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渚のリッチな夜でした
その37
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大型車両が余裕で行き交う事が出来そうな幅の廊下を、多くの人々が途切れる事無く往来していた。
窓から差し込む夕時の日差しの中、そこでは人の歩みが緩む事は無かった。それぞれに大きな旅行鞄を担ぎ、或いは引き摺る彼らの横手で、大きな明かり窓の外を白い大型旅客機が滑走路を移動していた。
日が傾き始めても尚国際線を多く繋ぐ空港内は人でごった返し、免税店を始めとしてあちこちから歓声は絶えなかった。
その奥で、一人の男が空港ラウンジの一席に腰を落ち着けていた。
白いものの目立つ頭髪を綺麗に整え、艶やかなグレーのスーツを着た年配の男である。髪と同じく丁寧に整えた口髭を晒した彼は、椅子に腰掛けたまま両手はステッキに載せて、広い窓の外を行き交う飛行機を面白くもなさそうに眺めていた。
暫くの後、ラウンジと通路を仕切る扉が開かれた。
豪奢なラウンジに男が一人、新たに入り込んだ。
この場に全くそぐわない、よれよれのスーツを着込んでろくな手入れも行き届いていない金髪をだらしなく晒した細身の男であった。
近付いて来るその姿を認めて、椅子に腰掛けた洗練された身なりの男はステッキに両手を押し付けるようにして膝を起こした。
そうして百目鬼誠二郎は、傍らで足を止めたリウドルフ・クリスタラーと顔を合わせたのであった。
口髭を震わせて、百目鬼は些か遅れて現れたリウドルフへ言葉を掛ける。
「なーんだ、遅かったな、パラの字。寝坊でもしたのか? 前日の深酒でも祟ったのかぁ?」
整った装いとは対照的ですらある砕け切った挨拶を受けて、リウドルフは口をへの字に曲げた。
「例の海での一件以降、事後処理に色々と振り回されたんだ。今日にしても朝から電話が鳴りっ放しで……いやその前に、その呼び名はいい加減どうにかならんのか?」
抗議の眼差しを遣すリウドルフを、百目鬼は街角の駄々っ子でも見るように冷ややかに捉える。
「そっちが名前をコロコロ変えてっから、こっちも色々難儀するんだよ。今はリーンハルトで良かったっけか?」
「そりゃ三つ前の偽名だ。スタンフォードで客員教授やってた頃の奴じゃないか。去年からはリウドルフだ、リウドルフ」
「面倒臭えなあ……」
リウドルフの回答に、百目鬼はステッキに両手を付いたままラウンジの天井を仰いだのだった。
窓辺に置かれた観葉植物が、肉厚の葉を斜陽に輝かせている。
空港の混み合い具合に比例してラウンジの往来も多く起きていたが、その片隅に立つ二人の男へ敢えて眼差しを留めるような者はいなかった。
ややあって、百目鬼は実に億劫そうに目の前に立つ大錬金術師を見つめる。
「もっとこう単純に、パッパラパーとかパララッケとかでいいじゃねえの。後ろに二世とか三世とかその都度くっ付けてくれりゃ、こっちも憶え易くて助かんだけども」
「……人をおちょくりに呼び付けたのか?」
リウドルフが頬を引き攣らせて訊ねると、百目鬼はステッキからは両手を飽くまで離さずに肩を竦めて見せた。
「俺だってそんな暇じゃねえって。他に暇で物好きな奴が見当たらねえから、こうして誘いの言葉を掛けてんだから」
そう言った相手を、リウドルフは細めた眼差しで以って捉えた。
「それで、今回は何の調査にわざわざ仏国まで出向くんだ?」
「詳しい事は道々説明するわ。もうじき搭乗時間だしな。先に場を移そうじゃねえか」
答えて百目鬼は歩き出した。
