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またもリッチな夜でした

その24

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 宵闇を暗い空へと向けて、不気味な光が伸びていた。
 振り仰いだ頭上に伸びる黄色い光の柱を見つめつつ、美香は不安を強く表情に出していた。
 あるいは、虫から見た誘蛾灯の光とはこのようなものなのかも知れない。如何にも不穏で禍々まがまがしいながらも、不思議とそちらへと身を寄せたくなってしまう。
 それがこの世のものでは半ばないかのように。
 そして雨の降りしきるまにまに、死霊の発する笑い声が鳴り響いた。
『ははは、は、はは、ははははははは、はははははははははは』
『どどどうした、同同類?』
『そそそその有様は?』
 宮沢叔子であったものは、目の前で黄色い光の奔流に呑まれた黒い異形へと嘲りの念を浴びせ掛けた。
『死死死死死なずの者として失念したか、か?』
『それそれそれとも、自らを生者ひとと思い思い込んだが故の油断断か?』
『意識意識ばかり無無駄に高高いのも考え物だ、だぞ』
『我らは元々死したるむくろに宿る事事事こそ本領』
『おまおまお前のような、うごうごめむくろとて、れれ例外とはならなない』
『むしろ格好の憑代よりしろななのだ、お前お前お前は!』
 その時、嘲笑う『群体死霊ワイト・レギオン』の前で、黄色い光の覆いの中から一筋の声が差し挟まれる。
「……つまり、今から俺の意識をき消してこの体を奪う積もりでいると言う訳か」
『まままだ思念を練る力があるあるか』
『だだが、最早早身動きも取れ取れななかろう』
『もう遅遅そい』
 若干の緊張こそ孕ませこそすれ、慌てるでもなく問うたリウドルフへ、『群体死霊ワイト・レギオン』ははやし立てるように告げる。
『おおお前が如何に絶大な力を有し有していようともとも』
『それを自らからの内部、深部にまで及ぼす事は出来まい、いいい』
『そしてて、如何にした所でお前のお前の意識は一つきり!』
『対する我らは遥かに多勢なのだ!!』
 鞭を打ち付けるような思念に促されたか、光の柱を囲う無数の小動物のむくろから黄色い光が一斉に立ち昇った。
 自らも叔子の肉体から黄色い光をあふれ出させながら、『群体死霊ワイト・レギオン』は捉えた獲物へと近付いて行く。次の憑代よりしろとしていた美里の体をその場に起き、ずぶ濡れとなった少女の形をしたものは不浄の光の塊へと歩み寄った。
 周囲では小さなむくろ達から取り憑いていた死霊の断片が相次いで離れ、黄色い光の柱へ吸い込まれて行く。
 その様子を、美香は驚きと慄きにさいなまれながら眺めていた。
 光の柱の手前で、『叔子』は足を止めた。
『さささ散々、消えろだの何だの好き好き勝手な事とを抜かしてくれたな』
『だが、消えるのはのはお前だ、だだだ』
『お前の意識などなど造作も無く、跡形も無く消消し飛ばしてやるる』
『元よりり意識の奪い合いでで、我々にかなう者の在るはずが無い無い無い』
『我らを侮るなよ……!』
 よどんだ光の覆いの向こうから、リウドルフは冷ややかに言葉を返す。
「……呆れこそすれ侮った憶えは無いが。『マルコエヴァンゲリによるオム・ナー福音書・マーコス』の記述を信じるなら、意識としての戦力差は最大で二〇〇〇対一か……どう転んでも分の良い勝負ではない」
『その通り!!』
 『叔子』が目を大きく見開いた。
『おまお前は良いい傀儡くぐつになるるぞ』
『決してて朽ちぬ体と、何ものをも寄せ付けけぬ力ら』
