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フレンチでリッチな夜でした
その38
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深い闇はすぐ目の前まで迫っていた。
今や太陽は地平の奥深くへと沈み、西の空に僅かに滲む残照が迫り来る宵闇を辛うじて押し留めるばかりであった。
そんな、流れ出る血のように紅い空を背後に置いて佇む過去の幻影を凝視したまま、リウドルフは身動ぎする事も如意ならぬ様子であった。
案山子のように押し黙り、完全に動きを止めた獲物の様子をゾエは傍らから心底愉快げに見つめた。
「あらあら、偉そうな事を抜かしていた割にはだらしないのねぇ。何を見ているのかは知らないけれど」
次いで人の『心』すら狩る怖ろしき『獣』を生み出した者は、満面に喜悦を覗かせて語り掛ける。
「あなたの耳にはもう届いていないでしょうけど、これが『私の息子』の実力なのよ。誰でも心の内側まで鍛え上げる事は出来ない。たとえそれが数百年の歳月を経た人外の存在であろうとも、ね」
彼女がしたり顔で宣言したすぐ横では、銀色の不定形生物が体表をゆらゆらと揺らめかせていた。御馳走を前に手足を擦る蝿のような仕草で、『それ』はすっかり棒立ちとなった細身の男を仰いでいるようであった。
何やら貪欲な意識を滲ませる不定形生物へ、ゾエはそれでも暖かな眼差しを注いだ。麗かな春の日差しの下を朗らかに駆ける幼子を見るようにして、彼女は夕闇に蠢く巨大な原生生物を見下ろしたのだった。
「『この子』も私には、私にだけは楽しい『夢』を見せてくれる。『食事』の後にはいつも決まって、自分の『満足感』を私にも分けてくれるのよ。それはもう、とてもとても心地良い『夢』の中へ誘ってくれる。それが、それこそが『家族』の特権と言うものでしょうね……私をこの世で最も頼れる只一人の味方と、唯一の『肉親』だと思っているからこそなのでしょうけれど」
ゾエは半ば恍惚とした表情で呟いてから、痩身の孤影へ侮蔑の眼差しを遣した。
「……でもあなたは駄目よ。あなたには気持ちの良い夢なんか見させてあげない。精々苦しみなさい。その苦悶の中で、これまで抱えて来た不安ごと『この子』に食べ尽くされれば良い」
二種の獣が嗜虐的な意識を向ける先で、その時リウドルフは虚空より訪れたる幻像と一対一で向かい合っていたのだった。
臙脂色のローブを纏った一人の若い娘が、彼の前で尚も微笑み続けていた。
彼女の遥か後方では紅に染まった西の空が最後の輝きを放つ。空はその八割方が夜の闇に覆われていた。
迫り来る翳りの中で、それでも彼女は微笑を絶やさない。
そんな彼女の有様を、眼前に佇む朧げにして確然たるその姿を、リウドルフは強張った面持ちで捉えていた。
『先生……』
毬が弾むような快活な声が彼の意識に直に伝わった。
全て『あの頃』のままであった。
『あの頃』と、もう四百年近く前に柔らかな日差しの下で語らい合った頃と同じく、姿共々過ぎ去りし日々のままに。
然るに間も無く、リウドルフは顔を歪めながらも首を横に振った。
「……違う」
揺らいだ声がその口元より這い出た。
「……これは違う……只の幻だ……こんなものは、ここには……もう『ここ』には……」
彼が苦しげにそこまで呟いた時、前方の情景に変化が訪れた。
既に姿を消した日輪を追って、地平の向こうに吸い込まれようとしていた残照が唐突にその領域を広げ、空一面を紅に染め上げたのであった。
あたかも大量の血潮が彼方より押し寄せ、全てを押し流して塗り潰して行くかのように。
同時に大勢の人の声が、頭上に広がる鮮血の覆いの至る所より漏れ出して木霊し始める。
聞く者の意識を千々に乱す、それらは不気味な声であった。
平静を失くしていると明らかに判る病的な歓声。
耳を割り砕かんばかりの激しい怒号。
胸を貫くような悲愴極まる絶叫。
それに合わせるように血の色に染め上げられた空はうねり出し、所々で渦を巻いて辺りへおどろおどろしい轟音を鳴り響かせ始めた。
彼女の額から一筋の血が、音も無く流れ落ちた。
目を剥いたリウドルフの前で、臙脂色のローブを纏った娘は灯りを落とすようにして微笑みを消し、打って代わって悲しげな表情を満面に湛える。
『……先生……痛い……痛い……』
悲しげに呟いた彼女の顔を、幾筋もの血が伝い落ちて行く。彼女はリウドルフへと縋るように両手を掲げ、その指先からも深紅の雫が次々と滴り落ちて行った。
大地に点々と撒き散らされた血は俄かに膨張を始め、広大な血溜まりとなって相対する両者の足元を忽ち覆い尽くした。
『……痛いよ……助けて……助けて……』
悲痛な声を漏らして縋り付こうとする彼女の後ろで、何処からか木霊する諸々の声も変化した。
聞く者の鼓膜を打ち破らんばかりに激しく轟く断末魔の叫喚へと。
それに促されてか相対する男女の間に広がる血糊は鮮やかさを増し、間も無く全体から紅蓮の炎を燃え上がらせたのだった。
瞬く間に一面が焦土と化した景色の中で、臙脂色のローブを纏った娘はそれでも慕った男へ近付こうとする。
『……熱い……熱いよ……先生……』
懸命に手を伸ばし、歩を進めながらも距離を全く詰められずにいる相手を視界に収めて、リウドルフはひたぶるに表情を歪めた。目の前に立つ『人物』の姿に慄然としてか、或いはこの『光景』が生じた『過去』を思い返してか、彼はすぐに身動きを取る素振りも覗かせずにいた。
当人にとっては無限に等しいまでに引き伸ばされたであろう粘り付くような時の経過の果てに、リウドルフは前方に広がる幻を見据えたまま徐に口を開いた。
「……止めろ……!」
語尾の微かに震えたか細い声が、そこから漏れ出した。
「……これ以上、もうこれ以上、『あいつ』を弄ぶな……!」
双眸に湛えられた眼光は蒼白い光へと代わっていたが、その光の揺らめき具合は、夏の終わりの渚に煌めく夕日のように儚さを醸し出すものであった。
自分が今相対している『者』から、悲痛な表情を浮かべてこちらへと縋り付こうとする『彼女』から目を逸らさず、『彼』はゆっくりと言葉を紡いで行く。
さながら一寸先も見通せぬ暗闇の中を、己の足音だけを引き連れて独り進むかの如くに。
「……これは幻だ……『存在しない』ものなんだ……」
目前の『彼女』へ痛ましい眼差しを据えるのと一緒に、リウドルフは右の拳を固く握りしめた。
「……その『事実』を、俺は知っている……『あの時』からずっと、ずっと彷徨い続けて来たのだから……四百年も、ずっと……」
何か細かな亀裂の走る囁くような物音が、向かい合う両者の間に差し挟まれた。
虚と実の二つの人影は、狭間を埋める事無く互いの立ち位置に留まり続ける。
臙脂色のローブを纏った若い女は今や全身を炎に包ませながら、相対する男をそれでも一心に見つめ続けた。
『先生……助けて、くれないの……?』
リウドルフは酷く悲しげに眉を顰めたまま、ぽつりと呟く。
「……ああ、そうだ……今更、助ける事は出来ない……」
目の前の虚像へ駆け寄る事も無く、まして在りし日の『彼女』を両手で抱き締める事もせず、瘦身の孤影はそのままの立ち位置で穏やかに頭を振った。
「……君はもう『現世』には居ない……この世の何処にも『居ない』んだよ……その『事実』を、どうしようも無い『現実』を、俺は知っているんだ……」
間を置かず、硬質の何かが潰れるくぐもった音が鳴り響いた。
途端、佇むリウドルフの前で果てし無く広がっていた焦土の景色は速やかに消え失せ、夜の田園風景が元通りに展開されたのだった。
『先生……』
そして同時に、彼のすぐ目の前に確かに在った遠い日の教え子の姿も、夜陰に吸い込まれるかのようにして等しく消え去ったのであった。血と炎の色に染め上げられた不吉極まる空模様は遥か彼方へと流れ去り、大小様々の星が敷き詰められた田舎の夜空が頭上に広がった。
その事実を認めた後、リウドルフは即座に視線を下ろす。直立の姿勢で佇む彼の体には、実に胸の辺りまで銀色の不定形生物が纏わり付いていたのであった。
リウドルフは一転して目元に険相を露わにすると、貪欲にして無礼千万な原生生物へと吼え掛かる。
「いつまでじゃれ付いている積もりだ!! さっさと離れろッ!!」
猛々しく怒号を浴びせるなり、彼は作り物の瞳の奥から、眼窩の更に深い所から溢れる蒼白い光を一気に強めた。
異形の眼差しを、否、遥けき『常世』より漏れ出る『異界』の片鱗を否応無しに知覚させられて、銀色の不定形生物は本能的に危機を察したのか、獲物の体より飛び退くように離脱したのであった。
双眸に確たる意志の輝きを取り戻したリウドルフが顔を戻した前方で、ゾエが驚愕の色を面皮に塗りたくった。
「そんな……そんな馬鹿な!? この子の攻撃が効かないと言うの!?」
「『手品』の種は割れていると言った筈だ」
一方のリウドルフは乱れ放題の頭を掻き毟り、実に厭わしげに言い捨てた。
「『英知』は時に最大の『武器』となる。仕組みの判明している現象に一々取り乱す粗忽者がいるか? それが『シグナル分子』によるものであろうと、『精神攻撃』によるものであろうと同じ事だ。そこの小汚い卑屈な生き物が在りもしない幻影を見せ付けているだけだと判り切っているのに、この俺が腰を抜かして失神するとでも思ったか!」
「でも、だとしても、こうまで思い切り良く、すぐに割り切って立ち直るなんて普通在り得ない! あなた、魂まで既に死んでるんじゃないの!?」
ゾエが困惑気味に吐き付けた非難めいた言葉に対し、しかしリウドルフは反論を発する事は無かった。
代わりに、瞬く星の無数が集まった夜空を痩身の影はふと仰ぎ見たのである。
「……確かに俺の『魂』は遠い昔に死んだ。四百年前の『あの時』に……」
それまでより口調を押さえたものに変え、リウドルフは述懐した。夜陰に消えた語尾の後ろに虫や蛙の声が、悠久の大自然が紡ぐ息吹が重なった。星空を仰いで目元を細めた彼がこの時見据えていたのは、輝く星々の遥か後ろに居るかも知れない何者かであった。
郷愁にも似た眼光を湛えたのも束の間、人にして人ならざる者は今目の前に立ちはだかる二種の獣をすぐに睨み付けた。
「だが、だからと言って『良識』まで捨てた憶えは無い! たとえこの世の『理』から逸脱しようと、人の『倫』まで踏み外す積もりも無い!!」
瞳の表に立ち昇った蒼白い光が鋼の光沢のように爛と輝いた。
決然と断言した相手を前にしてゾエは気圧された様子を少しの間晒していたが、それでも直に、己の足元に擦り寄る銀色の不定形生物へ獲物を指差して語り掛ける。
「もう一度よ、坊や! 今度はもっと強烈な幻を見せるの! あいつの心が本当に壊れてしまうぐらいに!!」
茂みの陰から獲物に狙いを定める蛇のように執念深く、ゾエは唸るように促した。
対してリウドルフは斜に構えた口調で、そんな彼女へと異論を差し挟む。
「いいや、『心』が壊れるのはそいつが先だ」
言って、彼はそれまで握り締めていた右の拳を顔の前まで掲げ、静かに五指を開いたのであった。
細かに砕けたガラス片が彼の掌には散らばっていた。
「さっきそいつが食らい付いて来た際に、薬瓶を砕いて中身を取り込ませてやった。そろそろ『薬』が回って来る頃だな」
「……何、ですって……?」
ゾエが怪訝な面持ちを浮かべた下方で、銀色の不定形生物が不意に全体を震わせた。これまでの恣意的な脈動とは異なる、全身を引き攣らせるような不規則不自然な動きを『それ』は突如として表し始めたのであった。
「どうしたの、坊や!?」
悲鳴のような声を上げたゾエの向かいで、リウドルフは細い肩を竦めて見せた。
「おやおや、言った傍から効果覿面であるようだ」
然る後、彼は冷ややかな面持ちを浮かべて告げる。
「南仏の誇る豊かな大自然から不自然の極みにある貴様へ取って置きの贈り物だ。どうだ? 『Amanite panthère』から抽出した『イボテン酸』の味は?」
途端、ゾエは大きく引き攣った顔をリウドルフへと向けた。
「『イボテン酸』て……まさか!?」
「人間相手にはまず投与出来ない特製の『作動薬』、即ち『受容体シグナル攪乱物質』の塊だ。最早まともな神経伝達も儘なるまい。これまで散々人の心を好きに搔き乱して来た振舞いを、今度は我が身で味わってみるがいい!」
冷厳たる宣告を下したリウドルフの言葉に相反せず、銀色の不定形生物はその輪郭を益々形定まらぬものへと変貌させて行った。
時に液体が泡立つように全体を震わせ、また時には触手を乱雑に伸ばすように八方に体躯を広げる。尋常ならざる苦痛に悶絶しているようにも、果てし無い愉悦に我を忘れているようにも見做せる、てんで出鱈目な動作を銀色の不定形生物は繰り返したのであった。
「坊や! 坊や!! しっかりして!!」
ゾエが傍らから懸命に訴える間も、『それ』は狂乱の舞踏を続けた。如何に強靭な細胞組織から成り立っていようと、神経系の仕組みまでは大差が無かったのが災いしての事であろうか。のたうつように痙攣を繰り返しながら、人の手によって生み出された原生生物は、同じく人の手で作り出された神経毒の効果を過剰なまでに受け続けたのであった。
そして次の瞬間、銀色の不定形生物は傍らに膝を付いたゾエへと襲い掛かった。
「坊……!」
何の前触れも見せずにそれは起こった。狼狽えた声を上げた時には、彼女は自らが生み出した原生生物に取り込まれていたのであった。
「そんな……坊や……止めて!」
銀色の細胞膜から必死に顔を覗かせて喘ぐゾエの姿を、リウドルフは向かいから冷ややかに見下ろした。過去の苦い思い出を見せ付けられた故か、嘗て無く冷淡な態度をこの時の彼は眼前の敵へ示したのだった。
「どうした? 何を慌てている? どうせ日頃そいつと接する中では皮の一枚や二枚、焼かれたり溶かされたりするのが茶飯事だろう? 二百年前の修道士共も文字通り『手を焼いて』いたようだったしな。敵と味方の最低限の区別は付けられるようだが、そいつからすれば自分以外の全ては単なる『餌』に過ぎん。寝床と狩場を提供してくれたからと言って、それで情愛や仁義が育つ訳でもない」
平淡そのものの口振りで言ってのけた彼の眼下で、銀色の不定形生物は狂乱の果てに生みの親を吸収しようと激しく蠢いた。
同時にゾエが濁った悲鳴を上げる。
「止めて! 止めなさい!! 止……!」
その間にも、不定形生物の分泌する消化酵素によって彼女の肉体は徐々に溶かされて行く。皮膚が焼け爛れ所々で皮下組織が覗く様子を、リウドルフは冷酷とすら呼べるまでの眼差しを以って捉えた。
「貴様も自分がこれまで出した犠牲者の気持ちを少しは味わってみろ。大体、『強者』に食われるのが『弱者』の果たすべき『役割』だとか何とか、ついさっき自慢げに抜かしていたばかりだろうが。その点、コブハサミムシやムレイワガネグモなぞは、産み落とした子供らへ母親がまず最初にその身を捧げる事で次代の命を繋げて行く。『弱肉強食』や『合理性』を第一に子育てを行なうのであれば、当の親がそれぐらいの『手本』を示して然るべきだな」
しかしリウドルフが遣した皮肉にまで、ゾエは意識がまるで回らぬ様子であった。水溜まりの中で必死に踠く蟻のように、彼女は自慢の『我が子』から逃れようと四肢を我武者羅に振り回した。
「放しなさい! 放せッ!! 私は貴方の……ああああああああああッ!?」
顔の右半分を消化酵素によって焼かれ、ゾエは遂に絶叫を放った。
その光景には『親子』の姿を連想させる要素は最早微塵も含まれていなかった。
『創造主』と『被造物』の関係ですらない。
夜の田園の一角で繰り広げられる悍ましい『共食い』の有様を見かねてか、リウドルフは忌まわしげに鼻を鳴らした。
次いで、彼はスラックスのポケットから新たな薬瓶を取り出したのだった。
「全く、これ程億劫な気分で人助けをするのも久し振りだ……!」
不満げに呟きつつも、彼は蓋を開けた小瓶を我を忘れている銀色の不定形生物の体表に突き入れた。瓶の内側より何かの白い粉末が巨大な原生生物の細胞内に流れ込んで行く。
直後、不定形生物の体躯が急激な膨張を始めた。細胞の内部に氷のような塊が相次いで発生し、それらは見る見る内に体積を増大させて、遂には細胞膜を突き破って体表の外まで溢れ出したのであった。
ゼリー状の透明な物体が銀色の不定形生物を内側から破裂させ、外側に歪な輪郭を形成して行く。その様子を見届けてリウドルフは気怠げに言う。
「『吸水性ポリマー』を流し込んだ。どれ程強靭な体組織を持っていようが、体内の水分を根こそぎ奪われては活動を維持出来まい。獰猛な『獣』も今や網に絡め取られたのだ。これにて『王手詰み』だな」
明確に宣言したリウドルフの眼下で、ゾエは只々呆然とした表情を浮かべていた。『獣』の細胞質と肥大した高吸水性樹脂に全身を塗れさせ、彼女は完全に自失の体を晒して畑の隅にへたり込んだまま動かなかった。
すっかり意気消沈した人工生命の制作者へと、もう一方の制作者は冷ややかな眼差しを浴びせた。
「何ともだらしない有様だな。子供を自分の『作品』としか見做していないからこういう醜態を晒すのだ。所詮は相手を、歪んだ『自己愛』を投影する『道具』として扱っているに過ぎんのだからな。子供の人格人権など初めから露程も気に掛けていないから異常な振る舞いが出来るのだし、いざ相手に反抗された時にはきちんとした対応が何一つ取れない。情けない奴だ」
リウドルフはそこまで言うと、憤懣とは別の険しさを不意に瞳へ立ち昇らせた。
「……卵と鶏のような話になるが、土台この世が『不完全』な代物であるのなら、そこで生み出されるものの一切は『完全』とは程遠い状態に初めから置かれている事になる。『不完全な』世界の内側でどれだけ足掻こうと、『完全な』存在を創り上げるなど成り立ち当初から絶対に不可能であると言う事だ」
目の前にへたり込んだ女と最早弱々しい痙攣を繰り返すばかりとなった『獣』を通して、彼は遠い日に擦れ違った者達へ語り掛けた。
「それに医学者の観点から意見するなら、『完全』とは数限り無い多様性の獲得によって漸く成し遂げられるものだ。狭い温室の中で幾ら豪奢に咲き誇った所で、紛れ込んだたった一種の菌によって呆気無く枯死してしまう花もある。一律の理念に沿って生み出されたもの程脆く順応性の低い、まるで『不完全』な欠陥品は無い。それこそが『完全』な事実と言うものだ」
宵闇の中で輝く大粒の星々の下、幾百年を行脚して来た痩身の孤影は厳かに断言した。
然る後、彼は何処までも澄み渡った紺色の夜空を今一度仰いだ。
「……それにたとえ元が『不完全』であれ、『苦悩』と共に歳月を経れば相応の強かさも得られる。それが、それこそがあらゆる生命の持つ『強さ』である筈だ」
誇るでも威張るでもなく、ただ寂しげに、独りの道を歩んで来た錬金術師は言葉を結んだのであった。
涼やかな夜風がその傍らを流れ去った。
それから間も無く彼の後方より、村の大通りの方角よりペンライトの灯りが幾つも浮かび上がり、畑の端に佇む両者の下へと近付いて来る。警察関係者の用いる光度の高い照明に背中を照らされる中で、リウドルフは今も道端に座り込むゾエへ人差し指を突き付けた。
「『IOSO』の権限に基づき貴様を拘束する。以後、貴様とその作品は標本と同じ扱いを受ける。以上だ」
重みのある通告が夜の田園に放たれた。
天上の星々は煌びやかに輝き、地上に息衝く諸々の生き物は絶え間無い生命の営みを合唱する。
全ては大自然の懐の、ほんの小さな一角で起こった事であった。
これもまた夏の夜の夢の如くに。
今や太陽は地平の奥深くへと沈み、西の空に僅かに滲む残照が迫り来る宵闇を辛うじて押し留めるばかりであった。
そんな、流れ出る血のように紅い空を背後に置いて佇む過去の幻影を凝視したまま、リウドルフは身動ぎする事も如意ならぬ様子であった。
案山子のように押し黙り、完全に動きを止めた獲物の様子をゾエは傍らから心底愉快げに見つめた。
「あらあら、偉そうな事を抜かしていた割にはだらしないのねぇ。何を見ているのかは知らないけれど」
次いで人の『心』すら狩る怖ろしき『獣』を生み出した者は、満面に喜悦を覗かせて語り掛ける。
「あなたの耳にはもう届いていないでしょうけど、これが『私の息子』の実力なのよ。誰でも心の内側まで鍛え上げる事は出来ない。たとえそれが数百年の歳月を経た人外の存在であろうとも、ね」
彼女がしたり顔で宣言したすぐ横では、銀色の不定形生物が体表をゆらゆらと揺らめかせていた。御馳走を前に手足を擦る蝿のような仕草で、『それ』はすっかり棒立ちとなった細身の男を仰いでいるようであった。
何やら貪欲な意識を滲ませる不定形生物へ、ゾエはそれでも暖かな眼差しを注いだ。麗かな春の日差しの下を朗らかに駆ける幼子を見るようにして、彼女は夕闇に蠢く巨大な原生生物を見下ろしたのだった。
「『この子』も私には、私にだけは楽しい『夢』を見せてくれる。『食事』の後にはいつも決まって、自分の『満足感』を私にも分けてくれるのよ。それはもう、とてもとても心地良い『夢』の中へ誘ってくれる。それが、それこそが『家族』の特権と言うものでしょうね……私をこの世で最も頼れる只一人の味方と、唯一の『肉親』だと思っているからこそなのでしょうけれど」
ゾエは半ば恍惚とした表情で呟いてから、痩身の孤影へ侮蔑の眼差しを遣した。
「……でもあなたは駄目よ。あなたには気持ちの良い夢なんか見させてあげない。精々苦しみなさい。その苦悶の中で、これまで抱えて来た不安ごと『この子』に食べ尽くされれば良い」
二種の獣が嗜虐的な意識を向ける先で、その時リウドルフは虚空より訪れたる幻像と一対一で向かい合っていたのだった。
臙脂色のローブを纏った一人の若い娘が、彼の前で尚も微笑み続けていた。
彼女の遥か後方では紅に染まった西の空が最後の輝きを放つ。空はその八割方が夜の闇に覆われていた。
迫り来る翳りの中で、それでも彼女は微笑を絶やさない。
そんな彼女の有様を、眼前に佇む朧げにして確然たるその姿を、リウドルフは強張った面持ちで捉えていた。
『先生……』
毬が弾むような快活な声が彼の意識に直に伝わった。
全て『あの頃』のままであった。
『あの頃』と、もう四百年近く前に柔らかな日差しの下で語らい合った頃と同じく、姿共々過ぎ去りし日々のままに。
然るに間も無く、リウドルフは顔を歪めながらも首を横に振った。
「……違う」
揺らいだ声がその口元より這い出た。
「……これは違う……只の幻だ……こんなものは、ここには……もう『ここ』には……」
彼が苦しげにそこまで呟いた時、前方の情景に変化が訪れた。
既に姿を消した日輪を追って、地平の向こうに吸い込まれようとしていた残照が唐突にその領域を広げ、空一面を紅に染め上げたのであった。
あたかも大量の血潮が彼方より押し寄せ、全てを押し流して塗り潰して行くかのように。
同時に大勢の人の声が、頭上に広がる鮮血の覆いの至る所より漏れ出して木霊し始める。
聞く者の意識を千々に乱す、それらは不気味な声であった。
平静を失くしていると明らかに判る病的な歓声。
耳を割り砕かんばかりの激しい怒号。
胸を貫くような悲愴極まる絶叫。
それに合わせるように血の色に染め上げられた空はうねり出し、所々で渦を巻いて辺りへおどろおどろしい轟音を鳴り響かせ始めた。
彼女の額から一筋の血が、音も無く流れ落ちた。
目を剥いたリウドルフの前で、臙脂色のローブを纏った娘は灯りを落とすようにして微笑みを消し、打って代わって悲しげな表情を満面に湛える。
『……先生……痛い……痛い……』
悲しげに呟いた彼女の顔を、幾筋もの血が伝い落ちて行く。彼女はリウドルフへと縋るように両手を掲げ、その指先からも深紅の雫が次々と滴り落ちて行った。
大地に点々と撒き散らされた血は俄かに膨張を始め、広大な血溜まりとなって相対する両者の足元を忽ち覆い尽くした。
『……痛いよ……助けて……助けて……』
悲痛な声を漏らして縋り付こうとする彼女の後ろで、何処からか木霊する諸々の声も変化した。
聞く者の鼓膜を打ち破らんばかりに激しく轟く断末魔の叫喚へと。
それに促されてか相対する男女の間に広がる血糊は鮮やかさを増し、間も無く全体から紅蓮の炎を燃え上がらせたのだった。
瞬く間に一面が焦土と化した景色の中で、臙脂色のローブを纏った娘はそれでも慕った男へ近付こうとする。
『……熱い……熱いよ……先生……』
懸命に手を伸ばし、歩を進めながらも距離を全く詰められずにいる相手を視界に収めて、リウドルフはひたぶるに表情を歪めた。目の前に立つ『人物』の姿に慄然としてか、或いはこの『光景』が生じた『過去』を思い返してか、彼はすぐに身動きを取る素振りも覗かせずにいた。
当人にとっては無限に等しいまでに引き伸ばされたであろう粘り付くような時の経過の果てに、リウドルフは前方に広がる幻を見据えたまま徐に口を開いた。
「……止めろ……!」
語尾の微かに震えたか細い声が、そこから漏れ出した。
「……これ以上、もうこれ以上、『あいつ』を弄ぶな……!」
双眸に湛えられた眼光は蒼白い光へと代わっていたが、その光の揺らめき具合は、夏の終わりの渚に煌めく夕日のように儚さを醸し出すものであった。
自分が今相対している『者』から、悲痛な表情を浮かべてこちらへと縋り付こうとする『彼女』から目を逸らさず、『彼』はゆっくりと言葉を紡いで行く。
さながら一寸先も見通せぬ暗闇の中を、己の足音だけを引き連れて独り進むかの如くに。
「……これは幻だ……『存在しない』ものなんだ……」
目前の『彼女』へ痛ましい眼差しを据えるのと一緒に、リウドルフは右の拳を固く握りしめた。
「……その『事実』を、俺は知っている……『あの時』からずっと、ずっと彷徨い続けて来たのだから……四百年も、ずっと……」
何か細かな亀裂の走る囁くような物音が、向かい合う両者の間に差し挟まれた。
虚と実の二つの人影は、狭間を埋める事無く互いの立ち位置に留まり続ける。
臙脂色のローブを纏った若い女は今や全身を炎に包ませながら、相対する男をそれでも一心に見つめ続けた。
『先生……助けて、くれないの……?』
リウドルフは酷く悲しげに眉を顰めたまま、ぽつりと呟く。
「……ああ、そうだ……今更、助ける事は出来ない……」
目の前の虚像へ駆け寄る事も無く、まして在りし日の『彼女』を両手で抱き締める事もせず、瘦身の孤影はそのままの立ち位置で穏やかに頭を振った。
「……君はもう『現世』には居ない……この世の何処にも『居ない』んだよ……その『事実』を、どうしようも無い『現実』を、俺は知っているんだ……」
間を置かず、硬質の何かが潰れるくぐもった音が鳴り響いた。
途端、佇むリウドルフの前で果てし無く広がっていた焦土の景色は速やかに消え失せ、夜の田園風景が元通りに展開されたのだった。
『先生……』
そして同時に、彼のすぐ目の前に確かに在った遠い日の教え子の姿も、夜陰に吸い込まれるかのようにして等しく消え去ったのであった。血と炎の色に染め上げられた不吉極まる空模様は遥か彼方へと流れ去り、大小様々の星が敷き詰められた田舎の夜空が頭上に広がった。
その事実を認めた後、リウドルフは即座に視線を下ろす。直立の姿勢で佇む彼の体には、実に胸の辺りまで銀色の不定形生物が纏わり付いていたのであった。
リウドルフは一転して目元に険相を露わにすると、貪欲にして無礼千万な原生生物へと吼え掛かる。
「いつまでじゃれ付いている積もりだ!! さっさと離れろッ!!」
猛々しく怒号を浴びせるなり、彼は作り物の瞳の奥から、眼窩の更に深い所から溢れる蒼白い光を一気に強めた。
異形の眼差しを、否、遥けき『常世』より漏れ出る『異界』の片鱗を否応無しに知覚させられて、銀色の不定形生物は本能的に危機を察したのか、獲物の体より飛び退くように離脱したのであった。
双眸に確たる意志の輝きを取り戻したリウドルフが顔を戻した前方で、ゾエが驚愕の色を面皮に塗りたくった。
「そんな……そんな馬鹿な!? この子の攻撃が効かないと言うの!?」
「『手品』の種は割れていると言った筈だ」
一方のリウドルフは乱れ放題の頭を掻き毟り、実に厭わしげに言い捨てた。
「『英知』は時に最大の『武器』となる。仕組みの判明している現象に一々取り乱す粗忽者がいるか? それが『シグナル分子』によるものであろうと、『精神攻撃』によるものであろうと同じ事だ。そこの小汚い卑屈な生き物が在りもしない幻影を見せ付けているだけだと判り切っているのに、この俺が腰を抜かして失神するとでも思ったか!」
「でも、だとしても、こうまで思い切り良く、すぐに割り切って立ち直るなんて普通在り得ない! あなた、魂まで既に死んでるんじゃないの!?」
ゾエが困惑気味に吐き付けた非難めいた言葉に対し、しかしリウドルフは反論を発する事は無かった。
代わりに、瞬く星の無数が集まった夜空を痩身の影はふと仰ぎ見たのである。
「……確かに俺の『魂』は遠い昔に死んだ。四百年前の『あの時』に……」
それまでより口調を押さえたものに変え、リウドルフは述懐した。夜陰に消えた語尾の後ろに虫や蛙の声が、悠久の大自然が紡ぐ息吹が重なった。星空を仰いで目元を細めた彼がこの時見据えていたのは、輝く星々の遥か後ろに居るかも知れない何者かであった。
