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渚のリッチな夜でした
その12
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『彼女』がまだ幼かった頃、村に於ける楽しみと言えば、年に二三度開かれる縁日ぐらいのものであった。
この日もまた『彼女』は父に肩車をされて、神社の境内を家族で漫ろ歩いていた。
冬の寒い日であるにも関わらず、多くの人々が境内を往来していた。衣装こそ普段通りの簡素な着物であったが、道行く人は皆境内に連なる転び(※露天商)や小店を楽しそうに覗くのだった。
猿楽の笛の音が、微かな潮騒と共に『彼女』の耳に届く。先程母に買って貰った飴の包み紙を右手にしっかりと握って、『彼女』は父の肩から祭りの様子を興味深げに眺めていた。
境内は人いきれで溢れていた。
「何だ、蒸し暑いぐらいだのう」
「そりゃ年初めじゃ沢山の数の参拝客が来るら。カンナ、お父にしっかり掴まっとれよ」
父と母がそれぞれに言葉を掛ける中、『彼女』は興味津々の様子で境内を見回した。
普段は別々に海に出ている男達も、この日ばかりは揃って同じ場所に出向いているようだった。祝い酒が回ったのか、陽気な声がお囃子の合間に伝わって来る。
「ああ、祭りはええなぁ、やっぱり」
「何だらしない事言うか。しゃんとせい、しゃんと」
「おめえこそ顔が赤えさー。飲み過ぎだら、皆して」
「ああ、祝いの席だもんさー。少しばかり騒がしてくれ」
通り過ぎる大人達は押し並べて陽気であった。
「やっぱし宮司様は賢い御方だ。あの方がいてくれりゃあ村も安泰だら」
「そうら。実際あの方が知恵さ巡らせてくれたお陰で、今日のこの祭りもあるようなもんじゃしな」
「『初恵比須様』ってか。こうして祀っとれば確かに祟りを為す事もあんめえ」
「宮司様が付いとりゃあ尚更になぁ」
そうしてどれ程か人波に流された末、『彼女』は境内の奥へ辿り着いた。
岬の岸壁を背にして建つ一組の建物が参道の果てに鎮座していた。
朱塗りの鮮やかな建物が『彼女』の瞳に映る。どちらも厚い屋根に覆われ、床は地面よりも大人の背丈の半分程も高く張られていた。
その内の一つへと、『彼女』は程無く眼差しを据えた。
建物の庇の奥は薄暗く、昼間でも見通しがあまり利かなかったが、普段は閉ざされている筈の御扉が開いている事に『彼女』は気が付いた。
多くの人垣の向こうに覗くその建物こそ、この神社の『神体』を安置する本殿である。
開かれた御扉を背にして一人の男が立っていた。白い斎服に黒い冠を被った初老の男が、居並ぶ参拝客に向けて何やら祝詞を唱えている。
父の肩に乗ったままその様子を眺めていた『彼女』は、そこでふと神主の後ろに見える開かれた扉へと目を移したのだった。
本殿の開かれた扉の向こうに、小さな桐の箱が置かれているのが目に留まった。
小奇麗な、何処かくすぐったさすら感じる瀟洒な箱である。
祝詞を唱える神主の声が朗々と響く中、一陣の風が本殿の方から流れた。
その最中に、『彼女』は何か香しい匂いを嗅いだような気がした。
これまで嗅いだ事も無い、儚げで、しかし鮮やかな芳香。
それを運んだ風も、まるでこの世ならぬ場所から吹き込んだかのようであった。
境内の並木がざわざわと音を立てた。
潮騒はその日もまた穏やかに繰り返された。
この日もまた『彼女』は父に肩車をされて、神社の境内を家族で漫ろ歩いていた。
冬の寒い日であるにも関わらず、多くの人々が境内を往来していた。衣装こそ普段通りの簡素な着物であったが、道行く人は皆境内に連なる転び(※露天商)や小店を楽しそうに覗くのだった。
猿楽の笛の音が、微かな潮騒と共に『彼女』の耳に届く。先程母に買って貰った飴の包み紙を右手にしっかりと握って、『彼女』は父の肩から祭りの様子を興味深げに眺めていた。
境内は人いきれで溢れていた。
「何だ、蒸し暑いぐらいだのう」
「そりゃ年初めじゃ沢山の数の参拝客が来るら。カンナ、お父にしっかり掴まっとれよ」
父と母がそれぞれに言葉を掛ける中、『彼女』は興味津々の様子で境内を見回した。
普段は別々に海に出ている男達も、この日ばかりは揃って同じ場所に出向いているようだった。祝い酒が回ったのか、陽気な声がお囃子の合間に伝わって来る。
「ああ、祭りはええなぁ、やっぱり」
「何だらしない事言うか。しゃんとせい、しゃんと」
「おめえこそ顔が赤えさー。飲み過ぎだら、皆して」
「ああ、祝いの席だもんさー。少しばかり騒がしてくれ」
通り過ぎる大人達は押し並べて陽気であった。
「やっぱし宮司様は賢い御方だ。あの方がいてくれりゃあ村も安泰だら」
「そうら。実際あの方が知恵さ巡らせてくれたお陰で、今日のこの祭りもあるようなもんじゃしな」
「『初恵比須様』ってか。こうして祀っとれば確かに祟りを為す事もあんめえ」
「宮司様が付いとりゃあ尚更になぁ」
そうしてどれ程か人波に流された末、『彼女』は境内の奥へ辿り着いた。
岬の岸壁を背にして建つ一組の建物が参道の果てに鎮座していた。
朱塗りの鮮やかな建物が『彼女』の瞳に映る。どちらも厚い屋根に覆われ、床は地面よりも大人の背丈の半分程も高く張られていた。
その内の一つへと、『彼女』は程無く眼差しを据えた。
建物の庇の奥は薄暗く、昼間でも見通しがあまり利かなかったが、普段は閉ざされている筈の御扉が開いている事に『彼女』は気が付いた。
多くの人垣の向こうに覗くその建物こそ、この神社の『神体』を安置する本殿である。
開かれた御扉を背にして一人の男が立っていた。白い斎服に黒い冠を被った初老の男が、居並ぶ参拝客に向けて何やら祝詞を唱えている。
父の肩に乗ったままその様子を眺めていた『彼女』は、そこでふと神主の後ろに見える開かれた扉へと目を移したのだった。
本殿の開かれた扉の向こうに、小さな桐の箱が置かれているのが目に留まった。
小奇麗な、何処かくすぐったさすら感じる瀟洒な箱である。
祝詞を唱える神主の声が朗々と響く中、一陣の風が本殿の方から流れた。
その最中に、『彼女』は何か香しい匂いを嗅いだような気がした。
これまで嗅いだ事も無い、儚げで、しかし鮮やかな芳香。
それを運んだ風も、まるでこの世ならぬ場所から吹き込んだかのようであった。
境内の並木がざわざわと音を立てた。
潮騒はその日もまた穏やかに繰り返された。
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