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渚のリッチな夜でした

その10

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 それからおよそ二十分後、美香も亮一と共に町の診療所の扉をくぐったのであった。
 漁師町の中心付近に立つ、町で只一つの診療所は至って普通の趣の建物であった。薬品のにおいが漂う待合室には、すでに受付時間を過ぎている事もあって誰の姿も無く、列を作って並べられた空のソファを蒼褪あおざめた蛍光灯が照らしていた。
 しばし辺りを見回した末、亮一が口を開く。
「ちょっと遅かったんじゃない? もうホテルに戻ったのかも……」
 美香は黙って表情を曇らせたが、その前方で奥の廊下に繋がる扉が開いた。
 一拍の間を置いて、奥から複数の足音と話し声が伝わって来る。
「どうも色々と御迷惑をお掛けして申し訳御座いません。先生方には後でサービスさせて頂きますから」
 朗らかな声と共にまず現れたのは、癖のある髪を持つ若い女であった。
 その女、佳奈恵は、診療所の玄関に立っている美香を認めてふと小首を傾げた。
「……まあ、生徒さんもお迎えにいらしたようで」
 そう言った佳奈恵の前で、美香は思わず怪訝けげんな面持ちを浮かべていたのであった。昨夜ホテルの廊下で見掛けたのと衣装も容姿も全く同じ女性だが、それが何故に今この場所を訪れているのか、美香にはとんと理由が判らなかったからである。
 佳奈恵の後に続いてリウドルフが姿を現した。
「何だ、お前まで来たのか……」
 開口一番、眉根を寄せて実に面倒臭そうに言い捨てた相手の前で、美香は今度は口先を尖らせた。
「済みませんねぇ、お邪魔して。こっちも色々と気になったもんで、月影先生に言って様子見に来たんですぅ」
「いや、気にしなくていい。お前がそう言って首を突っ込み出すと、事態が余計にややこしくなる。これは独断や偏見を別にした確たる事実だ」
 あっさりと評したリウドルフへ美香は渋面を返した。
 実際の所、直前に予期せぬアクシデントが起こったとは言え、その後のバーベキューとキャンプファイヤーは予定通りに行われ、特段の問題も起こらずに終了を迎えた。ただ美香としては、キャンプファイヤーの開始前に浜辺から姿を消したリウドルフの事が、頭の隅に絶えず引っ掛かっていたのであった。
 砂浜に現れ、そして倒れた謎の人物を搬送された診療所へ確認に向かったのだろう事はおおむね察しが付いていた。
 しかるに今、地元の女性と何やら打ち解けた様子で平然と目の前に現れたと言う事実が、少女の心には小さな棘となって胸の内をちくりと刺していたのであった。
 そんな美香の心中なぞ露知らずの様子でリウドルフは待合室の横手で足を止め、佳奈恵へと呼び掛ける。
「そちらこそお仕事の合間を縫って御苦労様でした。私はただ砂浜で倒れた男性をここへ運び込んだと言うだけですから、お礼を言われる程の事はしておりません」
 言いながら、リウドルフは面前の相手へとおもむろに手を差し伸べた。
「実際、医療従事者の端くれとして貴女あなたの献身的な対応には少なからず感銘を受ける所がありましたよ。これも奇縁と言うものでしょうが感謝致します」
「ええ……」
 リウドルフの差し伸ばした手を見て、佳奈恵は微笑みながら握手を交わしたのだった。
 一組の男女の手が、蛍光灯の光の下にしっかりと結ばれる。
 途端、美香は玄関口の横で、頬を小さく引きらせた。
 何これ!?
 当て付けてんの、しかして!?
