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フレンチでリッチな夜でした

その24

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 明くる日の朝、リウドルフは実に不機嫌そうな面持ちで朝刊に目を通していた。
 民宿シャンブル・ドットの庭先に置かれた席の一つに彼は着いていた。目前のテーブルには朝食が並べられ、向かいの席に座った百目鬼が黙々と食事を進めている最中であった。
 外の道沿いに植えられた糸杉から小鳥のさえずりが聞こえて来る。ロデーズへと向かうスクールバスが、木々の形作る格子の向こうを通り過ぎて行った。
 男二人の食卓はしばし静まり返っていたが、それでもやがての末に百目鬼が食事の手を休めて口を開く。
「……なぁおい、飯時ぐらいは不景気な顔すんのめようぜ?」
 言われたリウドルフは、両手で広げた新聞を下ろして首を巡らせた。
「不景気とは何だ、不景気とは。今も『覇気』に満ち満ちてるだろう? ほら、この通り」
 頬のこけた貧相な顔を相手へと向け、リウドルフは平淡な口調で切り返した。
 途端、百目鬼がテーブルの向こうで良く晴れた空を仰ぎ見る。
「確かに死神とか貧乏神とかが自分の仕事に精を出そうとする時にゃ、そういう顔ンなるかも知れんわなぁ……」
 皮肉なのか冷静な分析なのか判断に難しい口調で述懐した後、百目鬼は相席する男へ顔を戻した。
「……やっぱ引っ掛かってんのか、昨晩の事?」
 訊ねられたリウドルフは細い肩をすくめて見せた。
「まあな。最悪の想定がいよいよ形になって現れたようなんでな」
「ふーん……」
 相槌を打った後、百目鬼は手前の皿に置かれたクロワッサンを小さく千切って口元へと運んだ。
 充分に咀嚼そしゃくを繰り返して嚥下えんげした後、彼は再び口を開く。
「つっても、お前さんの場合、どんな時でも最悪の事態は想定してんだろ?」
「一応はその積もりだ」
 リウドルフは朝刊をたたみながら、意気の今一つ乏しい声で肯定した。
「だが、依然として事態が面倒である事に変わりは無い。まず『敵』の居場所がようとして知れないのが痛いし、事件がこうも大きくなってしまってはいつものように闇から闇へ葬り去る訳にも行かなくなった。最低でも現地の警察を納得させる必要が出て来る訳だ。物的証拠なり身柄なりを押さえるかして」
成程なるほど、『物証』に『身柄』ねぇ……」
 百目鬼がティーカップを持ち上げつつ、白けた眼差しを庭の向こうへと据えた。
 木立を飛び立った小鳥がテーブルの上を通り過ぎた。
 気温の上がり始める前、農家の庭先には穏やかな空気が漂っていた。
 卓上の料理を粗方平らげ、二人が揃って紅茶をすすっている時、母屋の方から人影が近付いて来た。
 それに気付いた百目鬼がにこやかに挨拶する。
「どうも女将さん。今朝も御馳走様でした」
 一拍程遅れてリウドルフも同じ方向へ会釈した。
 両者の前へと、両手でトレイを持った年配の人物が間も無く歩み寄って来た。
「あれで足りましたかね、先生方? お二人共、結構な大食漢みたいだから」
 朗らかな声で訊ねたのは、つややかな白髪を丁寧にまとめた老女であった。この民宿シャンブル・ドットを営む農家の女性であり、名をジョゼット・ゴセックと言う。
 そのジョゼットへ向け、百目鬼は愛想の良い笑顔を覗かせた。
「いやいや、充分に堪能させて頂きました。やはり、こうした自然豊かな所で取る食事は格別ですなぁ」
「でしょう? 春先なんか花の香りがあちこちから漂って来て素敵なんですよ」
 言いながら、ジョゼットは卓上に並ぶからの皿をトレイへ乗せて行く。
 と、その最中、彼女はリウドルフの方へとおもむろに首を巡らせた。
