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またもリッチな夜でした
その25
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談笑の声が扉の向こうから微かに伝わって来る。
美香が居間へと通じる扉を開いてみれば、他の家族は既にテーブルを囲う各自の席に着いていた。父と母と、そして弟とが、卓上に並べられた料理へ箸を動かしながら会話を楽しんでいる最中であった。
テーブルを照らす暖色系の照明が、温もりのある光を歓談の場へ投げ掛ける。
少しして、美香も宛がわれた自分の席に腰を下ろしたのであった。
その美香の左隣で、弟の達也が生姜焼きを自分の皿に盛りながら安堵の声を漏らす。
「やーっぱ家で食べると安心するわぁ」
右脚の脹脛を未だ包帯で覆っていたが、達也は至って明るい様子を覗かせた。
向かいの席で、父の陽介が一笑した。
「何だ、急に老け込んだ事を抜かして。別にどっかの山寺へ修行に出てたんでもあるまいに」
「だって、やっぱし病院の中で飯食うのって緊張すんだもん」
達也は口先を尖らせた。
「それにさ、ああいう所で出される食事って不味くはないんだけど、何か当たり障りの無い味付けで割とすぐに飽きて来るって言うか……」
「あらあら、いつの間にやら贅沢になったのね」
美香の向かいで、母の里穂が、箸を動かす傍ら平淡に言葉を沿える。
「ただ、今は栄養のバランスには気を付けないとね。怪我も中々治らないでしょうし、取り分け野菜はしっかり取りなさい」
「はいはい」
そう答えると、達也は生姜焼きと米とを掻き込み出したのであった。
そんな家族の食事風景を、美香は静かに眺めていた。
暖かな照明に照らし出されて、今日も団欒の時は滞り無く過ぎて行く。
これが自分にとっての『当たり前』の有様で、恐らくは何処でも『当たり前』となるべき形なのだろう。
そんな『当たり前』の『日常』が失われてしまった、いや、ずっと以前に失われた家庭も実はすぐ身近にあったのだが。
箸を静かに下ろし、美香は手元の卓上へと目を落とした。
少女の耳の奥に小雨の紡ぐ微かな音が蘇り始めた。
「大丈夫そうです! 呼吸に問題はありません!」
屋上庭園の中程にて、巽は床に片膝を付いて自身の患者の様子を確認した。
彼は今、降り続く雨から庇うようにして、床に放置されていた少女、露崎美里の容体を確認していた。巽が抱え上げた先では死霊による影響か、美里は今も瞼を固く閉ざしてはいたが、面持ちからは心なしか険が取れたようであった。
その後ろからリウドルフが促す。
「ならばまず、低下した体温を戻さなければ。それでなくても無菌病棟へ速やかに戻した方がいいだろう。病室も変えなければならんな」
髑髏の面持ちを変化させる事も無く、リウドルフは巽の腕に抱かれた、死霊の戒めから解放された少女を見下ろしていた。
眼窩に灯った蒼い光が僅かに揺らめいた。
「院長には俺から説明しておく。そっちは取り敢えず、患者を空いている無菌室へ移しておいてくれ」
リウドルフがそこまで言った時、巽の傍らに影が差した。雨の中、巽が首を巡らせてみれば、同じ緑色の術衣を来た赤毛の女がいつの間にか隣に身を屈めていた。
驚く巽の隣で、アレグラは顔を雨に濡らしながら同僚へと笑い掛けた。
「んじゃ、早い所連れてってあげよっか? 温かいシャワーも浴びせてあげないとね」
「……え、ええ」
間近から促されて巽は戸惑ったように、流されるように首を上下させた。
