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去年のリッチな夜でした
その14
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そんな春の陽気から完全に隔絶された、あの甚だ陰気な『部屋』で、いつも通り全ては始まった。
十畳程の広々とした室内は、実際には『寒々とした』と表現した方が適切なのかも知れない。
鬼塚と共にその『部屋』の敷居を跨いだ薬師寺は、いつもと変わらぬ感慨を抱いたのだった。
実に薄暗い一室であった。
戸口の真向かいには壁一面に明かり窓が設けられ、朝の都心が陽光に煌めくビル群を見せ付けるてはいるものの、部屋の照明はその殆どが落とされ、黄昏時よりもか細い光が辛うじて部屋の輪郭を浮かび上がらせている。
昼夜の別も、季節の移り変わりもまるで関係が無さそうである。
あたかも、この『部屋』だけが遠景から切り離され、時の狭間を漂っているかのように。
そして、明るい都会の景色を背後に配して、一人の『女』が窓辺に置かれた机の席に腰を落ち着けていた。
この部屋の主にして、警察庁警備局公安課、特異犯罪対策室室長、白井良子。
薬師寺は、ふと息を吐いた。
この部署に身を置いてそれなり以上の月日が経ったような気がするが、相変わらず、こうして顔を合わせる以外に、この相手に接点と呼べるものを築けないでいる。
そもそも、最初に出会ったあの時、高校在学中に人知れず燻っていたこちらをスカウトに現れた時から、容姿に全く変化が無いのである。
この薄暗い室内で遠目に観察する限り、相手の容貌は精々二十代後半がいい所であろうか。すらりとした細身の体躯を黒のスーツに包み、今日は気分の問題なのか、髪を後ろで束ねている。
だが、容易に推し量れぬその気配に変わりは無かった。
眉目秀麗な外見は正に皮相の見だな。
薬師寺は、今日も同じ結論に至ったのであった。
事実、この相手の『素顔』がまるで判らない。自身が身を置く薄暗い部屋と同様、全ては人目を遮る帳の向こうに置かれている。
時折、或いはこの『部屋』こそが、目の前の『女』の『本体』なのではないかとの錯覚に襲われるまでに。
薄暗くも広大な部屋に鎮座した白井は、正面に立った薬師寺と鬼塚へ鋭い眼差しを据えてまま、やおら口を開いた。
「……先日、御簾嘉戸市内で奇妙な事件が発生した」
「……何処ですって?」
怪訝な表情を浮かべた鬼塚の前で、白井は些か不機嫌そうに説明する。
「御簾嘉戸市だ。日常的に耳にする程有名でもないが、首都圏の主要都市に違いは無いぞ。知らんのか?」
「寡聞にして聞き及んでおりませんでした。で、そこで何か?」
鬼塚が肩を竦めて答えると、白井は卓上を指で突いた。
間を置かず、薬師寺と鬼塚が右手の壁に映像が映し出される。
何処かのナイトクラブと思しき、煌びやかな看板を掲げたビルの写真であった。
「去る三月二十八日、御簾嘉戸市内のナイトクラブ『サラスヴァティ』に於いて、来場していた客の一人が突如として意識を失い、救急搬送される事態が発生した」
「あらら、季節柄ハッスルし過ぎたんかな?」
鬼塚が他人事のように独白した横で、薬師寺が目元をぴくりと動かす。両者の横で、壁の映像が切り替わり、今度はダンスホールらしき屋内の様子が映し出された。
「当該時刻に直接の原因となるような騒ぎは一切無し。店の方もその日は普段通りの平常運転で、何が起きたのか把握出来た人間は一人もいなかったそうだ。搬送された男性は未だ意識不明の重体、所轄の捜査も早くも手詰まりとなっている」
向かいから遣された説明をそこまで聞いた所で、薬師寺がふと顔を前に向け直した。
「……『暗殺ごっこ』、ですか?」
それまでと全く表情を変えずに、薬師寺は出し抜けに発言した。
「またぞろ、ゲーム感覚でその辺の人間を『狩って』回って燥いでる奴がいると?」
特段の感情も込められていない平淡な指摘が、薄暗い室内に漂う。
