幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

文字の大きさ
上 下
104 / 183
フレンチでリッチな夜でした

その8

しおりを挟む
 そのおよそ七時間前、クロディーヌは昼下がりの木立を小走りに駆けていた。
 日は空高く昇っていたが街の周囲を覆う森は鬱蒼としており、快晴の昼であっても曇天の夕刻の如き乏しい光量しかたたえていないのが現実であった。
 父親も母親も祖母ですらも、この森に分け入る事を彼女に進めなかった。
 三年前、山裾に広がる森に得体の知れない『獣』が現れ始めたからだと言う。
 恐ろしい狼のような『獣』が、森の木陰から通り掛かる哀れな人間を狙っているのだと言う。
 だから、たとえ遠回りとなってでも森の中を通り抜けようとはするなと、クロディーヌへ度々注意を促して来た。
 もうすでに何十人もの農夫や旅人が、謎の『獣』の牙に掛けられて亡くなっている。
 市街を覆う閉塞的な空気の中、だが少女はえて禁忌を破ったのであった。
 山裾に広がる森へ誰も近付きたがらないと言う事実は、二人にとってはむしろ好都合だったからである。
 ソーグに暮らすマチアスとは四年前に知り合ってからの仲である。
 如何に周囲に無用の外出を止められていても、いや止められるからこそ互いに想いは募って行く。獣の被害が発生し始めてから一年後、二人は家族の目を盗んで山裾の森で度々密会するようになっていた。歳若い二人が剣呑な状況の中で往来を繰り返すのに、どちらの家族も難色を示したからである。
 それに、年頃の二人には二人だけの時間、空間と言うものが何よりも貴重であった。
 何も木々の奥深くで逢瀬を行なおうと言う訳ではない。街道に程近い木陰で待ち合わせ、互いの毎日の様子や愚痴などを口に出し合うだけである。
 二人にはそれで充分であったし、これまで何の問題も生じては来なかった。
 どれだけ血に飢えた獣と言えども、常に血に飢えている訳でもないのだろう。
 少しでも不穏な気配を感じたら速やかに街道へと逃れれば良い。
 二人の若者はそう考えていたのだった。
 そしてこの日も、彼女はいつもの待ち合わせ場所に向かっていた。
 辺りは静かであった。
 時折吹き抜ける風が梢を揺らす以外、鳥のさえずりさえも聞こえては来ず、蝉の声ですら他所よそから遠巻きに伝わって来る。
 そうした中、木立を進む一つきりの人影の歩調も次第に急なものへと変わって行った。
 どうしてだろうか。
 今日はいつもと比べて、森の様子が異なっているように感じられる。
 そこはかとなく、そして何とはなしに。
 かすかな不安を覚えたクロディーヌが、オークの大木を回り込んだ時の事であった。
 行く手に一個の人影が在った。
 それが服装や背格好からマチアスである事は、クロディーヌにはすぐに察しが付いた。
 しかるにそのマチアスは背後の糸杉に寄り掛かり、何故か動こうとしない。近付いて来るこちらの様子も目に入っていないかのようである。
 怪訝に思うのと一緒に、少女の胸中をにわかに不安の雲が覆い始めたのであった。
 不安。
 怖れ。
 躊躇ためらい。
 果たして、そうした感情は独りでに湧いて出て来るものなのだろうか。
 自分でも気付かぬ内に、クロディーヌは森の中で足を止めていた。
 街道から近い距離である筈なのに、辺りは鬱蒼として随所に濃いかげりを帯びさせている。鳥や虫の放つ声、そうした諸々の生き物の息遣いも、まるで潮が引くのに似て周囲から徐々に遠退いて行くようであり、自分一人が獣道も通らぬ深緑の檻の中に立っているかのような錯覚さえ抱かせる。
 ここはおかしい。
 何かがおかしい。
 木に依然として寄り掛かったまま微動だにしないマチアスを前にして、クロディーヌがそう確信した時の事であった。
 何に促されたものか、彼女は横手へ不意に目を向けた。
 そこに『それ』は居た。
 足音は無かった。
 声も出さなかった。
 しかれども異様な巨躯を誇る一匹の『獣』が、彼女のすぐ隣から現れたのである。
 彼女も咄嗟とっさに呻き声を漏らす事すら忘れて、木陰より音も無く現れ出でた獣を見つめていた。
 黒い、さながら森のかげりを一点に凝縮させたような、つやの無い黒い体躯を持つ狼に似た獣である。全身を刻々と揺らめかせ、それでいて足音を立てる事も無く、まるで木々の奥の陰から突き出て来るかのようにこちらへと近付いて来る。
 瞳の無い深紅の目を、こちらへぴたりと据えたまま。
 決して日の当たらぬ場所で育った深い闇が、森のたたえる淀んだかげりが今、彼女の前で形を成した。
 在り得ない。
 こんな『もの』がいる筈が無い。
 こんな『もの』が自分の前に現れる筈が無い。
 だが、だからこそ何処かで確信めいたものを抱いていたのではないのか?
 引き潮の後に大波が寄せて来るように、クロディーヌの脳裏を恐慌が覆い尽くした。
 『これ』は、『獣』は実在するのだと。
 たまらず彼女は愛しい少年の方へと首を巡らせる。
 直後、クロディーヌは目を見張った。
 前方で糸杉の幹に寄り掛かっていたマチアスは、すでに半身を失っていたのであった。
 いつから、あるいは初めからなのだろうか。彼は右肩から下を無惨に食い千切られ、剥き出しになった肋骨と臓物とを彼女の視界に晒していたのだった。
 血の気を無くした彼女へと、『獣』は尚も近付いて行く。
 威嚇の唸り声も上げず、吐息の音すら漏らさず、それは怯える獲物へと接近した。
 森の奥の梢から鳥の一群が慌ただしく飛び立った。
 太陽は天高く昇り、山裾に広がる森の上で蒼穹は何処までも澄み切っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

ママが呼んでいる

杏樹まじゅ
ホラー
鐘が鳴る。夜が来る。──ママが彼らを呼んでいる。 京都の大学に通う九条マコト(くじょうまこと)と恋人の新田ヒナ(あらたひな)は或る日、所属するオカルトサークルの仲間と、島根にあるという小さな寒村、真理弥村(まりやむら)に向かう。隠れキリシタンの末裔が暮らすというその村には百年前まで、教会に人身御供を捧げていたという伝承があるのだった。その時、教会の鐘が大きな音を立てて鳴り響く。そして二人は目撃する。彼らを待ち受ける、村の「夜」の姿を──。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

終焉列島:ゾンビに沈む国

ねむたん
ホラー
2025年。ネット上で「死体が動いた」という噂が広まり始めた。 最初はフェイクニュースだと思われていたが、世界各地で「死亡したはずの人間が動き出し、人を襲う」事例が報告され、SNSには異常な映像が拡散されていく。 会社帰り、三浦拓真は同僚の藤木とラーメン屋でその話題になる。冗談めかしていた二人だったが、テレビのニュースで「都内の病院で死亡した患者が看護師を襲った」と報じられ、店内の空気が一変する。

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...