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フレンチでリッチな夜でした
その31
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およそ千五百年以上を遡る遠い昔、一つの思想が当時の文化的中心地域であった地中海沿岸諸国に勃興した。
即ち、『全知全能』なる神によって慈しみの下に創造された筈のこの世界が、あまりにも多くの『矛盾』と『混乱』に塗れていると言うどうしようもない『事実』に対し、遂にはこの宇宙が神の名を騙る『別の存在』によって創り出された『悪』にして『偽り』の世界であるに違いないと定義付けた思想である。
その独特の教義から一時は根強い支持を集めたものの、キリスト教諸会派より異端宣告を受け、東方に伝えられた一部宗派を除いて歴史の表舞台から既に姿を消した筈の学派。
それが俗に『グノーシス主義』と定義付けられた思想であった。
リウドルフは目元を徐々に鋭いものへと変えて行く。
過去の人物たる錬金術師の前で更なる過去に自身の信条を据えた異端者達は、驕慢と恍惚の混ざり合った眼光を翠の炎に煌めかせた。
「左様。我らはこの『偽りの世界』にあって『真の神』を奉ずる者。真の摂理にのみ首を垂れる者。『至高の霊魂』の使徒でありまする」
「併せて『偽りの神』の見えざる支配から世を解放する使徒でもあり申す」
オーギュストとヴァンサンが堂々たる口上を発した向かいで、リウドルフは実に億劫そうに自分よりも数段古い過去からの亡霊を見遣った。
「……それで?」
彼は小首をやおら傾いで見せる。
「自らの『肉体』を含めたあらゆる物質的存在を怠惰を齎す『悪』と見做す融通の利かない連中が、他人の『肉体』を治して現世に永らえさせるのが仕事のこの俺に何の用だ? 偽の神に押し込められた不浄な体から解放される事を本懐とするなら、今まで通り森の奥で静かに隠遁を続ければ良いだろう。それこそ『霊的存在』の思し召しと言う奴だ」
そう切り返してからリウドルフは警戒の混ざった眼差しを周囲へと散らした。
「それにこの機材は一体何だ? あんたらは一体、こんな辛気臭い穴倉の底で何をしている?」
翡翠色の篝火の炎に今も照らし出される、夥しい数の実験器具を見回してリウドルフは問うた。
地下墓地の中心付近、運び込まれて並べられた諸々の机や台の数は生半可な研究機関の設備を凌駕するだろう。自然の光も人の目も届かぬ地下の深奥に、恐らくは修道院全体が一丸となって何らかの研究を続けた、或いは今も続けている様子が浮かび上がっていたのであった。
数拍の間を置いて、オーギュストが翠の篝火の向こうから声を発する。
「全てにお答えする前に一つ確かめたい事が御座います」
さながら夜の潮騒の如く闇の中に浸透する、それは穏やかながらも直向きな声であった。
「貴方も没したとされる年から既に二百余年の歳月を永らえて来られた。その間、現世の何をその瞳に映して来られましたか?」
暗がりの奥、何処からか入り込む冷ややかな空気が一同の足元を流れた。
傍らに立つヴァンサンも厳しい面持ちを保つ中で、オーギュストは言葉を続ける。
「権勢を恣にする一握りの人間の利害や独断によって引き起こされる、数え切れない紛争と戦乱の数々……それに為されるがまま、振り回されるがままに奪う側にも奪われる側にも付いてしまう群衆……誰もが蹂躙する側にも蹂躙される側にも容易く身を置いてしまう俗世……」
オーギュストはそこまで語ると、悲しげな光を宿した右の目を天井へとやおら持ち上げた。
「……そしてそんな世情に対し、何の道も示しては下さらない我らの主の有様を貴方も、いや貴方は我々などより遥かに長く見届けて来たのではありますまいかな?」
篝火を挟んで立つリウドルフは、すぐに何を答えようともしなかった。
代わりに、オーギュストの隣でヴァンサンが重々しく口を開く。
「これが父なる神のお導きによる世の正しい有様だと貴君には捉えられようか? 分けても近年に於ける王室の腐敗振りはそちらの耳にも届いていよう」
苦々しげにヴァンサンは口元を歪めた。
