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渚のリッチな夜でした

その31

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 それよりほんの少し前、アレグラと美香は無人の民宿の庭で異形の群に囲まれていた。
 周囲の民家に明かりは無く、かすかな人音すら漂っては来ない。家々の向こうから伝わる潮騒を別とすれば、宵闇に立つ二人の女を囲うのは、異形のもの共が銘々に放つ湿った吐息のみである。
 夜の闇にようやく慣れ始めた目で、美香は自分達を取り囲む人影を改めて注視した。
 月光に弱い光沢すらね返す鋭い鱗で全身を覆った者達。ただ黒いだけの目をこちらへと据えて来る彼らには、最早理性の欠片もうかがい知る事は出来なかった。闇の中へ荒い吐息を放つ『それら・・・』からにじみ出るのは、昂然こうぜんにして傲然ごうぜんたる本能的な欲求のみであった。
「何なの、この人達……?」
「ま、これが今回の『患者』ってトコかねぇ~。あいつもわざわざ首を突っ込んだからにゃ助けないといけないんだろうけど、こいつぁ結構厄介そうだよ」
 美香をかばって立つアレグラは、珍しく苦々しい面持ちを浮かべた。
 その間にも、居並ぶ異形のもの共は二人の女へとじりじりと距離を詰めて行った。無数の黒い瞳に渇望の光只一つを乗せて。
 アレグラは自分の後ろで怯える少女へと穏やかに語り掛ける。
「んで、美香ッチ、悪いんだけどさぁ、ちょ~っとだけ離れててくれる?」
「……うん」
 出し抜けの発言に美香は一瞬驚いたものの、相手の言葉に含まれる真摯な意志に気付いて数歩を横へ移動した。
有難ありがと。そんなに時間は掛からないと思うから」
 取り囲む異形共を見据えながら礼を述べたアレグラの目に、刹那、鋭い光が過ぎった。
「え……」
 言葉の端から陽炎のように湧き立つ、不穏にして不敵な気配を察した美香が何事かを呼び掛けるよりも早く、彼女をかばい立つアレグラへと、周囲の異形達は一斉に襲い掛かった。
 満月の白い光をさえぎるようにして、五つの人影が不動を保つ一つの影へと圧し掛かる。
 アレグラは、ただ静かにまぶたを閉ざした。
 同時に、薄く開かれた唇の隙間から冷たく乾いた声が漏れ出る。
「私に……」
 月に表情あらば憐れみを示したかも知れない。
 観念したかのように静かにたたずむ赤毛の女に対してではなく、無謀にもそこへと躍り掛かった異形共に対して。
「……触るなッ!!」
 凛とした一喝が闇を打ち鳴らしてすぐ、アレグラの全身から見えざる衝撃波がほとばしり、襲い来る異形のもの共を元来た方向へと弾き飛ばしたのであった。
 その余波に美香がたじろぎ、しかる後に顔を上げた時には、少女の前に見知った女の姿はすでに無かった。
 代わりに彼女の眼前に立っていたのは、夜の闇そのものを身にまとった『不死なるもの』の眷属であった。
 主と同じ闇色の、そして主とは異なる貴族の礼服のような粛然とした衣をその身にまとい、夜空の一角を切り出して来たかのような漆黒のマントを肩から羽織っている。元々紅かった髪は夜の闇の中でも鮮やかに光り輝き、額のすぐ上には刀剣の切っ先を思い起こさせる鋭くもきらびやかなティアラが載っていた。
 炎のたてがみを持つ、怖ろしくも美しき闇の王族。
 それが、アレグラの真の姿を間近で目にした美香の抱いた率直な感想であった。
 その闇の淑女は髪と同じく緋色に光り輝く瞳を、自身を取り囲む異形のもの共へと据える。そこに込められているのは威圧や脅迫と言うよりも、むしろ相手の敵意や殺意を根こそぎ吸い上げて枯らしてしまうような強大無比な意志の奔流であった。
 突然の出来事に、異形らもそれぞれに狼狽する様子をのぞかせた。
 だが、『彼ら』も間も無く気付いたようである。
 『これ』は違う。
 『こいつ』は違う。
 『これ』は、この『メス』は我々の苦しみを和らげてはくれない。
 いくつもの魚眼は、アレグラの後ろにたたずむ一人の少女へとじきに焦点を移した。
 程無く異形の一体が、美香へと向けて猛然と駆け出した。
 相手の狙いを察した美香が、にわかに顔を強張らせる。
 が、次の瞬間、少女は面持ちをやや間の抜けたものへと変えていた。
 目の前に展開される光景が場違いなまでの喜劇色を帯びたからである。
 アレグラの後ろにたたずむ美香の下まで残り数歩と言う所で、異形のものは動きを止めていた。いや、全身の動きを停止した訳ではなく、彼ないし彼女は鱗に覆われた上半身をせわしなくばたつかせている。
 それにもかかわらず、異形のものはそれ以上一歩も先へと動けずにいるのだった。
 他のもの達も同様であった。
 旅館の庭に立つ異形のもの共は、いつの間にか全員が足元をすねの半ばまで土に沈ませており、容易に身動きが取れぬ状態に陥っていた。
 きょとんとした様子で眼前の有様を見つめた美香は、そこでふと思い返す。
 異形のものが動きを見せようとした刹那、アレグラが何か小さな呟きを発した事を。
 数秒前、緋色の髪と瞳を月に輝かせた彼女は、薄く開いた唇からささやくように言葉を発したのである。
大地よ、私の歌を聞きなさいH ö r  m e i n e  L i e d , d i e  E r d e
