顔を返した。
「んじゃあ、励ましの言葉も掛けてやれよ。おじさんも退屈してるかも知んないし」
そう言った後、康介は片手を上げた。
「じゃ、俺はこれで」
「おう。悪いな、何か引き止めたみたいで」
「いや、引き止めてたのはこっちだろ。早くおじさん所へ行ってやれよ」
康介が苦笑交じりに指摘すると、透も片手を上げて見せた。
「んじゃ。お前も早く怪我治せよ」
「ああ……」
そう告げて自分の横を歩き去って行く透の姿を、康介は肩越しに見送っていた。
その面持ちは硬く、目元には責めるとも縋るとも付かぬ険相が表れていた。
……違う……
康介の脳裏で、再び声が湧き上がる。
……違うんだよ……
……俺は本当は……
……本当は……!
外から伝わる蝉の声も、順番を待つ人々の話し声も、呼び出しを掛ける放送の声すらも、玄関前で独り立ち尽くす康介の耳には届いていなかった。
『土井康介様。土井康介様』
名前を呼ばれて、康介は腰掛けていたソファから立ち上がった。
窓を通して、蝉の声が伝わって来る。壁一面の明かり窓から差し込む日差しは未だ強く、大きな窓には全てロールスクリーンが下ろされていた。
同じく順番を待っていた人々の後に続いて、康介は程無く、会計の前まで移動した。
「こちらが処方箋となります。薬局に提出して下さい」
初老の女性に渡された一枚の紙を、康介は物憂げに眺める。細かい文面など判らないが、『それ』が目の前に在ると言う確たる事実が、康介の視界と気分を俄かに重くしたのであった。
それでも少しして、彼は一礼して歩き出すと、見せ付けるように今も眩い光が降り注ぐ外へ向かおうとした。
その矢先の事であった。
「あれ、康介じゃん」
聞き慣れた声が、矢庭に耳に届いた。
康介が驚いて顔を上げた斜交いに、金子透が立っていた。
正に今、正面玄関のガラス戸を潜って来たばかりの所であったろうか。二人の少年は、病院の入口近く、待合スペースの外れの方で顔を合わせたのであった。
「何? お前、怪我したの?」
日に良く焼けた透は、外の日差しそのままに朗らかに声を掛けて来た。
対する康介は、何処かばつが悪そうに、依然として浮かない面持ちで短く答える。
「ああ、ちょっと……」
「お前、夏休みの練習も休みがちだったもんなぁ。大丈夫かよ?」
「うん。先生にも言ってあるから……」
一切の屈託無く、純粋に心配そうに訊ねて来る透へ、康介は歯切れ悪く答えた。
然る後、康介は思い出したように相手を見遣る。
「お前は? どっか痛めたのかよ?」
「いやぁ、親父の見舞いだよ、見舞い」
透が少し照れ臭そうに答えると、康介も些か驚いた表情を浮かべる。
「え? どっか悪いの、お父さん?」
「いや、それが全っ然。痔だよ、痔。切痔で入院してんの」
苦笑を浮かべて、透は実に開けっ広げに打ち明けたのだった。
「何だか本人はずっと浮かない顔しててさ、思い詰めた様子で母ちゃんと話し込んでたかと思ったら、いきなり入院するとか言い出しやがんの。んな、痔でなぁ、一週間もなぁ」
「ああ……」
相手に合わせて康介も苦笑を浮かべたが、一方で同情的な眼差しを相手に返した。
「……でも、それで苦しんでる本人には一大事なんじゃないのか? 傍からどう見えてても」
「そりゃそうだろうけどさぁ、何か長い事塞ぎ込んでたから、変に心配しちゃったよ、こっちは。最初っから、もっとオープンに話しゃいいものを」
「はは……」
乾いた笑いを、康介は漏らしていた。
この時、康介の視界から、透の姿は急速に遠退いて行ったのだった。
透ばかりではない。
待合スペースで呼び出しを待つ人々も、玄関から新たに病院へ入る人も、外へと出て行く人も、忙しなく往来する看護師や事務員も、全てが湾曲した視界の外へと押し出されていたのであった。
遠い前方で、透が尚も何事かを喋っている。
……そうだ……
……言ってしまえ……
……話してしまえ……
康介の脳裏で、冷たく硬い声が鳴り響いた。
まるで、傷の疼きの如くに。
……話したっていいだろう、『こいつ』には……
……『こいつ』には……
……でも……
康介は、乾いた唇を静かに結んだ。
……でも、そうしたら、『こいつ』は……
……『こいつ』は一体どんな目で、こっちを見て来るんだろう……