うちにこんな人がいたっけか、と咄嗟に疑問を抱きながら、巽は同時に、相手のさり気無く放つ吸い込まれそうな眼差しに見惚れていたのであった。
そうして巽が美里を抱え上げ、アレグラと共に階下へ向かおうとした時、彼の背後から出し抜けに叫びが上がる。
「叔子……叔子! 叔子ーッ!!」
淡々と続く雨音を、悲痛な絶叫が数秒だけ掻き消した。
屋上庭園の端での事であった。
反射的にそちらの方を振り返った巽を、リウドルフが堅い口調で促す。
「……行け。後はこちらで引き受ける」
そう言って、彼は髑髏の顔を声の上がった方へと向けた。
屋上の縁を囲う鉄柵の前で、亮一は蹲っていた。
少し遅れて美香も同じ場所へ辿り着き、そして殆ど間を置かず、悲しげに目を細めたのであった。
崩れ落ちた妹の遺骸を、亮一は抱え起こしていた。
兄の腕に抱かれた叔子の体は、既に死人のそれと化していた。全身の肌は黄ばみ、唇からは彩りが失せ、雨に打たれる中でも皮膚は萎び始めているかのようである。
死後に相応の時間が経過したかのような、画然たる死者の有様であった。
自分が出会うずっと前からこの少女は死んでいたのだと、冷厳たる事実を美香は突き付けられた。たとえ亡霊の操り人形に過ぎなかったのだとしても、ほんの数分前まで彼女は目の前で確かに動き回っていた筈なのに。
小雨の中、立ち尽くす美香の斜め後ろに漆黒の孤影が近付いた。
「彼女は既に死んでいた」
諭すでも詫びるでもなく、ただ事実のみをリウドルフは告げた。
「如何にした所で、たとえ自然に反するものの手を借りた所で、死者を蘇らせる事だけは叶わない。これが現実だ」
頭上から言葉を遣した相手を、亮一は睨み上げた。
「……どうして」
妹の遺骸を抱えたまま、びしょ濡れになった顔から無数の雫を滴らせながら、少年は目の前に立つ黒き躯をきつく睨んだ。
「どうしてなんだ!? 叔子もあいつらもいなくなって、どうしてお前だけ!? お前も、お前だって、死人の仲間じゃないか!! どうしてお前だけが、どうしてそうやって平然と立ってられるんだよッ!?」
「ちょっと……!」
一言一言が割れたガラスを更に踏み砕いて行くような、あまりに刺々しい物言いに美香は咄嗟に何かを言い返そうとした。
しかし、その美香をリウドルフは骨だけとなった左手を掲げて制し、穏やかに言葉を続ける。
「……俺は『道』を外れてしまったからな」
そのまま、リウドルフは、眼窩に灯った蒼白い光を小刻みに揺らしながら答えた。
「人として、と言うより生き物として、或いは自然に在るものとして歩むべき一筋の『道』から遠い昔に逸れてしまった。何が原因であったのか、何故『俺』でなければならなかったのか、未だ定かには出来ないが……」
静かに降り続く小雨の中、闇色の衣を纏った痩身の孤影はじっと佇む。
「『生きる』事も『死ぬ』事も、万物に等しく課せられた『義務』であると同時に、分け隔て無く与えられた『権利』でもある。静かに眠るべきを他に利用され、肉体を晒し物にされて酷使されるのがその人に対する冒涜であるように、『死』と言う選択肢を奪われるのもまた同じく呪わしい事だ。自分でもどうしようもない事なら尚更に」
「だけど……だけど……!」
最早物言わぬ、微かな身動ぎすらせぬ、ただ冷たく成り行く妹の亡骸を抱いて、亮一は顔を大きく歪めた。今にも迸りそうになる何かを懸命に抑えるように、若しくは今にも崩れ落ちそうになる何かを必死に支えるように。
リウドルフは髑髏の顔をそんな相手へと静かに向けていた。
ややあって彼は穏やかに問い掛ける。
