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去年のリッチな夜でした
その2
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昼時の眩い日差しが差し込む窓から、無数の蝉の声が何処か白けたような響きを乗せて伝わって来た。
何ともかんとも、と美香は夏休み中の疲れが一時に双肩に圧し掛かって来たかのような錯覚に、不意に襲われたのだった。
最後に直接見掛けたのが海辺の土地を去る間際であったから、ざっと一月振りの再会となるのであろうか。
だからと言って、この場合はその隔たりが何を生む訳でもないのである。
既に齢五百を超える不死者は、降り積もる歳月や移ろい変わる月日に初めから何の感慨も抱いていない様子で、今も目の前を流れ行く若者達へ甚だやる気の無いアドバイスを送っていた。
「変わんないねぇ、あの人も……」
美香の横手で顕子が呆れたように呟くと、昭乃が眼鏡を直しながら鼻息を吐く。
「ま、世の中に一つぐらい、全然変化の無いものがあったっていいような気はするけども」
友人達の言葉の狭間で、美香は一人肩を落とした。
当のリウドルフはこちらの様子に気付いた素振りも覗かせず、昇降口の手前で、下校する生徒達を尚も見送っていた。
八月の末には何処かに旅行に出ていたらしいが、それ以上の事は推し量りようが無い。あちらの私生活を突っ込んで訊ねた所で煙たがられるばかりであろう。
正しく近くて遠い、或いは寄らば遠ざかる蜃気楼のような相手である。
とは言え、そんなどうしようもなく掴み処の無い相手であっても、現に目の前に立っているというのも一つの事実であった。
そしてまた、友人達の手前、美香もまたリウドルフに妙な流し目を送る事も儘ならず、彼の横手を黙って通り過ぎたのであった。
そんな、去り行く少女の何の変哲も無い後姿を、一方のリウドルフもまた黙って見送っていたのであった。
何やら面白くもなさそうな表情を浮かべて、遠くフランスから戻ったばかりの彼は去り行く厄介者の姿を義眼の表に映していた。特に何の言葉を掛けるでもなく、生徒達の列の傍らにあって、痩身の孤影は一人溜息を吐いた。
どうにも調子が良くないようだ、と彼は胸中で愚痴を零した。
例のフランスでの『一件』以来、更に踏み込むなら、あの忌々しい原生生物におかしな幻覚を見せ付けられてからこちら、胸の奥に妙な蟠りのようなものが生じているようであった。
何やらはっきりとは掴めないが、どうにも何処かがすっきりとしない。
然りとて、こうした感覚にもいずれは慣れて行くものだろう。
慣れて飽きて、そして一切は薄れ行く。
かつて、そうであったように。
彼がそこまで思いを巡らせ、然る後、相次いで昇降口を後にし、数を減らしつつある生徒達の前から遠ざかろうとした時の事であった。
「お疲れ様っす、クリス先生」
太い声が、リウドルフのすぐ隣で上がった。
廊下の壁際でリウドルフが首を巡らせてみれば、彼の横手には一人の男子生徒が佇んでいたのであった。
日に良く焼けた、体格の良い少年であった。
少し長めのスポーツ刈りを晒し、人懐っこい笑みを浮かべたその男子生徒の姿を認めるなり、リウドルフも面持ちを僅かに変化させる。
「……おお、久し振りだなぁ」
それまでの気の抜けた口調から態度を一変させて、リウドルフは目の前に立つ男子生徒に実に親しげに挨拶を返したのだった。
さながら、生まれ育った土地へ数十年振りに舞い戻った帰郷者が、未だ営業を続ける馴染みの店を見付けた時のように。
一方その頃、そんな相手の様子など露知らず、美香は友人達と共に校門の敷居を跨いだ所であった。
外には未だ夏空が広がり、湿気は多少和らいだにせよ、蒸し暑い空気が尚も辺りを覆い尽くしていた。路面に陽炎こそ浮かんではいないものの、残暑の日差しは未だ刺すようであり、その中を歩く大勢の学生達も一様に疲れた表情を浮かべていた。
「にしても暑っついなぁ……」
学校の校庭沿いに伸びる歩道を進みながら、美香の右隣を歩く顕子が鞄を持っていない方の手で顔を仰ぎつつぼやいた。