一つ息をついてリウドルフも後を追う。
広い明かり窓から差し込む西日が二人の偏屈な学者の影を引き伸ばした。
外に伸びる滑走路の向こうから、また新たに何処かの旅客機が着陸した。
沖合で時化でも発生しているのだろうか。
海原の彼方より砂浜に寄せる風は、その日、いつもより強さを増していたのだった。
足元の砂粒が湿った風を浴びて時折巻き上がるのを、リウドルフは静かに見下ろしていた。
前日に比べ、雲こそ多く漂っていたが、空は今朝も晴れていた。
やがて顔を上げたリウドルフは、眼前に広がる光景へ物憂げな眼差しを送る。
波打ち際に佇む彼の前方を、無数の人影が往来を繰り返していた。
いずれもが密閉型の防護服を着込んだ男達が、今や無人の集落と化した院須磨村の家々を捜索していた。一夜にして住民の半数以上が行方不明となった集落には、夜明けと共に完全防備の一団が押し掛け、残された住民の収容と周辺の家宅捜索を行ない始めたのであった。
無機質な外観の男達が淡々と執り行う作業を暫し眺めた後、浜辺に立つリウドルフは強い潮風の寄せる海原へと首を巡らせる。昼時の海には、これまた完全装備の潜水士達が波間から時折頭を覗かせながら付近の海域を捜索していた。
昨夜遅くに波間へ消えた住民達を探して彼らは今も海中及び海上を捜索していたが、目立った成果は未だ挙げられていない様子であった。
僅か一夜にして、全てが夢幻の如くに消えてしまった。
岸に広がる集落も入り江の奥に鎮座する神社も、夜が明けた頃には諸々の主を一時に失い、何処か漂白されたような外観を朝日に照らし出した。人の気配に元々乏しかった村は既に廃墟と化し、残された家々も全体の彩りを徐々に失いつつあるかのようであった。
絵画の中に在るかのような、一切の動きが抜け落ちた街並み。
それは今や巨大な抜け殻、或いは残された骨格と化し、地べたに伏して静かに朽ち行くのを待っているかのようである。
海岸線に沿って伸びる堤防の向こうから、美香もまた無人と化した村を眺めていた。強い潮風は砂浜を駆け抜け、堤防も飛び越えて少女の下まで吹き付ける。
数秒に渡る突風を目を細めて遣り過ごした後、美香は徐に口を開く。
「……随分静かになっちゃいましたね……」
囁くように言葉を寄せた彼女の隣に、大久保晴人が立っていた。今日は野球帽も付けず、やや癖のある頭髪を潮風に靡かせて、晴人は無人と化した村の様子を見つめ続けた。
悲しげに目を細め、ともすれば噴き上がりそうになる激情を懸命に押さえ付けるように、青年は目の前に広がる光景をただ瞳に映していた。
悲痛と言う、ただそれだけの表情を浮かべた相手へと、美香は及び腰ながらも励ましの言葉を送る。
「きっと見付かりますよ、あの人……」
「うん……」
美香の言葉に晴人は力無く相槌を打った後、首を徐に左右に振った。
「……いや、もう戻って来ないんじゃないかな……そんな気がする……」
面持ちと相違せぬ沈んだ声で答えて、晴人は細めた目を前方に広がる砂浜の向こう、今日も変わらず広がる水平線へと向けた。
無数の波が寄せては返すを絶えず繰り返す海原は、矮小な人間の放つ眼差しなぞたじろぎもせずに吸い上げる。万物は流転し、そしてまた一切は不可逆である事を淡々と告げるかのように。
ややあって晴人は唇を震わせる。
「……あの女は、きっと海に帰ったんだよ……自分の意志で……」
語尾を僅かに揺らめかせて、彼は果て無い水の連なりを凝視した。
その双眸の表に幾つもの煌めきを乗せながら。
美香も反駁する事は出来ず、物憂げな表情を浮かべ続けた。
