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渚のリッチな夜でした

その35

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「くいいいぃぃぃいいいいいいいい!!」
「くいっ! くいいっ! くいいいいいっ!」
「ィィイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィィイイイイイイッ!!」
 闇が、かげりが、唸りを上げて押し迫って来る。
 おかの津波さながらに、怒涛と化してこちらへと迫り来る異形のもの共を前にして、しかし、最前列に立つリウドルフも司も、怯える素振りの欠片ものぞかせなかった。
 リウドルフは、かたわらで驚愕に打ちひしがれながらも、尚もその場に留まろうとする晴人を叱咤する。
「下がれ! 後はこちらで対処する!」
「はい!」
 うなずいて、晴人は鳥居の方へと駆け出した。
 しかる後、リウドルフはかたわらに悠然とたたずむ司へと、眼窩がんかに灯した蒼白い光を向ける。
「……言うまでもないが、誰も殺すなよ」
「言うだろうなと思っていたら、やっぱり言いましたね。そんなに私に信用が置けませんか?」
「実力は十二分に信用している。ただ気に掛かるだけだ」
 目前まで迫り来る異形を前にして平然と肩をすくめて見せた司を、リウドルフは細い眼差しを以って捉える。
「君の扱う道術は俺の知るどの流派のものとも違う。余程古い宗門の下に学んだのか、さもなくば……」
「何にせよ私はあなたを敵に回したくはない。それだけは、その点だけは信じて頂きましょう。特に今この場では」
 丸眼鏡の奥で目付きを鋭いものへ変えた司がそう答えてすぐ、並び立つ彼らへと異形の群は襲い掛かった。
 リウドルフが闇色の衣を波打たせる隣で、司は手首にめていた腕時計をおもむろに緩めたのだった。
跳来テャオライ跳去テャオチュウ、『天狗圏ティエンゴウチュエン』!」
 司が穏やかながらも厳かに告げた次の瞬間、彼の手首から小さな光の塊が勢い良く飛び出した。そのまま速度を一切緩めず、握り拳程の輝きは司へと襲い掛かろうとした異形のもの共を次々と打ちのめして行ったのだった。
 直前まで司がめていた腕時計は今は光輝く小さな輪と化し、主に近付こうとする不逞ふていの輩をまとめて薙ぎ倒す。まるで遥かな天空を喜び勇んで跳ね回る天上の子犬のように、光の輪は主人の周囲を縦横無尽に飛翔した。
 その後ろでは、横合いから詰め寄った異形達へアレグラが鋭い眼差しを寄せた。彼女が背後にかばう少女へと向けて、血に狂った村人達は産卵場所へ殺到する魚群のように襲い掛かる。
炎よ、炎よ、親しき友よd i e   F l a m m e ,   d i e   F l a m m e ,   m e i n e   l i e b e r   F r e u n d……」
 詠うように流暢に呟いて、アレグラは緋色に輝く髪を揺り動かした。すると豊かな髪の内より一筋の細長い炎が、巣穴から顔をのぞかせる蛇の如く緩やかに現れ出でる。
 輪郭が絶えず揺らめき燃え盛る、それは一振りの炎の剣であった。
 自らの髪の中から生まれ出でた紅蓮の剣をアレグラは手に取るなり、迫り来る異形達へと力強くも優雅に振るう。月下に広がる薄闇に炎の鮮やかな軌跡が刻み付けられた。
 闇色の礼服をまとう貴婦人が漆黒のマントを揺らしながら深紅の剣を振るう度、猛然と近付く異形のもの共は得物の圏内へ踏み入る事も叶わずに吹き飛ばされて行く。罪深き亡者を厳然と打ち据える冥府の主のように、アレグラは自らと自らが護る者へ近付こうとする輩を決して許さなかった。
 人とそれ以外が入り乱れる乱戦の最中、リウドルフはすでに半人外の存在へと変貌した沼津信吉と対峙していた。
 人の形を半ば捨てた沼津は、その手に一振りの短刀を未だ握り締めていた。七十年以上前から闇の祭事に用いられて来た儀式用の短刀を手に、沼津は行く手を塞ぐ漆黒のむくろへと通告する。
退け、よこしまなるものよ。汝の甘言では今や小石も動かす事あたわず。我らの神域からく去るが良い」
「それで、こちらが大人しく立ち退いたらどうする積もりかね? そのまま玄孫やしゃごを手に掛けるのか?」
 闇色の衣を刻々と波打たせながら、リウドルフは異形の宮司ぐうじを睨み付けた。
「残念ながら、そんな呆れた振舞いを重ねた所で何も変わりはしない。今更何をしようと時間は巻き戻ってはくれないんだ。あんた達の身に刻まれた歪みがその度合いを増して行くだけだ」
「我々はまた新たな歩を進める。その為の区切りとなる儀式が必要だ。退かぬとあらば……」
 言いながら、沼津は手にした短刀を振りかざす。これまで義理の娘の血を計り知れない程吸い続けて来たそれは持ち主の気迫も乗り移ってか、月明かりの下に赤黒い燐光を発した。
 最早微塵の躊躇ものぞかせず、沼津は呪われるべき得物を同じく呪われるべき侵入者へと突き出した。
 一方のリウドルフはその場から動かず、迫り来る切っ先に蒼白い眼差しを注ぐ。
 間髪を入れずに突き立てられた白刃は、だが標的を刺し貫く事は叶わず漆黒の手によって受け止められたのだった。
 骨化した右手で自身の胸に突き立てられようとした短刀の刃を掴んで押さえ、リウドルフは間近から沼津と向かい合う。
 沼津もまた黒いだけの目を眼前に立ちはだかる漆黒のむくろへと据え、横に大きく広がった口から忌々しげに声を漏らす。
「何故だ……どうして己は我々をこうも妨げようとする……?」
「ほう、まだ意識を保っていられるとは大したもんだ。その強靭な『意志』、それこそ己に対する『狂信』か、それがあればこそ本来は苦手とする日中でも活動を維持して来られた訳だ」
 刃をじかに握ったまま、リウドルフは斜に構えた口調で評した。しかし一方で短刀を握り締めた右手からは何らかの相克現象が起きているのか、くすぶるような煙が細く立ち上り始めていたのであった。
「さっきも言った通り、俺は医者としての本分を全うしたいだけだ。救える者は救う。少なくともそれを望む者に対してはな。それがこちらにとっての信仰だ」
 全体重を乗せて得物を押す沼津を、リウドルフは指の隙間からぶすぶすと煙を漏れ出させながらも一歩も引かずに押し留め続けた。そうして組み合う一組の異形は、強い眼差しを互いにぶつけ合う。
「余計な事を……他所の家庭の問題に口を挟むな!」
「生憎とその手の台詞は言われ慣れてる。それに、こいつはごく個人的な心情に根差す事柄だが……」
 尚も煩わしげに悪態を吐く沼津へと、その時リウドルフは相手の鼻先に息を吹き掛けるかのようにして髑髏どくろの顔をぬっと近付けた。
「あんたみたいに自分が保護者や後見人であるのを良い事に、人に望まぬ真似を続けさせてる奴を見てるとなァ! こっちは胸が悪くなるんだ!!」
 リウドルフが雷喝した刹那、彼の後ろで近付く異形共へ炎の剣を振るっていたアレグラはその口元をふと柔らかに綻ばせたのだった。
 直後、リウドルフの眼窩がんかに灯った蒼白い光が爛と輝いた。
 獰猛ですらある眼光に促されるようにして、彼のまとった闇色の衣が矢庭にはためき、裾を巻き上げて骨だけの右腕へと自ら巻き付いた。次いでほとんど間を空けず、闇色の衣を巻いた右腕が爆ぜるようにして唐突に太さを増したのだった。
 倍増どころか瞬時にして若木の幹以上の太さへと変じた漆黒の右腕は、異形の神主の突き出した短刀を押し返し、更には力任せにじ上げた。
 乾いた音を立てて刃が砕け散る。
 噴火の如く瞬間的に跳ね上がった剛力に抗し切れず、短刀の刀身は夜と言う時を吸い上げたかのような太い腕に粉々に握り潰されたのであった。
 沼津が黒いだけの両眼を大きく見張った。実に三四半世紀近く、闇の神事に用いられて来た禍々しき神器は、月光にきらめきながら宵闇の奥底へと細かに舞い散ったのであった。
 ほぼ柄のみとなった短刀を片手に握り締めたまま、沼津はよろよろと後退した。
 彼の周囲でも大勢はおおむね決しつつあった。
 光り輝く小さな輪が、吼え猛る紅蓮の剣が、満月に奇声を放つ異形のもの達を次々と打ちのめして行く。境内を蠢く異形の影は最早数える程も見当たらず、ほとんどが参道の石畳の周囲に倒れ伏していた。
 腕に巻き付けていた闇色の衣の裾をほどき、リウドルフは元通りとなった骨だけの右手で沼津を指し示した。
「長きに渡った饗宴もこれでお開きだ、宮司ぐうじ殿。まずは住民総出で検査を受けて貰うぞ。こっちは御覧の通り一度死んだ身だ。直前の殺人未遂については伏せておいてやる」
 沼津がすでに異形のものへと変じた相貌に、それでも苦々しさをにじみ出させた時、一同の後方にたたずんでいた美香は、視界の端にちらとぎった影を認めて声を上げる。
「あっ! 待って!!」
 美香が制止の声を掛けた向こう、今や消え掛けた二つの篝火かがりびの奥で、白い人影が境内の横手へと静かに走り去って行った。
 白装束の裾をひるがして、佳奈恵が神社の向こう、夜の松林の方へと走って行く。その様子をリウドルフらもすぐに認めた。
 それぞれに顔を向けた彼らの見つめた先で、白い孤影は渚の方へと駆けて行ったのだった。
 さながら夜の闇を薄く切り裂いて飛び立つさぎの如くに。
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