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去年のリッチな夜でした

その19

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 自室の机の前で、康介は少しばかり物憂げな面持ちを浮かべていた。
 壁に掛けられた時計は、夜の九時半に針を近付けようとしている。
 四畳半の自室は静けさに満ちており、同様に外からも何の騒ぎも伝わっては来ない。
 そんな中、勉強机の上で康介は頬杖を付いた。
 眠るにしては早過ぎる。
 と言って、勉強を含め、取り立ててこなさなければならない事も無い。
 さてはて一体どう時間を潰したものか、と彼は冴えない表情の裏で考えあぐねていたのであった。
 壁時計が、秒針を滑らかに滑らせて行く。
 その時計の右隣で、額縁に収められて壁に高く掲げられた大き目の写真が、照明の白い光を跳ね返していた。
 練習用の無地のユニフォームを着た少年達が肩を寄せ合った、それは一枚の集合写真であった。
 皆が皆、浅く日焼けした顔をさらし、しかるに全員が屈託の無い笑顔を浮かべて、グラウンドの一角に並んでいる。写真自体は無論動く事は無いものの、額に収められた少年達からは、今にも楽しげなざわめきが聞こえて来そうであった。
 そんな過去の情景をふと見上げてから、康介は机の上に置かれたスマートフォンへ目を移す。
 湿った吐息が、彼の口元から自然と漏れ出たのであった。
 ややあって、康介はスマートフォンを点けると、だらしなく椅子に寄り掛かりながら動画サイトを閲覧し始めた。カテゴリーを『ゲーム』に合わせ、次いで『ライブ』に絞って検索してすぐ、画面上に現在配信中の動画がずらりと並んだ。
 正に上から下まで、休日前でもないと言うのに、ライブ動画の数は十を軽く超えている。
 世の中には、よくよく暇な奴らがいるもんだ。
 康介は検索結果を一瞥するなり、早くも辟易へきえきした表情を浮かべた。
 実際、海外の動画も含めれば、こうしたストリーミングには際限が無さそうであった。
 画面をスクロールさせながら、康介は昼間、透の言っていた配信者の動画を探す。細かい名前なぞ覚えていないが、そもそも、そこまで積極的に探そうと言う気が起きないのである。だからこそ、康介はさらに絞り込んだ検索を掛ける真似はせずにいた。
 見付かんなかった、駄目だった、とでも言っておけば、あいつも納得するだろうか。
 いや、それこそさらに執拗に、自分の推しを人に押し付けて来るに違いない。
 全く、こっちが何をどうすれば納得するのやら。
 あれこれと思い悩む内、康介は頭が段々重くなって来たのだった。
 そもそも、こんなものに本当に夢中になれるのだろうか。
 衝動に近い疑問を唐突に抱いた康介は、半ば居直ったていで画面中央の動画をタップしてみた。
 途端、スマートフォンから、頭の天辺に抜けるような嬌声があふれ出す。
『おっ、ヒラ(※ヒーラー)落とせたじゃ~ん! 今だっ! 行け~! 押せ~! 押し切れ~! タンクは無視して兎に角進め~!』
 妙に間延びした女の声が、スピーカーから部屋の隅々すみずみにまでたちまち拡散した。康介は思わず椅子から腰を浮かせた挙げ句、慌てて画面をバックさせると、イヤホンをスマートフォンに挿し込んだのだった。
「うるっせぇなぁ……」
 呆れながらも少しばかり気圧された様子で、康介は独言した。
 中腰の姿勢で、彼は辺りを見回した。階下の両親の耳には届かなかっただろうか。こんな事で周りからおかしな目を向けられでもしたら、色々と間尺に合わない。
 こちらの不注意と言われれば正にその通りなのだが、のべつ幕無しに大騒ぎして、何ともはた迷惑な奴もいるものである。康介は先程の動画の主、サムネイルの横に表示された『AtoZ』なる名前の何者かへ恨みのこもった眼差しを送った。
 それから一つ息をき、康介は再びスマートフォンの画面を注視する。
 あいつ程熱心な視聴者がどれだけいるのか定かではないが、需要があるからこそ成り立つのはあらゆる活動の大原則である。こうした配信活動にも、動画の数だけ待ち侘びる者達が存在しているのだろうか。
 ただし、需要には何かしらのかたよりが生じるのも、誰にも無視出来ない一つの事実であった。
 くまで事務的に無数の動画を見定めて行く内、康介もじきに『そこ』に気が付いた。
 何千何万もの視聴者を確保出来ているライブ動画は、実際は極少数に留まっている。その他多くのストリーミングに集まるのは精々せいぜい二三百人が良い所で、一桁ひとけた台の視聴者しか表示されていない所も目立った。
 る意味では見慣れた、ピラミッド型の格差社会が『ここ』にも形成されていたのである。
 これもまた、あらゆる競争の常と言う奴か、と康介は一転して冷めた認識を抱いたのであった。あるいは、何をするにせよ、世の中と言う奴は決して甘くはないのだと告げる厳然たる見本であろうか。
 とまれ、それ以上は大して興味も惹かれぬまま、康介はほとんど惰性で画面をスクロールし続けたが、やがての末に、液晶画面に添えられた指先がおもむろに止まったのだった。
「こいつか……?」
 画面に並ぶサムネイルの一つに、彼は目を留めた。
 『天羽あもうヨルダ』と言う名前が、康介の脳裏に昼の会話を蘇らせた。
 数瞬の逡巡しゅんじゅんを経た後、指先がそのサムネイルをタップする。画面が即座に切り替わり、何かのFPSをプレイしている最中の映像がスマートフォンの画面一杯に映し出された。
『はーい、んじゃ裏へ回りまーすよぉ。見付かんないように気を付けてかないとぉ』
 先程の誰かに比べれば、まだ常識的ではある弾んだ声がイヤホンから届いた。
 画面上にはプレイ中のゲームの他に、白い服を着たアバターが右端にたたずんでいた。純白の肌と灰色の髪を持つ、少女型のアバターであった。
『やぁ、ヒーラーさん、先行き過ぎないでねぇ。君が死んじゃうと全員死んじゃうからぁ』
 康介は特に見入る事も無く、ただ漠然と画面を見遣る。椅子に寄り掛かり、机の上に斜めに立て掛けたスマートフォンを離れた位置から見下ろした。
 配信が始まってからすでに二時間近くが経過しているらしく、コメント欄はチャットが引っ切り無しに打ち込まれ、結構な賑わいをのぞかせているようだった。
『うびゃあ! 出たぁ! 敵出たぁ! 何これぇ!? 待ち伏せぇ!? 偶然!? やだぁ!』 
 配信者が何事かに驚いて甲高い叫び声を上げる度に、それに合わせてアバターが表情を変える度に、画面上を大量のWや絵文字が駆け足のように流れて行く。
 そんな遣り取りを眺める康介の目は、だが、徐々に細まって行ったのだった。
『死ねっ! 死ねっ! 死んでおしまいっ! このぉ! お前らなんかぁ、このあたしのウルトに掛かりゃあ一発でぇ!』
 机の上に行儀悪く頬杖を付いて、康介は気怠けだるげにスマートフォンの小さな画面をのぞき込んだ。
 面白いかと言われれば、まあ確かに面白い部分もあるのかも知れない。
 しかし、素の反応にせよ演技にせよ、赤の他人がわめき散らす愚痴や罵声など、一々聞き流して何か得られるものがあるのだろうか。
 ここに集まる連中には、もっと他にやるべき事は無いのだろうか。
 自分は実際、やる事がどうしても見付からないから眺めているだけなのだが。