「……たとえ死霊の操り人形と化していても、家族にはこの世に留まっていて欲しかったのか?」
か細い音を重ねる雨だけが、その質問に答えた。
「寂しさは治らない。だが『寂しい』と感じられるのは大切な事だ。それすら失くしたのなら、さっきの奴らと同種の存在に成り下がってしまう。変えられない流れに対して、去って行った者を寂しさと言う形で心の何処かに残すのが、我々にとってのせめてもの抵抗なのかも知れん。生きると言う事が得る事と失う事の繰り返しであるのなら……」
闇色の衣を揺らす影の前で、少年は蹲ったまま黙って項垂れた。
そんな相手と彼が今も抱く少女の遺体を、美香は悲しげに見下ろした。
美香にとっては、『宮沢叔子』と言う人物を知る機会は初めから無かった事になる。だがリウドルフの言葉通り、あの死霊が宿主の家族すら騙す程に巧妙に擬態を熟していたのなら、あれがあの少女の生前の人となりとほぼ同じものであったのなら、きっと良い友達になれたに違い無い。
もっと早く別の形で出会えていれば。
美香が後悔にも似た感慨を寄せる先で、一人の少女の遺体は何を主張するでもなく、ただそこに在った。死後硬直すらも起こらず、逆に全身の筋肉が弛緩し始めているのか、全体の脱力具合が容易く見て取れた。真に生気の抜け切った体の中で、だが、その面持ちだけは不思議と微笑を浮かべているようにも見受けられたのだった。
それから、美香は今も静かに雨に打たれる亮一へと穏やかに声を掛ける。
「……ね? あたしらも中へ入ろう? 叔ちゃんを、そんな風にいつまでも雨に打たせてちゃいけないよ?」
勢いは徐々に弱まりつつあったが、それでも尚肌に纏わり付くような小雨は降り続いていた。
「……ね?」
後ろからそっと羽織りを掛けるように穏やかに美香は促した。
暫しの沈黙の末、亮一は妹の亡骸を背に負ってゆっくりと立ち上がった。
ふとした弾みにずり落ちそうになる叔子の体を、美香も横合いから支える。その際、掌から伝わる柔らかくも冷たい感触が、美香に冷厳たる事実を改めて教えたのであった。
表情を曇らせながら、美香はリウドルフを改めて見遣る。
「センセの方は大丈夫なの? 体?」
「ああ。奴らも墓穴を掘ったどころか、自ら墓穴に突っ込んで行ったようなものだ。自制の利かない連中には似合いの末路だろうが」
答えて、リウドルフは屋上を囲う柵の向こうに望む街の灯りに顔を向けた。
「市街には『餓鬼』がまだ残っているのかも知れんが、今更大した真似は出来ないだろう。元が天地の理に逆らってこの世に留まっている不自然な存在だ。憑代が朽ちればしがみ付いた魂魄もまた速やかにこの世から消え失せる。本体も消えた今、放っておいても遠からず消滅して行くだろう」
「へえ……」
相槌を打った後、美香はふと眉根を寄せた。
「……でも、さっき亡霊が消える間際に見えたのは……」
「あれなら問題無い。最後に引導を渡したのは味方だ」
「そうなの……」
遣されたのは実に端的な説明であったが、美香は一応の得心を覗かせた。
一方でリウドルフは傍らへと目を落とし、殆ど聞き取れない程の微かな声で付け加える。
「……今はな」
その彼の横を、叔子の体を背負った亮一が緩やかに通り過ぎて行った。屋上庭園の端から反対側に建つ小さな塔屋へと、少年は静かに歩を重ねて行く。濡れた体から足元へ幾つもの雫を点々と滴らせながら、彼は外に満ちる闇から遠ざかるように階下の灯りの方へと進んだ。
「……私と言う現象は、仮定された有機交流電燈の、一つの青い照明です……」
