上 下
62 / 183
渚のリッチな夜でした

その4

しおりを挟む
 夕食は山海珍味が所狭しと言う訳ではなかったが、質と量共に満足の行くものだった。
 その後で開催された夜のレクリエーションも終わり、初日の日程をほぼ終えた生徒達は銘々に部屋へと戻り始める。
 青い絨毯の敷かれた廊下を進むジャージ姿の行列の中を、美香もまた歩いていた。
「あー、長いんだか短いんだか判んない一日だった」
 早くも欠伸を漏らしながら美香が言うと、隣を歩く顕子が首肯しゅこうする。
「そうねぇ、バスに揺られ通しかと思や海で皆して泳いで、んで流れ作業的に風呂入って全員で飯食って……慌ただしいっちゃ慌ただしい一日だったねぇ。楽しかったけど」
 そんな両者の横で、歩調を合わせて歩いていた昭乃がやおら口の端を吊り上げる。
「何疲れた事言ってんの。今日と言う日はまだ終わってないってのに」
 何やら挑発的に言葉を挟むと、昭乃は眼鏡の奥で不穏な眼光をきらめかせた。
「さあ、泊まり込みとなれば恒例の夜の百物語大会がこれからはっじまるよー。今宵今晩この時の為に選りすぐりの怪談を集めて来たかんね。今夜は寝かせないぜェ、ベイベー」
「ざけんな、寝かせろ。つか、オメーも早く寝ろ」
 目元をぴくりと震わせつつ美香は反発した。
「大体、明日は遠泳があんだろ? さっさと寝て疲れを取っとかないと途中で沈みかねないって」
「あ、そうそう、こういう話知ってる? 昔、海沿いの学校で水泳大会があったんだけど、開催中に大勢の生徒が溺れ始めたのよ、一斉に。何とか救助された子達に話を聞いてみると皆一様に、泳いでる最中に下から突然誰かに足首を掴まれて引っ張られたって証言し出したんだよねー。で、実はその海域では戦時中に輸送船が撃沈された事があって、海に投げ出されて力尽きた船員達の怨念がまだ海中を漂ってるのか……」
「だーから、やめろっつってんの!!」
 嬉々として話し始めた悪友へ、美香は切羽詰まった声を上げたのだった。
 それから少しして、美香はホテル内のランドリー室で洗濯機に掛けていた自分達の水着を回収していた。彼女の周囲では、同じように洗濯を行なっていた各班の水着を回収しに来た生徒達の姿が散見された。
 室内にずらりと並べられたドラム式洗濯乾燥機の一つから身を起こし、美香はランドリー室の入口近くで肩を解きほぐす。
「……全く、こんな事なら耳栓持って来りゃ良かった……」
 恨めしげにぶつぶつと呟いた後、美香は洗濯物を入れたビニール袋を肩に担ぐと、性悪な級友が手薬煉てぐすねを引いて待ち構えているであろう自室へと歩き出した。
 いっそ担任に言い付けてやろうかとも思ったが、それが不可能である事を美香はすぐに思い出した。レクリエーションが終わった後、宴会場の隅の方へ司がクラス全員を集合させたからである。
『ええ、残念ながら先生達はこれから別の宿へ向かわなくてはなりません。ちょっとした手違いでこのホテルに部屋を取れなかったのでね。ですので、皆さんも変に夜更かしなどしたりせず、ぐっすり眠って今日一日の疲れを取って下さい。女の先生方はこちらに泊まっていますから、何かあった時にはそちらへ連絡するように』
 他のクラスの生徒達が発するざわめきを背ににこやかにそこまで告げてから、司は全員の顔をのぞき込むようにして背筋を曲げる。
『……明日は遠泳が控えているからね。くれぐれも万全の体調で臨むように。寝不足で泳いで途中棄権なんかした日には、卒業するまで周りにからかわれるから。特に運動部の場合、いずれ後輩からも生温かい目で見られるからね。私は忠告したよ』
 何やら断崖へ向けてにじり寄るような剣呑な響きを含んだ忠告の後、司を含めた男性教諭達は生徒達の流れに逆らって、ホテルのロビーの方へと向かった。あまり遅くなっては、その別の宿とやらに迷惑が掛かるのだろう。
 夜のとばりがすっかり下り切った外へと出ようとする教師達の一団の中には、リウドルフの細い背中も含まれていた。宴会場を去り際に、廊下を隔ててその姿をちらと確認した事を美香は思い返したのだった。
 折角付いて来てくれたのに何だか擦れ違ってばっかりだな。
 照明の照り返る通路の床を見つめつつ、美香はひがみとも苛立ちとも付かぬ思いを胸中に抱いた。
 そして顔を上げた時、美香は廊下の少し前に見慣れた後姿を認めた気がして反射的に声を掛けていたのだった。
「あ、アレねえ、これから寝るトコ? 良かったらさ、これからうちの部屋に……」
 美香がそこまで呼び掛けた時、彼女の前を歩いていた人物はおもむろに振り返った。
 全体にウェーブの掛かった光沢豊かな黒髪が、廊下を照らす白々とした照明にきらめいた。それと同時に、不思議そうな面持ちが思わず足を止めた美香へと向けられる。
「……あれ?」
 その刹那、美香はぽつりと呟いていた。
 彼女の前に立っていたのは親しい赤毛の女ではなく、ホテルの従業員と思しき見ず知らずの女性であった。年頃こそアレグラの外見と同じく若く見えるが、その背格好はくだんの相手とは似ても似つかない。それにもかかわらず、美香は呼び掛ける相手を間違えたのである。
 美香も狼狽うろたえるのと一緒に自身の行動を怪訝けげんに思う中、前にたたずむ誰かは小首を傾げた。
「……ええと、何か御用ですか?」
 少し高い、しかし良く澄んだ声であった。
 恐らくは美香達と同じく、ランドリー室から洗濯物を回収した帰りなのであろう。その女性は左右の手に一つずつ大きなポリ袋を携え、美香をじっと見つめていた。灰色のシャツにクリーム色のエプロンを着けた、如何にも従業員然とした女であった。
 純粋に不思議そうに訊ねた相手へと、美香は慌てて首を横に振る。
「……あ、いいえ、何でもありません。人違いでした。御免なさい……」
「……そうですか」
 一応の納得は出来たのか、その女は体の向きを戻すとまた廊下を歩き始めた。
 いささか以上のばつの悪さを感じながら、美香もその後ろに続く。
 考えてみれば、アレグラを含めた指導員もまた近くの街に別々に逗留とうりゅうしているはずである。予約出来た部屋数の都合上、同じホテルにはすでにいない事は事前に聞かされていたはずなのに。
 それなのに、どうして見間違えなど起こしたのだろうか。
 美香は釈然としないまま、女の後ろに続く形で部屋へと歩を進めた。
 そうして、細く伸びる通路の向こうに、宴会場からロビーまで伸びる太い廊下が見え始めた時の事であった。
 美香の背後から、慌ただしい足音が近付いて来た。
 と同時に、男の声が通路にね返る。
「ああ、居た居た! ねえさん! ねえさんて!」
 怪訝けげんに思った美香が肩越しに声の主の方をかえりみるのと全く同時に、その前を歩いていた女も足を止めて振り返った。
 二人の女の見つめる先で、通路の奥から小走りに近付いて来るのは一人の若い男であった。外国の球団のロゴマークが刺繡された野球帽を被り、何処かのロックバンドの名前が印刷されたTシャツを着た年相応に見える装いの男であった。
 徐々に大きくなる足音と同様の忙しない口調で、新たに現れた男は言葉を続ける。
「何やってんだよ、ねえさん!? もう定時は過ぎてるんだろ!? 居残りなんかされるとこっちが困るんだよ!」
 何やら非難めいた口調で呼び掛けた男が美香の横を通り過ぎた頃、前に立つ女は困ったような笑みを浮かべた。
「あら御免なさい。今日はお客様も多いので、色々と手間取ってしまって……」
 やはり困ったように弁明した女の隣で、男は立ち止まった。
 前方に並び立つ一組の男女を、美香は困惑気味に見遣る。
 新たに駆け付けた男はキャップにTシャツにジーンズと言う出で立ちから、ホテルの従業員とは違うようではあるが宿泊中の一般客とも様子が異なる。現に、制服姿の女へと何事かを懸命に訴え続けている。
「残業なんか他の連中に任せればいいだろ!? 早く戻って来てくれないと、じきに例の先生達も到着しちまうよ!?」
「判ってる。この洗濯物を届けたらすぐに宿へ戻るから……」
「だったら俺も手伝うからさ! ほら!」
 乱暴に言うなり、キャップを被った男は作業員服の女からポリ袋の一つを引っ手繰たくると、そのまま彼女を先導して廊下を早足に歩き出した。
「ああ……待って、はる君……」
 女も両手でポリ袋を担ぎ、急ぎ足で男の後を追った。
 次第に遠退いて行く若い男女の後姿を、通路に立ち止まった美香だけが見届けていた。
 きょとんとしてたたずむ少女の前方で、一組の人影は廊下の曲がり角へ程無く姿を消したのであった。

 それから一時間程後の午後十時を回った頃、リウドルフは十畳程の和室で男性教諭達と卓を囲っていた。
 大きな街から遠い故か窓の外は真っ暗で、室外から伝わって来るのはかすかな潮騒のみである。
 ゆったりとしながらも随所に引き締まった趣をのぞかせる典型的な和室にて、浴衣姿の六人の教師達は酒を手に手に談笑していた。
「やあ、しかし何ですな、我々の部屋が取れなかったのは痛手でしたが、こうして近くに宿を見付けられて良かった」
 細長い顔立ちの学年主任が言うと、卓の斜交いで司が頭を下げる。
「申し訳無い。手配した私のミスです。まさか、間際になって一部屋足りなかった事に気付くとは……慌てて電話を掛け直した時にはすでに全室が予約で埋まっていましたし、本当に往生しました」
 素直に謝罪した司の隣で、別の教師が肘で彼をつつく。
「いやいや、そこは怪我の功名と言うか、禍福はあざなえる縄の如しと言うか……悪童ワル共に監視が行き届かないのは心配ですが、我々は我々でこうして気兼ねなく盛り上がる事が出来る。これはこれで悪くない状況じゃないですか」
 言って、ビールの注がれたグラスを仰ぐ同僚の隣で、司は首肯しゅこうした。
「ええ、そう言って頂けると助かります。隣町に営業中の民宿がある事が判った時には正に一条の光が差した思いでしたよ」
 しんみりと述懐した司の向かいで、学年主任がまた口を開く。
「まあ何ですな、昼間あれだけ泳がせておけば連中も流石に疲れて大人しく寝入るでしょう。遠泳が控えとるんだからさっさと寝とけと念入りに釘を刺しておきましたし」
 そこまで言った所で、学年主任はふと眼差しを上に向ける。
「ところで明日の遠泳の詳細は? どういうルートを泳がせるんでしたっけ?」
「ええ……」
 促されて司は足元に一度手を遣ると、畳の上から地図を拾い上げ檜の座卓の上に広げて見せた。
「ここ、丁度ちょうどホテルの正面の岸から斜めに浅瀬を百メートル程横切る感じで……」
「ああ、成程なるほど……」
 司の指し示した地点を、周囲の教師達は身を乗り出して確認する。
 座卓の隅の方に座っていたリウドルフも、気乗りのしない眼差しをそちらへと遣した。
「ゴールはこの辺りになりますね。この方角だと岸辺に神社の鳥居が見えるので、それを目印に生徒達を誘導します」
 司が説明を遣す脇でリウドルフはふと目を細めた。
「鳥居……」
「あとは漁師の方にお願いして、漁船を一艘いっそう随伴して貰う段取りになっています。翌日は波も穏やかであるそうなので、これだけの態勢で臨めば不意の事故にも対処出来るでしょう」
「そうですねぇ」
 司の真向かいに座った教師が、彼の説明を受けて幾度かうなずいて見せた。
 司は学者風の丸眼鏡を直しつつ説明を締め括る。
「その後はスイカ割りにキャンプファイヤーと、浜辺が今日ぐらいの混み具合なら、まあ問題無く執り行えるでしょう」
 一人だけ黙っているリウドルフを置いて、場には和らいだ空気が流れ始めた。
 座卓の端に置かれたビール瓶から結露した水滴が一筋、音も無く流れ落ちた。
「しかし、月影さんも良い所を見付けましたねぇ」
 地図を仕舞い始めた司を斜交いから学年主任が称えた。
 司も地図を折り畳むとおもむろに相好を崩す。
「そうですね。最近になってオープンした観光地と言う触れ込みだったので、実を言うと少し心配だったんですが良い穴場だったようです。これなら来年も……」
 彼がそこまで言った時、広間を仕切る襖の一つが静かに開かれた。
 間を置かず、座卓を囲う男達に穏やかな声が掛けられる。
「大変お待たせ致しました。お布団が敷き終わりましたので、どうぞお部屋へお戻り下さい」
 畳に膝を付き、居並ぶ男性教諭達にそう告げて深々と頭を下げたのは一人の若い女であった。全体にウェーブの掛かった髪をうなじの辺りにまで垂らし、清潔そうな白いシャツを着た妙齢の女性である。
 座卓から腰を浮かせて学年主任が慌てて答える。
「これはどうも女将さん。こんな遅くにわざわざ済みません」
 言われて、女は座敷に正座して来客達を見据える。
「いえいえ、こちらも遠くからお客様がお出で下さるのは珍しいもので、大分手間取ってしまい申し訳御座いません。確か学校の先生方、でしたよね?」
「ええ。臨海学校の付き添いで……」
 司の左隣に座った角刈りの教師が、恐縮した体で答えた。
 女はそこでやおら笑みを浮かべる。
「生徒さん達は、ああ、お隣のホテルに今お泊りの……」
「そうなんですよ。ちょっとした手違いで、我々だけ急遽こちらのお世話になる事になってしまいまして……寝床だけ貸して頂くと言うのも厚かましいんですが、二日程御厄介になります」
勿論もちろん、歓迎致します」
 学年主任の言葉に笑顔を返した後、女は座卓の端の方に腰を落ち着けたリウドルフへ、ふと目を留めたのであった。
 外国出身と一目で判る痩身の客人の姿を、うら若い女将は瞳に収める。
 一組の双眸が一筋の線で結ばれた。
 それは時間にすれば数瞬の、ほんの一時いっときの事であった。
「……これはまた、変わった方もお泊りに来て下さったのですね……」
 瞳の表にそれまでとは異なる光を過ぎらせて、女は穏やかに言った。
 対して、リウドルフは周囲の仲間を見回した。
「ええっと、ぼかァ昼間こちらへ来なかったので判らないんですが、こちらの方がこちらの民宿の……」
 とぼけた口調で同僚に訊ねようとしたリウドルフの前で、女将は再び一礼する。
「申し遅れました。当宿とうやどを預かります若狭わかさ佳奈恵かなえと申します。どうぞ良い一時ひとときをお過ごし下さいますよう……」
 リウドルフはこうべを垂れた面前の女を黙って見つめた。
 天井に吊るされた蛍光灯がかすかな瞬きを発する。
 宵闇の奥より伝わる遠い潮騒が夜半の座敷に穏やかに染み渡った。
しおりを挟む

処理中です...