「たかが王権を、移ろい変わるが世の常である世俗的権力を保持せんが為、神の名すら傲然と利用する。教皇の威光を跳ね除ける為の措置であるか知らぬが、畏れ多くも神の御名を軽々しく振り翳し、まして自らその代理人を僭称するなど人の身に許された行ないではない。剰え最近ではそんな暴論に進んで取り入り、保身と利権拡張を目論む輩すら出る始末……!」
「歪んでいるのですよ、全てが……土台が歪んでいるからこそ、その上に構築されたものにも歪が生まれる。如何に豪奢に飾り付けようとも隠せぬ事柄と言うのがあるのです」
ヴァンサンへと宥めるように言った後、オーギュストは翡翠色の篝火の向こうに佇むリウドルフを改めて見つめる。
「どうですかな、先生。我らと共にこの欺瞞に満ちた世を、否応も無く押し付けられた歪な殻を打ち破ろうとは思いませぬか?」
老修道士の言葉の後、篝火に灯る翠の炎がゆらゆらと揺れた。
数秒の緘黙を経てリウドルフは徐に片手を持ち上げ、後ろ頭を掻いたのだった。
「あー……」
次いで鼻息で卓上の小蝿でも吹き飛ばすかのように、甚だつまらなそうな口調で彼は切り出す。
「……要するに、あれか。世間の時流に上手い事乗れなかったり、権力争いの外に押し出されたりした人付き合いの下手糞な奴らが世を恨んで捻くれたと、そういう話か」
「何ッ!?」
ヴァンサンが俄かに目元を歪める向かいで、リウドルフは相対する二者をゆっくりと指差した。
「自分の言い分が通らない世の中など『間違って』いる、根本から仕組みが『歪んで』いる、人心も堕落し『腐り切って』いる……いい加減頭が痛くなる程見て来たよ、そうした連中は。またぞろ這い出て来た訳だな、春先の油虫のように。無駄にややこしい屁理屈を得意気に振り翳して勝手に周りを見下す分、そこらの酔っ払い共より遥かに始末が悪い」
「貴ッ様……!」
気色ばんだヴァンサンを、傍らからオーギュストが片手を伸ばして制した。
然る後、歳経た修道士は更に歳経た錬金術師へと向け、張りの失われていない声で呼び掛ける。
「中々に手厳しい御指摘ですな。然るに現実として世の実情はどうです? 絶対王政の名の下に王侯貴族は専横を極め、それに張り合う為か特権を維持し続けようと試みる聖職者達は腐敗の一途を辿っているのがこの国の現状です。社会の歪みはその度合いを日々増しているのですよ。如何に目を逸らそうとも、或いは視点を変えようとも事実は事実として動きませんぞ」
「そう言うあんたも『第一身分』であるに違いは無いだろ。偉そうに御託を抜かす裏で、どれだけ年金貰ってんだ」
飽くまで冷めた態度を崩さず、リウドルフは切り返した。
「それに、それらの事象が全て『偽りの神』とやらの策略だと信じるのであれば尚更、俗世を離れて精進を重ねればいいだろうに。何故に妙な形で世に関わろうとする? その上、俺を巻き込んでまで何を目論んでいる?」
「無論、社会の刷新ですよ。先程も我が弟子が申し上げました通り」
オーギュストはそれまでより目を大きく見開いて答えた。
「成程、そちらの仰る通り塵界から距離を置いて禁欲と精進を続けるなら、『我らの』魂はいつか救いを得られるやも知れません。東方の宗教で言う所の『解脱』とやらを得られるやも知れません。ですが、それでは駄目なのです。我々だけがどれ程に精神を高めた所で、『物質』と『肉体』と言う悪しき縛鎖が現世にいつまでも残り続けるのでは結局は同じ事の繰り返しに過ぎません。最初から何も変わらないのと同義ではありませんか」
翠の火影と深い闇を映した右目と、光も闇も最早取り込む事は無い濁った左目を大きく開いて老修道士は旗幟を鮮明にする。
「この不条理に満ちた『不完全』な世界が今後も、下手をすれば永遠に続いてしまうかも知れないと言う事が目下最大の懸案なのです。宇宙の何処かで我々を今も嘲笑う『低俗霊』共を、地上に蔓延るその手先共をこの先に於いても調子付かせる事があってはならないのです。故にこそ、我らは『世界そのもの』をより高次へ引き上げるべく努力を重ねているのです」
「……努力と言うのは『それ』の事か?」
リウドルフは翡翠の炎に照らされる種々の実験器具を今一度見回した。
篝火の向こうでオーギュストは首肯する。