その最中、小雨の微かな音に隠れるように、小さな呟きが夜の暗がりへと漏れ出たのであった。
「……風景や皆と一緒に忙しく忙しく明滅しながら、如何にも確かに灯り続ける因果交流電燈の、一つの青い照明です……」
誰に聞き届けられる事も無い独白は、雨に溶けるようにしてすぐに消えて行った。
その後ろで、屋上庭園の端に佇むリウドルフは髑髏の顔を遠い街の灯に向けつつ、眼窩に灯る蒼白い眼光を僅かに揺らめかせる。
「……ただ、確かに記録されたこれらの景色は、記録されたその通りのこの景色で、それが虚無ならば虚無自身がこの通りで、ある程度までは皆に共通致します……」
小刻みに揺らぎ瞬きながらも変わらない街の『顔』を、表情の欠けた髑髏の『顔』がじっと見据えていた。
「……全てが私の中の皆であるように、皆の各々の中の全てですから……」
更け行く夜の中を雨は穏やかに降り続けた。
その雨の中で、長身の孤影が病院の横手から遥か頭上を見上げていた。
右手に傘を、そして左手には黒と白の長剣を握って、月影司は丸眼鏡の奥から針金のように細く硬い眼差しを頭上へと据えていたのであった。宵闇の深まり行く中、人も車も往来は絶え、病院から漏れ出る灯りだけが付近の暗闇を仄かに照らしていた。
バスターミナルの横手に一人佇む司は、少しして徐に口を開く。
「……『不条理』と『理不尽』が積み上げられて造られるのが『現世』か……」
そう独白した後、司は傘の角度を僅かに変え、今も屋上に佇む相手を見つめた。その瞳の奥に、厚みを失くすまでに研ぎ澄まされた刃のような剣呑な光が瞬く。
「……だが、何事にも『例外』を設ける事は出来る。そうだろう、『大錬金術師』?」
そうして彼は口の端に笑みを湛えたのだった。
蒼い街灯の無機質な光に半身を照らされたまま、全てを包む雨の奥で長身の孤影は暫し不動を保ち続ける。
あたかも、地表を縫い付けるように突き立てられた一本の細い針の如くに。
美香が居間へと通じる扉を開いてみれば、他の家族は既にテーブルを囲う各自の席に着いていた。父と母と、そして弟とが、卓上に並べられた料理へ箸を動かしながら会話を楽しんでいる最中であった。
テーブルを照らす暖色系の照明が、温もりのある光を歓談の場へ投げ掛ける。
少しして、美香も宛がわれた自分の席に腰を下ろしたのであった。
その美香の左隣で、弟の達也が生姜焼きを自分の皿に盛りながら安堵の声を漏らす。
「やーっぱ家で食べると安心するわぁ」
右脚の脹脛を未だ包帯で覆っていたが、達也は至って明るい様子を覗かせた。
向かいの席で、父の陽介が一笑した。
「何だ、急に老け込んだ事を抜かして。別にどっかの山寺へ修行に出てたんでもあるまいに」
「だって、やっぱし病院の中で飯食うのって緊張すんだもん」
達也は口先を尖らせた。
「それにさ、ああいう所で出される食事って不味くはないんだけど、何か当たり障りの無い味付けで割とすぐに飽きて来るって言うか……」
「あらあら、いつの間にやら贅沢になったのね」
美香の向かいで、母の里穂が、箸を動かす傍ら平淡に言葉を沿える。
「ただ、今は栄養のバランスには気を付けないとね。怪我も中々治らないでしょうし、取り分け野菜はしっかり取りなさい」
「はいはい」
そう答えると、達也は生姜焼きと米とを掻き込み出したのであった。
そんな家族の食事風景を、美香は静かに眺めていた。
暖かな照明に照らし出されて、今日も団欒の時は滞り無く過ぎて行く。
これが自分にとっての『当たり前』の有様で、恐らくは何処でも『当たり前』となるべき形なのだろう。
