幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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またもリッチな夜でした

その26

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 青く抜けた夏空が教室の外には広がっていた。
 梅雨の黒雲は訪れた時と同じに、特に何を示すでもなくさり気無く去って行った。そして今、天上には水色の明るい色彩が何処までも広がり、季節の移ろいを朗らかに伝えたのであった。
 教壇に立った司が、外の空模様と同じく、一点のかげりも無い微笑をたたえて、居並ぶ生徒達へと呼び掛ける。
「はい。では期末試験は今日で終わりとなります。明日から採点期間に入りますが、成績自体を決めるにはまだ間がありますので、あまり露骨に羽目を外し過ぎないように。補習期間が過ぎるまでは、各自くれぐれも慎重に。補習なんか受けずに済みそうだと言う人は尚更、つまらない事で評価を下げないようにしましょう」
 若干数の苦笑が混じった笑い声が、教室にあふれた。
 そして、司はくまでもにこやかに、生徒達へ声を掛ける。
「じゃあ、また明日」
 間を置かず号令が掛けられ、期末試験最後の一日は幕を下ろしたのであった。
 安堵と不安の混じった溜息が随所で上がる中、美香も緩々ゆるゆると帰り支度を整えていた。外の日和とは相反して今一つ晴れない面持ちを浮かべた彼女の前で、男子生徒の一団が机を囲っている。
「あー、終わった終わった」
「どーする? 不安は残るが、取りえず気晴らしにどっか行くか?」
「そーな。ま、肩の力を抜き切りに?」
「……悪い。俺、帰って寝てぇ、マジで……」
 何やら取り留めの無い雑談を続けていた少年達は、少しして、仲間の一人へと問い掛ける。
「んで? リョーイチは? 帰り、どっか寄ってく?」
「……え?」
 一団の左端にて、唐突に訊ねられた宮沢亮一は、困ったような、はにかんだような顔を浮かべた。
 しかる後、彼は首を左右に小さく振る。
「御免……今、あんまり騒ぐ気になれないんだ……」
 控え目な口調で、おずおずと、そしてもじもじと亮一は仲間の誘いを断った。
「妹が、つい最近亡くなったばかりだから……」
 教室の内外を覆う歓声の只中に、小さな空白が生まれた。
 数秒の沈黙を経て、男子生徒の一人が頭をいた。
「そうか……そうだったよな……」
「……り。ちょっと浮かれてたわ、俺ら」
「ま、学校こっちの心配事も粗方終わった事だし、これからゆっくり気持ちを整理すればいいじゃないか?」
「あまり塞ぎ込んでるのも良くないけどな。無理はしないように」
「うん……有難ありがと
 周囲からの励ましに、亮一はうつむき加減で短く答えた。
 その様子を、美香は自分の席からじっと眺めていた。
 あの夜、市立病院の霊安室にて、亮一は言葉少なく美香へと語ったのだった。
 簡素なベッドの上に寝かされた、叔子の遺体の前で。
 リウドルフの手配でシャワーを使わせて貰い、着替えのパジャマまで用意して貰った美香と亮一は、叔子の遺体が収められた霊安室で改めて顔を合わせた。
 狭い室内の奥、固く閉ざした目を二度と開く事の無い小さな体を前にして、亮一はぽつぽつと胸中を吐露した。
 あの死霊達から脅迫を受けていたのは自分一人である事。
 両親は最後まで何も知らなかった事。
 この先も自分は事実を隠し通すだろう事。
 静かな霊安室の中で、最後に亮一は明かしたのであった。
『……最初に、あいつらに言われたんだ。他の人間に自分達の事を話したら、すぐに叔子の体から出て行く。出て行かざるを得なくなる。そうなれば当然、妹は死ぬ……』
 うつむき加減で語る少年の横顔を、美香は静かに見つめていた。
『他人の精気を分けて貰う事で全員に均等に負担を求めるか、それともお前一人が全てを背追い込んだ上で一切を失うか、好きな方を選ぶがいい、ってさ……』
 そう言った後、亮一は自嘲気味に笑った。
『結局、何にもならなかったけどね……』
『でも……』
 美香は、横合いから口を挟んだ。
『……でも、あのまま言うなりになってたら、きっとあんたもあいつらに殺されてたよ。しかしたら御両親だって……』
 そう指摘してから、美香はベッドに寝かされた叔子の顔を流し見る。死に化粧も施されていない遺骸の顔は全体が黄味を帯び、生気の抜け切った様相である。正に近くて遠い、決して埋められぬ隔たりが両者の目の前に晒されていたのであった。
 美香は眉間にやおらしわを寄せた。
『……そんな結末、叔ちゃんが一番悲しんだんじゃないかな……』
 亮一は項垂れたまま何も答えなかった。
 沈黙が、ただ沈黙だけが、同じく建物の中でかつて談笑し合った三者の間を満たしていた。
 そして今、教室で美香の少し前にたたずむのは、変に気負った所も飾り立てた所も持たない当たり前の有様の少年であった。
 その体から、かつて垣間見た黄色く濁った光はもうにじみ出てはいない。
 彼とその周囲が如何なる犠牲を払わされたにせよ、死霊の呪縛は解けたのである。その点だけは、只一つそこだけは、きっと前向きに考えて良い点であるのだろう。
 未だ席に腰を落ち着けた美香の前で、亮一はのままの柔弱さを面に出しながら、新たな友人達とつまらない会話を続けるのであった。
 窓の外では、夏の香りを含んだ風が街路樹の深緑をそよがせていた。

