幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その26

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 一方その頃、美香は白昼の街並みを一人歩いていた。
 潮騒が付近の空気を震わせる中、院須磨いんすま村の家々は何処も、外壁を日差しに輝かせるばかりで動きの一切をのぞかせなかった。最初にこの場所へと踏み込み、友人達と訪れた時と何も変わらない、知らぬ間に絵画の中に紛れ込んだかのような景色であった。
 一様に閉ざされた玄関や窓が表情を殺して連なる中、蝉の声と潮騒だけが無人の通りを行き交っていた。
 しかし、美香が道すがら家々の軒先をのぞいてみれば、水に濡れた網や、浮きや銛などの数々の漁具が散見される。
 集落全体が全く何の活動も行なっていないと言う訳ではないらしい。恐らくは皆、辺りが静まり返った夜遅くにでも漁に出ているのだろう。
 自分の足音だけを後ろに付き従えながら、美香は人っ子一人通り掛からない道路をしばし進んだ。
 果たして、どれ程の行脚が続いた後の事であっただろうか。
 歩いて来た道の終わりに、美香は差し掛かったのだった。
「ここは……」
 ぽつりと呟いて美香は顔を上げる。
 彼女が足を止めたのは村外れの一角であった。砂浜を後にして、無人無音の街並みを通り抜けた先にあったのは岬の岸壁と、そこに口を開けた大きな洞窟であった。
 遠い昔、海岸線の浸食と、その後の後退によって出来た洞窟であろうか。白昼の光の中、それでも尚黒々とした闇をたたえた洞窟は、迷い込んだ少女の眼差しをひたぶるに無為に吸い込み続けるのだった。
 と、そこで美香は、佳奈恵に以前聞かされた忠告を思い出す。
「……防空壕って、これの事……?」
 再び独語して、美香は眼前の洞窟を見つめた。
『あまり遠くまで行かないで下さいね。特に岬の方。昔の防空壕があるのだけれど、岩盤が脆くなってて危ないから』
 佳奈恵は確かそう言っていた。
 元々、地元の住民に近付かぬよう釘を刺されていた場所である。それに真昼にも係わらず、この場所がたたえ、外へと音も無く漏れ出させている空気は『何処か』が、『何か』がおかしい。
 言い知れぬ不安を覚えた美香は、踵を返して立ち去ろうとした。
 その時であった。
 潮騒とも蝉の声とも異なる音を、美香は不意に耳にしたような気がした。
 ささやくような、低く唸るような『何もの』かの声を。
 抱えた不安が本能的に増幅されて行く中、それでも彼女は眼差しを向けてしまった。
 目の前の洞窟がたたえる、闇の奥深くへと。
 ……いい。
 ……いいいい。
 日差しの下へとい出すように聞こえて来る、不気味な呻き声。
 そして洞窟を覆う闇の一部が、矢庭に形を成した。
 黒い、周囲に淀む闇よりも尚暗く、かすかな光沢を放つ無数の黒い瞳が、白昼にたたずむ少女をじっと見据えていた。
 あたかも藪の内より獲物を値踏みする獣の如くに。
 それらの前に日差しのかすかな照り返しを受けて、また別の物が浮かび上がる。
 弱いきらめきを放つ、あれは金属製の格子だろうか。
 仔細は掴めぬまでも総毛立つ戦慄を覚えて、美香はその場から後退あとじさりする。
 その背中に何かかぶつかった。
 強張った顔を咄嗟とっさに背後へ回した美香は、そこで自分の後ろにいつの間にか人影があった事に気付いたのだった。
 彼女の後ろに立っていた月影司は、怯える教え子の肩に片手を乗せた。
「先生……」
 呻くように、それでも安堵の色をにじませて呟いた美香の見上げる先で、司は硬い表情を岬の洞窟へと向けていた。
 丸眼鏡の奥から放たれる、刃のような眼光が闇を射抜く。さながら、名匠によって研ぎ上げられた刀剣が音も無く紙を断ち切るように、彼の放つ視線もまた目の前にわだかまる闇を静かに、しかし確かに貫いたのであった。
 無言の内に、ただ密やかに見えざる攻防は繰り返された。
 岬の岩盤に留まっていた一匹の蝉が、鳴き声をぴたりと止めた。
 それ以上の事は何も起こらなかった。