「暦に沿って陽気もがらっと変わってくれないもんかね、本当」
「暑さ寒さも彼岸まで。もう二十日程の辛抱だよ」
美香の左隣から昭乃が指摘すると、顕子は舌先を覗かせた。
「その前にあたしが彼岸に行っちゃいそう。これからこの陽気の中を、また通学すんのかと思うと……」
「まあまあ、せめて来月の体育祭までに涼しくなってくれる事を祈ろうじゃないの」
美香が隣の友人へと顔を向けて、そう宥めた時であった。
「あれ……?」
ふと、美香は怪訝な面持ちを浮かべる。
右側を歩く顕子の更に右手には柵の向こうに学校の敷地が広がっていたのだが、その一点、主に外来者が出入りする裏門の一角に一台の車が停まっていたのである。先程、昇降口を出たばかりの時には気付かなかったが、裏門付近に設けられた駐車スペースには緑色のスポーツカーが一台だけ停められていたのであった。
かつて見掛けた憶えの無い、少々場違いなまでの鮮やかな色合いの車であった。
「ん? どしたの?」
相手の覗かせた微妙な変化に気付いてか、顕子も同じ方向へと顔を向ける。
「……ああ、いや、始業式の日にお客さんでも来たのかなって思って……」
「ああ……」
美香の言葉に顕子も小さく頷いた。
「何? あの車がどうかした?」
美香の左隣から、昭乃もまた同じ方向を覗き込んだ。
学校の外周を覆う柵越しでは詳細は判らないが、校内に停められた車はすぐに動き出すような気配も覗かせない。遠方からでは車内の様子も伺いようが無かった。
「やあ、見慣れない車だから、いっそ格好良い人でも乗ってやしないかなと思って」
顕子がにやけた表情を覗かせると、昭乃は少し呆れたように指摘する。
「またそんな都合の良い事言って……こんな平日の昼日中に学校に来る人なんか、どっかの業者の人か、さもなきゃ教育委員会の偉いさん辺りなんじゃない?」
「おっ、だったら後の方がいいなぁ。文部省所属の超エリート、東大卒で超イケメンの若手官僚様様様があたしらの学校を御視察に来て下さったとか! あたし、忘れ物した事にしてちょっと確かめて来ようかな」
「登校初日から何ゲスい事言ってんの……」
こちらも呆れた表情を浮かべて、美香が窘めた。
そうして大概の生徒達は特に気に留めるでもなく、それぞれに下校の途に就いて行く。
昼時の街中には、ただ蝉の声だけが鳴り響いていた。
何ともかんとも、と美香は夏休み中の疲れが一時に双肩に圧し掛かって来たかのような錯覚に、不意に襲われたのだった。
最後に直接見掛けたのが海辺の土地を去る間際であったから、ざっと一月振りの再会となるのであろうか。
だからと言って、この場合はその隔たりが何を生む訳でもないのである。
既に齢五百を超える不死者は、降り積もる歳月や移ろい変わる月日に初めから何の感慨も抱いていない様子で、今も目の前を流れ行く若者達へ甚だやる気の無いアドバイスを送っていた。
「変わんないねぇ、あの人も……」
美香の横手で顕子が呆れたように呟くと、昭乃が眼鏡を直しながら鼻息を吐く。
「ま、世の中に一つぐらい、全然変化の無いものがあったっていいような気はするけども」
友人達の言葉の狭間で、美香は一人肩を落とした。
当のリウドルフはこちらの様子に気付いた素振りも覗かせず、昇降口の手前で、下校する生徒達を尚も見送っていた。
八月の末には何処かに旅行に出ていたらしいが、それ以上の事は推し量りようが無い。あちらの私生活を突っ込んで訊ねた所で煙たがられるばかりであろう。
正しく近くて遠い、或いは寄らば遠ざかる蜃気楼のような相手である。
とは言え、そんなどうしようもなく掴み処の無い相手であっても、現に目の前に立っているというのも一つの事実であった。
そしてまた、友人達の手前、美香もまたリウドルフに妙な流し目を送る事も儘ならず、彼の横手を黙って通り過ぎたのであった。
そんな、去り行く少女の何の変哲も無い後姿を、一方のリウドルフもまた黙って見送っていたのであった。
何やら面白くもなさそうな表情を浮かべて、遠くフランスから戻ったばかりの彼は去り行く厄介者の姿を義眼の表に映していた。特に何の言葉を掛けるでもなく、生徒達の列の傍らにあって、痩身の孤影は一人溜息を吐いた。