「左様。真なる世界を顕現させ、そこに住まうに足る生まれながらにして純粋な精神性を宿した『真の人間』を生み出す事こそ、我らの果たすべき『使命』にして宇宙へ掲げるべき『天命』なのです。あらゆる物質の枷を取り払い、この汚濁に塗れた偽りの世界を『神域』へと改革させられる、真なる浄土へと人々を導く『使徒』と成り得る強靭な『生命』を我らは創り上げようと試み続けて来たのです」
「強靭な『生命』? まさかそれが……」
訝ったリウドルフが呟いた時、彼の前方、即ちオーギュストとヴァンサンの背後に幾つもの光点が唐突に浮かび上がった。まるで闇に煌めく無数の獣の瞳のように、地下墓地の暗がりに夥しい数の小さな光が次々と点灯したのだった。
遅れて、複数の人の輪郭が闇の奥から彫り出された。
大勢の修道士、加えて胸甲騎兵達が手に手にランタンを掲げ、暗闇の懐より現れ出でた。或いは、最初から師の後ろに控えていたのだろうか。
オーギュストもヴァンサンも全く動じず、翡翠色の篝火を挟んで佇むリウドルフへと居並ぶ配下の者達と共に圧し掛かるような視線を浴びせる。
「貴方の蓄えた人工生命に関する膨大な知識が加われば、我らの研究と行動も大きな飛躍を遂げる事でしょう。理想の実現の為、我々にはどうしても貴方が必要なのです」
跪くようにして粛々と宣言した直後、オーギュストは顔を跳ね上げた。
「さあ、御回答を」
オーギュストが丁寧ながらも厳かに言葉を発した。
「回答を」
「回答を」
「回答を」
後ろに並ぶ修道士と胸甲騎兵も合わせて一斉に声を上げる。
「我らと共に『真なる世界』を築き上げん事を!」
ヴァンサンが声を張り上げると背後から無数の木霊が付随する。
「築き上げん事を!」
「我らと共に!」
「我ら、『真なる主の犬』と共に!」
闇そのものが鳴動するかのように、朗々たる声が空気を震わせた。
険しい面持ちを保ちつつも未だ押し黙るリウドルフを、向かいからオーギュストが愉快げに見つめる。
「いざ、賢明なる御返答を、先生」
暗い悦楽の滲み出る歪んだ声音であった。
リウドルフは黙って顎先を引いた。
相対する両者の間で、篝火の翠の炎は音も立てずに揺らめき続けた。
人間達の熱の篭った吐息以外に何の物音も伝わらぬ闇の底で、大小無数の炎だけが静かに震えていた。
即ち、『全知全能』なる神によって慈しみの下に創造された筈のこの世界が、あまりにも多くの『矛盾』と『混乱』に塗れていると言うどうしようもない『事実』に対し、遂にはこの宇宙が神の名を騙る『別の存在』によって創り出された『悪』にして『偽り』の世界であるに違いないと定義付けた思想である。
その独特の教義から一時は根強い支持を集めたものの、キリスト教諸会派より異端宣告を受け、東方に伝えられた一部宗派を除いて歴史の表舞台から既に姿を消した筈の学派。
それが俗に『グノーシス主義』と定義付けられた思想であった。
リウドルフは目元を徐々に鋭いものへと変えて行く。
過去の人物たる錬金術師の前で更なる過去に自身の信条を据えた異端者達は、驕慢と恍惚の混ざり合った眼光を翠の炎に煌めかせた。
「左様。我らはこの『偽りの世界』にあって『真の神』を奉ずる者。真の摂理にのみ首を垂れる者。『至高の霊魂』の使徒でありまする」
「併せて『偽りの神』の見えざる支配から世を解放する使徒でもあり申す」
オーギュストとヴァンサンが堂々たる口上を発した向かいで、リウドルフは実に億劫そうに自分よりも数段古い過去からの亡霊を見遣った。
「……それで?」
彼は小首をやおら傾いで見せる。
「自らの『肉体』を含めたあらゆる物質的存在を怠惰を齎す『悪』と見做す融通の利かない連中が、他人の『肉体』を治して現世に永らえさせるのが仕事のこの俺に何の用だ? 偽の神に押し込められた不浄な体から解放される事を本懐とするなら、今まで通り森の奥で静かに隠遁を続ければ良いだろう。それこそ『霊的存在』の思し召しと言う奴だ」
そう切り返してからリウドルフは警戒の混ざった眼差しを周囲へと散らした。
「それにこの機材は一体何だ? あんたらは一体、こんな辛気臭い穴倉の底で何をしている?」
翡翠色の篝火の炎に今も照らし出される、夥しい数の実験器具を見回してリウドルフは問うた。
