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フレンチでリッチな夜でした
その37
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二人の頭上で、空は濃紺の色彩を三分の二まで広げていた。
刻々と翳りを増す景色の中で、それでも蠢き続ける銀色の不定形生物は、周囲の情景に馴染む事は無かった。
「最早見誤りようも無いな。二百年前と同じだ」
ゾエの足元で何処か挑発的に揺らめく『それ』を見下ろし、リウドルフは不快感を露骨に表して吐き捨てた。
「人工生命体……それも俺がやったように既存の細胞組織を培養して『誕生』させたものではなく、種々の薬品を合成する中で『製造』された全く異質の生命体……或る意味では『完全』ではあるな。『完全』に『人工』の原生生物だ」
そして彼は以前にも増して険しい面持ちを、向かい立つゾエへと据えたのだった。
「何処で『それ』の製法を知った? 『真なる神の使徒』を自称する誇大妄想狂共のアジトは確かに打ち壊したが、その残党が何処へどれだけ逃げ果せたのかまでは流石に把握していない。大方他所へ落ち延びた修道士が記録を残したか、あの『人騒がせ』が焼却し忘れたかだろうが……」
「大学の書庫の中に埋もれていたのよ。古文書としてね」
リウドルフとは対照的に緩んだ表情で、ゾエは答えた。
これまでの人当たりの良い態度を収め、彼女は太々しい対応を以って相手に臨んだ。
「これで古書には造詣が深いの。昔から古い書物に目を通すのが好きでね。セーヌの古本市には今でも足繫く通っているのよ」
「シェイクスピア辺りで満足しておくんだったな」
「生憎とそういう、教科書に載っているような人口に膾炙した本は好みじゃないの」
リウドルフの皮肉を鼻先で一笑した後、ゾエは言葉を続ける。
「学生時代、偶々手に取った本の中に『生命の創り方』が載っていたのよ。その時の驚きと興奮はあなたにも判るでしょう? 本との出会いは人との出会いにも勝る。夢中になって、それこそ寝食を忘れて読み耽ったものよ」
「そして、それを生み出すに至った訳か」
穏やかな口調で詠うように告げたゾエを、リウドルフは睨み付けた。
「……自分が何をしたのか判っているのか?」
「勿論。『この子』を、ちゃんとした『個体』を創り上げるのにはそれから何年も掛かった。毎日が試行錯誤の繰り返し。誰かの助けを借りる事も出来たけど、私はどうしても一人でやり遂げたかった」
そこまで言うとゾエは瞳を輝かせた。
「そして私はとうとう完成させた。きっと世界で只一人、新たな『生命』を『創造』する事に成功した。『物質』を組み合わせて『命』を創り出した。『無』から『有』を生み出したのよ、この私が!」
ゾエは何やら感極まった様子で、己の足元に絡み付く銀色の不定形生物へ熱っぽい視線を遣した。研究者としての、或いは更に別の感慨も含まれているのか、流体金属の塊のような生き物を見据える眼差しには常軌を逸した熱情が含まれていた。
同じ対象をリウドルフは鋭く見据えた。
「そしてその後は『そいつ』の望むままに、狩場と活餌を与え続けた訳か」
「そうよ。この子も大きくなるにつれより多くの、より活きの良い獲物を欲しがった。現代社会に於いて何処でも簡単に手に入る『餌』は『人間』だもの」
「成程、まず最初に食われたのは貴様の『心』だったようだな」
嬉々として語る相手へ嫌悪も露わに吐き捨てたリウドルフを、当のゾエは哄笑を以って見返す。
「あなたもつくづくつまらない視点でしか物事を捉えられない人ね。この世の生きとし生けるものは皆、いずれ死すべき『定め』を最初から負っているじゃない? むしろ、より強い存在の『糧』となる事で弱い生き物は自らの『役割』を果たすものなのよ。仕方が無いでしょう? それが『事実』であるのだし、『世界』とはそのように出来上がっているのだから」
「それは飽くまで貴様の頭の中にしか存在しない『世界』での話だ。個人の歪な『妄想』を高々二つ三つの事例と結び付けて独り合点した挙句、おかしな『常識』を拵えて周りにまで押し付けるな! まともな人付き合いも儘ならない『自分』の有様すらきちんと見据えられない奴に、どうして『世界』の実態など把握出来るものか!」
リウドルフはそこで瞳の奥に蒼白い光をやおら浮かばせた。
「……だが一つだけ未だに腑に落ちない点がある。何故、被害地域をこの村一箇所に限定させた? そいつに狩りを行なわせるのであれば各地を巡って散発的に実行すれば良いものを、何故にわざわざ足が付く真似を繰り返したんだ?」
「それは勿論、『この子』により強靭な『獲物』を与える為よ」
ゾエは今も足元に絡み付く銀色の不定形生物を見下ろして、臆面も無く言い放った。
「『獲物』を取り込めば取り込んだだけ『この子』はどんどん強くなる。だから敢えて目立つ振舞いを重ねたの。こうして一つ所で怪しげな事件が立て続けに起これば、自分から首を突っ込んで来る物好きが必ず現れる。腕に覚えのある猛者だってやって来るかも知れない。そうした一味違った『獲物』を与える事で、『この子』を更に『強化』出来る。実際、『あなた』と言う最高の『獲物』が飛び込んで来てくれた訳だしね」
「つまり、ここは貴様が周到に張り巡らせた『巣』の中と言う訳か。協力者を装って様子を窺いつつ、隙を見計らって俺を食わせる積もりだったのだな、最初から」
「その通り。どの道、今夜辺りが狙い目だと思っていた。あなたを襲わせるのにはね」
憤慨するでもなく言葉を差し挟んだリウドルフへ通告した後、ゾエは予てからの獲物を見据えて苦笑を浮かべた。
「だって、どうしようも無いじゃない。弱い餌を与えてばかりじゃ『この子』も退屈を持て余すようになったのよ。もっと歯応えのある獲物が必要になって来ていたの」
「判った」
相手の弁を受けて、リウドルフは実にあっさりと首肯した。
次いで殆ど間を置かず、その眉間に深い皺が刻まれる。
「これ以上話し込んでも時間の無駄である事が良く判った。貴様のような輩に付ける薬は元より無い。『医療神』も呆れて殴りに掛かるだろうよ」
瞳の奥、眼窩より放たれる蒼白い異形の視線が、人の道を踏み外した者へと真正面から叩き付けられた。
「……解けない結び目など無い。だが『貴様ら』は絡まって出来た『結び目』などではなく、完全に硬化し切った『瘤』なのだ。この社会を人体に喩えるなら、人々の交流と言う血流の中に生じた血栓だな。悪いが現時点では取り除くより他に術は無い」
「お医者様がまた物騒な事を仰るのね。でも私達にとってはどの道同じ事。今ここであなたを取り込んでしまえば、全ては目論見通りとなるのだから」
ゾエの挑発的な言葉に促されるようにして、彼女の足元で蠢いていた不定形生物がリウドルフの方へと僅かに躙り寄った。
先程までとは異なる動きを『それ』は不意に晒したのであった。さながら蛇が鎌首を擡げるようにして、『それ』は今宵の『獲物』へ興味を示したようだった。
食欲か、はたまた純粋な好奇心か。銀色の原生生物が滲み出させる全く異質な意識を据えられる中で、だがリウドルフはすぐに身構える事も無かった。
「生憎この二百年程で、そいつの使う『手品』も種が粗方割れている。そいつの行なう『狩り』の手口については凡そ察しが付いているのだ、残念ながら」
至極落ち着いた口調で言い放つと、世紀を幾つも跨いだ化学者は目の前の不定形生物を見下ろした。
「既存の原生生物と同じく、そいつもまた細胞膜から或る種の『シグナル物質』(※細胞間、個体間に何らかの刺激を与え、特定の反応を伝達させる酵素及び分子化合物)を分泌しているのだろう。それが他の生物の受容体に作用すると、相手の抱える潜在的な『恐怖』を増幅させてしまう。誰もが心中密かに抱いている懸念を、意識の表面にはっきりと立ち昇らせてしまう訳だな。嘗てはそれが原因で、森の中で暮らす住民が抱く野生動物への鬼胎や警戒が呼び覚まされ、木々の深みより突如として現れる幻の『獣』の姿を垣間見せるに至った。実際には存在しない様々な『獣』への怖気に五感を支配された、或いは緊張のあまり意識すら失った獲物を、『そいつ』は一方的に貪り食う事が出来たのだろう」
そこまで述べた所でリウドルフは瞳の奥に蒼白い光を揺らめかせた。
「……しかし、それは飽くまで『生者』に対してのみ有効な手段だ。確たる肉体を持たない俺にはそもそも効かん」
「あら、それはどうかしら?」
先方が重々しく結んだ解説に、ゾエは茶化すような物言いを差し挟んだ。
「何も私だって昔の人と全く同じ真似を繰り返そうと思い立った訳じゃない。こちらは時代を幾つも隔てた現代の人間なんですもの。今の視点や技術で改善が利く箇所があれば随所に施して回る。この子は二百年前の『原種』とは根本から違うのよ!」
ゾエは誇らしげに言ってのけると、己の前に立つ『不死なる者共の王』へ不敵な笑みを向けた。
「最大の改良点は『精神感応力』を付与した事! 環境に左右されるシグナル伝達に頼らなくとも、対象の『内面』へ直接揺さ振りを掛けられるようにね!!」
一陣の強い夜風が闇に包まれた畑の周囲で木々をざわつかせた。
相手が傲然と遣した通達に、リウドルフは俄かに緊張した面持ちを浮かべた。
果たして殆ど間を空けず彼の視界で唐突に景色が歪み、空気が陽炎のように揺らめき始める。
赤味を増した黄昏の空の下、波打つように揺らいだ景色の奥より、程無くして一つの人影が現れ出でたのだった。
即ち、臙脂色のローブを纏った小柄な人影が。
相手の詳細な容姿を認めるなり、リウドルフは大きく目を剥いた。
嘗てない驚愕の面持ちを、この時彼は浮かべていたのであった。辺りに広がる田園の風景も、絶え間無く響き回る虫や蛙の鳴き声も、彼の意識には途端に上らなくなっていた。彼にはただ目の前の人物が、在りし日の幻影だけが思考と感覚の全てを占めていたのである。
面持ちを凝固させた彼の前で、臙脂色のローブを着た何者かは顔を覆うフードを徐に下ろして行く。
明るい栗色の頭髪がそこより覗いた。
同時にリウドルフは頬を大きく引き攣らせたのだった。
彼の眼前に佇むのは、娘と評しても差し支え無い程のうら若い女であった。歳相応の溌溂とした彩りを乗せた顔は僅かに丸みを帯びて、柔和な印象をより一層際立たせる。目鼻立ちがそこまでくっきりしている訳ではなかったが、彼女の場合は、それが却って穏やかながらも奥ゆかしい豊かな趣を生むのであった。
双眸に暖かな眼光を湛え、その女は真向かいに立つ男へと和らいだ面持ちで微笑み掛ける。
対するリウドルフは動揺の度合いを刻々と深めて行った。
まるで優しく接される事に不慣れな野良犬が、子供に抱かれて全身の毛を逆立てるように。
薄く開かれたその唇から乾いた呻きが隙間風のように漏れ出る。
「……ベアトリクス……!」
悔恨と苦痛に輪郭を歪ませた、それは断末魔の呟きにも似た声であった。
刻々と翳りを増す景色の中で、それでも蠢き続ける銀色の不定形生物は、周囲の情景に馴染む事は無かった。
「最早見誤りようも無いな。二百年前と同じだ」
ゾエの足元で何処か挑発的に揺らめく『それ』を見下ろし、リウドルフは不快感を露骨に表して吐き捨てた。
「人工生命体……それも俺がやったように既存の細胞組織を培養して『誕生』させたものではなく、種々の薬品を合成する中で『製造』された全く異質の生命体……或る意味では『完全』ではあるな。『完全』に『人工』の原生生物だ」
そして彼は以前にも増して険しい面持ちを、向かい立つゾエへと据えたのだった。
「何処で『それ』の製法を知った? 『真なる神の使徒』を自称する誇大妄想狂共のアジトは確かに打ち壊したが、その残党が何処へどれだけ逃げ果せたのかまでは流石に把握していない。大方他所へ落ち延びた修道士が記録を残したか、あの『人騒がせ』が焼却し忘れたかだろうが……」
「大学の書庫の中に埋もれていたのよ。古文書としてね」
リウドルフとは対照的に緩んだ表情で、ゾエは答えた。
これまでの人当たりの良い態度を収め、彼女は太々しい対応を以って相手に臨んだ。
「これで古書には造詣が深いの。昔から古い書物に目を通すのが好きでね。セーヌの古本市には今でも足繫く通っているのよ」
「シェイクスピア辺りで満足しておくんだったな」
「生憎とそういう、教科書に載っているような人口に膾炙した本は好みじゃないの」
リウドルフの皮肉を鼻先で一笑した後、ゾエは言葉を続ける。
「学生時代、偶々手に取った本の中に『生命の創り方』が載っていたのよ。その時の驚きと興奮はあなたにも判るでしょう? 本との出会いは人との出会いにも勝る。夢中になって、それこそ寝食を忘れて読み耽ったものよ」
「そして、それを生み出すに至った訳か」
穏やかな口調で詠うように告げたゾエを、リウドルフは睨み付けた。
「……自分が何をしたのか判っているのか?」