どうにも調子が良くないようだ、と彼は胸中で愚痴を零した。
例のフランスでの『一件』以来、更に踏み込むなら、あの忌々しい原生生物におかしな幻覚を見せ付けられてからこちら、胸の奥に妙な蟠りのようなものが生じているようであった。
何やらはっきりとは掴めないが、どうにも何処かがすっきりとしない。
然りとて、こうした感覚にもいずれは慣れて行くものだろう。
慣れて飽きて、そして一切は薄れ行く。
かつて、そうであったように。
彼がそこまで思いを巡らせ、然る後、相次いで昇降口を後にし、数を減らしつつある生徒達の前から遠ざかろうとした時の事であった。
「お疲れ様っす、クリス先生」
太い声が、リウドルフのすぐ隣で上がった。
廊下の壁際でリウドルフが首を巡らせてみれば、彼の横手には一人の男子生徒が佇んでいたのであった。
日に良く焼けた、体格の良い少年であった。
少し長めのスポーツ刈りを晒し、人懐っこい笑みを浮かべたその男子生徒の姿を認めるなり、リウドルフも面持ちを僅かに変化させる。
「……おお、久し振りだなぁ」
それまでの気の抜けた口調から態度を一変させて、リウドルフは目の前に立つ男子生徒に実に親しげに挨拶を返したのだった。
さながら、生まれ育った土地へ数十年振りに舞い戻った帰郷者が、未だ営業を続ける馴染みの店を見付けた時のように。
一方その頃、そんな相手の様子など露知らず、美香は友人達と共に校門の敷居を跨いだ所であった。
外には未だ夏空が広がり、湿気は多少和らいだにせよ、蒸し暑い空気が尚も辺りを覆い尽くしていた。路面に陽炎こそ浮かんではいないものの、残暑の日差しは未だ刺すようであり、その中を歩く大勢の学生達も一様に疲れた表情を浮かべていた。
「にしても暑っついなぁ……」
学校の校庭沿いに伸びる歩道を進みながら、美香の右隣を歩く顕子が鞄を持っていない方の手で顔を仰ぎつつぼやいた。
「暦に沿って陽気もがらっと変わってくれないもんかね、本当」
「暑さ寒さも彼岸まで。もう二十日程の辛抱だよ」
美香の左隣から昭乃が指摘すると、顕子は舌先を覗かせた。
「その前にあたしが彼岸に行っちゃいそう。これからこの陽気の中を、また通学すんのかと思うと……」
「まあまあ、せめて来月の体育祭までに涼しくなってくれる事を祈ろうじゃないの」
美香が隣の友人へと顔を向けて、そう宥めた時であった。
「あれ……?」
ふと、美香は怪訝な面持ちを浮かべる。
右側を歩く顕子の更に右手には柵の向こうに学校の敷地が広がっていたのだが、その一点、主に外来者が出入りする裏門の一角に一台の車が停まっていたのである。先程、昇降口を出たばかりの時には気付かなかったが、裏門付近に設けられた駐車スペースには緑色のスポーツカーが一台だけ停められていたのであった。
かつて見掛けた憶えの無い、少々場違いなまでの鮮やかな色合いの車であった。
「ん? どしたの?」
相手の覗かせた微妙な変化に気付いてか、顕子も同じ方向へと顔を向ける。
「……ああ、いや、始業式の日にお客さんでも来たのかなって思って……」
「ああ……」
美香の言葉に顕子も小さく頷いた。
「何? あの車がどうかした?」
美香の左隣から、昭乃もまた同じ方向を覗き込んだ。
学校の外周を覆う柵越しでは詳細は判らないが、校内に停められた車はすぐに動き出すような気配も覗かせない。遠方からでは車内の様子も伺いようが無かった。
「やあ、見慣れない車だから、いっそ格好良い人でも乗ってやしないかなと思って」
顕子がにやけた表情を覗かせると、昭乃は少し呆れたように指摘する。
「またそんな都合の良い事言って……こんな平日の昼日中に学校に来る人なんか、どっかの業者の人か、さもなきゃ教育委員会の偉いさん辺りなんじゃない?」
「おっ、だったら後の方がいいなぁ。文部省所属の超エリート、東大卒で超イケメンの若手官僚様様様があたしらの学校を御視察に来て下さったとか! あたし、忘れ物した事にしてちょっと確かめて来ようかな」
「登校初日から何ゲスい事言ってんの……」
こちらも呆れた表情を浮かべて、美香が窘めた。
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