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フレンチでリッチな夜でした
その8
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そのおよそ七時間前、クロディーヌは昼下がりの木立を小走りに駆けていた。
日は空高く昇っていたが街の周囲を覆う森は鬱蒼としており、快晴の昼であっても曇天の夕刻の如き乏しい光量しか湛えていないのが現実であった。
父親も母親も祖母ですらも、この森に分け入る事を彼女に進めなかった。
三年前、山裾に広がる森に得体の知れない『獣』が現れ始めたからだと言う。
恐ろしい狼のような『獣』が、森の木陰から通り掛かる哀れな人間を狙っているのだと言う。
だから、たとえ遠回りとなってでも森の中を通り抜けようとはするなと、クロディーヌへ度々注意を促して来た。
もう既に何十人もの農夫や旅人が、謎の『獣』の牙に掛けられて亡くなっている。
市街を覆う閉塞的な空気の中、だが少女は敢えて禁忌を破ったのであった。
山裾に広がる森へ誰も近付きたがらないと言う事実は、二人にとってはむしろ好都合だったからである。
ソーグに暮らすマチアスとは四年前に知り合ってからの仲である。
如何に周囲に無用の外出を止められていても、いや止められるからこそ互いに想いは募って行く。獣の被害が発生し始めてから一年後、二人は家族の目を盗んで山裾の森で度々密会するようになっていた。歳若い二人が剣呑な状況の中で往来を繰り返すのに、どちらの家族も難色を示したからである。
それに、年頃の二人には二人だけの時間、空間と言うものが何よりも貴重であった。
何も木々の奥深くで逢瀬を行なおうと言う訳ではない。街道に程近い木陰で待ち合わせ、互いの毎日の様子や愚痴などを口に出し合うだけである。
二人にはそれで充分であったし、これまで何の問題も生じては来なかった。
どれだけ血に飢えた獣と言えども、常に血に飢えている訳でもないのだろう。
少しでも不穏な気配を感じたら速やかに街道へと逃れれば良い。
二人の若者はそう考えていたのだった。
そしてこの日も、彼女はいつもの待ち合わせ場所に向かっていた。
辺りは静かであった。
時折吹き抜ける風が梢を揺らす以外、鳥の囀りさえも聞こえては来ず、蝉の声ですら他所から遠巻きに伝わって来る。
そうした中、木立を進む一つきりの人影の歩調も次第に急なものへと変わって行った。
どうしてだろうか。
今日はいつもと比べて、森の様子が異なっているように感じられる。
そこはかとなく、そして何とはなしに。
微かな不安を覚えたクロディーヌが、オークの大木を回り込んだ時の事であった。
行く手に一個の人影が在った。
それが服装や背格好からマチアスである事は、クロディーヌにはすぐに察しが付いた。
然るにそのマチアスは背後の糸杉に寄り掛かり、何故か動こうとしない。近付いて来るこちらの様子も目に入っていないかのようである。
怪訝に思うのと一緒に、少女の胸中を俄かに不安の雲が覆い始めたのであった。
不安。
怖れ。
躊躇い。
果たして、そうした感情は独りでに湧いて出て来るものなのだろうか。
自分でも気付かぬ内に、クロディーヌは森の中で足を止めていた。
街道から近い距離である筈なのに、辺りは鬱蒼として随所に濃い翳りを帯びさせている。鳥や虫の放つ声、そうした諸々の生き物の息遣いも、まるで潮が引くのに似て周囲から徐々に遠退いて行くようであり、自分一人が獣道も通らぬ深緑の檻の中に立っているかのような錯覚さえ抱かせる。
ここはおかしい。
何かがおかしい。
木に依然として寄り掛かったまま微動だにしないマチアスを前にして、クロディーヌがそう確信した時の事であった。
何に促されたものか、彼女は横手へ不意に目を向けた。
そこに『それ』は居た。
足音は無かった。
声も出さなかった。
然れども異様な巨躯を誇る一匹の『獣』が、彼女のすぐ隣から現れたのである。
彼女も咄嗟に呻き声を漏らす事すら忘れて、木陰より音も無く現れ出でた獣を見つめていた。
黒い、さながら森の翳りを一点に凝縮させたような、艷の無い黒い体躯を持つ狼に似た獣である。全身を刻々と揺らめかせ、それでいて足音を立てる事も無く、まるで木々の奥の陰から突き出て来るかのようにこちらへと近付いて来る。
瞳の無い深紅の目を、こちらへぴたりと据えたまま。
決して日の当たらぬ場所で育った深い闇が、森の湛える淀んだ翳りが今、彼女の前で形を成した。
在り得ない。
こんな『もの』がいる筈が無い。
こんな『もの』が自分の前に現れる筈が無い。
だが、だからこそ何処かで確信めいたものを抱いていたのではないのか?
引き潮の後に大波が寄せて来るように、クロディーヌの脳裏を恐慌が覆い尽くした。
『これ』は、『獣』は実在するのだと。
堪らず彼女は愛しい少年の方へと首を巡らせる。
直後、クロディーヌは目を見張った。
前方で糸杉の幹に寄り掛かっていたマチアスは、既に半身を失っていたのであった。
いつから、或いは初めからなのだろうか。彼は右肩から下を無惨に食い千切られ、剥き出しになった肋骨と臓物とを彼女の視界に晒していたのだった。
血の気を無くした彼女へと、『獣』は尚も近付いて行く。
威嚇の唸り声も上げず、吐息の音すら漏らさず、それは怯える獲物へと接近した。
森の奥の梢から鳥の一群が慌ただしく飛び立った。
太陽は天高く昇り、山裾に広がる森の上で蒼穹は何処までも澄み切っていた。
日は空高く昇っていたが街の周囲を覆う森は鬱蒼としており、快晴の昼であっても曇天の夕刻の如き乏しい光量しか湛えていないのが現実であった。
父親も母親も祖母ですらも、この森に分け入る事を彼女に進めなかった。
三年前、山裾に広がる森に得体の知れない『獣』が現れ始めたからだと言う。
恐ろしい狼のような『獣』が、森の木陰から通り掛かる哀れな人間を狙っているのだと言う。
だから、たとえ遠回りとなってでも森の中を通り抜けようとはするなと、クロディーヌへ度々注意を促して来た。
もう既に何十人もの農夫や旅人が、謎の『獣』の牙に掛けられて亡くなっている。
市街を覆う閉塞的な空気の中、だが少女は敢えて禁忌を破ったのであった。
山裾に広がる森へ誰も近付きたがらないと言う事実は、二人にとってはむしろ好都合だったからである。
ソーグに暮らすマチアスとは四年前に知り合ってからの仲である。
如何に周囲に無用の外出を止められていても、いや止められるからこそ互いに想いは募って行く。獣の被害が発生し始めてから一年後、二人は家族の目を盗んで山裾の森で度々密会するようになっていた。歳若い二人が剣呑な状況の中で往来を繰り返すのに、どちらの家族も難色を示したからである。
それに、年頃の二人には二人だけの時間、空間と言うものが何よりも貴重であった。
何も木々の奥深くで逢瀬を行なおうと言う訳ではない。街道に程近い木陰で待ち合わせ、互いの毎日の様子や愚痴などを口に出し合うだけである。
二人にはそれで充分であったし、これまで何の問題も生じては来なかった。
どれだけ血に飢えた獣と言えども、常に血に飢えている訳でもないのだろう。
少しでも不穏な気配を感じたら速やかに街道へと逃れれば良い。
二人の若者はそう考えていたのだった。
そしてこの日も、彼女はいつもの待ち合わせ場所に向かっていた。
辺りは静かであった。
時折吹き抜ける風が梢を揺らす以外、鳥の囀りさえも聞こえては来ず、蝉の声ですら他所から遠巻きに伝わって来る。
そうした中、木立を進む一つきりの人影の歩調も次第に急なものへと変わって行った。
どうしてだろうか。
今日はいつもと比べて、森の様子が異なっているように感じられる。
そこはかとなく、そして何とはなしに。
微かな不安を覚えたクロディーヌが、オークの大木を回り込んだ時の事であった。
行く手に一個の人影が在った。
それが服装や背格好からマチアスである事は、クロディーヌにはすぐに察しが付いた。
然るにそのマチアスは背後の糸杉に寄り掛かり、何故か動こうとしない。近付いて来るこちらの様子も目に入っていないかのようである。
怪訝に思うのと一緒に、少女の胸中を俄かに不安の雲が覆い始めたのであった。
不安。
怖れ。
躊躇い。
果たして、そうした感情は独りでに湧いて出て来るものなのだろうか。
自分でも気付かぬ内に、クロディーヌは森の中で足を止めていた。
街道から近い距離である筈なのに、辺りは鬱蒼として随所に濃い翳りを帯びさせている。鳥や虫の放つ声、そうした諸々の生き物の息遣いも、まるで潮が引くのに似て周囲から徐々に遠退いて行くようであり、自分一人が獣道も通らぬ深緑の檻の中に立っているかのような錯覚さえ抱かせる。
ここはおかしい。
何かがおかしい。
木に依然として寄り掛かったまま微動だにしないマチアスを前にして、クロディーヌがそう確信した時の事であった。
何に促されたものか、彼女は横手へ不意に目を向けた。
そこに『それ』は居た。
足音は無かった。
声も出さなかった。
然れども異様な巨躯を誇る一匹の『獣』が、彼女のすぐ隣から現れたのである。
彼女も咄嗟に呻き声を漏らす事すら忘れて、木陰より音も無く現れ出でた獣を見つめていた。
黒い、さながら森の翳りを一点に凝縮させたような、艷の無い黒い体躯を持つ狼に似た獣である。全身を刻々と揺らめかせ、それでいて足音を立てる事も無く、まるで木々の奥の陰から突き出て来るかのようにこちらへと近付いて来る。
瞳の無い深紅の目を、こちらへぴたりと据えたまま。
決して日の当たらぬ場所で育った深い闇が、森の湛える淀んだ翳りが今、彼女の前で形を成した。
在り得ない。
こんな『もの』がいる筈が無い。
こんな『もの』が自分の前に現れる筈が無い。
だが、だからこそ何処かで確信めいたものを抱いていたのではないのか?
引き潮の後に大波が寄せて来るように、クロディーヌの脳裏を恐慌が覆い尽くした。
『これ』は、『獣』は実在するのだと。
堪らず彼女は愛しい少年の方へと首を巡らせる。
直後、クロディーヌは目を見張った。
前方で糸杉の幹に寄り掛かっていたマチアスは、既に半身を失っていたのであった。
いつから、或いは初めからなのだろうか。彼は右肩から下を無惨に食い千切られ、剥き出しになった肋骨と臓物とを彼女の視界に晒していたのだった。
血の気を無くした彼女へと、『獣』は尚も近付いて行く。
威嚇の唸り声も上げず、吐息の音すら漏らさず、それは怯える獲物へと接近した。
森の奥の梢から鳥の一群が慌ただしく飛び立った。
太陽は天高く昇り、山裾に広がる森の上で蒼穹は何処までも澄み切っていた。
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