そんな『当たり前』の『日常』が失われてしまった、いや、ずっと以前に失われた家庭も実はすぐ身近にあったのだが。
箸を静かに下ろし、美香は手元の卓上へと目を落とした。
少女の耳の奥に小雨の紡ぐ微かな音が蘇り始めた。
「大丈夫そうです! 呼吸に問題はありません!」
屋上庭園の中程にて、巽は床に片膝を付いて自身の患者の様子を確認した。
彼は今、降り続く雨から庇うようにして、床に放置されていた少女、露崎美里の容体を確認していた。巽が抱え上げた先では死霊による影響か、美里は今も瞼を固く閉ざしてはいたが、面持ちからは心なしか険が取れたようであった。
その後ろからリウドルフが促す。
「ならばまず、低下した体温を戻さなければ。それでなくても無菌病棟へ速やかに戻した方がいいだろう。病室も変えなければならんな」
髑髏の面持ちを変化させる事も無く、リウドルフは巽の腕に抱かれた、死霊の戒めから解放された少女を見下ろしていた。
眼窩に灯った蒼い光が僅かに揺らめいた。
「院長には俺から説明しておく。そっちは取り敢えず、患者を空いている無菌室へ移しておいてくれ」
リウドルフがそこまで言った時、巽の傍らに影が差した。雨の中、巽が首を巡らせてみれば、同じ緑色の術衣を来た赤毛の女がいつの間にか隣に身を屈めていた。
驚く巽の隣で、アレグラは顔を雨に濡らしながら同僚へと笑い掛けた。
「んじゃ、早い所連れてってあげよっか? 温かいシャワーも浴びせてあげないとね」
「……え、ええ」
間近から促されて巽は戸惑ったように、流されるように首を上下させた。
うちにこんな人がいたっけか、と咄嗟に疑問を抱きながら、巽は同時に、相手のさり気無く放つ吸い込まれそうな眼差しに見惚れていたのであった。
そうして巽が美里を抱え上げ、アレグラと共に階下へ向かおうとした時、彼の背後から出し抜けに叫びが上がる。
「叔子……叔子! 叔子ーッ!!」
淡々と続く雨音を、悲痛な絶叫が数秒だけ掻き消した。
屋上庭園の端での事であった。
反射的にそちらの方を振り返った巽を、リウドルフが堅い口調で促す。
「……行け。後はこちらで引き受ける」
そう言って、彼は髑髏の顔を声の上がった方へと向けた。
屋上の縁を囲う鉄柵の前で、亮一は蹲っていた。
少し遅れて美香も同じ場所へ辿り着き、そして殆ど間を置かず、悲しげに目を細めたのであった。
崩れ落ちた妹の遺骸を、亮一は抱え起こしていた。
兄の腕に抱かれた叔子の体は、既に死人のそれと化していた。全身の肌は黄ばみ、唇からは彩りが失せ、雨に打たれる中でも皮膚は萎び始めているかのようである。
死後に相応の時間が経過したかのような、画然たる死者の有様であった。
自分が出会うずっと前からこの少女は死んでいたのだと、冷厳たる事実を美香は突き付けられた。たとえ亡霊の操り人形に過ぎなかったのだとしても、ほんの数分前まで彼女は目の前で確かに動き回っていた筈なのに。
小雨の中、立ち尽くす美香の斜め後ろに漆黒の孤影が近付いた。
「彼女は既に死んでいた」
諭すでも詫びるでもなく、ただ事実のみをリウドルフは告げた。
「如何にした所で、たとえ自然に反するものの手を借りた所で、死者を蘇らせる事だけは叶わない。これが現実だ」
頭上から言葉を遣した相手を、亮一は睨み上げた。
「……どうして」
妹の遺骸を抱えたまま、びしょ濡れになった顔から無数の雫を滴らせながら、少年は目の前に立つ黒き躯をきつく睨んだ。
「どうしてなんだ!? 叔子もあいつらもいなくなって、どうしてお前だけ!? お前も、お前だって、死人の仲間じゃないか!! どうしてお前だけが、どうしてそうやって平然と立ってられるんだよッ!?」
