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渚のリッチな夜でした

その11

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 潮風を含んだ涼しげな夜気が、外には充満していた。
 付近に遊行施設はおろか居酒屋すら見当たらない小さな漁師町では、夜に入ると何処もすぐに灯りを落とし、付近の家々で窓から光をのぞかせている所はわずかであった。
 診療所を後にしたリウドルフは後ろに美香と亮一の二人を連れて、夜の路地をホテルへ向けて歩いていた。
 路肩に点々と配された古びた街灯の放つ黄ばんだ光が、三つの影を路面に細長く引き伸ばす。辺りは静まり返り、建ち並ぶ家々の向こうから夜の潮騒がかすかに伝わって来る。
「それで……」
 しばしの沈黙の末、最初に口を開いたのは美香であった。
「例のあの、浜に現れた何だか良く判らない怪人だか何だかはどうなったの?」
「どうなったのって、さっき民宿の二人に連れられて帰ってっただろ」
 美香の遣した質問に、リウドルフは背中越しに答えた。
 途端、美香は左右の眉に段差を付ける。
「へっ? 帰ってったって……じゃあ何? さっきの男の人に背負われてたのが……いや、そんな……変わり過ぎでしょ、いくら何でも?」
「うん……」
 美香の隣で亮一も驚きの表情で相槌を打った中、リウドルフは肩越しに両者をかえりみた。
「ありゃ病気の一種だな。急性の発作みたいなもんだ。だから時間経過で状態が落ち着けば、割とすんなり元に戻ったりする。それこそ憑き物が落ちたみたいにな」
「や、そう言われても、あんなに……」
 歩きながら、美香は目線を頭上へと持ち上げた。
 元々灯りの少ない地域では、夜空に多くの星がきらめいていた。
 つい三時間程前の浜辺での出来事を回想し、美香は小首を傾げたのだった。
「病気で片付いちゃう話なの? あんな普通っぽく見えた人が、何かの弾みで半魚人みたいに変わっちゃったりする訳?」
 リウドルフは顔を前に戻し、鼻先で一笑する。
「そもそも人の外見なんて、副腎の機嫌一つでどうにでも変わるもんだぞ。それに半魚人てな酷い表現だな。せめて人魚とでもしといたらどう……」
 だが、自分でそこまで言った所でリウドルフは不意に眉根を寄せた。
「……人魚……」
 ぽつりと独白してから彼は足元へ目を落とす。
 街灯が点々と照らす薄暗い路面に、先程の診療所での光景が投影された。
 あの時、佳奈恵が診察台に横たわる患者と二人だけで話したいと申し出た後の事、中年の医師は事務処理へと戻って行ったが、リウドルフだけは只一人診療室の入口に立ち続けていたのだった。
 夜の診療所に廊下を通り過ぎる者の姿は無い。
 腕組みをした姿勢を取る痩身の孤影の双眸に蒼白い光が灯った。普段は決して使わない能力ちからを、この時彼はえて用いようとしていた。
 さながら水滴を落とされた水彩絵の具のように、診療室の白い壁がリウドルフの視界から薄れて溶け消える。波紋が広がるようにして押し退けられた壁の向こうに、室内の様子が浮かび上がった。
 この世のものならざる眼差しの先に、一個の人影が蒼褪あおざめた光に照らし出されていた。
 果たして、リウドルフが透視する先で佳奈恵は診察台に寝かされた異形の患者へと近付いて行った。こちらの視線を相手に気取られぬよう意識を慎重に抑えつつ、リウドルフは壁の向こうで透視を続ける。
 室内に灯る光を不意に何かが反射した。
 佳奈恵の手元にきらりと輝く何かが握られている。
 あれは折り畳み式の剃刀だろうか。
 右手に持った剃刀で、佳奈恵は自身の左手を出し抜けに切り裂いた。にわかに血の流れ出した左の掌を、彼女は診察台の上へと運ぶ。
 そしてそのまま、佳奈恵は左手から滴り落ちる血を仰向けに寝かされた患者の口元へと流し込んだのであった。拳を握り締め、血を絞り出すようにして佳奈恵は鮮血を異形のものへ飲ませて行く。
