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フレンチでリッチな夜でした
その1
しおりを挟む……私は鍵。
……私は道具。
……一つの役目を与えられし者。
……一つの使命を帯びたる者。
……それでも、私は……
……私は……
柔らかな光が視界一面を覆い尽くしていた。
夜明けの日差しよりも柔らかく黄昏の残照よりも鮮やかな、朧なれども確かな強みを持つ光が。
……何を適当な事を。
胸の奥深くの何処かより、嘆息じみた感慨がふと浮かび上がる。
……暁に煌めく光明も宵を埋め尽くす暗闇も、お前はまだ見た事も無い癖に。
そうだ。
そんなものは、まだ一度も目にしていない。
けれども知っている。
森羅万象の大まかなる所を。
そして『常世』を満たすこの『光』も。
私はかつて見た事がある。
……それはお前の記憶ではない。
光は色合いを刻々と変え続けた。
細かな粒子によって成る万華鏡のように。
或いは一面に様々な染料を流した大河の如くに。
……それに、これは記憶ではない。
寂寞にして粉雑。
あらゆる流れは穏やかであるように見えて、所々に急な動きを覗かせている。
形象は見定められずとも無数の細かな『存在』が今も伝わって来る。
広大無辺な空間に於いて、それらを伝えるのは『光』。
刺激に乏しい、然れど確かな重みと何らかの意思を含んだ淡い『光』。
そして『音』である。
意識を柔らかに流れ行くかと思えば、貫くような旋律へと不意に形を変える、それでいて決して不快とはならない深い音色が、この虚ろにして鮮やかな世界を満たしている。
あれ、誰かの歌声だろうか。
誰の?
……誰だ?
……そこに居るのは?
『誰』なのだ?
そこで『彼女』は目を覚ました。
ひんやりとした感覚が全身の肌を包む。どうやら何かの液体の中に浸かっているようである。
その液体越しに外の光が紅い双眸へと注がれる。
何処かの岩窟か、それとも崩れ掛けた廃墟の中であろうか。壁や天井から小さく差し込む光が、揺らめく液体を透過して彼女の目に入って来る。
これが『現世』の光か。
両眼を僅かに細め、ぼんやりとした感慨を抱いた彼女の脳裏に、その時声が届いた。
「目覚めたか」
特段の感慨も抱いていないかのような堅い声であった。
肉声とは異なる脳裏に直接響く声。
それを遣した者の事を『彼女』は知っていた。
少し前、自分の意識が形を得るのと同時に流れ込んで来た記憶と情報の奔流。
己の半ばを形作るもの。
それらを与えてくれた者の遣した初めて聞く、然れども懐かしい声である。
即ち……
「はい、我が創造主」
簡潔に答えて、彼女は身を起こした。
水音が辺りに鳴り響いた。
炎のように紅い髪の先端から水滴が次々と滴り落ちて行く。外の空気は涼しかったが、それでも彼女の素肌に纏わり付いた液体は忽ち湯気を立てて、周囲を俄かに掻き曇らせて行ったのだった。
その中で、彼女は自分が今まで浸かっていた物を俯瞰する。
磁器の浴槽と思しき白い容器に、うっすらと青味掛かった液体が湛えられている。これが一種の賦活液、広義に於いては『不死の霊薬』と呼べる物の一種である事を彼女はすぐに理解した。その薬液には様々な薬草が漂い、液面の大半を覆い尽くして香しい芳香を今も漂わせている。
これも防腐効果を含めた何かの薬効を得る為の、或いは精神安定剤の役割を与える為の生薬であろうか。
それとも剥き出しのこの身を適度に覆い隠す目的で、『彼』がばら撒いたのだろうか。
首筋に沿って肩や背中にぺたりと張り付いた髪の先から、液体が肌を静かに伝い落ちて行く。
薄ら青い薬液の風呂から上体を持ち上げ、少しの間黙考した彼女へ湯気の向こうから声が再度伝わる。
「身体に不具合が無いようならば起きて来い。装束の構築は忘れずにな」
「はい……」
頷いて、彼女は腰を上げたのであった。
そして辺りを覆う湯気が薄らいだ時には、白い浴槽の脇に一人の女が佇んでいた。
夜空よりも尚深い漆黒の礼服を纏い、緋色の髪を長く垂らした異形の女である。両の瞳は艷やかな髪と同じく、炎がうねるようにきらきらと輝き、前髪には夕時の波間を裂いて浮かぶ氷山のような、鋭くも煌びやかな白銀のティアラが載っていた。
その『彼女』へと、もう一人の『異形』が近付いて行く。
ぼろぼろに綻んだ闇色の衣を靡かせ、漆黒の骨格を露わにした異形の『もの』が。
遍在する諸々の『死』と言う概念を、何の装飾も帯びさせずに形としたような姿であった。生きとし生ける全てのものが全霊を以って抗うべき象徴を具現化させたような、それは現世に於ける絶対的な異端である。
然るにその彼を前にしても尚、赤毛の女はたじろぎもしない。今まで自分の浸かっていた人工の子宮の横手に女は静かに立ち続け、相手の言葉を待ち続けた。
数拍の間を置いた後、髑髏の顔の持ち主は徐に問い掛ける。
「状況が判るか?」
「はい」
女は首肯した。
「今は一五四二年の七月七日、ここはモンテ・ローザ山群の一角ですね」
淀みも揺らぎも無い、良く通る声であった。
答えてから彼女は辺りを見回した。
元は山腹に空いた洞窟を利用した場所である。足元も壁も剥き出しの岩に覆われていたが、そこに幾つかの棚と机が配置され、諸々の薬剤や素材、実験器具が並べられている。他はまるで飾り気が無く、ひたぶるに事務的で機能性のみを追及した、或る意味では殺伐とした住居であった。
侮蔑や偏見を別にしても、単純に『穴倉』と呼ぶのが妥当だろう。家主となる者が食べる物も飲む水も、眠る場所すら必要としないのだから当然と言えば当然ではあるのだろうが。
そこまで広くもない間取りではあるが、壁や天井には小さな穴が幾つか散見され、そこから差し込む光の所為で酷い閉塞感を漂わせずに済ませているようであった。
ここが自分の主が隠遁先の一つとして用いている秘密の研究室である事を、彼女は改めて確認した。
その彼女の前で、洞窟の主は同じように頷いて見せる。
「正解だ。記憶情報の転写にも問題は概ね無さそうだな」
そう評した後、髑髏の顔の持ち主は眼窩に灯った蒼白い光を不意に揺らめかせる。
剣呑で、そして真摯な意志を含ませた、針のように鋭い眼光であった。
「……然れば汝の義務を述べよ。汝、何故にして現世に存在を得たか?」
辺りの空気と大差無い、冷たく乾いた物言いであった。
赤毛の女は姿勢を崩さず、背筋を伸ばしたまま詠うように答える。
「……私は『鍵』……決して開いてはならぬ『扉』を閉ざす物……」
強くもなく弱くもなく、硬くもなく柔らかくもない声で赤毛の女は告げた。
詠うように、同時に囁くように。
「……その為の私は『道具』……真なる『破局』を防ぐ、それこそが我が『使命』……」
あたかも、日差しの下をさっと駆け抜ける影法師のように重みの無い声によって成る宣誓が、人目に決して触れる事の無い岩窟に発せられたのであった。
相対する漆黒の躯は僅かに顔を俯かせた。
「……上出来だ、『最新作』」
僅かな硬さを含む声で評すると、闇色の衣の裾をはためかせて一方の異形は背を向けた。数秒前までの重苦しい空気を自ら払拭するようにして、彼は洞窟の壁際に置かれた机へと足早に進む。
「……では、この場所もそろそろ引き払うとするか。一つ所に長く留まっていると、どうにも煩わしくて敵わん。何処からどんな形で足が付くやも判らんしな」
「はい」
つくづく落ち着きの無い人だな、と彼女は既に知っているにも拘らず、生まれて初めて小さく鼻息をついたのであった。
そんな彼女へと、その時、相手は肩越しに髑髏の顔を向けた。
「……それはそうと、何か夢でも見ていたのか?」
「夢?」
少し不思議そうに、緋色の髪を持つ人ならざる者は訊き返した。
対するもう一人の人ならざる者は、髑髏の眼窩に灯った蒼白い光を僅かに揺らめかせる。
「何、眺めていると、時折泣いているようにも見受けられたのでな」
言われて、女は自身の傍らに置かれた白い浴槽をちらと垣間見た。
薄ら青い賦活液に満たされた人工生命の培養器。この大きいながらも何処かちっぽけに見える器が、己にとっての胎内であり生まれ出でた場所であった。
この薄暗い洞窟もまた、自分にとって全ての始まりと呼べる場所である。
だが……
「……いいえ」
緋色の髪を持つ女は、俯き加減のまま短く答える。
「何も憶えてはおりません」
「……そうか」
ややあって遣された回答に口をそれ以上挟む事はせず、彼女を創り出した者は髑髏の顔を再び前へと戻した。
外で日が翳ったのか、壁や天井の穴から差し込む光が薄らいだ。
俄かに翳りを増した洞窟の壁際で、漆黒の躯は背中越しに言葉を遣す。
「そうだ、外へと出る前に何か適当な『名』を考えておけ。『社会』とか言う奴に上手い事混ざる為には何らかの『名札』がまず何より必要とされるものだからな」
「名、ですか……」
被造物たる彼女はそこで初めて驚いたような表情を浮かべた。
机の上に置き晒しにされた本の幾つかを闇色の衣の懐へと仕舞いながら、制作者たる彼は急かすでもなく言う。
「当のお前の名だ。好きに決めろ。埋め込んである物そのままに、『Azoth』と名付けるのも安直だしな。AなりZなりの付く適当な名前でも名乗れば良かろう」
そこまで言うと、彼は自身が生み出した生命体へと再び体を向けた。
後にリウドルフ・クリスタラーと名乗る事となる男は、未だ戸惑い気味に佇む己が分身へと呼び掛ける。
「どうした? 権利は正しく使ってこそ生きるものだぞ。それとも思考能力の創造性に関する部分に何か問題でも抱えているのか?」
「いいえ」
緋色の髪を靡かせて、彼女は首を横に振った。
然る後、赤毛の女は今一度口を開く。
「私は……私の名は、アレグラとしておきます」
壁と天井から差し込む光が再び明るさを増した。
漆黒の礼服を着た女は、そこで自らの『名』を、『意』を発したのだった。
それが後にアレグラ・ジグモンディと名乗る事となる人工生命体の、或る意味では産声と呼べるものであった。
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