「ちょっと……!」
一言一言が割れたガラスを更に踏み砕いて行くような、あまりに刺々しい物言いに美香は咄嗟に何かを言い返そうとした。
しかし、その美香をリウドルフは骨だけとなった左手を掲げて制し、穏やかに言葉を続ける。
「……俺は『道』を外れてしまったからな」
そのまま、リウドルフは、眼窩に灯った蒼白い光を小刻みに揺らしながら答えた。
「人として、と言うより生き物として、或いは自然に在るものとして歩むべき一筋の『道』から遠い昔に逸れてしまった。何が原因であったのか、何故『俺』でなければならなかったのか、未だ定かには出来ないが……」
静かに降り続く小雨の中、闇色の衣を纏った痩身の孤影はじっと佇む。
「『生きる』事も『死ぬ』事も、万物に等しく課せられた『義務』であると同時に、分け隔て無く与えられた『権利』でもある。静かに眠るべきを他に利用され、肉体を晒し物にされて酷使されるのがその人に対する冒涜であるように、『死』と言う選択肢を奪われるのもまた同じく呪わしい事だ。自分でもどうしようもない事なら尚更に」
「だけど……だけど……!」
最早物言わぬ、微かな身動ぎすらせぬ、ただ冷たく成り行く妹の亡骸を抱いて、亮一は顔を大きく歪めた。今にも迸りそうになる何かを懸命に抑えるように、若しくは今にも崩れ落ちそうになる何かを必死に支えるように。
リウドルフは髑髏の顔をそんな相手へと静かに向けていた。
ややあって彼は穏やかに問い掛ける。
「……たとえ死霊の操り人形と化していても、家族にはこの世に留まっていて欲しかったのか?」
か細い音を重ねる雨だけが、その質問に答えた。
「寂しさは治らない。だが『寂しい』と感じられるのは大切な事だ。それすら失くしたのなら、さっきの奴らと同種の存在に成り下がってしまう。変えられない流れに対して、去って行った者を寂しさと言う形で心の何処かに残すのが、我々にとってのせめてもの抵抗なのかも知れん。生きると言う事が得る事と失う事の繰り返しであるのなら……」
闇色の衣を揺らす影の前で、少年は蹲ったまま黙って項垂れた。
そんな相手と彼が今も抱く少女の遺体を、美香は悲しげに見下ろした。
美香にとっては、『宮沢叔子』と言う人物を知る機会は初めから無かった事になる。だがリウドルフの言葉通り、あの死霊が宿主の家族すら騙す程に巧妙に擬態を熟していたのなら、あれがあの少女の生前の人となりとほぼ同じものであったのなら、きっと良い友達になれたに違い無い。
もっと早く別の形で出会えていれば。
美香が後悔にも似た感慨を寄せる先で、一人の少女の遺体は何を主張するでもなく、ただそこに在った。死後硬直すらも起こらず、逆に全身の筋肉が弛緩し始めているのか、全体の脱力具合が容易く見て取れた。真に生気の抜け切った体の中で、だが、その面持ちだけは不思議と微笑を浮かべているようにも見受けられたのだった。
それから、美香は今も静かに雨に打たれる亮一へと穏やかに声を掛ける。
「……ね? あたしらも中へ入ろう? 叔ちゃんを、そんな風にいつまでも雨に打たせてちゃいけないよ?」
勢いは徐々に弱まりつつあったが、それでも尚肌に纏わり付くような小雨は降り続いていた。
「……ね?」
後ろからそっと羽織りを掛けるように穏やかに美香は促した。
暫しの沈黙の末、亮一は妹の亡骸を背に負ってゆっくりと立ち上がった。
ふとした弾みにずり落ちそうになる叔子の体を、美香も横合いから支える。その際、掌から伝わる柔らかくも冷たい感触が、美香に冷厳たる事実を改めて教えたのであった。