地下墓地の中心付近、運び込まれて並べられた諸々の机や台の数は生半可な研究機関の設備を凌駕するだろう。自然の光も人の目も届かぬ地下の深奥に、恐らくは修道院全体が一丸となって何らかの研究を続けた、或いは今も続けている様子が浮かび上がっていたのであった。
数拍の間を置いて、オーギュストが翠の篝火の向こうから声を発する。
「全てにお答えする前に一つ確かめたい事が御座います」
さながら夜の潮騒の如く闇の中に浸透する、それは穏やかながらも直向きな声であった。
「貴方も没したとされる年から既に二百余年の歳月を永らえて来られた。その間、現世の何をその瞳に映して来られましたか?」
暗がりの奥、何処からか入り込む冷ややかな空気が一同の足元を流れた。
傍らに立つヴァンサンも厳しい面持ちを保つ中で、オーギュストは言葉を続ける。
「権勢を恣にする一握りの人間の利害や独断によって引き起こされる、数え切れない紛争と戦乱の数々……それに為されるがまま、振り回されるがままに奪う側にも奪われる側にも付いてしまう群衆……誰もが蹂躙する側にも蹂躙される側にも容易く身を置いてしまう俗世……」
オーギュストはそこまで語ると、悲しげな光を宿した右の目を天井へとやおら持ち上げた。
「……そしてそんな世情に対し、何の道も示しては下さらない我らの主の有様を貴方も、いや貴方は我々などより遥かに長く見届けて来たのではありますまいかな?」
篝火を挟んで立つリウドルフは、すぐに何を答えようともしなかった。
代わりに、オーギュストの隣でヴァンサンが重々しく口を開く。
「これが父なる神のお導きによる世の正しい有様だと貴君には捉えられようか? 分けても近年に於ける王室の腐敗振りはそちらの耳にも届いていよう」
苦々しげにヴァンサンは口元を歪めた。
「たかが王権を、移ろい変わるが世の常である世俗的権力を保持せんが為、神の名すら傲然と利用する。教皇の威光を跳ね除ける為の措置であるか知らぬが、畏れ多くも神の御名を軽々しく振り翳し、まして自らその代理人を僭称するなど人の身に許された行ないではない。剰え最近ではそんな暴論に進んで取り入り、保身と利権拡張を目論む輩すら出る始末……!」
「歪んでいるのですよ、全てが……土台が歪んでいるからこそ、その上に構築されたものにも歪が生まれる。如何に豪奢に飾り付けようとも隠せぬ事柄と言うのがあるのです」
ヴァンサンへと宥めるように言った後、オーギュストは翡翠色の篝火の向こうに佇むリウドルフを改めて見つめる。
「どうですかな、先生。我らと共にこの欺瞞に満ちた世を、否応も無く押し付けられた歪な殻を打ち破ろうとは思いませぬか?」
老修道士の言葉の後、篝火に灯る翠の炎がゆらゆらと揺れた。
数秒の緘黙を経てリウドルフは徐に片手を持ち上げ、後ろ頭を掻いたのだった。
「あー……」
次いで鼻息で卓上の小蝿でも吹き飛ばすかのように、甚だつまらなそうな口調で彼は切り出す。
「……要するに、あれか。世間の時流に上手い事乗れなかったり、権力争いの外に押し出されたりした人付き合いの下手糞な奴らが世を恨んで捻くれたと、そういう話か」
「何ッ!?」
ヴァンサンが俄かに目元を歪める向かいで、リウドルフは相対する二者をゆっくりと指差した。
「自分の言い分が通らない世の中など『間違って』いる、根本から仕組みが『歪んで』いる、人心も堕落し『腐り切って』いる……いい加減頭が痛くなる程見て来たよ、そうした連中は。またぞろ這い出て来た訳だな、春先の油虫のように。無駄にややこしい屁理屈を得意気に振り翳して勝手に周りを見下す分、そこらの酔っ払い共より遥かに始末が悪い」
「貴ッ様……!」
気色ばんだヴァンサンを、傍らからオーギュストが片手を伸ばして制した。
然る後、歳経た修道士は更に歳経た錬金術師へと向け、張りの失われていない声で呼び掛ける。
「中々に手厳しい御指摘ですな。然るに現実として世の実情はどうです? 絶対王政の名の下に王侯貴族は専横を極め、それに張り合う為か特権を維持し続けようと試みる聖職者達は腐敗の一途を辿っているのがこの国の現状です。社会の歪みはその度合いを日々増しているのですよ。如何に目を逸らそうとも、或いは視点を変えようとも事実は事実として動きませんぞ」
「そう言うあんたも『第一身分』であるに違いは無いだろ。偉そうに御託を抜かす裏で、どれだけ年金貰ってんだ」
飽くまで冷めた態度を崩さず、リウドルフは切り返した。
「それに、それらの事象が全て『偽りの神』とやらの策略だと信じるのであれば尚更、俗世を離れて精進を重ねればいいだろうに。何故に妙な形で世に関わろうとする? その上、俺を巻き込んでまで何を目論んでいる?」
「無論、社会の刷新ですよ。先程も我が弟子が申し上げました通り」
オーギュストはそれまでより目を大きく見開いて答えた。
「成程、そちらの仰る通り塵界から距離を置いて禁欲と精進を続けるなら、『我らの』魂はいつか救いを得られるやも知れません。東方の宗教で言う所の『解脱』とやらを得られるやも知れません。ですが、それでは駄目なのです。我々だけがどれ程に精神を高めた所で、『物質』と『肉体』と言う悪しき縛鎖が現世にいつまでも残り続けるのでは結局は同じ事の繰り返しに過ぎません。最初から何も変わらないのと同義ではありませんか」
翠の火影と深い闇を映した右目と、光も闇も最早取り込む事は無い濁った左目を大きく開いて老修道士は旗幟を鮮明にする。
「この不条理に満ちた『不完全』な世界が今後も、下手をすれば永遠に続いてしまうかも知れないと言う事が目下最大の懸案なのです。宇宙の何処かで我々を今も嘲笑う『低俗霊』共を、地上に蔓延るその手先共をこの先に於いても調子付かせる事があってはならないのです。故にこそ、我らは『世界そのもの』をより高次へ引き上げるべく努力を重ねているのです」
「……努力と言うのは『それ』の事か?」
リウドルフは翡翠の炎に照らされる種々の実験器具を今一度見回した。
篝火の向こうでオーギュストは首肯する。
「左様。真なる世界を顕現させ、そこに住まうに足る生まれながらにして純粋な精神性を宿した『真の人間』を生み出す事こそ、我らの果たすべき『使命』にして宇宙へ掲げるべき『天命』なのです。あらゆる物質の枷を取り払い、この汚濁に塗れた偽りの世界を『神域』へと改革させられる、真なる浄土へと人々を導く『使徒』と成り得る強靭な『生命』を我らは創り上げようと試み続けて来たのです」
「強靭な『生命』? まさかそれが……」
訝ったリウドルフが呟いた時、彼の前方、即ちオーギュストとヴァンサンの背後に幾つもの光点が唐突に浮かび上がった。まるで闇に煌めく無数の獣の瞳のように、地下墓地の暗がりに夥しい数の小さな光が次々と点灯したのだった。
遅れて、複数の人の輪郭が闇の奥から彫り出された。
大勢の修道士、加えて胸甲騎兵達が手に手にランタンを掲げ、暗闇の懐より現れ出でた。或いは、最初から師の後ろに控えていたのだろうか。
オーギュストもヴァンサンも全く動じず、翡翠色の篝火を挟んで佇むリウドルフへと居並ぶ配下の者達と共に圧し掛かるような視線を浴びせる。
「貴方の蓄えた人工生命に関する膨大な知識が加われば、我らの研究と行動も大きな飛躍を遂げる事でしょう。理想の実現の為、我々にはどうしても貴方が必要なのです」
跪くようにして粛々と宣言した直後、オーギュストは顔を跳ね上げた。
「さあ、御回答を」
オーギュストが丁寧ながらも厳かに言葉を発した。
「回答を」
「回答を」
「回答を」
後ろに並ぶ修道士と胸甲騎兵も合わせて一斉に声を上げる。
「我らと共に『真なる世界』を築き上げん事を!」
ヴァンサンが声を張り上げると背後から無数の木霊が付随する。
「築き上げん事を!」
「我らと共に!」
「我ら、『真なる主の犬』と共に!」
闇そのものが鳴動するかのように、朗々たる声が空気を震わせた。
険しい面持ちを保ちつつも未だ押し黙るリウドルフを、向かいからオーギュストが愉快げに見つめる。
「いざ、賢明なる御返答を、先生」
暗い悦楽の滲み出る歪んだ声音であった。
リウドルフは黙って顎先を引いた。
相対する両者の間で、篝火の翠の炎は音も立てずに揺らめき続けた。
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