「……今になって思えば、ずっと夢の中にいたような気さえする。だって自分の御先祖様と一緒に暮らしてたんだぜ? 普通在り得ないだろ、そんなの? だから夏に入ってからずっと夢を見てただけなんじゃないかって、今も夢の中にいるんじゃないかって、そんな気がして来るんだ……」
そう語る内に、晴人の眉間には皺が寄せられていた。
前方の波間から潜水士達が顔を覗かせる。未だ目立った成果は上がらないらしい。
「もう、いっそ全部が夢だったら……」
強い潮風がその述懐を運んだ。
如何ともし難い遣る瀬無さによってか、拳を固く握りしめた青年へと、その時少女は抗議じみた声を上げる。
「けど、夢じゃないでしょ? 夢じゃなかったでしょ?」
傍らに立つ晴人を、美香は食い入るように見つめた。彼の姿の輪郭にもう一つの輪郭を重ねながら、彼女は訴える。
「『あの人』は確かに『其処』に居たんだから。だからこそ『あなた』だって『此処』に居られる訳なんだし……」
真摯な指摘を受けて、晴人は視線を己の足元へと一度落としたのだった。
握り締めていた拳を緩め、そして彼は首肯する。
「……そうだね」
足元に広がる他でもない自分自身の影を見つめて、青年は呟いた。
「……『生きた』証、か……」
沖合から走った風が、堤防に立つ二人の間を通り抜けて行った。
潮騒と蝉の声が混ざり合い、少しの間の沈黙を満たした。
やがて美香はまた晴人を見遣る。
「これからどうするんですか?」
訊ねられ、晴人は眼差しを空へと持ち上げる。
大き目の雲が目立つ空は同時に良く澄んでいた。
「まあ、一度家に帰るよ。今の家に。そこから先の事はまだ判らないけど……」
降り注ぐ日差しに目を細めた晴人は、先程海原に向けていたのと同じ眼差しを、蒼穹の彼方へと注いだ。
「当たり前の事をして当たり前に頑張ってみる。多分それが一番なんじゃないかな……」
「そうですね……」
頷いた美香の耳に、その時クラクションの音が届いた。
肩越しに振り返った美香の見つめる先で、堤防脇に留められた黒い大型ラングラーの運転席からアレグラが手を振っていた。
そちらへと手を一度振り返してから、美香は晴人の方へ顔を戻した。
次いで彼女は寂しげな、或いは物悲しげな面持ちの中から精一杯の笑顔を覗かせた。
「じゃあ、御名残り惜しいですけど、私はこれで」
「ああ……」
「何て言うか、その、お元気で……」
「うん、君もね」
別れを告げた美香へ、晴人もまた微笑を返したのであった。
それから、朝の日差しに赤毛を揺らすアレグラの方へと、美香は両手にバッグを抱えて小走りに駆け寄った。
去り行く少女の背を、堤防の前に一人佇む青年は暖かな眼差しを以って見送ったのであった。
美香を車内に収めてすぐ、アレグラの運転する黒いラングラーは道路を走り出した。
堤防沿いを伸びる道路は然程混み合っておらず、正面に臨む山へと向けて、二人の乗った車は道を快適に進んだ。
助手席から窓の外の流れ行く景色を見ながら、美香はぽつりと呟く。
「これで、この海ともいよいよお別れだね……」
「まあねぇ。防疫やら何やらの措置で、暫くは近付けないってのは事実だけど」
ハンドルを握ったまま、アレグラは些か冴えない口調で相槌を打った。普段は暗い所をあまり覗かせない彼女もこの時ばかりは目元を細め、昨夜から続く一連の事実を事実として受け止めようと努めているかのようであった。
「でも、ほとぼりが冷めてから、また来たっていいんじゃない? 来年の夏にでもさぁ」
「うん……」
堤防の向こうに僅かに覗く海を見ながら、美香は頷いた。
ラジオからは、穏やかながらも何処か物悲しい曲調のシティポップが車内に流れ出ていた。対向車線を屋根にサーフボードを積んだ車が通り過ぎた。
少しして、美香は隣でハンドルを握る赤毛の女を目端からさり気無く流し見る。
「……アレ姐はさ、これまで誰かを好きになった事って、あったの?」
数瞬の沈黙が間を満たしたが、程無くしてアレグラは唇を薄く開いた。単に口を開くと言うたったそれだけの動作であるにも拘わらず、僅かな硬さを帯びた所作であった。
「あったよ」
少し硬い声でではあったが、彼女は確かに肯定した。
「結構な昔の話になるんだけどね……」
言って、赤毛の女はフロントガラスに据えた目を徐に細めたのだった。
「そうなんだ……」
美香は率直な回答を遣された事も含めて、少々意外そうな表情を浮かべた。
その美香の見つめる先で、アレグラは徐に鼻息をつく。
「……ま、誰にも抑えられない気持ちってのがある訳よ。そういうのが湧いて出る時ってのかあるんだよ、誰にでも」
「そうだね……」
先達の遣したしんみりとした言葉に、美香も小さく頷くと、車窓の外へと顔を戻した。
二人の乗った車は直に、赤に変わった信号の手前で停車した。長く伸びていた堤防沿いの道を離れ、車道がいよいよ海辺の外へと、山間部を伸びる国道へと差し掛かろうとする分岐点での事であった。
尚も窓の外を眺めていた美香は、間も無くある一点に眼差しを留めた。
ドアのすぐ向こう、路肩を伸びる歩道の端には観光地らしく花壇が設けられていたのだが、その片隅に鮮やかな彩りの花が植えられていたのに彼女は気付いたのである。
「あ、綺麗な花……」
思わず呟いた美香に促されて、アレグラも首をそちらへと巡らせる。
果たして二人の女の眺める先には、オレンジ色の鮮やかな花を付けた背の高い植物が、歩道脇の花壇に生けられていたのであった。日差しを浴びて深緑の葉共々眩く輝くその植物を、両者は束の間静かに見つめていた。
やがて信号が青に切り替わり、黒いラングラーは車道を再び走り出す。
潮風が後押しをするかのように路面を吹き抜けた。
海辺の土地を離れ各々の居場所に戻ろうとする客人達を、道端に植えられたその花、オレンジ色のカンナは静かに見送ったのだった。
窓から差し込む夕時の日差しの中、そこでは人の歩みが緩む事は無かった。それぞれに大きな旅行鞄を担ぎ、或いは引き摺る彼らの横手で、大きな明かり窓の外を白い大型旅客機が滑走路を移動していた。
日が傾き始めても尚国際線を多く繋ぐ空港内は人でごった返し、免税店を始めとしてあちこちから歓声は絶えなかった。
その奥で、一人の男が空港ラウンジの一席に腰を落ち着けていた。
白いものの目立つ頭髪を綺麗に整え、艶やかなグレーのスーツを着た年配の男である。髪と同じく丁寧に整えた口髭を晒した彼は、椅子に腰掛けたまま両手はステッキに載せて、広い窓の外を行き交う飛行機を面白くもなさそうに眺めていた。
暫くの後、ラウンジと通路を仕切る扉が開かれた。
豪奢なラウンジに男が一人、新たに入り込んだ。
この場に全くそぐわない、よれよれのスーツを着込んでろくな手入れも行き届いていない金髪をだらしなく晒した細身の男であった。
近付いて来るその姿を認めて、椅子に腰掛けた洗練された身なりの男はステッキに両手を押し付けるようにして膝を起こした。
そうして百目鬼誠二郎は、傍らで足を止めたリウドルフ・クリスタラーと顔を合わせたのであった。
口髭を震わせて、百目鬼は些か遅れて現れたリウドルフへ言葉を掛ける。
「なーんだ、遅かったな、パラの字。寝坊でもしたのか? 前日の深酒でも祟ったのかぁ?」
整った装いとは対照的ですらある砕け切った挨拶を受けて、リウドルフは口をへの字に曲げた。
「例の海での一件以降、事後処理に色々と振り回されたんだ。今日にしても朝から電話が鳴りっ放しで……いやその前に、その呼び名はいい加減どうにかならんのか?」
抗議の眼差しを遣すリウドルフを、百目鬼は街角の駄々っ子でも見るように冷ややかに捉える。
「そっちが名前をコロコロ変えてっから、こっちも色々難儀するんだよ。今はリーンハルトで良かったっけか?」
「そりゃ三つ前の偽名だ。スタンフォードで客員教授やってた頃の奴じゃないか。去年からはリウドルフだ、リウドルフ」
「面倒臭えなあ……」
リウドルフの回答に、百目鬼はステッキに両手を付いたままラウンジの天井を仰いだのだった。
窓辺に置かれた観葉植物が、肉厚の葉を斜陽に輝かせている。
空港の混み合い具合に比例してラウンジの往来も多く起きていたが、その片隅に立つ二人の男へ敢えて眼差しを留めるような者はいなかった。
ややあって、百目鬼は実に億劫そうに目の前に立つ大錬金術師を見つめる。
「もっとこう単純に、パッパラパーとかパララッケとかでいいじゃねえの。後ろに二世とか三世とかその都度くっ付けてくれりゃ、こっちも憶え易くて助かんだけども」
「……人をおちょくりに呼び付けたのか?」
リウドルフが頬を引き攣らせて訊ねると、百目鬼はステッキからは両手を飽くまで離さずに肩を竦めて見せた。
「俺だってそんな暇じゃねえって。他に暇で物好きな奴が見当たらねえから、こうして誘いの言葉を掛けてんだから」
そう言った相手を、リウドルフは細めた眼差しで以って捉えた。
「それで、今回は何の調査にわざわざ仏国まで出向くんだ?」
「詳しい事は道々説明するわ。もうじき搭乗時間だしな。先に場を移そうじゃねえか」
答えて百目鬼は歩き出した。
一つ息をついてリウドルフも後を追う。
広い明かり窓から差し込む西日が二人の偏屈な学者の影を引き伸ばした。
外に伸びる滑走路の向こうから、また新たに何処かの旅客機が着陸した。
沖合で時化でも発生しているのだろうか。
海原の彼方より砂浜に寄せる風は、その日、いつもより強さを増していたのだった。
足元の砂粒が湿った風を浴びて時折巻き上がるのを、リウドルフは静かに見下ろしていた。
前日に比べ、雲こそ多く漂っていたが、空は今朝も晴れていた。
やがて顔を上げたリウドルフは、眼前に広がる光景へ物憂げな眼差しを送る。
波打ち際に佇む彼の前方を、無数の人影が往来を繰り返していた。
いずれもが密閉型の防護服を着込んだ男達が、今や無人の集落と化した院須磨村の家々を捜索していた。一夜にして住民の半数以上が行方不明となった集落には、夜明けと共に完全防備の一団が押し掛け、残された住民の収容と周辺の家宅捜索を行ない始めたのであった。
無機質な外観の男達が淡々と執り行う作業を暫し眺めた後、浜辺に立つリウドルフは強い潮風の寄せる海原へと首を巡らせる。昼時の海には、これまた完全装備の潜水士達が波間から時折頭を覗かせながら付近の海域を捜索していた。
昨夜遅くに波間へ消えた住民達を探して彼らは今も海中及び海上を捜索していたが、目立った成果は未だ挙げられていない様子であった。
僅か一夜にして、全てが夢幻の如くに消えてしまった。
岸に広がる集落も入り江の奥に鎮座する神社も、夜が明けた頃には諸々の主を一時に失い、何処か漂白されたような外観を朝日に照らし出した。人の気配に元々乏しかった村は既に廃墟と化し、残された家々も全体の彩りを徐々に失いつつあるかのようであった。
絵画の中に在るかのような、一切の動きが抜け落ちた街並み。
それは今や巨大な抜け殻、或いは残された骨格と化し、地べたに伏して静かに朽ち行くのを待っているかのようである。
海岸線に沿って伸びる堤防の向こうから、美香もまた無人と化した村を眺めていた。強い潮風は砂浜を駆け抜け、堤防も飛び越えて少女の下まで吹き付ける。
数秒に渡る突風を目を細めて遣り過ごした後、美香は徐に口を開く。
「……随分静かになっちゃいましたね……」
囁くように言葉を寄せた彼女の隣に、大久保晴人が立っていた。今日は野球帽も付けず、やや癖のある頭髪を潮風に靡かせて、晴人は無人と化した村の様子を見つめ続けた。
悲しげに目を細め、ともすれば噴き上がりそうになる激情を懸命に押さえ付けるように、青年は目の前に広がる光景をただ瞳に映していた。
悲痛と言う、ただそれだけの表情を浮かべた相手へと、美香は及び腰ながらも励ましの言葉を送る。
「きっと見付かりますよ、あの人……」
「うん……」
美香の言葉に晴人は力無く相槌を打った後、首を徐に左右に振った。
「……いや、もう戻って来ないんじゃないかな……そんな気がする……」
面持ちと相違せぬ沈んだ声で答えて、晴人は細めた目を前方に広がる砂浜の向こう、今日も変わらず広がる水平線へと向けた。
無数の波が寄せては返すを絶えず繰り返す海原は、矮小な人間の放つ眼差しなぞたじろぎもせずに吸い上げる。万物は流転し、そしてまた一切は不可逆である事を淡々と告げるかのように。
ややあって晴人は唇を震わせる。
「……あの女は、きっと海に帰ったんだよ……自分の意志で……」
語尾を僅かに揺らめかせて、彼は果て無い水の連なりを凝視した。
その双眸の表に幾つもの煌めきを乗せながら。
美香も反駁する事は出来ず、物憂げな表情を浮かべ続けた。
「……今になって思えば、ずっと夢の中にいたような気さえする。だって自分の御先祖様と一緒に暮らしてたんだぜ? 普通在り得ないだろ、そんなの? だから夏に入ってからずっと夢を見てただけなんじゃないかって、今も夢の中にいるんじゃないかって、そんな気がして来るんだ……」
そう語る内に、晴人の眉間には皺が寄せられていた。
前方の波間から潜水士達が顔を覗かせる。未だ目立った成果は上がらないらしい。
「もう、いっそ全部が夢だったら……」
強い潮風がその述懐を運んだ。
如何ともし難い遣る瀬無さによってか、拳を固く握りしめた青年へと、その時少女は抗議じみた声を上げる。
「けど、夢じゃないでしょ? 夢じゃなかったでしょ?」
傍らに立つ晴人を、美香は食い入るように見つめた。彼の姿の輪郭にもう一つの輪郭を重ねながら、彼女は訴える。
「『あの人』は確かに『其処』に居たんだから。だからこそ『あなた』だって『此処』に居られる訳なんだし……」
真摯な指摘を受けて、晴人は視線を己の足元へと一度落としたのだった。
握り締めていた拳を緩め、そして彼は首肯する。
「……そうだね」
足元に広がる他でもない自分自身の影を見つめて、青年は呟いた。
「……『生きた』証、か……」
沖合から走った風が、堤防に立つ二人の間を通り抜けて行った。
潮騒と蝉の声が混ざり合い、少しの間の沈黙を満たした。
やがて美香はまた晴人を見遣る。
「これからどうするんですか?」
訊ねられ、晴人は眼差しを空へと持ち上げる。
大き目の雲が目立つ空は同時に良く澄んでいた。
「まあ、一度家に帰るよ。今の家に。そこから先の事はまだ判らないけど……」
降り注ぐ日差しに目を細めた晴人は、先程海原に向けていたのと同じ眼差しを、蒼穹の彼方へと注いだ。
「当たり前の事をして当たり前に頑張ってみる。多分それが一番なんじゃないかな……」
「そうですね……」
頷いた美香の耳に、その時クラクションの音が届いた。
肩越しに振り返った美香の見つめる先で、堤防脇に留められた黒い大型ラングラーの運転席からアレグラが手を振っていた。
そちらへと手を一度振り返してから、美香は晴人の方へ顔を戻した。
次いで彼女は寂しげな、或いは物悲しげな面持ちの中から精一杯の笑顔を覗かせた。
「じゃあ、御名残り惜しいですけど、私はこれで」
「ああ……」
「何て言うか、その、お元気で……」
「うん、君もね」
別れを告げた美香へ、晴人もまた微笑を返したのであった。
それから、朝の日差しに赤毛を揺らすアレグラの方へと、美香は両手にバッグを抱えて小走りに駆け寄った。
去り行く少女の背を、堤防の前に一人佇む青年は暖かな眼差しを以って見送ったのであった。
美香を車内に収めてすぐ、アレグラの運転する黒いラングラーは道路を走り出した。
堤防沿いを伸びる道路は然程混み合っておらず、正面に臨む山へと向けて、二人の乗った車は道を快適に進んだ。
助手席から窓の外の流れ行く景色を見ながら、美香はぽつりと呟く。
「これで、この海ともいよいよお別れだね……」
「まあねぇ。防疫やら何やらの措置で、暫くは近付けないってのは事実だけど」
ハンドルを握ったまま、アレグラは些か冴えない口調で相槌を打った。普段は暗い所をあまり覗かせない彼女もこの時ばかりは目元を細め、昨夜から続く一連の事実を事実として受け止めようと努めているかのようであった。
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「うん……」
堤防の向こうに僅かに覗く海を見ながら、美香は頷いた。
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少しして、美香は隣でハンドルを握る赤毛の女を目端からさり気無く流し見る。
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「あったよ」
少し硬い声でではあったが、彼女は確かに肯定した。
「結構な昔の話になるんだけどね……」
言って、赤毛の女はフロントガラスに据えた目を徐に細めたのだった。
「そうなんだ……」
美香は率直な回答を遣された事も含めて、少々意外そうな表情を浮かべた。
その美香の見つめる先で、アレグラは徐に鼻息をつく。
「……ま、誰にも抑えられない気持ちってのがある訳よ。そういうのが湧いて出る時ってのかあるんだよ、誰にでも」
「そうだね……」
先達の遣したしんみりとした言葉に、美香も小さく頷くと、車窓の外へと顔を戻した。
二人の乗った車は直に、赤に変わった信号の手前で停車した。長く伸びていた堤防沿いの道を離れ、車道がいよいよ海辺の外へと、山間部を伸びる国道へと差し掛かろうとする分岐点での事であった。
尚も窓の外を眺めていた美香は、間も無くある一点に眼差しを留めた。
ドアのすぐ向こう、路肩を伸びる歩道の端には観光地らしく花壇が設けられていたのだが、その片隅に鮮やかな彩りの花が植えられていたのに彼女は気付いたのである。
「あ、綺麗な花……」
思わず呟いた美香に促されて、アレグラも首をそちらへと巡らせる。
果たして二人の女の眺める先には、オレンジ色の鮮やかな花を付けた背の高い植物が、歩道脇の花壇に生けられていたのであった。日差しを浴びて深緑の葉共々眩く輝くその植物を、両者は束の間静かに見つめていた。
やがて信号が青に切り替わり、黒いラングラーは車道を再び走り出す。
潮風が後押しをするかのように路面を吹き抜けた。
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