傍らの鬼塚が思わずぎょっとした表情を露わにした向かいで、白井は意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「お前も段々、考える事が物騒になって来たな」
「……おまいう……」
そんな相手へと流し目を送りながら鬼塚が小さく呟いたが、白井は気にも留めずに言葉を続ける。
「そうした線も捨て切れんと言う事だ。被害者、と仮にしておくが、搬送された人物に目立った外傷は無し。薬物反応も今の所出ていないそうだ」
「そんなら夜遊びの無理が祟ったって事で、ここは一つ穏便に……」
鬼塚がやや及び腰に進言すると、白井は冷ややかな眼差しをそちらへと返す。
「が、同時に、被害者には持病も通院歴もこれと言って特に無し。アルコールを始め、何かの依存症だった訳でもないそうだ。無論、店の方で何かおかしな物を提供した形跡も無い。春の陽気に酔ったからだと断ずるには、色々と不自然な部分が多い」
白井はそう切り返した後、並び立つ二人の部下へ鋭さを増した目を向けた。
「何事も念には念を入れておくものだ。これが単なる不幸な偶然の産物であったのか、我々『一〇八課』が出張る必要のある『特異事件』であるのか……」
「毎度の如く捜査の最前線に出向いて確かめて来い、と」
著しくげんなりした様子で鬼塚が口を挟んだ途端、真向かいの白井は殊更に意地の悪い微笑を口元に湛える。
「お前も随分と物分かりが良くなって来たじゃないか」
「……誰の所為だか……」
薬師寺がぼそりと呟いた隣で、鬼塚が恨めしげな眼差しを上司に送った。
そんな二人の前で、しかし、白井は真顔に戻ると机の上で両手を組んだ。
「実際の所、今回はそこまで強い確証がある訳ではない。だが、今言ったように気に掛かる点があるのも事実だ。そもそも同様の事例、それまで何の異状も見当たらなかった人間が、突如として意識不明に陥る事案が御簾嘉戸市の周辺で既に幾つか報告されている。反社(※反社会的勢力)との繋がりも示唆されている」
相手の神妙な口調に釣られるようにして、薬師寺と鬼塚も面持ちを改めた。
その中で、薬師寺が徐に頭を掻いた。
「……で、この件が所轄の手に余るかも知れないと睨んだ根拠は何なんです?」
「直感だ」
まるで債務者の鼻先に差押の令状を突き付けるかのように堂々と、白井は即答した。
「……またかよ……」
ぼやいた鬼塚ががっくりと肩を落とした隣で、薬師寺も両目を一段と細めて行く。
全く、この女に関して判明している事実と言えば、日頃の突飛な行動と山勘を除いたら、後は怒鳴り声しか残らないという事ぐらいのものである。しかも、その勘が外れる事が無いのだから余計に始末が悪い。
あいつの前世は多分詐欺師か呪い師だ、と鬼塚が前に悪態を吐いていた事を、薬師寺はふと思い起こしたのだった。
他方、朝方の都会を背にした『暗室』の女主人は、重々しくも明瞭な声で部下へと命じる。
「私の第六感が外れる事になれば、その時は大喜びで笑いに来い。その為にも、今は事態を正確に把握しておく必要がある。時間こそ費やすにしろ所轄の手で解決に導ける程度の事件なのか、それとも『一〇八課』が介入する必要がある程の闇を抱えた一件なのか、まずはそれを見極めて来い」
「へぇへ」
「……了解」
鬼塚と薬師寺がそれぞれに首肯した先で、その時、白井は不意に目元を曇らせた。
「もう一つ。御簾嘉戸市には現在、『お客様』が滞在しているそうだ」
出し抜けに出て来た単語に、鬼塚と薬師寺は揃って眉根を寄せた。
『お客様』。
確か、部署内で通っているそんな隠語があったような気がしたが。
然るに、それ以上の内容をすぐに思い出せず、薬師寺は傍らの鬼塚と同様、ただ眉を顰めたのであった。
今一つ理解が及んでいない様子の二人を見据え、白井は、或いは今までで最も気難しい表情を湛えると、厳かに通告する。
「出くわす機会も少ないとは思うが、むしろそう願いたいものだが、もしも『それ』と関わる事になったのなら、くれぐれも『触らぬ神に祟り無し』と言う言葉があるのを忘れるな」
そう告げた白井の声には、微かな緊張が滲み出ていたのであった。
発言内容よりもむしろ、それを遣した者の態度に、鬼塚と薬師寺は少なからず驚いていた。
この、傲岸不遜と慇懃無礼を混ぜ合わせて醸造させたような上司に、僅かたりとも警戒を抱かせる相手がこの世にいるというのだろうか。
鬼塚も薬師寺も、俄かに困惑すら抱いていたのであった。
聳え立つビル群を朝の光が徐々に染め上げて行く最中、『暗室』の中に奇妙な空気が漂った。
そして今、薬師寺はすぐ目の前を歩く男の背中を、ひたすらじっと見つめていたのであった。
この時、彼は微かな違和感のようなものを覚えていたのである。
他でもない、自分の前を先導する一人の『教師』に対して。
先程、『月影司』と名乗った男に対して。
妙だな、と薬師寺は学校の廊下を歩きながら、一人訝っていたのだった。
先程から認めるに、『この男』の所作には一分の隙も見当たらないのである。
さり気なく、或いは軽やかにこちらを先導するその歩調には、威圧的な気配などは無論微塵も含まれていない。
然るに一方で、その淀み無い歩き方には常に一定のリズムが認められ、体の流れは如何なる時も決して揺らぐ事は無いのだった。
薬師寺は、そこで徐に目を細めた。
自画自賛を決め込む訳ではないが、自分の場合はその手の眼力がある程度備わっている。短い間ではあったが、一度は拳闘の世界に身を置いて、眼前の対戦相手を具に観察する癖が付いているのだ。
四角いリングの内側に立ち、同じく目の前に立ちはだかる相手の全体像を視界に収めながら、一瞬の間断無く次の動きを予測する。それを怠れば、いずれ倒れ伏すのは当の自分である。
そうした習慣、或いは条件反射が体に染み付いているからこそ、この場合も奇妙な『違和感』を覚えた。
目の前を進む『この男』の所作は、少なくとも堅気のものではない。
喩えるなら、熟練のボクサーが盤石の姿勢を保ちながら、対戦相手との距離をじわじわと詰めて行くのに通ずる所があるかも知れない。取りも直さず、その動きは手練れのものであり、或る種の狡猾さすら纏わせていたのだった。
昼休みの最中、多くの生徒達が廊下を擦れ違って行く。その中の誰一人として、廊下を歩く『この男』に警戒を抱く事は無い。当の司自身も、行き交う教え子達に時折気さくに声を掛けている。
飽くまでも自然体で、何処までも朗らかに。
もしかすると、これが今回の『お客様』、海外から来たと言う『特異能力者』なのだろうか。
薬師寺は、静かに顎先を引いた。
長身ではあるものの、体格自体はそこまで恵まれている方でもない。
喩えるなら、体操の選手を無理矢理痩せさせたような体型だろうか。校内は無論、人通りの中に埋もれたとしても、然程人目を惹く事もあるまい。
だからこそ、であろうか。
薬師寺の抱える言い知れぬ違和感は、歩みと共に少しずつ大きくなって行った。
仮に、今ここでこちらが後ろから突然殴り掛かったとしても、目の前の『この男』は、平然と身を躱してのけるのではないだろうか。
急に何かに足を取られたような演技すら交えて。
この、誰にも気取られぬよう振る舞う熟達した身の熟し、まるで老練の狩人か、さもなくば……
「こちらが校長室になります」
柔らかな口調でそう告げて、司は足を止めた。
それまで黙考していた薬師寺は、件の相手と危うくぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。
そんな彼の横で、鬼塚が人懐っこい笑顔を浮かべる。
「どうも済みません、わざわざ」
「……どうも」
薬師寺が遅れて会釈すると、司もまた微笑を返した。
それから司は校長室の扉をノックすると、半開きにした戸口に立って、来客が訪れた旨を部屋の内部へと伝える。
その様子を、一連の動作を、薬師寺は傍らからじっと見つめていた。
「では、私はこれで」
程無くしてそう告げた後、司は二人の捜査官の前より立ち去って行ったのだった。
鬼塚が服の襟を正し、些か畏まって部屋の敷居を跨ごうとする中、薬師寺は尚も、廊下を遠ざかる司の背中を凝視していた。
『その男』は別段急ぎ足になる事も無く、光差す廊下を泰然と歩き去って行く。
その後ろ姿を眺める薬師寺の双眸が、寸毫の間、野生的な煌めきを放った。
