幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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フレンチでリッチな夜でした

その19

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 そして今、刹那の追憶に浸っていたアレグラが己の意識を引き戻した前で、修道院の扉が閉ざされようとしていた。
 門前にたたずむリウドルフとナタナエルが、見送りに出た修道士と最後に言葉を交わす後ろで、アレグラは実に所在無さそうに目の前の建物を眺めていたのであった。
 先程までの中庭での遣り取りが眼前の情景に重なって浮かび上がる。
 あれからベルナールと交わした言葉は少なかった。思わぬ邂逅を果たしたかつての顔見知りに対して、彼女自身が徹底して白を切り通したからである。
『……いいえ、存じません』
『でも……』
 尚も食い下がろうとするベルナールへと、アレグラは普段と何ら変わらぬ冷ややかな面持ちを向けた。
 貴女あなたの兄妹か親戚に、パリの大学へ在籍していた方はおりませんか?
 ベルナールが遣した問い掛けは、アレグラのおおむね予想した通りのものであった。
 だからこそ充分過ぎる程冷静に、始めから終わりまで何一つ取り乱す事無く彼女は通達する事が出来たのである。
『私は生来独りの身の上ですので』
『でも、貴女あなたと良く似た人を見たんです』
 苛立ちとは似て非なる感情を覗かせて、今は修道士の立場に就いた青年はもどかしげに訴えた。
『顔形と言うか何と言うか、たたえてる雰囲気とかが……』
『その方、男の人だったのでしょう?』
 アレグラが小首を傾ぐようにして覗き込んだ先で、指摘を受けたベルナールは言葉を詰まらせた。
 そんな相手へと飽くまでも平淡に、かつ何処までも穏やかにアレグラは言い聞かせる。
『先程も申しました通り、私は一介の町医者の助手に過ぎません。師以外に寄る辺も無く、家族と呼べる者もおりません』
 アレグラはそう告げてベルナールへ背を向けた。
『……他人の空似でしょう』
 重みにも温もりにも乏しい声が両者の間を漂った。
 そしてそれを最後に、彼女は男の前から立ち去ったのであった。
 ふと鼻息をついたアレグラの前で、修道院の玄関に立った修道士がリウドルフとナタナエルへ会釈した。
「本日は誠に有難う御座いました。師に代わり、お礼を申し上げます」
「いえいえ、そちらこそこのような状況下では色々と不便でしょう。どうぞ御自愛下さい」
 ナタナエルが恐縮して返礼した横で、リウドルフも言葉を添える。
「何処か具合の悪くなった時には気負わずに人を遣して下さい。ここまでの道が判れば私一人でも往診に向かえますので」
 修道士は深々と頭を下げた。
「お心遣い感謝致します。どうか貴方方にも真の神の導きを……」
 そう告げて姿勢を戻した修道士は、体の前で十字を切った。
 ナタナエルが相好を崩す一方、リウドルフは相手の所作を見てふと目を細めたのだった。
 眼前で十字を切る修道士の手元に、彼は毛髪のような細い眼差しを注いでいた。
 茶色の貫頭衣トゥニカの袖口より覗く修道士の手首には、火傷の跡のような斑紋が認められた。先程診察を行なった修道院長と良く似た傷痕が、目の前の修道士の右手にも現れていたのである。
 そして、彼の右の親指には爪が無かった。
 怪我、しくは事故で剥がしたのだろうか。肉がはっきりと見える指先を晒して、案内役の修道士は緩やかに十字を切る。
 その様子をリウドルフは静かに見つめていた。
 やがて森の中に建つ修道院の扉は元通りに閉ざされ、来客達は道無き道を街への帰路に就いたのであった。
 森はそれまでと様相の変化を大して覗かせず、鬱蒼とした木立を十重二十重に囲わせて七つの小さな人影を見下ろしていた。時刻は丁度ちょうど真昼時であり、訪れた時よりも森の中は明るさを若干増しているようであった。
 それに付随してか、頭上の梢より鳴り響く鳥のさえずりも、数を増して辺りに木霊した。
 苔むした倒木の横を通り過ぎつつ、ナタナエルは息をついた。
「いやあ、万事滞り無く進められて何よりでした。お疲れ様でした、先生」
「いえ、問診自体は普段と何の変わりも無い流れで行なえましたよ。先方から何を言われた訳でもありませんでしたし」
 リウドルフが平然と答えると、ナタナエルは足元に目を一度落とした。
 次いで、彼は遠ざかる修道院の方を肩越しに一瞥すると、横を歩くリウドルフへそのまま目を移す。
「……そろそろお話しても良さそうですね」
 口調をいささかしこまったものへと切り替えて司祭は切り出した。
 リウドルフも相手へと顔を向けた先でナタナエルは説明する。
「先程お会いになった院長、オーギュスト・ファビウス様ですが、我々教会関係者の間ではそこそこ名の知られた方なのです」
「と仰いますと?」
 眉根を寄せたリウドルフへと、ナタナエルはわずかな硬さを覗かせた声を寄せる。
「かつて『異端審問官アンキジター』として名を馳せた御方なのですよ」
 リウドルフもまたその説明を受けて目元を幾分いくぶん引き締めた。
 歩みを淀ませる事無くナタナエルは言葉を続ける。
「今でこそああして修道院に隠遁されていますが、昔は博識と信仰に対する意気込みを買われ、審問官として方々で御活躍なさったのだとか。その後正式に叙階を受けて、何処かの教区の司教を務められた時期もあったと聞き及びます」
「ははあ、それで……」
 リウドルフはそこで、かたわらを行くナタナエルの出で立ちへ改めて目を凝らしたのだった。街の教会の司祭が森の奥にたたずむ修道院へわざわざ正装までして出向いたのは、立場が上の相手へ表敬訪問を行なう為でもあったのだろう。
 そのナタナエルは両肩から下げたストラを直しつつ、飽くまで穏やかに相手方を評する。
「ま、今は昔と言ってしまえばそれまでかも知れませんがね。現在はあの通り隠居の身に落ち着かれて、静かに信仰を護ってお出での御様子ですから」
「ふむ……」
 リウドルフは細い顎先を指で撫ぜた。
 それから数秒の間を置いて、彼は隣を歩く壮年の司祭へおもむろに目を向ける。
「……時にあの方々は何処の会派に所属しておられるのです?」
「ああ……」
 問われたナタナエルは視線を宙へと持ち上げた。
 鳥の細くも甲高いさえずりが数瞬の沈黙の間に差し挟まれた。
「……確か、ドミニコ会であったと記憶しています」
成程なるほど……」
 その回答を受けて、リウドルフは一度小さくうなずいた。
「……『主の犬Domini canis』、と言う奴ですな……」
 ぼそりとした呟きが土を踏む足音の間に吐き出された。
 しかる後、リウドルフは肩越しに後ろをかえりみた。
 鬱蒼と茂る木々の間に、石造りの修道院は今もひっそりと建ち続ける。
 さながら神の大いなる御手によって大地へ密かに植え付けられた、知る者も無い太古の石碑の如くに。

 昼下がり、表通りが活気に満ち始めた頃にリウドルフとアレグラは街の診療所へと戻ったのだった。
 特に変わった所も見当たらぬ室内を見回して、リウドルフは肩の力を抜いた。
「何だか久し振りに緊張したな……」
 腰に手を当てて背筋を反らした主の後ろで、アレグラは格別の愛想を込めるでもなく進言する。
「ワインでも開けますか?」
「そうだな。午後の診療を始める前に一つ気分を切り替えておくか」
 リウドルフは首肯しゅこうしたが、そのかたわらアレグラの様子をちらと見遣った。
「……何だ、随分と不機嫌そうだな?」
「これと言って愉快な出来事も無かったので」
 飽くまでも平淡にアレグラは答えたが、その彼女の前でリウドルフは一笑した。
「禁欲生活の長い連中から熱い眼差しを送られたのがそんなにこたえたか」
 言われて、アレグラは口元を一文字に引き伸ばす。
 診察時にける場に漂う妙な空気は読んでいたらしい。
 意外に思うのと一緒に、これまで何も告げなかった相手の態度にアレグラが苛立ちを覚えた時、リウドルフは眼光を鋭いものへと矢庭に変えたのだった。
「……だったら今の内に身辺整理をしておけ。入用な物があるなら常に手近に置いておく事だ」
 出し抜けに遣された指示に、アレグラも怪訝な面持ちを浮かべる。
「この街を離れるのですか?」
「場合によってはそういう運びとなるやも知れん」
 眼光と同質の切れ味を帯びた声をリウドルフは上げていた。
 しかる後彼は自分の頬を指先で撫でつつ、診療所の窓の外へと目を向ける。
「……あの院長、どうにもこちらの『正体』を見破っていた節がある。修道院と言う霊的な場所へおもむく手前、俺も入念に幻術を掛けた積もりだったが、それでも尚こちらの偽装を見抜いていたように思えてならん。その場で騒ぎ出さなかったのが不思議ではあるのだが……」
 リウドルフは疑惑の眼差しを窓の外へとしばし向けてから、おもむろに首を横に振った。
「……ま、後になってちょっとした厄介事に繋がるかも知れんと言う話だ。それならそれで、こちらもまた他所よそへ移るだけの事だが」
「そうですか……」
「少しばかり名残惜しくもあるが、毎度の顛末てんまつと言ってしまえばそれまでだしな」
「そうですね……」
 さばさばと言い捨てた主とは対照的に、赤毛の女は随分と気落ちした声を口外へ漏らしていた。
 何故だろうか。
 この地を近々去る事になるかも知れない旨を面と向かって通知された途端、彼女は胸の奥を急に締め付けられるような感慨に見舞われたのだった。
 と同時に、脳裏に一人の青年の姿が浮かび上がる。
 修道院の中庭に立ち、こちらへ向けて歯痒さを多大に覗かせた眼差しを遣して来た彼の姿を、この時赤毛の女は反射的に思い描いていたのであった。
 これでまた距離が開いてしまう。
 本当に遠ざかってしまう。
 己の足元を見つめながら彼女は面持ちを険しくした。
 だからどうした?
 如何にした所で『作り物』のお前は他者と歩む事は出来ぬのに。
 他の一切はかたわらを流れ行く『影法師』に過ぎぬのに。
 今更何を惜しむ必要がある?
 何を嘆く必要がある?
 己を打ち据える鞭のような厳然たる声が胸の奥底から湧いて出る。
 しかるにそれとは別に、また異なる声が胸中から漏れ出すのを彼女は覚えた。
 ……それで良いのか?
 ……『お前』は本当にそれで良いのか?
 診療室の隅にたたずむ彼女の足元で、窓から差し込む日溜りがゆらゆらと揺れていた。
 夏の日の昼下がり、周囲は眩さを益々増して行くのであった。
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