表情を曇らせながら、美香はリウドルフを改めて見遣る。
「センセの方は大丈夫なの? 体?」
「ああ。奴らも墓穴を掘ったどころか、自ら墓穴に突っ込んで行ったようなものだ。自制の利かない連中には似合いの末路だろうが」
答えて、リウドルフは屋上を囲う柵の向こうに望む街の灯りに顔を向けた。
「市街には『餓鬼』がまだ残っているのかも知れんが、今更大した真似は出来ないだろう。元が天地の理に逆らってこの世に留まっている不自然な存在だ。憑代が朽ちればしがみ付いた魂魄もまた速やかにこの世から消え失せる。本体も消えた今、放っておいても遠からず消滅して行くだろう」
「へえ……」
相槌を打った後、美香はふと眉根を寄せた。
「……でも、さっき亡霊が消える間際に見えたのは……」
「あれなら問題無い。最後に引導を渡したのは味方だ」
「そうなの……」
遣されたのは実に端的な説明であったが、美香は一応の得心を覗かせた。
一方でリウドルフは傍らへと目を落とし、殆ど聞き取れない程の微かな声で付け加える。
「……今はな」
その彼の横を、叔子の体を背負った亮一が緩やかに通り過ぎて行った。屋上庭園の端から反対側に建つ小さな塔屋へと、少年は静かに歩を重ねて行く。濡れた体から足元へ幾つもの雫を点々と滴らせながら、彼は外に満ちる闇から遠ざかるように階下の灯りの方へと進んだ。
「……私と言う現象は、仮定された有機交流電燈の、一つの青い照明です……」
その最中、小雨の微かな音に隠れるように、小さな呟きが夜の暗がりへと漏れ出たのであった。
「……風景や皆と一緒に忙しく忙しく明滅しながら、如何にも確かに灯り続ける因果交流電燈の、一つの青い照明です……」
誰に聞き届けられる事も無い独白は、雨に溶けるようにしてすぐに消えて行った。
その後ろで、屋上庭園の端に佇むリウドルフは髑髏の顔を遠い街の灯に向けつつ、眼窩に灯る蒼白い眼光を僅かに揺らめかせる。
「……ただ、確かに記録されたこれらの景色は、記録されたその通りのこの景色で、それが虚無ならば虚無自身がこの通りで、ある程度までは皆に共通致します……」
小刻みに揺らぎ瞬きながらも変わらない街の『顔』を、表情の欠けた髑髏の『顔』がじっと見据えていた。
「……全てが私の中の皆であるように、皆の各々の中の全てですから……」
更け行く夜の中を雨は穏やかに降り続けた。
その雨の中で、長身の孤影が病院の横手から遥か頭上を見上げていた。
右手に傘を、そして左手には黒と白の長剣を握って、月影司は丸眼鏡の奥から針金のように細く硬い眼差しを頭上へと据えていたのであった。宵闇の深まり行く中、人も車も往来は絶え、病院から漏れ出る灯りだけが付近の暗闇を仄かに照らしていた。
バスターミナルの横手に一人佇む司は、少しして徐に口を開く。
「……『不条理』と『理不尽』が積み上げられて造られるのが『現世』か……」
そう独白した後、司は傘の角度を僅かに変え、今も屋上に佇む相手を見つめた。その瞳の奥に、厚みを失くすまでに研ぎ澄まされた刃のような剣呑な光が瞬く。
「……だが、何事にも『例外』を設ける事は出来る。そうだろう、『大錬金術師』?」
そうして彼は口の端に笑みを湛えたのだった。
蒼い街灯の無機質な光に半身を照らされたまま、全てを包む雨の奥で長身の孤影は暫し不動を保ち続ける。
あたかも、地表を縫い付けるように突き立てられた一本の細い針の如くに。
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