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去年のリッチな夜でした

その26

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 どうにも、こうした場所は苦手だ、と薬師寺は辺りを見渡しながら、微妙に湿った感慨を抱いた。
 時刻は午後九時を少し回った辺りであろうか。
 綺麗に磨かれた白い床を、照明がまばゆく照らしている。
 思いの外、静かなものだな。
 薬師寺は、他に通り掛かる人の姿も見当たらない通路を眺めて、妙に感心したような感慨を抱いた。
 昔、仲間内で連れ立って出向いたゲームセンターのような場所かと思いきや、店内は静謐せいひつそのものであった。水を打ったようなと言えば大袈裟だが、周囲はひっそりと静まり返って、物音や人の声など滅多に聞こえて来るものではない。
 いや、それもそのはずと認めるべきなのだろうか。
 廊下の突き当たりに一人佇む薬師寺の背後には、堅牢そうな壁で仕切られた個室がずらりと並び、どの部屋の出入口も堅く閉ざされていたのであった。物音など、そう容易たやすく伝わって来る道理も無いのである。
 間取りをやや広げた寝台特急のような店内を改めて見回して、薬師寺は誰に知られる事も無く息をく。
 これが今時のネットカフェと言う奴なのか、と彼は所在無い様子で確認した。
 普段、何かと車を走らせている所為せいもあってか、こうした窓の無い建物の中に身を置いていると、矢鱈やたらと窮屈に感じてしまう。学生の時分は、仲間と共にカラオケで遊んだ事も何度かあったが、自分はやはり密閉された空間と言うのを苦手とするようだ。風通しが悪いと言うのが、どうにも頂けない。
 そんな感慨を抱きつつ、薬師寺は歩を進めた。
 個室の並ぶ区画を横切ると、程無くして、漫画や各種雑誌が収められた本棚がずらりと並んだスペースへと出た。
 流石に夜もいよいよけ行こうとする最中、ネットカフェ内でも廊下を出歩く者はまれであり、薬師寺は本棚の端の方で足を止めた。
 今や客のほとんどは、あてがわれた個室に入ったきり、表に出て来る事は無いようである。
 薬師寺は、やおら天井を仰いだ。
 これでこっちに食い付いてくれなかったら、丸っきり馬鹿みたいだな。
 自分で言い出した事とは言え。
 そこまで考えて、薬師寺の脳裏に、店に入る間際に鬼塚が言い捨てた文言が蘇った。
『こういう場合、二人組だと警戒されんじゃねえか?』
 ……で、俺が囮になるのか?
『だって、お前のがどう見てもワルっぽいじゃん』
 相方が事も無げに、至極平然と遣した評価を胸の内で反芻はんすうする内、薬師寺は微妙な苛立ちを自然と面皮に浮かばせていたのであった。
 『悪そう』とはどういう意味だ。
 薬師寺はいきどおりを静かに湧き立たせた。
 こちらはこれで、考え付く限りの身嗜みだしなみを整えているだけだと言うのに、まるで自分から望んで社会のはみ出し者に成りたがっているかのように見做みなして来る。これでも相手に引かれない程度に、絶えず御洒落に気を配っていると言うのに。
 ツーブロックにそろえた頭をきつつ、薬師寺は一人、湿った吐息を漏らした。
 しかる後、薬師寺は漫画や雑誌の並ぶ本棚の端にたたずみ、メンズファッション誌を立ち読みし始めたのだった。
 そして、それから然程さほどの時を隔てぬ内、彼の背後で、個室の扉が開く音が鳴った。
 視線は誌面に据えたまま、薬師寺は直立の姿勢で聞き耳を立て続ける。
 果たして、後ろから伝わる足音は次第に大きさを増して行き、程無くして、薬師寺の隣で止まったのであった。
「暇そうだね、あんちゃん」
 人の良さそうな快活な声が、人気ひとけの無い読書スペースの空気をわずかに揺らした。
 首を巡らせた薬師寺の眼差しの先に、一人の男が立っていた。
 年齢は、五十路いそじに差し掛かるかどうかと言った辺りであろうか。しわの目立ち始めた面皮に人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて、その男は読書スペースの隅に立つ薬師寺の隣に並んだのであった。
 金色に染めた頭髮はやや薄く、左の目尻の近くに小さな染みが浮かんでいる。
 おおむね、送信されたデータの通りである。
 そこまでを確認した後、薬師寺はやおら眉をひそめた。
「ええっと……」
 努めて胡散臭そうな眼差しを送ってすぐ、相手は困ったように相好を崩した。
「やぁ何、俺もここの泊まり客だよぉ。もう半ば住んでるっつった方が良いかなあ。便利だもんねぇ、本当ホント。快適でさ」
「じゃあ、この店の常連さん……」
 薬師寺が一応の納得をのぞかせると、男はまたにっこりと笑った。
「砕いて言や、そういう事。あんちゃんとは初めましてだけれども、これで結構顔広いんだよ、俺」
 そりゃそうだろうな。
 何せ、厚生局のブラックリストに載ってるぐらいなんだから。
 薬師寺は胸中で言葉を返すかたわら、多少は安心したような表情を浮かべて見せる。
「ああ、そういう事なら、どうぞよろしくって所だけども、こっちも連日の残業続きでね。これからすぐ、死んだように寝る積もり。何かのお付き合いは出来ないよ、悪いけど」
 薬師寺としては、上手く『餌』をちらつかせた積もりであったが、一方で、少しわざとらしかったかとも思ったのであった。
 しかるに、当の本人の懸念を他所に、向かい立つ男は嬉しそうな顔をにわかにのぞかせた。
「おお、何だ、仕事帰りの所だったのかい。そいつぁとんだ御邪魔様だったかねぇ」
「別に気を遣ってもらう程でもないよ。クタクタだってのは事実だけども。うちに帰るのも面倒ンなったから、ここでこうしてる訳で」
「ひょっとしてブラック寄りなの? おたくんトコの会社?」
 薬師寺の言葉に、男は少し首を傾げて訊ねた。
「とてもホワイトとは言えないね。それだきゃ確かだ」
 言って、薬師寺は今度は肩を落として見せた。
「全く、連日連夜いいようにこき使われてさ、命令するだけの奴は大して疲れないから良いんだろうけど、他所よそから安請け合いして来た仕事を平然と丸投げして来やがって、他人の尻拭いに振り回されるこっちはいい迷惑だっての。口先だけ動かして、歩き回ってるだけで仕事してる事になんだもんなぁ、あっちは」
 事実を半分でも混ぜれば、嘘もすらすら出て来るもんだな。
 薬師寺は、大袈裟に苦労をにじませながら言い募った。
 果たして、それが何処まで相手の琴線に触れたのかは定かではなかったが、面白そうに聞いていた男は、ふとその瞳に小さな光を走らせたのだった。
 狡猾な、と評しても差し支えない、細く鋭い眼光であった。
「……そうかい。中々大変そうだなぁ、そっちも。やぁ、たまに来るんだよ、そういう人もさ、この店には」
 相手の声音に若干の変化が認められた。
 食い付いたか、と薬師寺が期待した矢先、男はそれまで通りの笑顔を湛えたまま、薬師寺へと語り掛ける。
「自己紹介が遅れたけんども、俺ぁ剣崎けんざきっつってね、あんたみたいな苦労人の『お手伝い』をしてる」
「へぇ……」
 薬師寺は、したる興味も抱いていないように相槌を打った。
 違うだろ、と胸中で反駁はんばくしながら。
 お前の本当の名前は、『田子たご将司まさし』。
 八年前に一度逮捕された事もある、違法薬物の『密売人』だ。
 その薬師寺の前で、田子はつらつらと言葉を並べて行く。くまでも愛想良く、それでいて押しの強さは終始保ちながら。
 他に客の姿も認められぬ読書スペースの片隅で、それぞれに本意を包み隠した二人の会話は人知れず続いた。
 天井の白い光が、静けさを深め行く夜のネットカフェを白々しく染め上げた。
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