 美香の口中で、噛み合わされた奥歯がかすかなきしみ音を立てた。
 如何に社会常識に照らした一般的な遣り取りであるとは言え、こんな光景を目の当たりにさせられて少女にとっては面白く思えるはずも無い。無神経もここまで来れば一つの立派な才能であると、美香は義憤にも似た思いを内心に抱えたのであった。
 この際咳払いの一つでも差し込んでやろうかと彼女が考えた矢先、待合室に新たな声が舞い込む。
ねえさん、会計は済ませたの? だったらさ、先に車に戻ってエンジン掛けといてくれよ」
 そう言って奥へ続く廊下から待合室に現れたのは、美香にも見覚えのある若い男であった。昨夜、目の前の佳奈恵とか言う女性と共に、ホテルの廊下を通り過ぎて行った青年である。今日も野球帽を被った出で立ちで、彼は診療室へ繋がる廊下から現れた。
「俺、今この通り両手が塞がってんだからさ、この人を運ぶ以外、マジで何にも出来ないから」
 やや苦しげに言ったその青年は、背中に初老の男性を背負っていた。随分と疲労困憊した面持ちの、瞳の焦点も今一つ定まっていない老人である。
 青年に背負われたその老人はその時、不意に顔を上げて辺りを見回した。
「……あれ? 何処だァ、ここ?」
 寝起きのような弱々しい口調で、老人は疑問を口に出した。
「しっかりしてくれよ、爺さん。ここは隣町の医者だ。あんた、担ぎ込まれたんだよ」
「そうなんか……で、あんたァ誰だ?」
 青年の言葉に、背負われた老人は空とぼけた質問を遣した。
 青年は体を一度揺すって姿勢を直すと、少々苛立ち気味の口調で付け加える。
「大久保だよ、大久保。ほら、若狭さんの旅館で働いてる……ねえさん、早く頼むよ。俺、腰痛くなって来た」
 大久保と名乗った青年は、話の途中から対象を佳奈恵に切り替えた。
 促され、佳奈恵もリウドルフの前でうなずいて見せる。
「うん。支払いはもう済ませてあるから、出た所に車を持って来るわね。ちょっと待ってて、はる君」
 大久保と名乗った青年の方へ快活に答えると、佳奈恵はリウドルフを改めて見つめた。
「では先生、また後程」
 そう言って、佳奈恵は待合室から玄関の方へと急ぎ足で向かった。
「御免なさい」
 短く言い残して、佳奈恵は玄関脇にたたずむ美香の前を通り過ぎ、診療所の外へと程無く姿を消した。
「女将さん、いっつも済まねぇなぁ……」
 背負った男が弱々しく謝礼する下で、大久保と名乗った青年は斜交いに立つリウドルフをおもむろに見つめた。
「あなたは、確かうちの旅館に泊まり込んでる先生、でしたよね……?」
 不意に遣された質問に、リウドルフは小さく首肯しゅこうした。
「そうですが。君とも民宿の廊下で一二度擦れ違ったような気がする」
「あなたが、この人を捕まえたんですか?」
 自分が背負った老人を眼差しで示して、大久保と名乗った青年は多少不躾ぶしつけに訊ねた。
 対してリウドルフは気分を害した様子ものぞかせず、細めた目を脇へと逸らす。
「別に捕まえた訳じゃないですよ。僕にそんな力があるように見えますか? 僕はただ徘徊した末に浜辺で倒れたその男性を、この診療所まで案内したってだけで……」
「けど第一発見者だって……」
 リウドルフのとぼけた回答に青年が更に何かを言おうとした時、診療所の外から車の駆動音が近付いて来た。先の言葉通り、佳奈恵が車を診療所の前に乗り付けたのだろう。
 それを察して歩き出す間際、大久保と名乗った青年はリウドルフの顔を帽子の鍔の奥から上目遣いに見つめる。
「……その、お名前、聞かせて貰ってもいいですか?」
「リウドルフ・クリスタラーと言います。御簾嘉戸みすかと二区高校のしがない教師で、何なら後で宿帳を確認してみればいいでしょう」
「……ええ、そうします。俺、大久保晴人おおくぼはるひとって言います……」
 リウドルフの名乗りを受けて、青年は簡潔に名乗り返した。
 そして晴人は背に老人を担いだまま、診療所の外へと歩いて行く。
「あ、どうぞ……」
 近くに立っていた亮一が気を利かせて、玄関の扉を押し開いた。
 程無く扉の向こうで二言三言の遣り取りが為された後、車の駆動音が遠ざかって行くのが、待合室に残った三人の耳にそれぞれ届いた。
 診療所の内外は再び静かになった。
 待合室の壁に寄り掛かり、リウドルフは思い出したように息をつく。
「……夜の来訪者、か……」
 天井の照明から降り積もる蒼褪あおざめた光に、その呟きはすぐに溶け消えた。
 玄関の脇に置かれた観葉植物だけが、一連の遣り取りを無言で見つめていた。
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