 闇の奥からかすかに伝わる声は、やがて途切れたのだった。
 辺りはまた潮騒と蝉時雨が覆うばかりとなった。
 ふと鼻息をついてから、司は未だ怯える様子をのぞかせる美香へと話し掛ける。
「……昼日中だからと言って、あまりあちこちをふらふら出歩くのは感心しないよ。この村は正に彼岸と此岸しがん、陰陽の『境界』にある場所とも言えるからね」
「……はい」
 こっくりと、美香はうなずいた。
 それから二人は揃って岬の洞窟を後にする。
 去り際、司は肩越しに岸壁に穿うがたれた穴を見遣った。
「……『おり』に『おり』が溜まるとは、当然ながらも奇妙な状況だな」
 口中で呟いた後、司は丸眼鏡の奥で目を細めたのだった。
 次第に遠ざかる二つの人影を岬の洞窟は音も立てずに見送った。

 その夜、佳奈恵の民宿はこれまでにない盛り上がりをのぞかせていた。
 座敷の座卓に並べられた料理の数々を、美香は驚きと喜びを以って見据えた。
 縦に割られてこんがりと焼き上がった伊勢海老、あわびの酒蒸し、亀の手の味噌汁、栄螺さざえの壺焼きにかれいの煮付けなど、海の幸が所狭しと並べられた食卓を訪れた四人の来客は囲ったのであった。
 御櫃おひつから御飯をよそいながら、佳奈恵が朗らかに話し掛ける。
「皆さん、明日の朝に発たれると聞きましたので今夜は奮発させて頂きました。どうぞ、ここの海で採れた幸を思い出に刻んで行って下さい」
「どうも、わざわざ済みません」
 リウドルフが一礼する横で、アレグラは口の端に涎をのぞかせながら座卓を一望している。
 司も丸眼鏡の奥で目元を和らげ、にこやかに言葉を添える。
「最終日らしい華やかな晩餐ですね。急な来訪でさぞや御迷惑をお掛けしたでしょうが、それも今宵で終了です。どうも有難う御座いました」
 突然の展開に半ば気を呑まれていた美香は、佳奈恵へ向けて一礼するのが精一杯であった。
 それから、ささやかな宴は開かれた。
 それぞれが談笑しながら料理を頬張って行く中で、美香もまた箸を動かし続けた。
 その最中、リウドルフが座卓のかたわらに横座りする佳奈恵へと呼び掛ける。
「どうです? 女将さんも一杯付き合っては? 折角ですから」
「おっ、いいねぇ~。最終日なんだから無礼講で行こう、無礼講で」
 隣で伊勢海老を穿ほじくりながらアレグラが陽気にはやし立てると、佳奈恵は困ったように笑みを浮かべた。
「いや、そんな……」
「まあまあ、そう仰らず。今更勤務中だの何だのの固い事は言いっこ無しにしましょう」
 司も笑顔で促し、同時にビール瓶と空いているコップとを佳奈恵の方へと差し出した。
「では失礼して、お言葉に甘えさせて頂きます」
 一礼して、佳奈恵もまた座卓を囲う輪の中に加わったのだった。
 目の前のそうした様子を美香は楽しそうに、しかし何処か眩しげに眺めていた。
 次々と湧き上がる歓談の声。
 食器の生み出す明るい騒音。
 天井の照明に照らし出される団欒の光景は、一同がずっと昔から互いに顔を合わせ続けた旧友であるかのような様相を呈していた。
 そうした中、下座に腰を下ろしていた美香は縁側のガラス戸越しに外の様子を眺め、ふと顔を綻ばせた。
「あ、綺麗なお月様」
 その言葉が耳に入ったのか、隣に座った司も肩越しに後ろを振り仰いだ。
 縁側のひさしのすぐ下に、丸い月が昇っていた。欠ける所の無い綺麗な満月は、海辺の夜空に白々とした光を放ち続ける。
「うん、見事な満月だね」
 後ろを見たまま司はうなずいた。
 次いで、飽くまでもにこやかに彼は言う。
「こんな夜には何か賑やかな事でも起きそうだ」
 座卓を覆う歓声に、その言葉はたちまち呑み込まれた。
 夜のとばりは外を一面覆い尽くしていた。
 海辺の村の中で輝きを放つ唯一の建物は、同時に陽気な声をも宵闇に漏れ出させていた。磯の香りと酒精の芳香が充満した座敷からは、その夜確かに、何のかげりも含まれていない当たり前の空気があふれ出ていたのであった。
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