 そして今、闇の礼服をまとった夜魔の王族は、力を宿した言葉を再び紡ぐ。
「……そして草木よ、私の囁きを聞きなさいu n d   H ö r   m e i n e   F l ü s t e r n , d i e   P f l a n z e n
 直後、庭の土がにわかに波打ち、その下より幾筋もの木の根が現れ出でる。恐らくは庭に植えられた木々の根であろうが、突如として地上へと伸びたそれらは土に足を取られて動けない異形のもの共にたちまち絡み付き、一層強固に動きを封じたのであった。
 上体のバランスまでも崩された異形のもの共は、一溜りも無く相次いで地面に転倒して行く。しかるにその中で美香の直前まで詰め寄った異形だけが、ある種の執念によってであろうか、泥濘ぬかるみと化した地面から足を無理矢理引き抜くと、諸々の木の根がまとわり付くよりも早く眼前の少女へと躍り掛かったのであった。
「イッ、イ、イイイイイイイィィィィィィイイイイイイッ!!」
 半ば裏返った雄叫びを上げながらこちらへ覆い被さろうとするかげりを見上げて、美香が思わず目を見張った。
風よ、吼え猛りなさいB r ü l l , d e r  S t u r m!!」
 刹那、我執に満ちた異形の叫びを大気の放つ太い咆哮が打ち消した。
 叱咤のような短い声が上がったのと一緒に、美香の頭上に突如として激しい突風が吹きすさび、彼女へと躍り掛かろうとした異形を吹き飛ばしたのであった。
 瞬間的には大型台風のそれに勝るとも劣らぬ突風である。煽りを受けた民宿の屋根瓦がまとめて吹き飛び、爆音すら上げて宙へと舞った。
 元来た方角へ弾き飛ばされた異形はそのまま地べたに叩き付けられ、他と同じく植物の根にすぐさま絡み付かれて無力化された。
 引き潮に乗り損ねて浜に打ち上げられた魚さながらのていで、地べたに並んで藻掻もがき続ける異形のもの共を、アレグラは冷ややかに見下ろした。
「誰も動かずにいなさい。他者に害を為そうとするのであれば」
 美香は少しの間驚きの表情を以って眺めていたが、ややあってその眼差しを前方にたたずむアレグラへと向けたのだった。
 丁度ちょうどアレグラの方でも、後ろの美香へと体を向け直す所であった。ふわりとひるがえった緋色の髪が暗闇に優美な残像を刻む。
 自分の正面にたたずむ、良く見知ったはずの赤毛の女の姿を改めて見つめ、美香は一度唾を呑んだ。
 鋭く研ぎ上げられて光彩を撒き散らす刃の如き優美さとでも言おうか、アレグラの全身から発散される気配は未だ鋭いものであったが、それを覆い隠すまでに、月明かりに浮かぶ彼女の姿は鮮烈であった。
 淡い燐光を絶えず放つ、緋色の頭髪と双眸。
 周囲の闇さえ吸い込むような、漆黒の衣装。
 頭上に頂いた白銀のティアラは闇の中でも剣呑なまでに鋭く輝く。
 遍在へんざいする闇が万象を重ね塗り、光を除く全てを身の内へ溶かして行くように、目の前に立つ宵闇の聖母もまたおのが身に触れる一切を使役出来るのだろうか。
 その夜陰の淑女は、相対する少女へとおもむろに相好を崩した。
「こうなっては致し方ありません。私達も出向くとしましょうか」
 柔らかな物言いで遣された提案に、美香は目を丸くした。
 正にその時、距離を隔てた岬の神社でも新たなどよめきが生まれていた。
 それまで司と共に身を隠していた場所より、リウドルフが境内へと降り立ったのである。
 穏やかに波を寄せる夜の海を後ろに置く鳥居の頂から、一個の小さな影が飛翔した。
 視界の隅で動いたそれを認めたのか、住民達と同じく村の様子を眺め遣っていた沼津は、篝火かがりびの方へと急遽顔を戻した。その彼の前方で満月と篝火かがりびの二つの光に浮かび上がった痩身の人影は、一枚の羽根のように軽やかに石造りの参道へと爪先から着地したのであった。
 夜陰の懐より躍り出た闖入者の姿を認めるなり、沼津は黒い冠の下で顔を大きく強張らせた。
「己は……!」
 他方、大勢の村人と、それらの向こうに立つ神主とを正面に見据えて、リウドルフは厳かに語り掛ける。
今晩はGuten Abend只見タダみをしておいて恐縮ですが、見るに見かねて物言いを付けに参りました」
 満月の白い光が、参道の中央に立つ痩身の影を照らし出す。
「退屈な見世物と言う訳ではないが眺めていて愉快な催しでもない。ここらで一つお開きと参りましょうか、宮司ぐうじ殿」
 不敵に言い放ったリウドルフの体に、変化が生じた。
 古来より、月の放つ光にはあらゆる幻術まやかしを打ち消す力が込められていると言う。その作用によってか、あるいは当人の意志によってか、村人達の前に立った異人の姿は徐々にき消え、代わりに黒い異形が姿を現し始める。
 ぼろぼろに綻んだ闇色の衣を篝火かがりびの灯りに照らし、周囲の闇よりも尚暗い漆黒の髑髏どくろが、夜の境内に集まった一同を睨み据える。眼窩がんかに灯された蒼白い光をゆらゆらと揺らめかせながら、神域の境界を示す鳥居を背後に置いた不死なるもの共の王は、闇の神事に酔うもの共の前途に厳然と立ちはだかったのであった。
 粛々と降り注ぐ月光の中に、淡々と繰り返される潮騒の中に、その夜、それ・・は確かに屹立していた。
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