「勿論。『この子』を、ちゃんとした『個体』を創り上げるのにはそれから何年も掛かった。毎日が試行錯誤の繰り返し。誰かの助けを借りる事も出来たけど、私はどうしても一人でやり遂げたかった」
そこまで言うとゾエは瞳を輝かせた。
「そして私はとうとう完成させた。きっと世界で只一人、新たな『生命』を『創造』する事に成功した。『物質』を組み合わせて『命』を創り出した。『無』から『有』を生み出したのよ、この私が!」
ゾエは何やら感極まった様子で、己の足元に絡み付く銀色の不定形生物へ熱っぽい視線を遣した。研究者としての、或いは更に別の感慨も含まれているのか、流体金属の塊のような生き物を見据える眼差しには常軌を逸した熱情が含まれていた。
同じ対象をリウドルフは鋭く見据えた。
「そしてその後は『そいつ』の望むままに、狩場と活餌を与え続けた訳か」
「そうよ。この子も大きくなるにつれより多くの、より活きの良い獲物を欲しがった。現代社会に於いて何処でも簡単に手に入る『餌』は『人間』だもの」
「成程、まず最初に食われたのは貴様の『心』だったようだな」
嬉々として語る相手へ嫌悪も露わに吐き捨てたリウドルフを、当のゾエは哄笑を以って見返す。
「あなたもつくづくつまらない視点でしか物事を捉えられない人ね。この世の生きとし生けるものは皆、いずれ死すべき『定め』を最初から負っているじゃない? むしろ、より強い存在の『糧』となる事で弱い生き物は自らの『役割』を果たすものなのよ。仕方が無いでしょう? それが『事実』であるのだし、『世界』とはそのように出来上がっているのだから」
「それは飽くまで貴様の頭の中にしか存在しない『世界』での話だ。個人の歪な『妄想』を高々二つ三つの事例と結び付けて独り合点した挙句、おかしな『常識』を拵えて周りにまで押し付けるな! まともな人付き合いも儘ならない『自分』の有様すらきちんと見据えられない奴に、どうして『世界』の実態など把握出来るものか!」
リウドルフはそこで瞳の奥に蒼白い光をやおら浮かばせた。
「……だが一つだけ未だに腑に落ちない点がある。何故、被害地域をこの村一箇所に限定させた? そいつに狩りを行なわせるのであれば各地を巡って散発的に実行すれば良いものを、何故にわざわざ足が付く真似を繰り返したんだ?」
「それは勿論、『この子』により強靭な『獲物』を与える為よ」
ゾエは今も足元に絡み付く銀色の不定形生物を見下ろして、臆面も無く言い放った。
「『獲物』を取り込めば取り込んだだけ『この子』はどんどん強くなる。だから敢えて目立つ振舞いを重ねたの。こうして一つ所で怪しげな事件が立て続けに起これば、自分から首を突っ込んで来る物好きが必ず現れる。腕に覚えのある猛者だってやって来るかも知れない。そうした一味違った『獲物』を与える事で、『この子』を更に『強化』出来る。実際、『あなた』と言う最高の『獲物』が飛び込んで来てくれた訳だしね」
「つまり、ここは貴様が周到に張り巡らせた『巣』の中と言う訳か。協力者を装って様子を窺いつつ、隙を見計らって俺を食わせる積もりだったのだな、最初から」
「その通り。どの道、今夜辺りが狙い目だと思っていた。あなたを襲わせるのにはね」
憤慨するでもなく言葉を差し挟んだリウドルフへ通告した後、ゾエは予てからの獲物を見据えて苦笑を浮かべた。
「だって、どうしようも無いじゃない。弱い餌を与えてばかりじゃ『この子』も退屈を持て余すようになったのよ。もっと歯応えのある獲物が必要になって来ていたの」
「判った」
相手の弁を受けて、リウドルフは実にあっさりと首肯した。
次いで殆ど間を置かず、その眉間に深い皺が刻まれる。
「これ以上話し込んでも時間の無駄である事が良く判った。貴様のような輩に付ける薬は元より無い。『医療神』も呆れて殴りに掛かるだろうよ」
瞳の奥、眼窩より放たれる蒼白い異形の視線が、人の道を踏み外した者へと真正面から叩き付けられた。
「……解けない結び目など無い。だが『貴様ら』は絡まって出来た『結び目』などではなく、完全に硬化し切った『瘤』なのだ。この社会を人体に喩えるなら、人々の交流と言う血流の中に生じた血栓だな。悪いが現時点では取り除くより他に術は無い」
「お医者様がまた物騒な事を仰るのね。でも私達にとってはどの道同じ事。今ここであなたを取り込んでしまえば、全ては目論見通りとなるのだから」
ゾエの挑発的な言葉に促されるようにして、彼女の足元で蠢いていた不定形生物がリウドルフの方へと僅かに躙り寄った。
先程までとは異なる動きを『それ』は不意に晒したのであった。さながら蛇が鎌首を擡げるようにして、『それ』は今宵の『獲物』へ興味を示したようだった。
食欲か、はたまた純粋な好奇心か。銀色の原生生物が滲み出させる全く異質な意識を据えられる中で、だがリウドルフはすぐに身構える事も無かった。
「生憎この二百年程で、そいつの使う『手品』も種が粗方割れている。そいつの行なう『狩り』の手口については凡そ察しが付いているのだ、残念ながら」
至極落ち着いた口調で言い放つと、世紀を幾つも跨いだ化学者は目の前の不定形生物を見下ろした。
「既存の原生生物と同じく、そいつもまた細胞膜から或る種の『シグナル物質』(※細胞間、個体間に何らかの刺激を与え、特定の反応を伝達させる酵素及び分子化合物)を分泌しているのだろう。それが他の生物の受容体に作用すると、相手の抱える潜在的な『恐怖』を増幅させてしまう。誰もが心中密かに抱いている懸念を、意識の表面にはっきりと立ち昇らせてしまう訳だな。嘗てはそれが原因で、森の中で暮らす住民が抱く野生動物への鬼胎や警戒が呼び覚まされ、木々の深みより突如として現れる幻の『獣』の姿を垣間見せるに至った。実際には存在しない様々な『獣』への怖気に五感を支配された、或いは緊張のあまり意識すら失った獲物を、『そいつ』は一方的に貪り食う事が出来たのだろう」
そこまで述べた所でリウドルフは瞳の奥に蒼白い光を揺らめかせた。
「……しかし、それは飽くまで『生者』に対してのみ有効な手段だ。確たる肉体を持たない俺にはそもそも効かん」
「あら、それはどうかしら?」
先方が重々しく結んだ解説に、ゾエは茶化すような物言いを差し挟んだ。
「何も私だって昔の人と全く同じ真似を繰り返そうと思い立った訳じゃない。こちらは時代を幾つも隔てた現代の人間なんですもの。今の視点や技術で改善が利く箇所があれば随所に施して回る。この子は二百年前の『原種』とは根本から違うのよ!」
ゾエは誇らしげに言ってのけると、己の前に立つ『不死なる者共の王』へ不敵な笑みを向けた。
「最大の改良点は『精神感応力』を付与した事! 環境に左右されるシグナル伝達に頼らなくとも、対象の『内面』へ直接揺さ振りを掛けられるようにね!!」
一陣の強い夜風が闇に包まれた畑の周囲で木々をざわつかせた。
相手が傲然と遣した通達に、リウドルフは俄かに緊張した面持ちを浮かべた。
果たして殆ど間を空けず彼の視界で唐突に景色が歪み、空気が陽炎のように揺らめき始める。
赤味を増した黄昏の空の下、波打つように揺らいだ景色の奥より、程無くして一つの人影が現れ出でたのだった。
即ち、臙脂色のローブを纏った小柄な人影が。
相手の詳細な容姿を認めるなり、リウドルフは大きく目を剥いた。
嘗てない驚愕の面持ちを、この時彼は浮かべていたのであった。辺りに広がる田園の風景も、絶え間無く響き回る虫や蛙の鳴き声も、彼の意識には途端に上らなくなっていた。彼にはただ目の前の人物が、在りし日の幻影だけが思考と感覚の全てを占めていたのである。
面持ちを凝固させた彼の前で、臙脂色のローブを着た何者かは顔を覆うフードを徐に下ろして行く。
明るい栗色の頭髪がそこより覗いた。
同時にリウドルフは頬を大きく引き攣らせたのだった。
彼の眼前に佇むのは、娘と評しても差し支え無い程のうら若い女であった。歳相応の溌溂とした彩りを乗せた顔は僅かに丸みを帯びて、柔和な印象をより一層際立たせる。目鼻立ちがそこまでくっきりしている訳ではなかったが、彼女の場合は、それが却って穏やかながらも奥ゆかしい豊かな趣を生むのであった。
双眸に暖かな眼光を湛え、その女は真向かいに立つ男へと和らいだ面持ちで微笑み掛ける。
対するリウドルフは動揺の度合いを刻々と深めて行った。
まるで優しく接される事に不慣れな野良犬が、子供に抱かれて全身の毛を逆立てるように。
薄く開かれたその唇から乾いた呻きが隙間風のように漏れ出る。
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