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渚のリッチな夜でした

その5

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 その日の朝、外は一面が濃霧に包まれていた。
 『彼女』にとっては、それは生まれて初めて見る景色であった。
 浜辺を乳白色の霧が覆い、己の足元を見通すのが精一杯である。
 家を出てすぐ、『彼女』は自分の居場所が判らなくなった。
 それでも最低限の行く先を見失わずに済んだのは、霧の奥から聞こえて来る潮騒の導きであった。
 果たして浜辺の一角に、『彼女』の求めた人影は在った。
 十人程の大人が濃霧の中、輪になって波打ち際にたたずんでいる。いずれもが柿渋染めの簡素な着物に身を包んだ精悍そうな男達である。
 そちらへと、小さな足取りで『彼女』は近付いて行ったのであった。
「おとう……」
 『彼女』が不安げに声を掛けた先、大人達の一人がそちらへと顔を向ける。
「……カンナか。何だ、うちっちにおれと言うたら……」
 程無くして、『彼女』は父親の足にしがみ付くようにして歩みを止めた。
 辺りを覆う乳白色の霧は益々ますます濃さを増して行った。
 海の向こうから、遠い遠い彼方から、全てを包み込んで融かしてしまうような霧はやって来るのだった。
 その中で浜辺に集まった男達は、押し殺した声でひそひそと会話を続ける。
「……やっぱ前に沖合で溺れたもんじゃんか?」
「馬鹿言うなや。このぞっとするぞんぐりするつら見ろみょう。とっても人の亡骸たぁ思えねぇ」
「大体俺達おれっちの村じゃあ一昨年から沈んだ船はえ。他所から流れて来たもんにしても、こりゃあ……」
「変わり過ぎだ……いくら水に浸かったっても、人の体はこんなんなるもんら?」
 数秒の沈黙の後、低い声が場に漏れ出す。
「……『モッコ』だら?」
 霧の中に立つ男達は、銘々に息をついたようであった。
とんでもないあてこともねぇ事言うな……縁起でもねえが……」
「だけども、この有様はよぉ……」
「『モッコ』か……」
「海の底から来ただら……『奴ら』の国から……」
「その内によ、こいつの仲間がぞろぞろとい上がって来るなんてこたぁ……」
せ! 下らないらっちもねぇ事抜かすのは!」
 潮騒が霧の向こうから穏やかに伝わる。
 大人達の間にぎこちない緘黙かんもくが覆い被った。
 それでも、やがての末に一人がおずおずと口を開く。
「……どうする? 領主様おだいさまに知らす?」
「それともこのまま海へ捨てるうっちゃるか……」
「いや、どっちにしても祟りが怖ろしいおそんがい。下手に扱って村ごとさら祟られた日にゃあ目も当てられねえ」
「なら宮司様に知らす? いの一番に?」
 一瞬の間がその後に生じた。
「うん……」
「そうだな……それがいいかも判んねぇ。あの方なら、俺達おれっちより上手い方法を考えて下さるら」
真面目なまめったいお人だものな」
「なら誰か神社まで走ってとんでよ、宮司様にこの事を知らせて来りゃいいだら」
「こうして突っ立ってぼっ立ってても仕方無いしょんない。そうすか」
 霧の中で男達は互いに促されるようにうなずき合った。
 その時、霧の向こうから一つの人影が居並ぶ男達の下へと近付いて来た。
「……如何なされたか、村の衆?」
 明瞭な声が霧を貫くようにして場に飛び込んだ。
 それまで父の脚にしがみ付いていた『彼女』も、そちらへとやおら首を巡らせる。
「おお、宮司様……」
「宮司様、来て下さったか……」
 驚きと安堵の入り混じった声をにわかに漏らす男達の向かいで乳白色の霧から現れ出でたのは、白衣びゃくいに紫の袴を履いた年配の男であった。灰色掛かった頭髪を丁寧にまとめ、揺るぎの無い足取りで、装束をまとった初老と思しき男は居並ぶ男達の下へ臆する事無く近付いて行った。
「浜に奇妙な『もの』が打ち上げられたと、早くに拝殿はいでんへ駆け込まれた方があり申した。拙者も今朝は妙な胸騒ぎを覚えましてな、これも御託宣かと思い馳せ参じた次第」
 間も無くその初老の宮司は男達の前で立ち止まり、霧の中でも尚毅然とした態度で問い掛ける。
「……して、くだんの『もの・・』は何処いずこに?」
「へえ……これ、これなんです、宮司様」
「見た事も聞いた事もえもので……」
俺達おれっち祟られやしねえだら?」
 頼れる相手が場に現れた事で安堵と一緒に不安もあふれ出したのか、男達はにわかに弱々しい声を上げ始めた。
 その中で初老の宮司はおもむろに膝を曲げると、砂浜に横たわる『もの・・』を見下ろした。
「何と……これは……」
 神職に就いた歳経た男も思わず息を呑み、咄嗟とっさの対応に苦慮したようであった。
 そしてその時、『彼女』もまた『それ・・』を垣間見たのだった。
 それまでは取り囲む男達の脚に隠れて見えなかったものが、今は『彼女』の瞳にも映る。
 乳白色の霧が覆う砂浜に、その日横たわっていた『もの・・』。
 それは朽ち掛けた水死体であった。
 下半身を失い、臓物の抜け落ちた腹部はすぼんで頭部も半ば以上が朽ちている。眼球が抜け落ち、黒々とした眼窩がんかだけがのぞく遺骸の顔が、取り巻く男達の間から『彼女』の方へぴたりと据えられていた。
 生気を失って久しい肌の表面に、桃色の粉のようなものをびっしりとまとわせて、『それ・・』はその日の朝、故郷の浜へ確かに打ち上げられていたのであった。
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