149 / 183
去年のリッチな夜でした
その11
しおりを挟む
こちらを取り囲んで囃し立てるように鳴り響く蝉の声までもが、今や随分と遠くのもののように聞こえる。
夏の突き刺すような日差しが、グラウンドの荒い砂粒をきらきらと輝かせていた。
マウンドで只一人、康介は前方へ揺るぎの無い眼差しを注いだ。
即ち、こちらの行く手を遮るようにバットを構え、僅かな隙も見逃さぬ冷徹そのものの眼光を湛えた打者へと。
頬を顎先へと伝い落ちる汗が、実に冷えたものに感じられた。
硬い面持ちを保つ康介の足元で、スパイクが砂利を噛む音が冷めた響きを生み出す。
マウンドの周りに走者はおらず、全ての塁が空いていた。
一対一である。
じりじりと詰め寄られるような緊張感の中で、キャッチャーがサインを出した。
康介が、静かに頷く。
そして彼はやおら体勢を変え、大きく振り被ったのだった。
白球が、宙を割いて飛んだ。
歓声が上がった。
澄んだ夏空を左右に割るようにして、打たれたボールは宙を進む。
表情を強張らせ、康介が後方を仰ぎ見た。
マウンドに立つ彼の遥か遠くを、打球はスコアボードの向こうへ吸い込まれるように飛んで行く。黙して顎先から汗を滴らせる康介の見つめる先で、打球はその勢いを最後まで衰えさせる事なく、フェンスの向こうに消えたのだった。
歓声が上がった。
立ち尽くす康介を遠巻きにして、打者が塁を回って行く。
誇るでも責めるでもなく、ただありのままの事実だけを突き付けるように淡々と。
それから程無くして、マウンドには人集りが出来ていた。
その輪の中心で、初老の監督が康介の肩を叩いた。
「……ま、打たれたもんはしょうがない。ここまでよく投げた」
「はい……」
俯き加減に頷いた康介は、ゆっくりとマウンドを後にする。
その道すがら、彼は自身の右手に目を遣った。
白い粉に塗れた己の指先、それを康介は束の間凝視する。
ほんの僅かの違いだった。
数値にも表わせないような、ほんの僅かの誤差。
それが、相手にとって会心の、こちらにとっては痛恨の事態を招いてしまった。
この指先からボールが離れる瞬間、微かな違和感が湧いて出たのは勘違いではなかった。その『予感』を、『結果』は裏切ってはくれなかったのである。
何故。
どうしてなのだろうか。
こちらが過ちを認めた時には、最早遣り直す事が叶わないというのは。
他の誰よりも、自分自身が後悔に苛まれているというのに。
重い足取りでベンチへと向かう最中、康介はふと顔を上げる。
ブルペンの方から小走りになって、中継ぎの投手が今正にマウンドへ向かおうとしていた。肩を落としてベンチに戻るこちらとは対照的に、実に小気味良く塁の間を駆けて行くのは、康介も日頃から良く見知った相手である。
チームメイト。
昔からの仲間。
単なる腐れ縁。
口に出してしまえば何の変哲も無い、たった一言で片付けられる『相手』である。
然るに、その『相手』は気落ちするこちらの横を溌剌と駆け抜けて、何の憂いも滲ませぬ足取りでマウンドへと向かって行く。
そんな『相手』の背中を、康介は肩越しに見送ったのだった。
その瞳に、幾つもの感慨を過ぎらせながら。
夏の突き刺すような日差しが、グラウンドの荒い砂粒をきらきらと輝かせていた。
マウンドで只一人、康介は前方へ揺るぎの無い眼差しを注いだ。
即ち、こちらの行く手を遮るようにバットを構え、僅かな隙も見逃さぬ冷徹そのものの眼光を湛えた打者へと。
頬を顎先へと伝い落ちる汗が、実に冷えたものに感じられた。
硬い面持ちを保つ康介の足元で、スパイクが砂利を噛む音が冷めた響きを生み出す。
マウンドの周りに走者はおらず、全ての塁が空いていた。
一対一である。
じりじりと詰め寄られるような緊張感の中で、キャッチャーがサインを出した。
康介が、静かに頷く。
そして彼はやおら体勢を変え、大きく振り被ったのだった。
白球が、宙を割いて飛んだ。
歓声が上がった。
澄んだ夏空を左右に割るようにして、打たれたボールは宙を進む。
表情を強張らせ、康介が後方を仰ぎ見た。
マウンドに立つ彼の遥か遠くを、打球はスコアボードの向こうへ吸い込まれるように飛んで行く。黙して顎先から汗を滴らせる康介の見つめる先で、打球はその勢いを最後まで衰えさせる事なく、フェンスの向こうに消えたのだった。
歓声が上がった。
立ち尽くす康介を遠巻きにして、打者が塁を回って行く。
誇るでも責めるでもなく、ただありのままの事実だけを突き付けるように淡々と。
それから程無くして、マウンドには人集りが出来ていた。
その輪の中心で、初老の監督が康介の肩を叩いた。
「……ま、打たれたもんはしょうがない。ここまでよく投げた」
「はい……」
俯き加減に頷いた康介は、ゆっくりとマウンドを後にする。
その道すがら、彼は自身の右手に目を遣った。
白い粉に塗れた己の指先、それを康介は束の間凝視する。
ほんの僅かの違いだった。
数値にも表わせないような、ほんの僅かの誤差。
それが、相手にとって会心の、こちらにとっては痛恨の事態を招いてしまった。
この指先からボールが離れる瞬間、微かな違和感が湧いて出たのは勘違いではなかった。その『予感』を、『結果』は裏切ってはくれなかったのである。
何故。
どうしてなのだろうか。
こちらが過ちを認めた時には、最早遣り直す事が叶わないというのは。
他の誰よりも、自分自身が後悔に苛まれているというのに。
重い足取りでベンチへと向かう最中、康介はふと顔を上げる。
ブルペンの方から小走りになって、中継ぎの投手が今正にマウンドへ向かおうとしていた。肩を落としてベンチに戻るこちらとは対照的に、実に小気味良く塁の間を駆けて行くのは、康介も日頃から良く見知った相手である。
チームメイト。
昔からの仲間。
単なる腐れ縁。
口に出してしまえば何の変哲も無い、たった一言で片付けられる『相手』である。
然るに、その『相手』は気落ちするこちらの横を溌剌と駆け抜けて、何の憂いも滲ませぬ足取りでマウンドへと向かって行く。
そんな『相手』の背中を、康介は肩越しに見送ったのだった。
その瞳に、幾つもの感慨を過ぎらせながら。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
勇気と巫女の八大地獄巡り
主道 学
ホラー
死者を弔うために地獄を旅する巫女と、罪を犯して死んだ妹を探すために地獄マニアの勇気が一緒に旅をする。
勇気リンリンの地獄巡り。
ホラーテイスト&純愛ラブストーリーです。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!



ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる