幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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フレンチでリッチな夜でした

その34

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 月の端に掛かっていた雲が静かに流れ去った。
 辺りを覆っていたはずの闇は何の前触れも無しに溶け消え、元通りの景色が四方に広がっていた。
 まるで不意に出現したその者に委縮したかのように、しくは心の奥底に真の安堵あんどを得た彼女の意識に押されるように、禍々しい景色はたちまちの内に消滅したのであった。
 さながら朝日の昇るのと共にあらゆる悪夢が蒸散して行くように。
 緋色に輝く双眸そうぼうの端から、かすかに輝くものが伝い落ちた。
 場に新たに現れたリウドルフは、にわかに脱力したアレグラを穏やかに見遣る。
「また随分と大きな声を上げたものだな。結界を貫いて鼓膜まで破れるかと思ったぞ」
 この人物に鼓膜なぞ最早残ってもいないはずなのだが、向こうの軽口に気付くゆとりも無いまま、アレグラは真に頼るべき相手の姿を認めるなり両手に抱いたベルナールをその面前へとおずおずと差し出したのだった。
我が創造主mein Schöpfer、どうか、どうかこの人を……」
「何だかさっきと呼び方が違うような気がするが……」
 ぼやくように呟きながら、彼はアレグラの腕に抱かれた青年の姿に目を凝らした。
「ふむ、腹壁外側部に銃創が一つ、か。位置からして腎臓を始めとする重要器官からは外れているだろうし、出血も大人しい。破傷風にさえ気を付ければおおむね問題は無かろう。無論きちんとした手当を済ませた上での話だが」
「え……?」
「むしろ、この修道士とお前がどんな間柄にあるのか、そちらの方が余程気掛かりだな。この半月ばかり妙にそわそわしていたのと関係しているのか?」
 事も無げに訊ねて来たリウドルフへ、アレグラは呆然とした中に困惑の色をにじませた。
 そんな相手へリウドルフもまた怪訝な眼差しを遣す。
「……どうした? 何を錯乱している? お前らしくもない」
 背を叩くように告げられて、アレグラは自分が両手に抱えた者の姿を今一度見下ろした。
 直後、彼女は驚きに目を見張る。
 彼女が確認した先で全ては元の有様に戻っていた。
 両目を閉ざし、しかし緩やかに胸を上下させる元通りのベルナールの姿がそこには確かに在ったのだった。
「これは……」
 アレグラは驚愕に揺れる呟きを思わず漏らした。
 ベルナールは意識を失っているのか、両の目を固く閉ざしていた。何か悪い夢でも見ているらしく、時折眉を神経質そうに震わせている。
 だが他に以前との違いは見当たらない。
 ましてやむくろと化している訳でもない。
 彼は生きている。
 そう、確かに生きている。
 今にも膝から崩れ落ちそうになる程の安堵あんどが、アレグラの全身に行き渡った。
 しかし同時に一つの疑問も湧いて出る。
 同様の疑惑をリウドルフも向かいで抱いたようであった。
「妙だな……さっきの取り乱し方と言い、何者かの術中にまっていたのか? 辺りに人の気配は感じられないが……」
 言いながら彼は辺りを見回した。
 軽やかな夜風が道を挟んで繁茂する芝草を軽やかに騒がせた。
 そこを人ならざる眼差しが舐めるように見通した。瞳の奥に蒼白い光を灯し、夜の闇に包まれた街道の近辺を、月と星のか細い光に照らし出されるばかりの山裾の森を、異形の双眸そうぼうが注意深く走査して行く。
 そして程無く、リウドルフはる一点に視点を据えたのだった。
「ほう……そんな所に隠れていたか」
 呟いたリウドルフに促されるようにして、アレグラもそちらへと首を巡らせた。二人の見つめる先には、先程アレグラによって打ち倒された胸甲騎兵の一人が草むらに仰向けに倒れている。
 そのかたわらの陰に、かすかに蠢く『もの』が存在した。
 夜陰に輪郭のほとんどを溶かし込んではいたが、草むらの中で『何か』が確かに動いていた。形象の有無も定かではない、しかるに尚も脈動を続ける『何もの』かが。
「あれは……」
 思わず眉をひそめたアレグラの横で、リウドルフはこの場にいない者達へ向けて冷笑を送る。
「あれが連中の言う『バルベーロー』……『最初の人間』にして『まことの神の欠片』にして、そして『全ての母体』と言う訳か。しかし何とも不細工な代物を創り上げたものだ」
「あれが……あんな『もの』が生物だと言うのですか?」
 ベルナールを抱えたままアレグラは驚いた様子で訊ねた。
 リウドルフは幾度いくどか小さく首肯しゅこうする。
「修道院の連中が定義する所ではそうだ。『完璧な世界』に住まうべき『完全なる生物』。まずはその試作品と言った所だな。これを強化、あるいは進化させて、奴らは新たな『人間』を生み出す積もりでいるのだろうが……」
 答えた後、リウドルフはおもむろに両目を細めた。
「……そして、あれこそがこの地域一帯を恐怖の底に引きり下ろした『獣』の正体でもあるのだろう」
「あんなものが……」
 いささか以上の呆気に取られていたアレグラは、だがそこで目元を険しいものへと一変させる。如何なる手段によってか定かではないものの、こちらに不吉極まる幻覚を見せ付けて精神的に追い込もうとした相手を、そんな無礼極まる不埒な輩を見逃す程、彼女の慈悲は深くも広くもなかったのである。
 緋色に輝く髪が風も無い中で静かに舞い上がり、同じ色の双眸そうぼうが獲物に狙いを定めた猛禽のようにきらめく。
「……我が創造主mein Schöpfer
「ああ、どの道、このまま野放しにしておいて良い生物ではない」
 冷厳たる意志に裏打ちされた一組の異形の眼差しが、夜陰の一角に注がれた。
 刹那、さしもの『それ』も身震いを起こしたようであった。畢竟ひっきょうするに、決して怒らせてはならない二者を揃って憤慨させた事が、あるいは『それ』の引き起こした最大にして最悪の災いであったやも知れぬ。
 だがその時、一同の横手より新たな足音が複数、急速に近付いて来た。
 リウドルフが舌打ちを漏らして首を巡らせれば、山裾に広がる木立の奥より、無数に灯るランタンの光点が街道の端に立つ二人へと迫って来る所であった。
「新手が来たか……」
 呟くのと一緒にリウドルフは先程の位置へちらと瞳を向けた。仰向けに倒れた騎士の陰に隠れていた小さなかげりは、すでに跡形も無く消え失せた後であった。
 それを認めるなり彼は不機嫌そうに鼻息を漏らす。
「ふん、退き時を見誤らない辺りは確かに『獣』と呼ぶに相応しいかも知れんな……」
 次いでリウドルフはアレグラへと目を移す。未だ目覚めぬベルナールを両手に抱いて立つ緋色の髪の女へと、痩身の男は細い眼差しを注いだ。
「取り急ぎ、お前はその怪我人を安全な所へ運んでおけ。その間、残りはこちらで引き付ける」
「判りました」
 毅然と答えたアレグラの向かいで、その時リウドルフは今一度、何処か勿体もったい付けるように鼻息をついた。
「……それで、その『男』との関係についても後でじっくり聞かせて貰うからな。この先俺は『そいつ』をどう呼べば良いのか、何より俺が『そいつ』にどう呼ばれる羽目に陥るのか……」
 父親のやっかみじみた言葉には応じず、アレグラは両手に抱いたベルナールを見つめた。脇腹に銃弾を受けた青年は現在は表情を少しは和らげて、まぶたを閉ざしたまま穏やかな呼吸を繰り返している。
 アレグラの目がわずかに細められた。
 そうして彼女は緋色のたてがみを今一度なびかせると、地を蹴って高く高く飛翔したのであった。さながら巣に戻ろうとする鳥のような自然な仕草で。
 一方、星明りの向こうへとすぐに吸い込まれて行った一組の男女を、残された男は白けた面持ちで見送った。
「……猛烈に嫌な予感がして来た……」
 宴に呼ばれた先で苦手とする品々ばかりが食膳に並べられている様子を目にした時のように、リウドルフは酷くむず痒そうに頬を引きらせたのであった。
 しかるにそれも束の間、夜の街道に一人残った彼の周囲をランタンの光がたちまち取り囲んだ。
 リウドルフが億劫そうに見回してみれば、果たして集まったのは修道院より追跡に出た胸甲騎兵達であった。ランタンの灯りに分厚い胸当てをてらかせながら、完全装備の屈強な男達がたった一人の貧相な男を包囲した。
 そして居並ぶ騎兵達を分けて、一際魁偉かいいな様相を晒した男がその貧相な男の面前へと重々しく進み出たのだった。
「ほう、稀代の錬金術師ともなると身のこなしも抜きん出ているようだな。少し目を離した隙にこんな所まで足を運んでいようとは、巣穴から燻し出された鼠もくやではないか」
「『兵は神速を貴ぶ』と言うのは軍隊きさまらの持論ではないのか? それでなくとも身内の危機に際しては誰でも千里を駆け抜けるさ。兎角他人を数字や記号として扱いたがる輩なぞには判るまいが」
 ヴァンサンが嘲笑気味に遣した売り言葉へ、リウドルフは飄々ひょうひょうと買い言葉を返した。
 対してヴァンサンは口元を一度引き締めると、おもむろに辺りを見回し始める。
「……付近にあの女の姿が無い所を見ると一足違いであったか」
 近くに散らばる打ち倒された騎士達の姿を確認してから、彼は目前に立つ貧相な外観の男を忌々しげに見下ろした。
「逃がしたか、それとも隠したのか。いくらでも製造出来るだろう『模造品』一つに、随分と躍起になれるものだな。制作者故のこだわりと言う奴か? よもや情婦として生み出したと言うのでもあるまい?」
「……貴様如きには到底理解出来んだろうし、わざわざ解説してやる義理も無い。俺とあいつが抱えた『宿業』の深さについてはな」
 金属のような冷たさと硬さを潜ませた声で、リウドルフは下卑た邪推を切り捨てた。
 一方のヴァンサンもまた同様に、冷厳たる眼差しを相手へと送り返す。
「ならば最後に確認しておくが、ここまでの真似をして見せたからには、我らの『同志』となる意志は無いと言う事だな?」
「生憎と俺は何事も無理強いされるのが大嫌いでね。その点、貴様らは初手から最悪手を打ってしまった訳だ」
 端的に回答した後、リウドルフは取り囲む騎士達の中心で、その長へと向けて喉元に剃刀を突き付けるように視線を送った。
「……こちらも最後に一つだけ訊いておこう。あの無様で不細工な惨めったらしい『生き物』を用いて、貴様らはこの先何を行なう積もりでいる? あの妄想ジジイの掲げる絵空事とは別に、貴様らゴロツキ連中で画策している事が何かあるのか?」
 不遜極まる言い回しで詰問された忠実なる高弟は、苛立ちの色を面皮に浮かび上がらせた。
「尊師の御慧眼は我らの及ぶ所ではない。だが『あれ』の強靭さは私も幾度いくどか目にしている。我々は今『あれ』に更なる強化を施す為の実験を繰り返している所だ」
「『実験』? こんな片田舎であんなものを放し飼いにした挙句、近隣の住民を気紛れに襲わせる事の何処が『実験』だ?」
 同じく苛立ちを露わにしたリウドルフへと、ヴァンサンは傲然ごうぜんたる笑みを表に晒した。
「『狩り』の仕方を覚えさせている最中なのだ。我々が手を加えるのとは別に、自発的に学習し進歩して行く事もあろうからな」
 至極平然と言ってのけた後、ヴァンサンは豊かな顎髭あごひげを撫で付けつつ双眸そうぼうに喜色を浮かび上がらせた。
「我々は目下、あの生物の増産に向けた取り組みを日夜続けている。『あれ』の能力を向上させ、最初からそれと同じ強化個体を量産する事に成功すれば、この国の不信心者共を一掃するなど容易たやすい作業となろう。いずれパリを始めとする大都市に『バルベーロー』の群を解き放ち、堕落した者共を余さず浄化してくれよう」
 リウドルフは嫌悪を最早隠そうともせずに吐き捨てる。
「そしてその後に貴様がこの国の実権を握り、異論も批判も許さない狭量な支配体制を敷くと言う寸法か。世も末だな」
「末であるのは今の情勢だ。貴様には判らぬか、錬金術師アルシミスト?」
 相対するヴァンサンは、目元を険しいものへと変えて即座に反駁はんばくする。
「熟れ過ぎて腐り始めた果実は大樹より切り離されるが世の『摂理』と言うものだ。忌まわしき悪霊アルコーン共によって、生き腐れも同然の有様で歪み切った世界に縛り付けられた哀れな者共を、我々は自ら解放しようと奮起しているだけの事。そうして世の全てをあまねく浄化した暁には、あらゆる束縛から解放された『完全』なる世界が生まれる事だろう。その時こそ、あの『万物の源バルベーロー』もその名に相応しい高次の存在へと変態を遂げるに違いない。いや、我ら全員が肉体と言うさなぎから飛び立つ蝶のように変わるのだ。私は来るべきその時まで繋ぎの役目を果たそうと思い立った。ただそれだけだ」
「ただそれだけの真似をな、世の中では『独裁』と呼ぶんだ」
 多くの『前例』を目にして来た賢人は、更に忌まわしげに相手の言い分を真っ向から否定した。
「誰に承諾を得た訳でもないのにはた迷惑な『使命』とやらを振りかざし、誰の承認も得ぬまま万人へそれを押し付ける事を『天命』と称す。自分が都合良く思い描いた『理解』ある『賢明』な支持者へ『奉仕』を行なっている積もりで、いざ『現実』の人間に反発された際には『衆愚』とののしり『堕落』した社会の『犠牲者』を気取る。そうして身勝手な『義憤』に駆られながら更なる『愚行』を積み重ねて行くのだ、『貴様ら』は。この数百年、実に進歩の欠片も見当たらん」
 心底辟易へきえきした口調で、リウドルフは言い捨てた。
「だがそれでも、こちらの預かり知らない所で密かに事を進めるのならわざわざ止めに入ったりもしなかった。こちらは貴様ら程、暇を持て余していられる身分ではないのでな」
 そこまで言うと、彼は面前に立つ偉丈夫をめ上げる。
「……しかし、もう駄目だ。もう遅過ぎる。現に目の前で人の命を無下に扱う輩を、こちらも見過ごす訳には行かん」
「ふん、ならばどうすると……」
 嘲笑を返そうとした所で、しかしヴァンサンは顔を引きらせた。
 異形の眼差しが、彼の瞳を真正面から射抜いていた。正にこの世のものではない、注視された者の魂すら吸い上げる異様の眼差しが。
 リウドルフの双眸そうぼうに蒼白い光が煌々こうこうと灯る。それに合わせて彼の全身の輪郭が揺らぎ始め、真なる姿が現れ出したのであった。
「そして何より見逃せん事……それは……!」
 取り囲む胸甲騎兵達が次々に怯えた様子を覗かせ始める中で、彼は決然と己の意を発する。
「……娘を泣かせた事だ!!」
 雷鳴にも等しい一喝が鳴り響くや、ヴァンサンを始めとして居並ぶ屈強な男達は一斉に首筋を委縮させたのであった。
 そして、彼らの前に『それ』は立っていた。
 ぼろぼろに綻んだ闇色の衣をまとい、周囲の闇よりも尚暗い骨格を露わにした異形の者が。
 眼窩がんかより蒼白い光を炎のように吹き出させた、髑髏どくろの顔の持ち主が。
 月はただ、一連の有様を終始冷ややかに見下ろしていた。
 輝く星々の下に現れ出でた『不死なる者共の王』は、遅まきながら戦慄に顔を歪める愚かで哀れな者共を厳しく睨み据えたのであった。
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