一切が流れるような、自然極まる不自然な身の熟し。
まるで暗殺者だな。
胸中でそう結論付けると、薬師寺もまた鬼塚に続いて、校長室の内へと足を踏み入れたのであった。
十畳程の広々とした室内は、実際には『寒々とした』と表現した方が適切なのかも知れない。
鬼塚と共にその『部屋』の敷居を跨いだ薬師寺は、いつもと変わらぬ感慨を抱いたのだった。
実に薄暗い一室であった。
戸口の真向かいには壁一面に明かり窓が設けられ、朝の都心が陽光に煌めくビル群を見せ付けるてはいるものの、部屋の照明はその殆どが落とされ、黄昏時よりもか細い光が辛うじて部屋の輪郭を浮かび上がらせている。
昼夜の別も、季節の移り変わりもまるで関係が無さそうである。
あたかも、この『部屋』だけが遠景から切り離され、時の狭間を漂っているかのように。
そして、明るい都会の景色を背後に配して、一人の『女』が窓辺に置かれた机の席に腰を落ち着けていた。
この部屋の主にして、警察庁警備局公安課、特異犯罪対策室室長、白井良子。
薬師寺は、ふと息を吐いた。
この部署に身を置いてそれなり以上の月日が経ったような気がするが、相変わらず、こうして顔を合わせる以外に、この相手に接点と呼べるものを築けないでいる。
そもそも、最初に出会ったあの時、高校在学中に人知れず燻っていたこちらをスカウトに現れた時から、容姿に全く変化が無いのである。
この薄暗い室内で遠目に観察する限り、相手の容貌は精々二十代後半がいい所であろうか。すらりとした細身の体躯を黒のスーツに包み、今日は気分の問題なのか、髪を後ろで束ねている。
だが、容易に推し量れぬその気配に変わりは無かった。
眉目秀麗な外見は正に皮相の見だな。
薬師寺は、今日も同じ結論に至ったのであった。
事実、この相手の『素顔』がまるで判らない。自身が身を置く薄暗い部屋と同様、全ては人目を遮る帳の向こうに置かれている。
時折、或いはこの『部屋』こそが、目の前の『女』の『本体』なのではないかとの錯覚に襲われるまでに。
薄暗くも広大な部屋に鎮座した白井は、正面に立った薬師寺と鬼塚へ鋭い眼差しを据えてまま、やおら口を開いた。
「……先日、御簾嘉戸市内で奇妙な事件が発生した」
「……何処ですって?」
怪訝な表情を浮かべた鬼塚の前で、白井は些か不機嫌そうに説明する。
「御簾嘉戸市だ。日常的に耳にする程有名でもないが、首都圏の主要都市に違いは無いぞ。知らんのか?」
「寡聞にして聞き及んでおりませんでした。で、そこで何か?」
鬼塚が肩を竦めて答えると、白井は卓上を指で突いた。
間を置かず、薬師寺と鬼塚が右手の壁に映像が映し出される。
何処かのナイトクラブと思しき、煌びやかな看板を掲げたビルの写真であった。
「去る三月二十八日、御簾嘉戸市内のナイトクラブ『サラスヴァティ』に於いて、来場していた客の一人が突如として意識を失い、救急搬送される事態が発生した」
「あらら、季節柄ハッスルし過ぎたんかな?」
鬼塚が他人事のように独白した横で、薬師寺が目元をぴくりと動かす。両者の横で、壁の映像が切り替わり、今度はダンスホールらしき屋内の様子が映し出された。
「当該時刻に直接の原因となるような騒ぎは一切無し。店の方もその日は普段通りの平常運転で、何が起きたのか把握出来た人間は一人もいなかったそうだ。搬送された男性は未だ意識不明の重体、所轄の捜査も早くも手詰まりとなっている」
向かいから遣された説明をそこまで聞いた所で、薬師寺がふと顔を前に向け直した。
「……『暗殺ごっこ』、ですか?」
それまでと全く表情を変えずに、薬師寺は出し抜けに発言した。
「またぞろ、ゲーム感覚でその辺の人間を『狩って』回って燥いでる奴がいると?」
特段の感情も込められていない平淡な指摘が、薄暗い室内に漂う。
傍らの鬼塚が思わずぎょっとした表情を露わにした向かいで、白井は意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「お前も段々、考える事が物騒になって来たな」
「……おまいう……」
そんな相手へと流し目を送りながら鬼塚が小さく呟いたが、白井は気にも留めずに言葉を続ける。
「そうした線も捨て切れんと言う事だ。被害者、と仮にしておくが、搬送された人物に目立った外傷は無し。薬物反応も今の所出ていないそうだ」
「そんなら夜遊びの無理が祟ったって事で、ここは一つ穏便に……」
鬼塚がやや及び腰に進言すると、白井は冷ややかな眼差しをそちらへと返す。
「が、同時に、被害者には持病も通院歴もこれと言って特に無し。アルコールを始め、何かの依存症だった訳でもないそうだ。無論、店の方で何かおかしな物を提供した形跡も無い。春の陽気に酔ったからだと断ずるには、色々と不自然な部分が多い」
白井はそう切り返した後、並び立つ二人の部下へ鋭さを増した目を向けた。
「何事も念には念を入れておくものだ。これが単なる不幸な偶然の産物であったのか、我々『一〇八課』が出張る必要のある『特異事件』であるのか……」
「毎度の如く捜査の最前線に出向いて確かめて来い、と」
著しくげんなりした様子で鬼塚が口を挟んだ途端、真向かいの白井は殊更に意地の悪い微笑を口元に湛える。
「お前も随分と物分かりが良くなって来たじゃないか」
「……誰の所為だか……」
薬師寺がぼそりと呟いた隣で、鬼塚が恨めしげな眼差しを上司に送った。
そんな二人の前で、しかし、白井は真顔に戻ると机の上で両手を組んだ。
「実際の所、今回はそこまで強い確証がある訳ではない。だが、今言ったように気に掛かる点があるのも事実だ。そもそも同様の事例、それまで何の異状も見当たらなかった人間が、突如として意識不明に陥る事案が御簾嘉戸市の周辺で既に幾つか報告されている。反社(※反社会的勢力)との繋がりも示唆されている」
相手の神妙な口調に釣られるようにして、薬師寺と鬼塚も面持ちを改めた。
その中で、薬師寺が徐に頭を掻いた。
「……で、この件が所轄の手に余るかも知れないと睨んだ根拠は何なんです?」
「直感だ」
まるで債務者の鼻先に差押の令状を突き付けるかのように堂々と、白井は即答した。
「……またかよ……」
ぼやいた鬼塚ががっくりと肩を落とした隣で、薬師寺も両目を一段と細めて行く。
全く、この女に関して判明している事実と言えば、日頃の突飛な行動と山勘を除いたら、後は怒鳴り声しか残らないという事ぐらいのものである。しかも、その勘が外れる事が無いのだから余計に始末が悪い。
あいつの前世は多分詐欺師か呪い師だ、と鬼塚が前に悪態を吐いていた事を、薬師寺はふと思い起こしたのだった。
他方、朝方の都会を背にした『暗室』の女主人は、重々しくも明瞭な声で部下へと命じる。
「私の第六感が外れる事になれば、その時は大喜びで笑いに来い。その為にも、今は事態を正確に把握しておく必要がある。時間こそ費やすにしろ所轄の手で解決に導ける程度の事件なのか、それとも『一〇八課』が介入する必要がある程の闇を抱えた一件なのか、まずはそれを見極めて来い」
「へぇへ」
「……了解」
鬼塚と薬師寺がそれぞれに首肯した先で、その時、白井は不意に目元を曇らせた。
「もう一つ。御簾嘉戸市には現在、『お客様』が滞在しているそうだ」
出し抜けに出て来た単語に、鬼塚と薬師寺は揃って眉根を寄せた。
『お客様』。
確か、部署内で通っているそんな隠語があったような気がしたが。
然るに、それ以上の内容をすぐに思い出せず、薬師寺は傍らの鬼塚と同様、ただ眉を顰めたのであった。
今一つ理解が及んでいない様子の二人を見据え、白井は、或いは今までで最も気難しい表情を湛えると、厳かに通告する。
「出くわす機会も少ないとは思うが、むしろそう願いたいものだが、もしも『それ』と関わる事になったのなら、くれぐれも『触らぬ神に祟り無し』と言う言葉があるのを忘れるな」
そう告げた白井の声には、微かな緊張が滲み出ていたのであった。
発言内容よりもむしろ、それを遣した者の態度に、鬼塚と薬師寺は少なからず驚いていた。
この、傲岸不遜と慇懃無礼を混ぜ合わせて醸造させたような上司に、僅かたりとも警戒を抱かせる相手がこの世にいるというのだろうか。
鬼塚も薬師寺も、俄かに困惑すら抱いていたのであった。
聳え立つビル群を朝の光が徐々に染め上げて行く最中、『暗室』の中に奇妙な空気が漂った。
そして今、薬師寺はすぐ目の前を歩く男の背中を、ひたすらじっと見つめていたのであった。
この時、彼は微かな違和感のようなものを覚えていたのである。
他でもない、自分の前を先導する一人の『教師』に対して。
先程、『月影司』と名乗った男に対して。
妙だな、と薬師寺は学校の廊下を歩きながら、一人訝っていたのだった。
先程から認めるに、『この男』の所作には一分の隙も見当たらないのである。
さり気なく、或いは軽やかにこちらを先導するその歩調には、威圧的な気配などは無論微塵も含まれていない。
然るに一方で、その淀み無い歩き方には常に一定のリズムが認められ、体の流れは如何なる時も決して揺らぐ事は無いのだった。
薬師寺は、そこで徐に目を細めた。
自画自賛を決め込む訳ではないが、自分の場合はその手の眼力がある程度備わっている。短い間ではあったが、一度は拳闘の世界に身を置いて、眼前の対戦相手を具に観察する癖が付いているのだ。
四角いリングの内側に立ち、同じく目の前に立ちはだかる相手の全体像を視界に収めながら、一瞬の間断無く次の動きを予測する。それを怠れば、いずれ倒れ伏すのは当の自分である。
そうした習慣、或いは条件反射が体に染み付いているからこそ、この場合も奇妙な『違和感』を覚えた。
目の前を進む『この男』の所作は、少なくとも堅気のものではない。
喩えるなら、熟練のボクサーが盤石の姿勢を保ちながら、対戦相手との距離をじわじわと詰めて行くのに通ずる所があるかも知れない。取りも直さず、その動きは手練れのものであり、或る種の狡猾さすら纏わせていたのだった。
昼休みの最中、多くの生徒達が廊下を擦れ違って行く。その中の誰一人として、廊下を歩く『この男』に警戒を抱く事は無い。当の司自身も、行き交う教え子達に時折気さくに声を掛けている。
飽くまでも自然体で、何処までも朗らかに。
もしかすると、これが今回の『お客様』、海外から来たと言う『特異能力者』なのだろうか。
薬師寺は、静かに顎先を引いた。
長身ではあるものの、体格自体はそこまで恵まれている方でもない。
喩えるなら、体操の選手を無理矢理痩せさせたような体型だろうか。校内は無論、人通りの中に埋もれたとしても、然程人目を惹く事もあるまい。
だからこそ、であろうか。
薬師寺の抱える言い知れぬ違和感は、歩みと共に少しずつ大きくなって行った。
仮に、今ここでこちらが後ろから突然殴り掛かったとしても、目の前の『この男』は、平然と身を躱してのけるのではないだろうか。
急に何かに足を取られたような演技すら交えて。
この、誰にも気取られぬよう振る舞う熟達した身の熟し、まるで老練の狩人か、さもなくば……
「こちらが校長室になります」
柔らかな口調でそう告げて、司は足を止めた。
それまで黙考していた薬師寺は、件の相手と危うくぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。
そんな彼の横で、鬼塚が人懐っこい笑顔を浮かべる。
「どうも済みません、わざわざ」
「……どうも」
薬師寺が遅れて会釈すると、司もまた微笑を返した。
それから司は校長室の扉をノックすると、半開きにした戸口に立って、来客が訪れた旨を部屋の内部へと伝える。
その様子を、一連の動作を、薬師寺は傍らからじっと見つめていた。
「では、私はこれで」
程無くしてそう告げた後、司は二人の捜査官の前より立ち去って行ったのだった。
鬼塚が服の襟を正し、些か畏まって部屋の敷居を跨ごうとする中、薬師寺は尚も、廊下を遠ざかる司の背中を凝視していた。
『その男』は別段急ぎ足になる事も無く、光差す廊下を泰然と歩き去って行く。
その後ろ姿を眺める薬師寺の双眸が、寸毫の間、野生的な煌めきを放った。
一切が流れるような、自然極まる不自然な身の熟し。
まるで暗殺者だな。
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