……どんな眼差しを、『俺』に向けて来るんだろう……
……どんな風に、『俺』を……
……『俺』を……
透は、至って朗らかに話し続けていた。
全く以っていつもの通り、練習の合間に垣間見せる天衣無縫の態度そのままに、今も『こいつ』は当たり前の振る舞いを続ける。
こちらの胸の内など気付きもせずに。
「母ちゃんの話じゃ、一昨日は下剤呑んでひいひい言ってたらしくって。まずは腸ン中を空っぽにしなきゃいけないんだとかで、手術に入る前から大変だったらしいわ。今日辺りんなりゃ、多少は元気ンなってるかなと思って来たんだけど」
困ったように笑った透へ、康介も笑顔を返した。
「んじゃあ、励ましの言葉も掛けてやれよ。おじさんも退屈してるかも知んないし」
そう言った後、康介は片手を上げた。
「じゃ、俺はこれで」
「おう。悪いな、何か引き止めたみたいで」
「いや、引き止めてたのはこっちだろ。早くおじさん所へ行ってやれよ」
康介が苦笑交じりに指摘すると、透も片手を上げて見せた。
「んじゃ。お前も早く怪我治せよ」
「ああ……」
そう告げて自分の横を歩き去って行く透の姿を、康介は肩越しに見送っていた。
その面持ちは硬く、目元には責めるとも縋るとも付かぬ険相が表れていた。
……違う……
康介の脳裏で、再び声が湧き上がる。
……違うんだよ……
……俺は本当は……
……本当は……!
外から伝わる蝉の声も、順番を待つ人々の話し声も、呼び出しを掛ける放送の声すらも、玄関前で独り立ち尽くす康介の耳には届いていなかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
人の目嫌い/人嫌い
木月 くろい
ホラー
ひと気の無くなった放課後の学校で、三谷藤若菜(みやふじわかな)は声を掛けられる。若菜は驚いた。自分の名を呼ばれるなど、有り得ないことだったからだ。
◆2020年4月に小説家になろう様にて玄乃光名義で掲載したホラー短編『Scopophobia』を修正し、続きを書いたものになります。
◆やや残酷描写があります。
◆小説家になろう様に同名の作品を同時掲載しています。
出来損ないの世界
dadadabox
ホラー
朝目が目を覚まして見える景色は皆全く違う。
全員で同じ景色を見た時見える景色は同じだろうか。
もし、一人だけ違う景色を見るものがいれば人はその人をどう捉えるのだろうか。
人と違うかもしれない少年の物語です。
途中で修正が多々入ります。
逢魔ヶ刻の迷い子2
naomikoryo
ホラー
——それは、封印された記憶を呼び覚ます夜の探索。
夏休みのある夜、中学二年生の六人は学校に伝わる七不思議の真相を確かめるため、旧校舎へと足を踏み入れた。
静まり返った廊下、誰もいないはずの音楽室から響くピアノの音、職員室の鏡に映る“もう一人の自分”——。
次々と彼らを襲う怪異は、単なる噂ではなかった。
そして、最後の七不思議**「深夜の花壇の少女」**が示す先には、**学校に隠された“ある真実”**が眠っていた——。
「恐怖」は、彼らを閉じ込めるために存在するのか。
それとも、何かを伝えるために存在しているのか。
七つの怪談が絡み合いながら、次第に明かされる“過去”と“真相”。
ただの怪談が、いつしか“真実”へと変わる時——。
あなたは、この夜を無事に終えることができるだろうか?
オカルティック・アンダーワールド
アキラカ
ホラー
とある出版社で編集者として働く冴えないアラサー男子・三枝は、ある日突然学術雑誌の編集部から社内地下に存在するオカルト雑誌アガルタ編集部への異動辞令が出る。そこで三枝はライター兼見習い編集者として雇われている一人の高校生アルバイト・史(ふひと)と出会う。三枝はオカルトへの造詣が皆無な為、異動したその日に名目上史の教育係として史が担当する記事の取材へと駆り出されるのだった。しかしそこで待ち受けていたのは数々の心霊現象と怪奇な事件で有名な幽霊団地。そしてそこに住む奇妙な住人と不気味な出来事、徐々に襲われる恐怖体験に次から次へと巻き込まれてゆくのだった。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる