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フレンチでリッチな夜でした
その9
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息つく事さえ躊躇させるような白々とした光が、そこを満たしていた。
影を作る事さえ嫌うような眩い光の下、その一室には三つの人影が集っていた。いずれもが青い術衣を着込み、手術用の帽子とマスクで顔を覆っている。
そして彼らの囲う部屋の中心には長方形の手術台が置かれ、その上に剝き身の遺体が仰向けに寝かされていた。
全裸の男性の遺体である。
全身の肌からは既に血の気も失せていたが、肉体そのものは生前の頑強さを未だ残しており、目を凝らせば肉の筋目すら見えて来そうである。だがその体には致命傷となったものであろう大きな傷跡が、左肩から右腰に掛けて肉を大きく抉らせて露出していたのであった。
袈裟懸けに皮膚を剥ぎ、肉を削ぎ、骨までも打ち砕いたような傷痕である。或いは何か巨大な猛獣が肩口に食らい付いて、勢いのまま肉を引き摺り下ろして噛み千切ったような痕であった。
検体の様子を暫し見下ろしていたリウドルフの隣で、監察医を勤める年配の男が周囲へと呼び掛ける。
「では、これより執刀を開始します」
「宜しくお願いします」
「お願いします」
リウドルフと彼の隣に控えた壮年の臨床検査技師が揃って呼応した。
そして、静かな空気の中で司法解剖は進められた。
「被害者、フロラン・トルイユ、三十三歳、男性」
記録映像を残す都合上、年配の監察医がまず状況の説明を始めた。
「昨日午前、パードリー・コミューンの敷地内にて変死体となって発見さる。遺体発見時刻が午前十一時十七分。通報があったのがその五分後。当監査医務院へ搬送されたのが午後一時四十一分となる」
特段取り乱す事も無く淡々と説明すると年配の監察医はメスを手に取り、居並ぶ二人の付き添いへと目を向けた。
「手順に従い、まずは胸腹部の切開を行ないます」
「了解です」
「判りました」
リウドルフと臨床検査技師が頷いてすぐ、解剖台に寝かされた遺骸に金属の刃が差し込まれた。睫毛の一本も震わせずにその様子を俯瞰するリウドルフの隣で、壮年の臨床検査技師がゆっくりと鼻息をついた。
全てが静粛の内に進められた。
遺体の体内に差し込んだ両手首を淀み無く動かしながら、年配の監察医はやはり淡々とした口調で所見を述べる。
「胃に内容物は無さそうですね。朝食を取ったのが一般的な時間帯であるとすれば、死亡推定時刻と遺体発見時刻との間に大した開きは無かったのでしょう」
監察医の手に握られたメスが、天井からの明かりにきらりと光った。
リウドルフは遺骸に新たに開けられた穴から、内部の様子をじっと覗き込んでいた。
同じく死者の体内だけを見据え、年配の監察医は言葉を続ける。
「肝臓にやや肥大化の傾向あり。但し常識的な飲酒量の影響による域を出ないと思われます。胃及び十二指腸の内壁に潰瘍、腫瘍の類は発見出来ず。どちらも綺麗なものです」
周囲にそこまで告げた所で、監察医は体表に走る大きな傷口へと改めて目を向けたのであった。
相手の眼差しに促されるようにして、リウドルフも同じ箇所へと視線を移す。
左の肩口から右の腰骨に掛けて、正にざっくりと抉り取られたような傷痕が、天井から降り注ぐ白い照明の中にまた浮かび上がった。
年配の監察医は息を一つ吐くと、再び所懐を述べる。
「死因はやはり胴部の創傷に起因するものと思われます。左の二番から五番までの肋骨が破損。胸骨下部及び右側の八番から十番までの肋骨も損壊しています。左肺上葉、心臓にも相応の損傷を確認。これら重要臓器の破損に伴う出血性ショック、若しくは外傷性窒息が直接の死因となるものと推察されます」
相手が発言を収めるのを待ってから、リウドルフは解剖台を挟んで立つ監察医へと顔を向けた。
「……それで肝心のこの外傷についてですが、先生は如何なる手段によって刻まれたものであると思われますか?」
リウドルフの遣した質問を受けて、年配の監察医は帽子とマスクの間から除く目元に深い皺を刻んだ。
然る後、熟練の監察医は苦々しい口調で述懐する。
「……何とも量りかねると言うのが正直な所ですね。如何なる形状の凶器を用いたのか、すぐには見当も付きません。殺害と言うよりは拷問でも行なったような有様ですが……」
「大型の対物ライフルを用いれば、角度によってはこうした銃創を作る事も出来なくはないでしょうが、街中でそんな物を発射すれば忽ち大騒ぎになりますしね。長距離から発射したにせよ、周囲には弾痕も見当たらなかったそうで」
リウドルフも怪訝な面持ちを目元に覗かせて言葉を添えた。
その隣から壮年の臨床検査技師が控え目に口を挟む。
「やはり野生動物の仕業なんでしょうか?」
「さて……」
被害者の遺骸を見下ろして年配の監察医は首を傾げた。
「確かに熊害であれば、これだけ大きな損傷を被る場合もあるでしょうがね」
代わりに答えたリウドルフが、マスクの上から顎先に手を当てる。
「しかし人間を、成人男性を一撃で死に至らしめたのだとすれば相手は三百キロを優に超える大物になるでしょう。カナダやアラスカの森林地帯ならいざ知らず、そんな代物が農村の畑から突如として現れて通り掛かりの犠牲者を爪に掛け、足跡も残さず行方を晦ますなどちょっと考え難い話ですね」
リウドルフの言葉の後、湿り気を帯びた重苦しい沈黙が解剖台の周囲を覆ったのだった。
それでもやがての末に、年配の監察医が息をついた。
「……まあ、いずれにせよ詳しい捜査は当局に任せる事としましょう。差し当たり我々は我々の職務を果たすのみです」
そう告げた後、監察医は解剖台の傍らに置かれた器具を弄り始めた。
「解剖を続けます。次は尿及び血液の採取。各種薬物反応の有無を調べて……」
そしてまた、白々とした光の下で検死は続行されたのであった。
実に手際良く進められて行く作業の最中、リウドルフは解剖台に仰向けに寝かされた被害者の顔を今一度眺め遣った。
典型的な社会人、何処にでもいるような平凡な勤め人であっただろうこの人物も、今は『社会』と言う枠組みからあらゆる『役目』や『括り』を外され、物質的な『記録』として機能するのみとなった肉体をこうして僅かな数の衆目に晒すのみである。
虚ろな両眼を力無く開き、口を締まり無く開いた遺体は、死の直前に抱いたであろう無念や憤りと言った激情の欠片を、今や僅かに滲み出させる事もしなかった。
何処か開き直ったようですらある死に顔を、『死』と言う領域に片足を置いた者は暫し静かに凝視し続けたのであった。
執刀に当たった監察医の手際の良さも手伝って、開庁と共に始まった司法解剖はリウドルフの思っていたよりも早くに終了を迎えたのであった。
解剖室を後にして廊下へと出た所で、リウドルフと年配の監察医は帽子とマスクを外した。
「お疲れ様でした」
「いえ、そちらこそ」
リウドルフの遣した挨拶に監察医は丁寧に応じた。頭頂部の薄くなった灰色の頭を撫で付けつつ、年配の監察医は相対する痩身の男を見遣る。
「終始落ち着いておられましたな。こう言った検視の現場に出られる事も多いので?」
「状況に寄りけり、と言う所でしょうか。日本だと手の空いている医師が兎角少ないので、こうした現場へ駆り出される事もままありますが」
そこまで答えた所で、リウドルフは廊下の向こうからこちらへと近付く人影がある事に気が付いた。
次いで彼は目を若干細める。
急ぎ足で廊下を歩いて来るのは、彼の見知った女性であった。昨日と同じくスーツをきちんと着込み、体躯の随所に鋭角さすら帯びさせるかのような毅然とした態度を覗かせる、壮年の女性警官であった。
ウジェーヌと言う名の若い警官から主任官と呼ばれていた事を、相手が目前まで近付いた時になってリウドルフは思い出した。
その女警官は解剖室の手前で足を止め、扉の脇に立つ監察医へと敬礼して見せる。
「この度もお世話になります、フレデリック先生。検視の方は終了しましたでしょうか?」
「はい。今し方」
相手に会釈を返して年配の監察医は答えた。
「報告書の提出ならもう少し待って下さい。薬化学検査と病理組織検査には今少し時間が必要です」
丁寧な回答を遣した監察医へ、壮年の女は顔を近付けた。
「了解です。それで、現時点に於ける先生の所見は如何なものでしょうか? 解剖中に何か不審な痕跡などは見当たりませんでしたか?」
「そう言われましてもね……」
相手の語気が強まったのも相まって、年配の監察医は困った表情を浮かべた。
構わず女性警官は更に追及する。
「この際どんな些細な事でも構いません。何か解決の糸口となりそうな事であれば」
「まあまあ、クローデルさん、そうやって焦る気持ちは判りますが、捜査関係者が結論付けを急ぎ過ぎるのも良くない」
年配の監察医は、遂には両手を胸の辺りに持ち上げて言葉を濁したのだった。
その隣からリウドルフが口を挟む。
「無礼を承知で申し上げれば、これは警察の仕事と言うより、やはり猟師の出番でしょうなぁ。少なくとも殺害自体は、何らかの凶器を用いた犯行とは考え難いですし」
「あなたは?」
クローデルと呼ばれた壮年の女は、不意に発言を遣した者へ鋭い眼差しを向けた。
正に敵意と紙一重と評すに相応しい刺々しい視線が、リウドルフの作り物の面皮に注がれる。彼女からすれば初めから絶えず気になっていたのだろう。つい先日、顔を合わせた冴えない風貌の旅行者が、このような場所に平然と佇んでいる現状が。
リウドルフが応答しようとした時、傍らに立つ監察医が代わって説明を遣す。
「ええと、こちら、リウドルフ・クリスタラー先生と仰る方です。スイス出身の外科医で、今回は特別に補佐として立ち会って頂きました。『世界医師会』の評議員を務めていらっしゃる、確かな経歴をお持ちの方です」
「そうはっきり紹介されるとどうしても恐縮してしまいますが、医師の端くれをしております、クリスタラーと申します。先日はどうも」
監察医の後を継いで発言したリウドルフを、壮年の女警官は怪訝そうに見つめる。
「医師? 昨日の聴取の際には教師と名乗ったと……」
「ああ、それは飽くまで日本での身分でして、世を忍ぶ仮の姿と言うか、取り敢えずの副業みたいなものです。本職は昔から医師で、ほら、この国の医師免許もこの通り……」
惚けた口調で説明を遣しながら、リウドルフは財布からフランス語の書かれた医師資格証を取り出して、未だ釈然とせずにいる目の前の警官へと提示した。
「成程……」
資格証に目を通し、壮年の女性警官も不機嫌ながらも一応は得心した様子を覗かせた。
だがそれも束の間、彼女は相手を射竦めるような強い眼差しを、目の前の惚けた男へ注ぐ。
「……つまりあなたは、あなた方は最初から、この事件に深く関与する積もりでこの場所を訪れた、と?」
「ま、関与と言うか、微弱なりともお力添えに参った次第で。警察の方々は元より現地の皆さんも大分参ってらっしゃるようですから」
「だとしても、二人ばかりの野次馬に手伝って貰う事など何もありませんが」
「ですから、この様な微弱なお手伝いに限らせて頂きます。そちらのお邪魔をする積もりなど初めから更々ありませんよ。ええと……」
依然として愛想の無い表情を向ける壮年の女へと、リウドルフは小首を傾げて見せた。
促されて、相手もふと鼻息をつく。
「……シモーヌ・クローデルです。『国家警察総局』、『司法警察中央局』より参りました」
「ではクローデルさん、遅ればせながら以後宜しくお願いします」
そう告げるとリウドルフは監察医にも一礼した後、その場を後にした。
解剖室の前を通り過ぎ、廊下を遠ざかって行く頼り無げな細い背中を、シモーヌは些か以上の疎ましさを交えた眼差しを以って見送ったのであった。
息つく事さえ躊躇させるような白々とした光が、そこを満たしていた。
影を作る事さえ嫌うような眩い光の下、その一室には三つの人影が集っていた。いずれもが青い術衣を着込み、手術用の帽子とマスクで顔を覆っている。
そして彼らの囲う部屋の中心には長方形の手術台が置かれ、その上に剝き身の遺体が仰向けに寝かされていた。
全裸の男性の遺体である。
全身の肌からは既に血の気も失せていたが、肉体そのものは生前の頑強さを未だ残しており、目を凝らせば肉の筋目すら見えて来そうである。だがその体には致命傷となったものであろう大きな傷跡が、左肩から右腰に掛けて肉を大きく抉らせて露出していたのであった。
袈裟懸けに皮膚を剥ぎ、肉を削ぎ、骨までも打ち砕いたような傷痕である。或いは何か巨大な猛獣が肩口に食らい付いて、勢いのまま肉を引き摺り下ろして噛み千切ったような痕であった。
検体の様子を暫し見下ろしていたリウドルフの隣で、監察医を勤める年配の男が周囲へと呼び掛ける。
「では、これより執刀を開始します」
「宜しくお願いします」
「お願いします」
リウドルフと彼の隣に控えた壮年の臨床検査技師が揃って呼応した。
そして、静かな空気の中で司法解剖は進められた。
「被害者、フロラン・トルイユ、三十三歳、男性」
記録映像を残す都合上、年配の監察医がまず状況の説明を始めた。
「昨日午前、パードリー・コミューンの敷地内にて変死体となって発見さる。遺体発見時刻が午前十一時十七分。通報があったのがその五分後。当監査医務院へ搬送されたのが午後一時四十一分となる」
特段取り乱す事も無く淡々と説明すると年配の監察医はメスを手に取り、居並ぶ二人の付き添いへと目を向けた。
「手順に従い、まずは胸腹部の切開を行ないます」
「了解です」
「判りました」
リウドルフと臨床検査技師が頷いてすぐ、解剖台に寝かされた遺骸に金属の刃が差し込まれた。睫毛の一本も震わせずにその様子を俯瞰するリウドルフの隣で、壮年の臨床検査技師がゆっくりと鼻息をついた。
全てが静粛の内に進められた。
遺体の体内に差し込んだ両手首を淀み無く動かしながら、年配の監察医はやはり淡々とした口調で所見を述べる。
「胃に内容物は無さそうですね。朝食を取ったのが一般的な時間帯であるとすれば、死亡推定時刻と遺体発見時刻との間に大した開きは無かったのでしょう」
監察医の手に握られたメスが、天井からの明かりにきらりと光った。
リウドルフは遺骸に新たに開けられた穴から、内部の様子をじっと覗き込んでいた。
同じく死者の体内だけを見据え、年配の監察医は言葉を続ける。
「肝臓にやや肥大化の傾向あり。但し常識的な飲酒量の影響による域を出ないと思われます。胃及び十二指腸の内壁に潰瘍、腫瘍の類は発見出来ず。どちらも綺麗なものです」
周囲にそこまで告げた所で、監察医は体表に走る大きな傷口へと改めて目を向けたのであった。
相手の眼差しに促されるようにして、リウドルフも同じ箇所へと視線を移す。
左の肩口から右の腰骨に掛けて、正にざっくりと抉り取られたような傷痕が、天井から降り注ぐ白い照明の中にまた浮かび上がった。
年配の監察医は息を一つ吐くと、再び所懐を述べる。
「死因はやはり胴部の創傷に起因するものと思われます。左の二番から五番までの肋骨が破損。胸骨下部及び右側の八番から十番までの肋骨も損壊しています。左肺上葉、心臓にも相応の損傷を確認。これら重要臓器の破損に伴う出血性ショック、若しくは外傷性窒息が直接の死因となるものと推察されます」
相手が発言を収めるのを待ってから、リウドルフは解剖台を挟んで立つ監察医へと顔を向けた。
「……それで肝心のこの外傷についてですが、先生は如何なる手段によって刻まれたものであると思われますか?」
リウドルフの遣した質問を受けて、年配の監察医は帽子とマスクの間から除く目元に深い皺を刻んだ。
然る後、熟練の監察医は苦々しい口調で述懐する。
「……何とも量りかねると言うのが正直な所ですね。如何なる形状の凶器を用いたのか、すぐには見当も付きません。殺害と言うよりは拷問でも行なったような有様ですが……」
「大型の対物ライフルを用いれば、角度によってはこうした銃創を作る事も出来なくはないでしょうが、街中でそんな物を発射すれば忽ち大騒ぎになりますしね。長距離から発射したにせよ、周囲には弾痕も見当たらなかったそうで」
リウドルフも怪訝な面持ちを目元に覗かせて言葉を添えた。
その隣から壮年の臨床検査技師が控え目に口を挟む。
「やはり野生動物の仕業なんでしょうか?」
「さて……」
被害者の遺骸を見下ろして年配の監察医は首を傾げた。
「確かに熊害であれば、これだけ大きな損傷を被る場合もあるでしょうがね」
代わりに答えたリウドルフが、マスクの上から顎先に手を当てる。
「しかし人間を、成人男性を一撃で死に至らしめたのだとすれば相手は三百キロを優に超える大物になるでしょう。カナダやアラスカの森林地帯ならいざ知らず、そんな代物が農村の畑から突如として現れて通り掛かりの犠牲者を爪に掛け、足跡も残さず行方を晦ますなどちょっと考え難い話ですね」
リウドルフの言葉の後、湿り気を帯びた重苦しい沈黙が解剖台の周囲を覆ったのだった。
それでもやがての末に、年配の監察医が息をついた。
「……まあ、いずれにせよ詳しい捜査は当局に任せる事としましょう。差し当たり我々は我々の職務を果たすのみです」
そう告げた後、監察医は解剖台の傍らに置かれた器具を弄り始めた。
「解剖を続けます。次は尿及び血液の採取。各種薬物反応の有無を調べて……」
そしてまた、白々とした光の下で検死は続行されたのであった。
実に手際良く進められて行く作業の最中、リウドルフは解剖台に仰向けに寝かされた被害者の顔を今一度眺め遣った。
典型的な社会人、何処にでもいるような平凡な勤め人であっただろうこの人物も、今は『社会』と言う枠組みからあらゆる『役目』や『括り』を外され、物質的な『記録』として機能するのみとなった肉体をこうして僅かな数の衆目に晒すのみである。
虚ろな両眼を力無く開き、口を締まり無く開いた遺体は、死の直前に抱いたであろう無念や憤りと言った激情の欠片を、今や僅かに滲み出させる事もしなかった。
何処か開き直ったようですらある死に顔を、『死』と言う領域に片足を置いた者は暫し静かに凝視し続けたのであった。
執刀に当たった監察医の手際の良さも手伝って、開庁と共に始まった司法解剖はリウドルフの思っていたよりも早くに終了を迎えたのであった。
解剖室を後にして廊下へと出た所で、リウドルフと年配の監察医は帽子とマスクを外した。
「お疲れ様でした」
「いえ、そちらこそ」
リウドルフの遣した挨拶に監察医は丁寧に応じた。頭頂部の薄くなった灰色の頭を撫で付けつつ、年配の監察医は相対する痩身の男を見遣る。
「終始落ち着いておられましたな。こう言った検視の現場に出られる事も多いので?」
「状況に寄りけり、と言う所でしょうか。日本だと手の空いている医師が兎角少ないので、こうした現場へ駆り出される事もままありますが」
そこまで答えた所で、リウドルフは廊下の向こうからこちらへと近付く人影がある事に気が付いた。
次いで彼は目を若干細める。
急ぎ足で廊下を歩いて来るのは、彼の見知った女性であった。昨日と同じくスーツをきちんと着込み、体躯の随所に鋭角さすら帯びさせるかのような毅然とした態度を覗かせる、壮年の女性警官であった。
ウジェーヌと言う名の若い警官から主任官と呼ばれていた事を、相手が目前まで近付いた時になってリウドルフは思い出した。
その女警官は解剖室の手前で足を止め、扉の脇に立つ監察医へと敬礼して見せる。
「この度もお世話になります、フレデリック先生。検視の方は終了しましたでしょうか?」
「はい。今し方」
相手に会釈を返して年配の監察医は答えた。
「報告書の提出ならもう少し待って下さい。薬化学検査と病理組織検査には今少し時間が必要です」
丁寧な回答を遣した監察医へ、壮年の女は顔を近付けた。
「了解です。それで、現時点に於ける先生の所見は如何なものでしょうか? 解剖中に何か不審な痕跡などは見当たりませんでしたか?」
「そう言われましてもね……」
相手の語気が強まったのも相まって、年配の監察医は困った表情を浮かべた。
構わず女性警官は更に追及する。
「この際どんな些細な事でも構いません。何か解決の糸口となりそうな事であれば」
「まあまあ、クローデルさん、そうやって焦る気持ちは判りますが、捜査関係者が結論付けを急ぎ過ぎるのも良くない」
年配の監察医は、遂には両手を胸の辺りに持ち上げて言葉を濁したのだった。
その隣からリウドルフが口を挟む。
「無礼を承知で申し上げれば、これは警察の仕事と言うより、やはり猟師の出番でしょうなぁ。少なくとも殺害自体は、何らかの凶器を用いた犯行とは考え難いですし」
「あなたは?」
クローデルと呼ばれた壮年の女は、不意に発言を遣した者へ鋭い眼差しを向けた。
正に敵意と紙一重と評すに相応しい刺々しい視線が、リウドルフの作り物の面皮に注がれる。彼女からすれば初めから絶えず気になっていたのだろう。つい先日、顔を合わせた冴えない風貌の旅行者が、このような場所に平然と佇んでいる現状が。
リウドルフが応答しようとした時、傍らに立つ監察医が代わって説明を遣す。
「ええと、こちら、リウドルフ・クリスタラー先生と仰る方です。スイス出身の外科医で、今回は特別に補佐として立ち会って頂きました。『世界医師会』の評議員を務めていらっしゃる、確かな経歴をお持ちの方です」
「そうはっきり紹介されるとどうしても恐縮してしまいますが、医師の端くれをしております、クリスタラーと申します。先日はどうも」
監察医の後を継いで発言したリウドルフを、壮年の女警官は怪訝そうに見つめる。
「医師? 昨日の聴取の際には教師と名乗ったと……」
「ああ、それは飽くまで日本での身分でして、世を忍ぶ仮の姿と言うか、取り敢えずの副業みたいなものです。本職は昔から医師で、ほら、この国の医師免許もこの通り……」
惚けた口調で説明を遣しながら、リウドルフは財布からフランス語の書かれた医師資格証を取り出して、未だ釈然とせずにいる目の前の警官へと提示した。
「成程……」
資格証に目を通し、壮年の女性警官も不機嫌ながらも一応は得心した様子を覗かせた。
だがそれも束の間、彼女は相手を射竦めるような強い眼差しを、目の前の惚けた男へ注ぐ。
「……つまりあなたは、あなた方は最初から、この事件に深く関与する積もりでこの場所を訪れた、と?」
「ま、関与と言うか、微弱なりともお力添えに参った次第で。警察の方々は元より現地の皆さんも大分参ってらっしゃるようですから」
「だとしても、二人ばかりの野次馬に手伝って貰う事など何もありませんが」
「ですから、この様な微弱なお手伝いに限らせて頂きます。そちらのお邪魔をする積もりなど初めから更々ありませんよ。ええと……」
依然として愛想の無い表情を向ける壮年の女へと、リウドルフは小首を傾げて見せた。
促されて、相手もふと鼻息をつく。
「……シモーヌ・クローデルです。『国家警察総局』、『司法警察中央局』より参りました」
「ではクローデルさん、遅ればせながら以後宜しくお願いします」
そう告げるとリウドルフは監察医にも一礼した後、その場を後にした。
解剖室の前を通り過ぎ、廊下を遠ざかって行く頼り無げな細い背中を、シモーヌは些か以上の疎ましさを交えた眼差しを以って見送ったのであった。
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