 佳奈恵の面持ちは真摯そのものであり、幾許いくばくかの冷厳さすら含んだ強い眼差しを眼下の異形へと注いでいた。
 室外からリウドルフが凝視する先で、不可解な行為はしばし続けられた。
 やがて変化が起きた。
 診察台に寝かされた患者の体が徐々に萎んで行く。
 いや体積自体が収縮しているのではなく、実際には体の表面に盛り上がった鱗状の出来物が皮膚の内側へと引っ込んで行くのである。病状が、にわかに鎮静化しているのだ。
 リウドルフがまぶたをぴくりと動かした向こうで、佳奈恵は自身の血が滴る手を患者の口元から退けた。
 今や診察台に寝かされているのは何の変哲もない、病変の痕跡も残っていない初老の男であった。意識は未だ戻らぬのか、しわの目立つ顔を天井へと向けて彼は口を締まり無く開けている。
 その様子をかたわらから見下ろして、佳奈恵は深く息をついたようであった。
 そして今、リウドルフはおもむろに顔を上げた。
 道を挟む家々の屋根の間にのぞく星空が、彼の眼差しを際限無く吸い上げる。
 大きく瞬く星を仰いだ彼の目元は、だが険しいものであった。
 あの時、待合室で佳奈恵へ握手を求めた際、リウドルフはえて左手を差し出したのだった。都合上、同じく差し伸べられた佳奈恵の左の掌を彼はつぶさに観察していたのである。
 ついさっき他ならぬ彼女自身の手で切り裂いたはずの左手には、だがかすかな傷痕すら残ってはいなかった。
 そこまでを思い起こしたリウドルフの背後で、美香が不満も露わな声を上げる。
「それにしても皆の前からいつの間にか姿を晦ましたかと思ったら、知らない所で女の人とイチャイチャして、うちらが様子見に来なけりゃ何始めてたんだか……」
 途端、リウドルフは苦々しげに、それこそ犬の糞でも踏んだように疲れた表情を浮かべた。
「何言ってんだ、お前? 何が始まる道理も無いだろうが。いくら旅の恥は搔き捨てと言ったって、公序良俗には常に従うのが大人と言うもんだ」
「そんな事言って、センセって年上の人が好みだったりして?」
 尚も食い下がる美香へと、リウドルフは肩越しに冷ややかな眼差しを送り付ける。
「俺は自分より年上の相手に出くわす機会なんか滅多に無い。まして、親しくなるなど……」
「じゃ、年下が好みなんだ?」
「だったら何だ? 歳の差を考慮すれば、福祉施設に慰問に行っただけでも周りからロリコン扱いされるわ」
 電柱に掲げられた街灯に半身を照らされながら、リウドルフは至って淡白に言ってのけたのであった。
 対して、美香はむくれた顔を同じ光に晒す。
「……何だよぉ……」
 こっちの気も知らないで。
 喉まで込み上げて来た言葉を、美香はどうにか呑み込んだ。
 実に不機嫌そうにぼやいた少女を、隣から、亮一が心配そうに見つめる。
「まあまあ、何だか知らないけど、無事に片付いた事みたいなんだしさ……」
 少年の遣した不器用な励ましの言葉にも、美香はうつむき加減で黙っていた。
 夜の細道に、しばし足音と潮騒だけが響く。
 それでもやがて、一行の前方から複数の足音とざわめきが伝わって来た。夜の浜にける一連の行事も終わり、後片付けを済ませてホテルへと戻ろうとする生徒達の列が、程無くして街灯に浮かび上がった。
「はてさて、楽しい夜もこれにて終了……」
 独白して元の流れへと戻る間際、リウドルフは己の胸元にふと目を向けた。
 彼が着込んだアロハシャツの胸ポケットには簡単な医療道具を収めた救急ケースが入れられていたのだが、その中に収められたる物をリウドルフは改めて確認したのであった。
 そうして彼は再び息を吐くと、暗い街並みにのぞく星空を見上げた。
 夏の夜空に星は燦然ときらめき続ける。
 遠くから伝わる潮騒が、夜辻よつじ全体を包み込むように反響した。
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