郷愁にも似た眼光を湛えたのも束の間、人にして人ならざる者は今目の前に立ちはだかる二種の獣をすぐに睨み付けた。
「だが、だからと言って『良識』まで捨てた憶えは無い! たとえこの世の『理』から逸脱しようと、人の『倫』まで踏み外す積もりも無い!!」
瞳の表に立ち昇った蒼白い光が鋼の光沢のように爛と輝いた。
決然と断言した相手を前にしてゾエは気圧された様子を少しの間晒していたが、それでも直に、己の足元に擦り寄る銀色の不定形生物へ獲物を指差して語り掛ける。
「もう一度よ、坊や! 今度はもっと強烈な幻を見せるの! あいつの心が本当に壊れてしまうぐらいに!!」
茂みの陰から獲物に狙いを定める蛇のように執念深く、ゾエは唸るように促した。
対してリウドルフは斜に構えた口調で、そんな彼女へと異論を差し挟む。
「いいや、『心』が壊れるのはそいつが先だ」
言って、彼はそれまで握り締めていた右の拳を顔の前まで掲げ、静かに五指を開いたのであった。
細かに砕けたガラス片が彼の掌には散らばっていた。
「さっきそいつが食らい付いて来た際に、薬瓶を砕いて中身を取り込ませてやった。そろそろ『薬』が回って来る頃だな」
「……何、ですって……?」
ゾエが怪訝な面持ちを浮かべた下方で、銀色の不定形生物が不意に全体を震わせた。これまでの恣意的な脈動とは異なる、全身を引き攣らせるような不規則不自然な動きを『それ』は突如として表し始めたのであった。
「どうしたの、坊や!?」
悲鳴のような声を上げたゾエの向かいで、リウドルフは細い肩を竦めて見せた。
「おやおや、言った傍から効果覿面であるようだ」
然る後、彼は冷ややかな面持ちを浮かべて告げる。
「南仏の誇る豊かな大自然から不自然の極みにある貴様へ取って置きの贈り物だ。どうだ? 『Amanite panthère』から抽出した『イボテン酸』の味は?」
途端、ゾエは大きく引き攣った顔をリウドルフへと向けた。
「『イボテン酸』て……まさか!?」
「人間相手にはまず投与出来ない特製の『作動薬』、即ち『受容体シグナル攪乱物質』の塊だ。最早まともな神経伝達も儘なるまい。これまで散々人の心を好きに搔き乱して来た振舞いを、今度は我が身で味わってみるがいい!」
冷厳たる宣告を下したリウドルフの言葉に相反せず、銀色の不定形生物はその輪郭を益々形定まらぬものへと変貌させて行った。
時に液体が泡立つように全体を震わせ、また時には触手を乱雑に伸ばすように八方に体躯を広げる。尋常ならざる苦痛に悶絶しているようにも、果てし無い愉悦に我を忘れているようにも見做せる、てんで出鱈目な動作を銀色の不定形生物は繰り返したのであった。
「坊や! 坊や!! しっかりして!!」
ゾエが傍らから懸命に訴える間も、『それ』は狂乱の舞踏を続けた。如何に強靭な細胞組織から成り立っていようと、神経系の仕組みまでは大差が無かったのが災いしての事であろうか。のたうつように痙攣を繰り返しながら、人の手によって生み出された原生生物は、同じく人の手で作り出された神経毒の効果を過剰なまでに受け続けたのであった。
そして次の瞬間、銀色の不定形生物は傍らに膝を付いたゾエへと襲い掛かった。
「坊……!」
何の前触れも見せずにそれは起こった。狼狽えた声を上げた時には、彼女は自らが生み出した原生生物に取り込まれていたのであった。
「そんな……坊や……止めて!」
銀色の細胞膜から必死に顔を覗かせて喘ぐゾエの姿を、リウドルフは向かいから冷ややかに見下ろした。過去の苦い思い出を見せ付けられた故か、嘗て無く冷淡な態度をこの時の彼は眼前の敵へ示したのだった。
「どうした? 何を慌てている? どうせ日頃そいつと接する中では皮の一枚や二枚、焼かれたり溶かされたりするのが茶飯事だろう? 二百年前の修道士共も文字通り『手を焼いて』いたようだったしな。敵と味方の最低限の区別は付けられるようだが、そいつからすれば自分以外の全ては単なる『餌』に過ぎん。寝床と狩場を提供してくれたからと言って、それで情愛や仁義が育つ訳でもない」
平淡そのものの口振りで言ってのけた彼の眼下で、銀色の不定形生物は狂乱の果てに生みの親を吸収しようと激しく蠢いた。
同時にゾエが濁った悲鳴を上げる。
「止めて! 止めなさい!! 止……!」
その間にも、不定形生物の分泌する消化酵素によって彼女の肉体は徐々に溶かされて行く。皮膚が焼け爛れ所々で皮下組織が覗く様子を、リウドルフは冷酷とすら呼べるまでの眼差しを以って捉えた。
「貴様も自分がこれまで出した犠牲者の気持ちを少しは味わってみろ。大体、『強者』に食われるのが『弱者』の果たすべき『役割』だとか何とか、ついさっき自慢げに抜かしていたばかりだろうが。その点、コブハサミムシやムレイワガネグモなぞは、産み落とした子供らへ母親がまず最初にその身を捧げる事で次代の命を繋げて行く。『弱肉強食』や『合理性』を第一に子育てを行なうのであれば、当の親がそれぐらいの『手本』を示して然るべきだな」
しかしリウドルフが遣した皮肉にまで、ゾエは意識がまるで回らぬ様子であった。水溜まりの中で必死に踠く蟻のように、彼女は自慢の『我が子』から逃れようと四肢を我武者羅に振り回した。
「放しなさい! 放せッ!! 私は貴方の……ああああああああああッ!?」
顔の右半分を消化酵素によって焼かれ、ゾエは遂に絶叫を放った。
その光景には『親子』の姿を連想させる要素は最早微塵も含まれていなかった。
『創造主』と『被造物』の関係ですらない。
夜の田園の一角で繰り広げられる悍ましい『共食い』の有様を見かねてか、リウドルフは忌まわしげに鼻を鳴らした。
次いで、彼はスラックスのポケットから新たな薬瓶を取り出したのだった。
「全く、これ程億劫な気分で人助けをするのも久し振りだ……!」
不満げに呟きつつも、彼は蓋を開けた小瓶を我を忘れている銀色の不定形生物の体表に突き入れた。瓶の内側より何かの白い粉末が巨大な原生生物の細胞内に流れ込んで行く。
直後、不定形生物の体躯が急激な膨張を始めた。細胞の内部に氷のような塊が相次いで発生し、それらは見る見る内に体積を増大させて、遂には細胞膜を突き破って体表の外まで溢れ出したのであった。
ゼリー状の透明な物体が銀色の不定形生物を内側から破裂させ、外側に歪な輪郭を形成して行く。その様子を見届けてリウドルフは気怠げに言う。
「『吸水性ポリマー』を流し込んだ。どれ程強靭な体組織を持っていようが、体内の水分を根こそぎ奪われては活動を維持出来まい。獰猛な『獣』も今や網に絡め取られたのだ。これにて『王手詰み』だな」
明確に宣言したリウドルフの眼下で、ゾエは只々呆然とした表情を浮かべていた。『獣』の細胞質と肥大した高吸水性樹脂に全身を塗れさせ、彼女は完全に自失の体を晒して畑の隅にへたり込んだまま動かなかった。
すっかり意気消沈した人工生命の制作者へと、もう一方の制作者は冷ややかな眼差しを浴びせた。
「何ともだらしない有様だな。子供を自分の『作品』としか見做していないからこういう醜態を晒すのだ。所詮は相手を、歪んだ『自己愛』を投影する『道具』として扱っているに過ぎんのだからな。子供の人格人権など初めから露程も気に掛けていないから異常な振る舞いが出来るのだし、いざ相手に反抗された時にはきちんとした対応が何一つ取れない。情けない奴だ」
リウドルフはそこまで言うと、憤懣とは別の険しさを不意に瞳へ立ち昇らせた。
「……卵と鶏のような話になるが、土台この世が『不完全』な代物であるのなら、そこで生み出されるものの一切は『完全』とは程遠い状態に初めから置かれている事になる。『不完全な』世界の内側でどれだけ足掻こうと、『完全な』存在を創り上げるなど成り立ち当初から絶対に不可能であると言う事だ」
目の前にへたり込んだ女と最早弱々しい痙攣を繰り返すばかりとなった『獣』を通して、彼は遠い日に擦れ違った者達へ語り掛けた。
「それに医学者の観点から意見するなら、『完全』とは数限り無い多様性の獲得によって漸く成し遂げられるものだ。狭い温室の中で幾ら豪奢に咲き誇った所で、紛れ込んだたった一種の菌によって呆気無く枯死してしまう花もある。一律の理念に沿って生み出されたもの程脆く順応性の低い、まるで『不完全』な欠陥品は無い。それこそが『完全』な事実と言うものだ」
宵闇の中で輝く大粒の星々の下、幾百年を行脚して来た痩身の孤影は厳かに断言した。
然る後、彼は何処までも澄み渡った紺色の夜空を今一度仰いだ。
「……それにたとえ元が『不完全』であれ、『苦悩』と共に歳月を経れば相応の強かさも得られる。それが、それこそがあらゆる生命の持つ『強さ』である筈だ」
誇るでも威張るでもなく、ただ寂しげに、独りの道を歩んで来た錬金術師は言葉を結んだのであった。
涼やかな夜風がその傍らを流れ去った。
それから間も無く彼の後方より、村の大通りの方角よりペンライトの灯りが幾つも浮かび上がり、畑の端に佇む両者の下へと近付いて来る。警察関係者の用いる光度の高い照明に背中を照らされる中で、リウドルフは今も道端に座り込むゾエへ人差し指を突き付けた。
「『IOSO』の権限に基づき貴様を拘束する。以後、貴様とその作品は標本と同じ扱いを受ける。以上だ」
重みのある通告が夜の田園に放たれた。
天上の星々は煌びやかに輝き、地上に息衝く諸々の生き物は絶え間無い生命の営みを合唱する。
全ては大自然の懐の、ほんの小さな一角で起こった事であった。
これもまた夏の夜の夢の如くに。
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