 窓の外で、久々に顔をのぞかせた宵の明星を眺めた後、巽は顔を前に戻した。
 壁に備え付けられた空気清浄機が、今日も低い稼働音を漏らしている。
 その横合いに立って、巽は今日もベッドで投薬を受ける幼い少女を見つめたのであった。
 ベッドに寝かされた露崎美里はやはりいつもと変わらず退屈そうに、カテーテルを通って自分の体内へ静かに入って行く透明な液体の流動を眺めていた。
 先日、家族が見舞に訪れた際に遣したウイッグを美里は頭に付けていた。これには、本人よりもむしろ女性看護師達の方が面白がって、色々と髪型を試してみようなどと話し込んでいたようであった。
 一方で、今の美里は物憂げとまでは行かないが、単純に面白くなさそうな面持ちを浮かべ続けていた。度重なる治療がもたらす疲労もそこには無論あるのだろうが、それとは根を別にするような不安げな眼差しを少女は時折垣間見せるのであった。
 巽はそんな美里へと、おもむろに笑い掛けて見せる。
「大分落ち着いて来たようだね。今のままで行けば、体の中の悪い細胞も順当にやっつけられるよ」
「うん……」
 あまり嬉しくもなさそうに、美里は仰向けの姿勢でうなずいた。
 やはり、あの夜の事を何となく憶えているのだろうか。
 患者の反応を、巽は少し不安げに観察した。
 四日前の夜、不気味な光をたたえた魔性の者にさらわれ掛けた一件を、巽もまた思い起こした。あの一件も、事態そのものは何処からどういう圧力が加わったのか、一晩明けた頃にはすっかり有耶無耶となってしまったようだが、意図せずに巻き込まれた当事者にとってはそれで何を揉み消せるものでもない。特に幼い子供にとっては、ただ単に根強い恐怖や不安が心の奥底に刷り込まれただけであろう。主治医としてどうにか説明を遣そうにも、当の巽自身にすら詳しい説明は付かないのである。
 一つ判った事と言えば……
 巽が口をへの字に曲げてそこまで回想した時、背後で無菌室クリーンルームの扉が開かれた。
「今日は。経過はどんな塩梅かな?」
 とぼけた声と共に、痩身の影が昼下がりの病室に入って来る。
 今更振り向いて確認する気にもなれず、巽は肩を落として息をついた。
 そんな巽の後ろで、緑色の術衣スクラブを着たリウドルフは病室の扉を閉ざすと若き主治医の隣へと歩み寄った。
 その姿を認めて、美里はベッド上で警戒を露わにする。
「あ……」
「ふむ、見た所、大した問題は無さそうだな。新しい薬との相性も良さそうだ」
 目元を硬くした美里を置いて、リウドルフは呟いた。
 元から人に好かれる事など考えていないのか、くまでもマイペースに振る舞う相手を巽もいささか疲れた顔で流し見る。
「そりゃまあ、お陰様で。新しい病室にも慣れて、症状も大分落ち着いて来ましたよ」
「それは良かった」
 実に平淡に、リウドルフは相槌を打った。
 その横で巽は鼻息をつく。
「それで、色々と訊きたい事はありますが、差し当たりこちらはそちらをどう呼んだらいいんでしょうね、ドクター・ホーエンハイム? それとも例の通り名で呼んだ方がいいんですか?」
「皮肉を込めたいなら好きに呼べばいい。どの道、もう古い名だ。今更然したる値打ちも無い」
 やはり平然と、リウドルフは相手の質問を切り捨てた。
 それから彼は今もベッドで投薬を受ける少女へ、義眼から一筋の眼差しを遣す。
「過去の人物のどんな偉業より、今を懸命に生きる人間の努力の方が何倍も貴い」
 そんなリウドルフへ、美里は尚も緊張した視線を返すのだった。
「……お化け」
 ぽつりと呟きを漏らした美里へ、そのかたわらから、リウドルフと巽がそれぞれに目を向ける。
「お化け……また来たの?」
「いや、この人は……」
 巽が困り顔で説明しようとした横で、美里はふと瞳に別の光を過ぎらせる。
「でも、怖くない方のお化け……」
 評されたリウドルフは、おもむろに一笑した。
 そうして、彼は勿体付けた動作で腰に手を当てて見せる。
「……『死神わたし』を怖がるのは心にやましい所があるからだ」
 不安と興味が綯い交ぜになった眼差しを遣す少女へと、リウドルフは穏やかに語り掛けた。
「だから、どんな時でも堂々としていればいい。誰かに迷惑を掛けたりだとか、嘘を吐いたりだとか、約束を守らないだとか、そういう後ろ向きな真似をすると『わたし』も怖いお化けになる」
 リウドルフは義眼の表に蒼い光をかすかに浮かばせて、美里へ諭すように言った。
「だが、君が自分も他人ひとも大切にするのであれば、その間は『死神わたし』も大した事は出来なくなる」
「本当?」
「ああ。逆に悪いお化け達を追い払う事だって出来るかも知れない」
 目を丸くした美里へと、リウドルフは答えたのだった。
「だから、君も自分に出来る事をしなさい。決してくじけずに」
「うん、判った。お化け先生」
 目の前の相手へとそう答えて、美里は笑顔をのぞかせた。
 一連の遣り取りを脇から眺めていた巽は、そこでふと安堵の息を漏らした。
 しかしたら、この少女もあの夜の結末を何となくでも憶えているのかも知れない。人ならざる者達の発した声無き声による訴えが、彼女にも何処かで届いていたのだろうか。
 巽の見遣る先で、美里はただくすぐったいような面持ちを浮かべていた。
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