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渚のリッチな夜でした

その6

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 明くる日の朝、海原にはうっすらともやが掛かっていた。
 繰り返し繰り返し、ずっと聞こえて来る潮騒の中、ホテルの六階に位置する部屋の窓から美香は明け方の海を望む。
 気温の変化によるものだろうか。
 沖合より岸辺へ寄せるようにして、乳白色のもやがゆっくりと漂っている。眼下の海原一面に広がるそんな景色は、さながら途方も無く大きな『何か』がおかに在るもの達を己の領域へと手繰り寄せているかのようであった。
 海はあらゆる生き物の『母』であり、生き物は何処かしらに『はは』の記憶を留めているものである。単純な畏敬とも異なる更に根源的で抗いがたい本能のようなものを、果てしなく奥深い海原は想起させるのであった。
 朝食前に行なわれた浜辺での体操が終わる頃には、寄せる波の奥より出ずる白いもやは随分と薄れていた。しかるにホテルへと再び戻り始めた生徒達の周囲で、海沿いの集落には奇妙な揺らぎが生じ始めていた。
 ジャージ姿の人波越しに、美香の耳に路肩で話し込む住民の声が聞こえて来る。
「……誰がいなくなったって?」
「憶えてねえなぁ。正直、名前言われても判んねえからよ、あすこの連中の事は」
「まあな。あの村の事じゃな……」
「姿が見えないってのは今の所一人だけらしい。ほら、例の神主さんがさっき相談に来たんだよ」
「ああ、あの人か……」
「駐在さんでもねえのに毎度御苦労なこった」
「実際あの人ぐらいだろ。あの村でまともなのは……」
 海岸線に沿って伸びる堤防の前に集った漁師らしき壮年の男達が、揃って陰鬱な表情を浮かべて話し込む様子を美香はホテルへ戻る道々幾度か目にしたのだった。何か良からぬ事件が早朝の町に起きたらしい事は、余所者である美香達にも何とはなしに察せられた。
 そうした中で美香が最後に耳にしたのは、良く日焼けした初老の漁師が舌打ちと共に発した一言だった。
「ったく、いっつも面倒ばかり起こしやがる。『院須磨いんすま』の連中は……」
 院須磨いんすま村。
 確かそれが男性教諭達が宿を借りている隣の集落の名前だったと、美香はふと思い起こしたのであった。
 とは言え、街中まちなかに漂うそうしたかすかなかげりが大勢に影響を与えるでもなく、外の観光客を迎えるホテル内におかしな空気が流れ込む事も無く、臨海学校の二日目は滞り無く進んだ。
 空は今日も快晴で眩い日差しが砂浜を焦がさんばかりである。
 松林から撒き散らされる蝉の声は途切れる気配ものぞかせず、潮騒と混じり合って浜辺を覆い尽くした。
 そして、そこには今日も大勢の生徒達が集まった。全員が紺色の水着に着替え、その眼差しにはいささかの不安をにじませながらも、同時に挑戦的な眼光を波重なる海原へと据えていた。
 潮騒を束の間裂いて、波打ち際にホイッスルが高らかに鳴り響いた。
 途端、生徒達は一斉に海へと駆け込む。
 湧き上がる歓声と共に遠泳は開始された。
 にわかに活気付く一群の中程にあって、美香もまた絶えず上下する波間に手足を出し入れする。クロールで泳ぐ美香の前後左右を囲う他の生徒達も引切り無しに水をき分け、浅瀬は舞い上がる飛沫でうっすら霞む程であった。
 多少いびつな紡錘形を形作って泳ぐ生徒達の横手を、一隻の遊漁船が速度を合わせて緩やかに航行していた。万一の事故に備えて教師と指導員が乗り込んだ船であるが、今その舳先にから身を乗り出して水着姿のアレグラが拡声器で生徒達へと声援を送る。
「は~い、もうじき後半に差し掛かるよ~! あとちょっとだから皆頑張ろうね~! でも、頑張り過ぎて足をらないように気を付けてね~!」
 その横では同じく拡声器を手にした、これまた水着姿の司が飛沫を上げて泳ぐ生徒達へ快活に告げる。
「向こう岸に着いたら皆で記念写真を撮ります! 早くにゴールした人から好きな位置を取れるので、いい位置で写真に写りたい人はここ一番頑張りましょう!」
「あたしも混ぜて貰うから~!」
 アレグラの付け加えた最後の一言が一種の決め手となったらしく、先頭を行く水泳部を始めとする運動部の少年達が一斉かつ一気に速度を上げて行く。実際、波間を乱れ飛ぶ水飛沫の量と勢いが俄然大幅に増したのだった。
 何やら奇妙な、純粋にして不純な熱気が入り江の一角に発散された。
 畢竟ひっきょうするに、夏の日の思い出を少しでも良いものとする為に、船上に今も見え隠れするいささか場違いな美女の隣に並んで立ちたいとの願望ないし欲望が一心不乱に泳ぐ彼らの間には渦巻いているようであった。
 遊漁船の甲板から身を乗り出し、生徒達の様子を眺めていたアレグラはそこでふと隣にたたずむ司へと目を向ける。
「……流石にお上手です事」
「何、貴女あなた程ではありませんよ」
 いつも通りの優しげな微笑をたたえたまま、司は平然と切り返した。
 その間も鼻先に人参をぶら下げられた競走馬さながら、生徒の一団は一途に泳ぎ続けた。水中を猛々しく進む先頭集団の少し後を、美香もそれなりに懸命に追っていた。
 そんな美香の頭上に司の声が再度投げ掛けられる。
「ほら、前の方に鳥居が見えて来ただろう? あれがゴール! あすこを目指して泳ぐんだよ! くれぐれも脇に逸れないように!」
 果たしてその言葉の通り、美香が顔を上げて見れば、波間の向こうに広がる陸地に、朱色の鳥居がぽつんと建っているのが確認出来た。
 遠目に詳細は定かに出来ないが、随分と古ぼけた鳥居のようである。
 その指標となる鳥居の手前にリウドルフはたたずんでいた。
 当人の顔色とまるで釣り合っていない鮮やかなアロハシャツを着て、頭には麦藁帽子を被り、痩身の人影は日差しきらめく砂浜から波間を見遣る。
 大まかに半円形を描く入り江を斜めに横切るようにして生徒達は遠泳を行なっていたのだが、その終着地点である沖合に近い浜にたたずんで、リウドルフは徐々に近付いて来る水飛沫の塊を眺めていたのであった。
 蝉の声が、打ち寄せる波の音に吸い込まれるように混じり合った。
 ややあってリウドルフは麦藁帽子の鍔を押さえると、おもむろに後ろを振り返る。
 大人二人分程の太さもある柱によって支えられた朱色の鳥居が、異邦人の後ろにそびえ立っていた。朱色の塗装こそ度重なる雨風と絶えず吹き付ける潮風に晒されてあちこちが剥がれ落ちていたが、造り自体は至って頑強であり快晴の空を支えて突き上げるかのように真っ直ぐに建っていた。
 神域の境界を示す建造物を静かに仰いでいたリウドルフの背に、その時愉快げな声が掛けられる。
「気になりますか、この鳥居が?」
 リウドルフが顔を戻してみれば、彼の斜め前の砂浜に一学年の担任でもある中年の女性教諭がたたずんでいた。彼女もまた水には入らず、遠泳に取り組む生徒達をおかから見守っていたのであるが、予定が滞り無く進む現状にいては手持ち無沙汰であるのはリウドルフと同様であった。
「やっぱり外国出身だから? 皆さん、神社や鳥居には格別の関心を抱くみたいですもんね」
 同僚である女性教諭の言葉に、リウドルフは小さく首肯しゅこうする。
「そりゃまあ、どうした所で気にはなりますよ。目立ちますからね、実際」
 リウドルフは鼻息交じりに答えた後、ふと波間の向こうに目を遣る。入り江を挟んで海岸の向こうは松林、そしてその後ろに控える堤防が眼差しをさえぎったが、更にその向こうに男性教諭陣が宿を借りる漁師町が広がっているはずである。
「……そう言えば今朝方、町の方で何か騒ぎがあったみたいですが……」
 リウドルフの言葉に砂浜に並んでたたずむ女性教諭も顔を素に戻した。
「ええ。何でも隣町で、ああ、要は男の先生方が泊まっている町でですが、何処かのお爺さんが行方を晦ましたのだとか……」
「それはつまり、所謂いわゆるお年寄りの徘徊って事ですか?」
「さあ、私も詳しい事は……大体、クリス先生達の方が現場に近かったんじゃないんですか?」
 女性教諭の指摘にリウドルフは首を横に振った。
「生憎何も伝わって来ませんでした。実に静かなものでしたよ、あの『院須磨いんすま村』と言う所は」
 答えた後、リウドルフは帽子の陰で目元をわずかにしかめたのであった。
 その内、リウドルフ達の待つ入り江の端に水音がよく響くようになる。遠泳も全体の四分の三以上の距離をすでに後ろのものとし、岸に近付く生徒達の姿が徐々に大きくなり始めた。
 波間に飛び散る水飛沫の方へと女性教諭は体を向ける。
「事故も起こらなくて良かった……」
「まだ終わっちゃいませんがね」
 億劫そうに言葉を差し挟んで、リウドルフも同じ方向へ目を移した。
 そんな同僚へと女性教諭はおもむろに微笑み掛けた。
「でも、こうして眺めていても少し意外な感じがするわねぇ」
「何がです?」
「いやね、月影さんの張り切り振りよ」
「ああ……」
 言われて、リウドルフはわずかに視線をずらした。
 活発に泳ぎ続ける生徒達の横手で遊漁船に乗り込んだ司は、今も拡声器から励ましの言葉を送り続けている。緊急時に即座に海に飛び込めるようにとの配慮か、彼は今日も水着姿であった。
 遠くに見えるその半身を女性教諭は眩しげに見遣る。
「運動とはあまり縁の無さそうな細っこい人だと思ってたけど、中身は意外とたくましくて、あれじゃむしろ女の子達には目の毒になるんじゃないかしら」
「かも知れませんね……」
 全く気乗りしない様子で、リウドルフは相槌を打った。
 その一方で、彼は船上の司の様子を尚も凝視する。
 遊漁船の甲板に立つ英語教師の体付きは確かに細く引き締まったものであった。だが注意深く観察すればそれが生来の体型ではなく、何らかの鍛錬を修めた末に会得した体格である事が察せられる。
 問題はそれが何の修練で、何を目的とした修行であったかなのだ。
 わずかに顎先を引いて、リウドルフは麦藁帽子の陰から鋭い眼差しを遠方の同僚へと注いでいた。
 蝉時雨を乗せた潮騒は、飽くまで淡々と白昼の海岸に木霊し続けた。
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