『うきゃああああ! 撃たれてる! 撃たれてるよぉ! 嘘おぉ! ちょ、タンクさんどぉしたのぉ!? 自分ばっかガード固めてないで、こっちも護ってくんなきゃあ! ひぎゃああああああ!』
 イヤホンから絶え間無く伝わる嬌声が、耳の奥で空虚に鳴り響く。
 水面を油が覆うように倦怠感の広がって行く康介の胸中と反比例するように、ライブ配信へ新たに参加する者は少しずつ数を増やして行った。
『ほら死んだぁ! もぉ! あたしは三キル取ったのにぃ! こぉの駄目タンクぅ! 向こうも今ので勝ったと思うんじゃねぇぞぉ! ぷんぷん、だ! ったく、もぉー!』
 そして、午後十時に差し掛かる頃、視聴中の人数が三千人を超えた。
 目の前で尚もカウントされ続ける数字に向け、康介はひたぶるに淡白な眼差しを注いでいた。
 この数字の内の一つに、『あいつ』が混じっているのだろうか。
 正に今この時、こちらと同じようにスマートフォンの画面を見つめ、しかるにこちらと違って夢中になって喜んでいる『あいつ』の姿を想像すると、康介の胸の内には、これまでとは質を異にする冷ややかさがにわかに広がって行ったのだった。
『よぉっしゃ! 今度は周りが強そうな気がする! もう一回行ってみよぉ!』
 もう、この辺りにしておこうか。
 すっかり据わった目を向けて、康介は小さな画面に尚も映し出されるゲームの様子を俯瞰ふかんした。
 ここは、俺なんかが足を踏み入れていい場所じゃないんだ。
 たとえ、一時いっときの気の迷いで紛れ込んだだけだとしても。
 揺らいだ光を瞳に浮かべ、康介が動画を消そうと思い立った時の事であった。
 何か、空気が漏れているような聞き慣れぬ音が、不意に耳の奥に届いた。
 ふと、康介は怪訝けげんな面持ちを浮かべるのと一緒に、片方のイヤホンを外して耳を澄ませた。
 部屋の中も外も、相変わらずひっそりと静まり返っている。そもそもイヤホンで両耳を塞いでいる手前、そんな妙な音が外部から聞こえて来るとは考え難い。だとすれば、あれは動画内の音だったのだろうか。
 不思議に思う康介の耳に、またその『音』が聞こえた。
 タイやから空気が抜けて行くような、しくは、吃逆しゃっくりを長く引き伸ばしたような奇妙な音である。画面のチャット欄にも、『?』や『何の音?』と言った書き込みがいくつか流れた。
 沈黙が、いつの間にか動画内を支配していた。
 先程まであれ程騒いでいた配信者が、る時を境に急に押し黙り、ゲームの進行自体も停止しているようである。画面脇に表示されたアバターも動きを止め、ただ柔らかく微笑んだ顔だけを視聴者の方へじっと向け続けた。
 康介が眉根を寄せた矢先、イヤホンから配信者の声が聞こえて来る。
『……ごめ……ちょと……苦しく、て……』
 ついさっきまでとは大きく掛け離れた、それは苦悶に満ちた喘ぎ声であった。
『……少し……少し待って……少し、だけ……』
 ささやくような苦しげな声が聞こえた直後、けたたましい音が鳴り響いた。
 マイクが収録場所の騒音を拾ったのだろう。何か重いものが倒れる音と、金属製の何かが散らばる音が、耳をつんざく勢いで動画内に木霊こだました。騒がしくも重々しい、取りも直さず物々しい響きであった。
 そして、その残響が消え去った後、動画は完全なる静寂に包まれたのだった。
 突然の事に目を見張る康介の手元で、画面に表示されるチャット欄にも驚きや不安の書き込みが相次いで流れた。
 ゲームのBGMが、イヤホンからかすかに伝わって来る。
 画面端にたたずむ少女型のアバターだけが、それまでと変わらぬ穏やかな微笑をたたえ続けていた。
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