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去年のリッチな夜でした
その23
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放課後に入っても、雨は止む気配を見せなかった。
すっかり人気の無くなった廊下を、スクワットジャンプで進みながら、土井康介は、僅かな合間を縫ってちらと後ろを流し見る。
彼の後ろには、同じく雨天での屋内練習を行なう野球部の面々が列を作っており、それぞれにスクワットジャンプを繰り返しつつ、無人の廊下を進んでいたのであった。生憎の空模様とは言え、屋内で練習に励む彼らの意気までは曇っておらず、微かな雨音の染みる校舎に活気ある息遣いが漂っていた。
そして、康介の二つ後ろに、金子透が続いていた。
他の部員とリズムを合わせ、床の上でジャンプを繰り返すその動作には、淀んだ所など微塵も認められない。飽くまでも普段通りに、慣れた様子で練習を熟す姿がそこに在った。
流石に切り替えは出来るか、と康介は若干の安堵にも似た感慨を抱いた。
尤も、ここ数日の内は、昼休みの度に周りと頻りに話し込んでもいたのだが。
『「ヨルダ」、倒れたって?』
『ああ、生配信中に』
『マジ? 病気か何か?』
『判んね。SNSもストップしてるみたいだし、結構ヤバいのかも』
『過労なんじゃね? 頑張り過ぎなんだよ、あの人。いっつも長い事配信してっから』
『確かに毎日一時過ぎまで流してるもんな』
『流石に無理が祟ったんかな?』
『うわー、心配だ。このまま引退なんて事ンなんなきゃいいけど……』
そこで、透はふと康介へと目を向ける。
『お前、見てた? 「ヨルダ」が倒れた時の配信?』
咄嗟の返答に詰まった後、康介は首を横に振った。
『……いや、知らない……』
白を切った康介へ、透は苦笑を返した。
『何だ、見てねえのぉ? 散々勧めてやってんのにさぁ』
そう言ってから、透はやおら息を吐いた。
『ま、でも、今回はその方が良かったのかもな。実際、見ててビックリしたもん。ライブがいきなり途切れるなんて、ちょっとしたトラウマもんだったよ、マジで』
そして、何やら気苦労を溜め込んだような表情を浮かべてこちらを見つめる透を、康介はむず痒そうに見返したのであった。
またそうやって独り合点した挙げ句、何でも知っているような顔をする。
いつもそうだ。
一体お前が、俺の何を知っていると言うんだ。
そして今、康介は顔を前に戻した。
蛍光灯の光が照り返る廊下に、活気ある息遣いが響く。幾許かの釈然としない気持ちを抱えつつも、彼はそのまま周りに倣ってトレーニングを続けたのだった。
それから全ての練習メニューを消化し、一同が下校の途に就く頃には雨も上がっていた。
校門から出た所で、康介は辺りを見回す。
頭上の空は依然として雲に覆われており、宵闇はいつもよりも濃い。それが却って付近の照明の光を強めており、道端の街灯や遠くの商店街に灯るネオンサインを煌びやかに輝かせていた。
いつもの帰り道を、康介は仲間と共に辿った。
校庭の横を伸びる歩道を進み、商店街の大通りへと出て駅前まで歩く。スポーツバッグを肩に担いで、それなり以上の付き合いを経た仲間達と喋りながら、昨日と同じ道をただなぞり続ける。
既に、どれ程の回数を繰り返して来た事であったろうか。
この先、どれだけの数を繰り返す事であるのだろうか。
こうした日々の繰り返しの果てに、自分は一体どう変わって行くのだろう。
康介は、自分のすぐ隣を歩く仲間達の顔触れを眺めながら、そんな感慨を漠然と抱いたのだった。
自分は、変わりたいと望んでいるのか。
それとも、今のままでいたいと願っているのか。
春の涼やかな夜風が、少年の頬を撫ぜた。
雲の隙間に、明星が顔を覗かせた。
それは、駅舎を目の前にしての事だった。
「何か食ってかない?」
仲間の一人が遣した提案に、一同は駅前のラーメン屋へ立ち寄る運びとなった。
夕暮れ時の、本格的な夕食時にはまだ早い時間帯ではあったが、店内にはぽつぽつと人の姿が認められた。
そんな店の奥のカウンター席に、五人の制服姿の少年達が銘々に腰を下ろして行く。
食券をカウンターの向こうへ差し出しながら、康介は周囲を改めて見回した。
今日に限らず、これまでも幾度か、仲間達と共に暖簾を潜った事のある店であった。赤いカウンター席が特徴的な、明るさと清潔さを前面に押し出した内装が目を引く。他所の駅前でも偶に見掛ける、大手チェーン店の一つであった。
メニューの品々も押し並べて安い。
特にお気に入りの店と言う訳でもないが、やはり大手故の安さが、ここへ足を向けさせる大きな要因となっていたのだった。
麺の茹で上がる匂いやチャーシューの香りが入り混じる店内で、席に座った少年達はまた話に花を咲かせる。
「見た事ある? 新しく入って来た外国人の先生?」
「ああ、何度か廊下で見掛けた事あるわ」
「あの瘦せっぽちの先生だろ?」
「何か、ちょっと目立つ風貌してるよな。どっちかっつーと悪い意味で」
「言っちゃ悪いが、今にもぶっ倒れそうな格好してるもんなぁ」
「あの人の担当、何なの?」
「化学だってよ。化学」
「へぇ。英語じゃなかったんだ」
「大原の話だと、授業自体は面白いらしいんだけどね」
「ふーん」
康介は、仲間達と取り留めの無い会話を重ねながら、時折頷いて見せたり、疑問を差し挟んだりした。
「お待たせしました」
店員の声と共に、カウンターに湯気立つ丼が置かれた。注文の品が、ぼつぼつ出来上がる頃となっていたらしい。
康介は仲間内へ割り箸を回そうとして、手近の箸立てへと手を伸ばした。
一瞬の空白が、そこに生まれた。
割り箸を数本掴もうとした所で、康介の手はその動きを止めたのだった。
指先が、ぴくりと震えた。
何も知らず、何も気付かず、他の少年達は尚も談話を続ける。
その端に身を置きながら、康介は独り、目元を僅かに固くしたのであった。
またか、と彼は思った。
いい加減、しつこいんだよ。
いい加減にしろ、本当に。
微かな苛立ちを俄かに湧かせながらも、康介は割り箸を取ると、それを隣へ渡したのだった。
それから殆ど時を置かずに、康介の注文したラーメンもカウンターに置かれた。
腹の奥を擽るいい匂いが、目の前に立ち込めた。
他の仲間達も既に、自分のラーメンを啜っている最中である。
康介もまた割り箸を割ると、湯気の立ち込めるスープの中へ箸を差し込んだ。
そこでふと、彼はカウンターの向こうを見遣ったのだった。
店に入ってからこちら、店内中央に設けられた調理場には一人の店員の姿しか見えない。白い作業着を着た中年の男性が、一人で店を取り仕切っているようである。
そこまで混み合う時間帯ではないが、急に来店したこちらへ滞り無く注文を捌いたその手腕に、康介は感心したのであった。
それから、細めの麺を幾度か啜り込んだ時の事であった。
奇妙な『音』を、康介は耳にしたような気がした。
自分達が発しているのとは別の、少々耳障りな『音』が何処かから伝わって来る。
何か、空気が漏れ出すような、あまり心地良いとは呼べない異質な『音』が。
丼の上で、康介が顔を上げた。
その直後であった。
調理場で洗い物を続けていた店員が、突如としてその場に崩れ落ちた。
その拍子に手元から零れ落ちた取り皿が、床の上で割れ砕ける。
けたたましい音が、店内に鳴り響いた。
「何? どうしたの?」
康介の右隣で、透が浮付いた声を漏らした。
店内は俄かに騒然となった。
康介達の他に食事を続けていた数人の客達も皆、席から腰を浮かせて目の前の有様を見下ろした。
洗い場の前に、中年の店員が俯せに倒れている。
シンクの中で鳴り響く水の音が、静まり返った店内に木霊した。
そして、それとは別に、先程から続いていた奇妙な『音』も、その強さを増していたのであった。
何か、薄い紙を引き裂くのにも似た、不気味な振動音。
それは、倒れ伏した店員の口元から発せられていた。
明らかに異常なものと判る、意思とは無関係に発せられる歪な呼吸音であった。
すっかり人気の無くなった廊下を、スクワットジャンプで進みながら、土井康介は、僅かな合間を縫ってちらと後ろを流し見る。
彼の後ろには、同じく雨天での屋内練習を行なう野球部の面々が列を作っており、それぞれにスクワットジャンプを繰り返しつつ、無人の廊下を進んでいたのであった。生憎の空模様とは言え、屋内で練習に励む彼らの意気までは曇っておらず、微かな雨音の染みる校舎に活気ある息遣いが漂っていた。
そして、康介の二つ後ろに、金子透が続いていた。
他の部員とリズムを合わせ、床の上でジャンプを繰り返すその動作には、淀んだ所など微塵も認められない。飽くまでも普段通りに、慣れた様子で練習を熟す姿がそこに在った。
流石に切り替えは出来るか、と康介は若干の安堵にも似た感慨を抱いた。
尤も、ここ数日の内は、昼休みの度に周りと頻りに話し込んでもいたのだが。
『「ヨルダ」、倒れたって?』
『ああ、生配信中に』
『マジ? 病気か何か?』
『判んね。SNSもストップしてるみたいだし、結構ヤバいのかも』
『過労なんじゃね? 頑張り過ぎなんだよ、あの人。いっつも長い事配信してっから』
『確かに毎日一時過ぎまで流してるもんな』
『流石に無理が祟ったんかな?』
『うわー、心配だ。このまま引退なんて事ンなんなきゃいいけど……』
そこで、透はふと康介へと目を向ける。
『お前、見てた? 「ヨルダ」が倒れた時の配信?』
咄嗟の返答に詰まった後、康介は首を横に振った。
『……いや、知らない……』
白を切った康介へ、透は苦笑を返した。
『何だ、見てねえのぉ? 散々勧めてやってんのにさぁ』
そう言ってから、透はやおら息を吐いた。
『ま、でも、今回はその方が良かったのかもな。実際、見ててビックリしたもん。ライブがいきなり途切れるなんて、ちょっとしたトラウマもんだったよ、マジで』
そして、何やら気苦労を溜め込んだような表情を浮かべてこちらを見つめる透を、康介はむず痒そうに見返したのであった。
またそうやって独り合点した挙げ句、何でも知っているような顔をする。
いつもそうだ。
一体お前が、俺の何を知っていると言うんだ。
そして今、康介は顔を前に戻した。
蛍光灯の光が照り返る廊下に、活気ある息遣いが響く。幾許かの釈然としない気持ちを抱えつつも、彼はそのまま周りに倣ってトレーニングを続けたのだった。
それから全ての練習メニューを消化し、一同が下校の途に就く頃には雨も上がっていた。
校門から出た所で、康介は辺りを見回す。
頭上の空は依然として雲に覆われており、宵闇はいつもよりも濃い。それが却って付近の照明の光を強めており、道端の街灯や遠くの商店街に灯るネオンサインを煌びやかに輝かせていた。
いつもの帰り道を、康介は仲間と共に辿った。
校庭の横を伸びる歩道を進み、商店街の大通りへと出て駅前まで歩く。スポーツバッグを肩に担いで、それなり以上の付き合いを経た仲間達と喋りながら、昨日と同じ道をただなぞり続ける。
既に、どれ程の回数を繰り返して来た事であったろうか。
この先、どれだけの数を繰り返す事であるのだろうか。
こうした日々の繰り返しの果てに、自分は一体どう変わって行くのだろう。
康介は、自分のすぐ隣を歩く仲間達の顔触れを眺めながら、そんな感慨を漠然と抱いたのだった。
自分は、変わりたいと望んでいるのか。
それとも、今のままでいたいと願っているのか。
春の涼やかな夜風が、少年の頬を撫ぜた。
雲の隙間に、明星が顔を覗かせた。
それは、駅舎を目の前にしての事だった。
「何か食ってかない?」
仲間の一人が遣した提案に、一同は駅前のラーメン屋へ立ち寄る運びとなった。
夕暮れ時の、本格的な夕食時にはまだ早い時間帯ではあったが、店内にはぽつぽつと人の姿が認められた。
そんな店の奥のカウンター席に、五人の制服姿の少年達が銘々に腰を下ろして行く。
食券をカウンターの向こうへ差し出しながら、康介は周囲を改めて見回した。
今日に限らず、これまでも幾度か、仲間達と共に暖簾を潜った事のある店であった。赤いカウンター席が特徴的な、明るさと清潔さを前面に押し出した内装が目を引く。他所の駅前でも偶に見掛ける、大手チェーン店の一つであった。
メニューの品々も押し並べて安い。
特にお気に入りの店と言う訳でもないが、やはり大手故の安さが、ここへ足を向けさせる大きな要因となっていたのだった。
麺の茹で上がる匂いやチャーシューの香りが入り混じる店内で、席に座った少年達はまた話に花を咲かせる。
「見た事ある? 新しく入って来た外国人の先生?」
「ああ、何度か廊下で見掛けた事あるわ」
「あの瘦せっぽちの先生だろ?」
「何か、ちょっと目立つ風貌してるよな。どっちかっつーと悪い意味で」
「言っちゃ悪いが、今にもぶっ倒れそうな格好してるもんなぁ」
「あの人の担当、何なの?」
「化学だってよ。化学」
「へぇ。英語じゃなかったんだ」
「大原の話だと、授業自体は面白いらしいんだけどね」
「ふーん」
康介は、仲間達と取り留めの無い会話を重ねながら、時折頷いて見せたり、疑問を差し挟んだりした。
「お待たせしました」
店員の声と共に、カウンターに湯気立つ丼が置かれた。注文の品が、ぼつぼつ出来上がる頃となっていたらしい。
康介は仲間内へ割り箸を回そうとして、手近の箸立てへと手を伸ばした。
一瞬の空白が、そこに生まれた。
割り箸を数本掴もうとした所で、康介の手はその動きを止めたのだった。
指先が、ぴくりと震えた。
何も知らず、何も気付かず、他の少年達は尚も談話を続ける。
その端に身を置きながら、康介は独り、目元を僅かに固くしたのであった。
またか、と彼は思った。
いい加減、しつこいんだよ。
いい加減にしろ、本当に。
微かな苛立ちを俄かに湧かせながらも、康介は割り箸を取ると、それを隣へ渡したのだった。
それから殆ど時を置かずに、康介の注文したラーメンもカウンターに置かれた。
腹の奥を擽るいい匂いが、目の前に立ち込めた。
他の仲間達も既に、自分のラーメンを啜っている最中である。
康介もまた割り箸を割ると、湯気の立ち込めるスープの中へ箸を差し込んだ。
そこでふと、彼はカウンターの向こうを見遣ったのだった。
店に入ってからこちら、店内中央に設けられた調理場には一人の店員の姿しか見えない。白い作業着を着た中年の男性が、一人で店を取り仕切っているようである。
そこまで混み合う時間帯ではないが、急に来店したこちらへ滞り無く注文を捌いたその手腕に、康介は感心したのであった。
それから、細めの麺を幾度か啜り込んだ時の事であった。
奇妙な『音』を、康介は耳にしたような気がした。
自分達が発しているのとは別の、少々耳障りな『音』が何処かから伝わって来る。
何か、空気が漏れ出すような、あまり心地良いとは呼べない異質な『音』が。
丼の上で、康介が顔を上げた。
その直後であった。
調理場で洗い物を続けていた店員が、突如としてその場に崩れ落ちた。
その拍子に手元から零れ落ちた取り皿が、床の上で割れ砕ける。
けたたましい音が、店内に鳴り響いた。
「何? どうしたの?」
康介の右隣で、透が浮付いた声を漏らした。
店内は俄かに騒然となった。
康介達の他に食事を続けていた数人の客達も皆、席から腰を浮かせて目の前の有様を見下ろした。
洗い場の前に、中年の店員が俯せに倒れている。
シンクの中で鳴り響く水の音が、静まり返った店内に木霊した。
そして、それとは別に、先程から続いていた奇妙な『音』も、その強さを増していたのであった。
何か、薄い紙を引き裂くのにも似た、不気味な振動音。
それは、倒れ伏した店員の口元から発せられていた。
明らかに異常なものと判る、意思とは無関係に発せられる歪な呼吸音であった。
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