「そうだ。昨日の夕方に、先生あてに宅配便が届いたんですよ。お二人共昨夜は戻って来るのが遅かったから渡せなかったけれど」
「……ああ、それは失礼しました。後で受け取りに参ります」
 リウドルフは視線を一度持ち上げた後、得心したようにうなずいた。
 その彼のかたわらで、ジョゼットはふと笑みを浮かべる。
「そう言えば先生方、アルヌーさんのお産に立ち会ったんですって? あちらの御主人、凄く幸せそうにしてらしたわよ」
「ええ、まあ要らぬお節介と言うか、出しゃばった真似をしてしまいましたが」
「またそんな事を言って。この村で子供が生まれるなんて言うのも相当久し振りでしてねぇ……」
 医者のとぼけた謙遜に、農家の老婆は暖かな眼差しを瞳に乗せる。
「あちらの旦那さん、以前はナンテールの保険会社に勤めてらっしゃったそうなんだけど、一念発起してここで農業を始められたんですよ。まあ、都会の競争に疲れてって所かしら? 私達もそれとなく心配して見守ってたんだけれども、無事にお子さんも生まれて良かったわぁ」
「一生懸命努力している方の助けになれたのなら何よりです」
 リウドルフは相好を崩し、ようやくにして目元を柔らかくした。
 向かいの席で百目鬼も鼻息をつく。
「『医は仁術』ってか。結局、何処へ行こうとやる事が変わんねえのは良い事かも知れねえな」
 風が並木の梢を騒がせた。
 太陽は晴れた空へと昇り始め、周囲の緑を鮮やかに染め上げる。
 農村にまた新たな一日が始まろうとしていた。

 いつ如何なる時であれ、人が大地より恵みを受けようとすれば相応の労力を支払わなくてはならぬものである。
 日の昇るに釣れ田畑へと出て行く人の数も増し、警戒中の警官達もまたそれぞれに任を果たし始めた。車で街へと出掛ける者、街から車で訪れた者がそれぞれに道を行き交い、郊外の田舎町もそれなりに活発な顔を見せたのであった。
 そうした様子を、民宿シャンブル・ドットの窓辺から百目鬼はしばし眺めていた。
 ベッドの向かいに置かれたテレビには、朝のニュースが映し出されていた。昨日のリーグ・アン(※フランスのサッカーリーグ)の試合内容が画面に流れ、キャスターが朝から威勢の良い声を上げている。
 べて世は事も無し。
 外の広い世界には本日も格別の変化は無さそうであった。
 百目鬼がテレビのスイッチを切って間も無く、部屋にリウドルフが戻って来た。母屋に届けられたと言う小包を片手に、そしてもう一方の手でスマートフォンを操作しながら、いささか行儀悪く彼は部屋まで歩いて来たようであった。
 そして今、室内に足を踏み入れても尚手元の液晶画面を覗き込んでいる痩身の男へ、百目鬼は億劫そうに声を掛ける。
「んでパラの字よぉ、今日はどうする?」
「ああ……」
 名指しで問われて、リウドルフはようやく顔を上げた。
「ちょっとここの炊事場を借りたい。しばらくはそっち作業に費やされそうだな」
「何でえ、炊事場って? その荷物と関係あんのか?」
 百目鬼が整った眉根を寄せると、リウドルフは片手に持った小包を掲げて見せた。
「やはり飛行機の中で、こっちの大学にサンプルを回して貰えるよう連絡を付けておいた物だ。のプロヴァンスが誇る大地の恵み、産地直送の『Amanite panthèreアマニ・ポンテ』。旨味ぎっしりの逸品だぞ、きっと」
 至って軽い口調でリウドルフは説明したが、対する百目鬼は後半に出て来た名称を耳に入れた途端、左右の眉に段差を付けたのであった。
「おいおいおいおいおいおいおいおい! 旅先で毒薬をこしらえようってのか!? 警察にバレたら今度こそしょっ引かれるぞ! 俺やだよ? 粛々と調書にサインさせられた挙句、項垂うなだれて国外退去するなんざぁ……」
「悪事はこっそりやるもんだ」
 平然と言い捨てると、リウドルフはスマートフォンの画面へと目を戻した。
「後は吸水性ポリマーをいくらか分けて貰った。ただ、そんな事より気になったのが……」
 リウドルフはそこで顔を少ししかめると、やおら言葉を続ける。
「ロデーズの監査医務院から今し方連絡が入ってな。精密検査の結果、一昨日出た被害者の肉体、その傷口から消化酵素の反応が出たそうだ」
「……何だって?」
 百目鬼は三度みたび眉をひそめた。
 部屋の中央まで進みテーブルの上に小包を置いたリウドルフへと、窓辺から百目鬼は問い掛ける。
「『消化酵素』ってなぁつまり『胃液』って事か?」
「そういう事になるんだろうなぁ。検出されたのは主に『加水分解酵素ヒドラーゼ』だそうだが」
嘔吐えずきながら獲物を食ったって事かよ……」
 リウドルフの遣した捕捉を受けて百目鬼は少しの間考え込んでいたが、数秒も経た頃、矢庭に顔を上げた。
「そうか! 判ったぞ、犯人が!」
 何やら自身に満ちた声に、だが一方のリウドルフはつまらなそうな面持ちを窓の方へと向けた。
 光の満ちる窓を背にして立った百目鬼はにわかに目を輝かせて言い放つ。
「こりゃ、あれだ! でっかい蜘蛛の仕業だ!」
 宿の外に伸びる道を通り過ぎたトラックが、咳き込むようなエンジン音を後に残した。
 日の昇るにつれて数と勢いを増し始めた蝉の声が部屋の壁に反響した。
 数秒の空白を経た後、室内にリウドルフの吹き出す音が小さく響く。
「確かに体外消化をするので有名なのはそいつらだが……」
 尚も小刻みに笑うリウドルフへ、百目鬼は口先を尖らせて見せる。
「だって他にあるかよ? 後は馬鹿でっかいマムシが大量の出血毒を流し込んだとか、その辺りしかあんめえ?」
「しかし蜘蛛とは……」
「別におかしかねえだろ、田舎町に蜘蛛の化物が住み着いてたって? 畑にUFOが都合良く堕ちて来んのと同じように昔っからのお約束だ。伝統だよ、伝統」
 憤然とした様子で胸を張った百目鬼の斜交いでリウドルフは笑いを収めつつも、からかい半分の口調で指摘する。
「じゃ、何かの映画みたいに、この街の地下に巨大な蜘蛛の化物が巣食ってるのか? それでそいつが時折ピエロにでも扮して、通り掛かりの子供を側溝へ引きり込も……」
 そこまで言った所で、しかし突如としてリウドルフは表情を凝固させたのだった。
 全く突然に、まるで背骨に長大な針でも通されたかのように。
 一瞬の沈黙が訪れた室内に蝉の単調な鳴き声が染み渡る。
「どうしたい?」
 むくれた表情を覗かせていた百目鬼は、不意に黙り込んだ相手へいぶかる眼差しを遣す。
 その先でリウドルフは口元へ手を当てた。
「……そうか……『それ』があったか……!」
 かすかに揺らいだ声で呟くなり、彼は懐からタブレット端末を取り出すとティーテーブルの上に置いた。そうして至極大真面目な顔付きで、リウドルフは画面を急ぎ操作して行く。
「……何だってんだよ?」
 一人取り残された体の百目鬼は不満げに呟いた。
 それでも程無くして、窓辺に立った彼へとリウドルフはテーブルの前から手招きする。
「ちょっと、ちょっとこれを見てみろ」
 ぞんざいな物言いではあったが、珍しく興奮を覗かせている相手の様子に興味を惹かれて、百目鬼はリウドルフの向かいへと歩み寄った。
 テーブルの上に置かれたタブレットにはこの村の航空写真が拡大されて映し出されていた。連なる家々の屋根、その間を伸び行く道路、周辺を覆う田畑が長方形の画面一杯に映り込んでいる。
 そしてその俯瞰ふかん図には、八つの赤い点が記されていた。
 画面に表示されたマーカーの一つ一つを順に示しながら、リウドルフは解説する。
「最初の被害者の遺体が見付かったのが、ここ。麦畑の中で発見された。次に見付かった遺体が、この場所。畑の外周近くで倒れていた」
「ああ、そいつァ俺も確認したよ。で?」
 テーブルを挟んだ向かいからタブレットを覗き込んだ百目鬼が促すと、リウドルフは細い顎先に手を当てた。
「最初からどうも引っ掛かっていた。何かしらの共通項が見え隠れしているように思えてならなかった。だがようやく気が付いた」
 リウドルフは緩やかに顔を上げた。
「……『水』だ」
 窓辺の床に出来た陽溜まりを小鳥の影が素早くぎる。
「遺体の見付かった場所、おおよその犯行現場と思われる地点は、何処も近くに小川や灌漑かんがい用の用水路が設けられた所ばかりなんだ。水の流れがすぐそばにあったんだよ」
 リウドルフが説明すると、百目鬼も面持ちを真摯なものへと切り替えて画面を睨み据えた。
 その彼の真向かいでリウドルフは別のマーカーを更に指し示す。
「五人目の被害者なんか、そら、樋門ひもん(※水害の際に本流からの逆流を防ぐ為に支流側に設置される門)のすぐ近くで殺されている」
 そう指摘すると彼は口の端を吊り上げた。
「どうだ? 案外そっちの言っていた『大蛇犯行説』がにわかに現実味を帯びて来たんじゃないのか?」
「ああ、つまり水路や側溝の中に蛇が潜んでて、近付いて来た獲物へ襲い掛かったと。本来の生態を考えりゃそこまで不思議でもねえ話だが……」
 一応の賛辞を受けながらも、しかし百目鬼は難しい表情を崩さなかった。
「けど待てよ。待て待て待て待て。一番最後の、俺らがここを訪れた日に出た犠牲者は村ン中で殺されたんだろ? ほれ、ここだよな?」
 言いながら百目鬼はタブレットの画面の一角を指し示す。畑からも用水路からも遠く、家々の間に付けられたマーカーを彼は指差したのだった。
「ここだと水場からは遠いぜ? 大蛇が潜むにしちゃあ、ちょいと厳し目なんじゃねえか?」
「ああ、そうだな」
 指摘を受けてリウドルフも一度はうなずいて見せた。
 しかる後、彼は義眼の表に細くも鋭い光を輝かせた。
「だが、ここには別の水流が存在するんだ」
 言って、リウドルフはタブレット端末に指を走らせた。
「下水だよ」
 すぐに画像が切り替わり、一枚の写真が画面に広がる。白線によって路面に人型が描かれた現場写真が両者の前に晒された。
「ほら、これだ。遺体のすぐ近くにマンホールがあるだろう?」
 リウドルフが指し示した先、チョークで描かれた死体ホトケの痕跡の近くには、確かにマンホールのふたが映り込んでいた。ガス抜き用の穴が点々と開けられた赤茶けた鉄のふたが、画面の端に顔を覗かせていたのである。
「下水かぁ……」
 感心した声を上げてから百目鬼は後ろ頭をいた。
「……やァ、でもよォ、仮にオオアナコンダの仕業としても、優に四十キロはある鉄のふたを穴ン中から押し上げる芸当は流石に出来ねえんじゃねえか? 犯行後に元通り閉めてくのも無理だろうし、人間並に器用な生き物であってもその辺りは難しいわなぁ」
「全くだな。『真っ当な』生物にとっては不可能事だ」
 正面から遣された忌憚きたんの無い見識に、リウドルフは今一度うなずいた。
 直後、彼は眼差しを険しいものへ変える。
「……しかし『奴』ならばそれも可能とするだろう。二百年振りに蘇った『あいつ』なら……」
 リウドルフは底に硬いものを含ませた口調で独白するように言った。
 不穏な発言を漏らした相手を百目鬼も険しい眼差しで捉える。
 昼へ向け外の光は益々ますます強さを増して行き、板張りの床に生じた日溜りさえも眩いまでの輝きを放った。
 とある夏の終わりの午前、それでも世界は光に満ちていた。
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