『それそれを我我らが有効活用しててやろう』
『今今このの時を以って!!』
「そんな……!」
 雨の中、未だ自失のていで立ち尽くす亮一と状況を良く呑み込めずにたたずむ巽の間で、美香一人だけが事態のまずい推移に危機感を募らせていた。
 先程叔子の内部を注視した美香には、すぐそこに迫る脅威が実感として理解出来たのである。
 膨大な、実に膨大な数の思念の塊。
 それがあの黄色い光の正体であり本質でもあった。如何におぞましく、また忌避すべきたぐいの代物であれ、それが明確に牙を剥いて襲い掛かって来たのなら抗うすべは皆無に等しいのである。現に生身の感覚にいても圧迫感を受ける程の意識の奔流が屋上庭園の中央で、少女の目の前で唸りを上げていた。
 あんな『もの』を一斉に注ぎ込まれでもしたら人一人の意識などは一溜りも無く、魂すら容易たやすく消し飛ぶだろう。それが察せられたからこそ、美香は毛を逆立てる兎のように反応したのであった。
「駄目! 駄目だよ、センセ! 逃げてッ!!」
 美香がそう叫んで駆け寄ろうとした刹那、黄色い光の柱が一際強く輝き、そして消滅した。
 一瞬、辺りから音が消えた。
 光の柱の残像も消えた後には、元通り雨の中にたたずむ漆黒の骸骨の姿があるのみである。
 雨が勢いを弱めた。
「センセ……?」
 頬の先から水滴を転々と落としながら、美香が見開かれた瞳を、眼前の相手に向けていた。
 眼窩がんかに灯る蒼い光も消え果て、赤と白の細剣を力無く下げた骨だけの朽ちた肉体がそこに在った。かすかな動の気配も、確たる意志の光も失せた黒いむくろは、あたかも膨大な年月の果てに骨格以外の一切を削ぎ落されてしまったかのような様相すら呈していた。
 今や完全に無力化された同族の肉体を前にして、叔子の体に残った死霊は口の端を吊り上げて見せた。
 周囲では雨音が急速に小さくなって行く。
 横手に広がる花壇の奥で、植えられた小振りの糸杉の枝先から雨の雫が音も無くこぼれ落ちた。
 直後の事であった。
『ぎ』
 錆びた金属同士がきしみ合い、擦れ合うような耳障りな声が漆黒の体躯の奥底から漏れ出た。
『ぎぃぃえええええええええええええええええええええええええええッ!!』
『な、なな、何だ、ここれは、これは!?』
 突如として、耳を引き裂くような絶叫が雨音を押し退けて上がった。
 リウドルフの体より、骨だけのか細い体躯の内側より『群体死霊ワイト・レギオン』の苦悶の叫びが撒き散らされたのである。おびただしい驚愕と、そして紛いも無い恐怖に彩られた形無き絶叫であった。
!!』
『何も無い!! こいつのな中には何も無いいいいいいーッ!!』
『意識も!! 魂魄も!! 何処にも見当たらない!!』
『そそれに、あ、ああ、あの「向こう」にのぞいているのは……』
『あれあれは、あれれは、あれはっ……!?』
『あっ、あっ、ああああああああああああああああああああああああああッ!!』
『何なのだ、こいつは!? おお前は!? お前はぁぁぁあああ!?』
 敵の内部で恐慌に陥ったらしき分身が無数の絶叫を撒き散らす前で、叔子の体に残った『群体死霊ワイト・レギオン』の本体は、宿主しゅくしゅの表情を一転して大きく歪めさせたのだった。
 それと時を同じくして、リウドルフの眼窩がんかに蒼い光が再び灯った。頭蓋に空いた底知れぬ深い闇をたたえた二つの穴に、意思の光がまた輝いたのである。
「……どうした? もう手詰まりか?」
 自身の面前、そして内に潜む相手へと彼は姿勢を正すのと一緒に平然と問い掛けた。何のかげりも帯びていない、しかし少々物憂げな、嘆息のような声であった。
「真の『空洞』をのぞき込んだ気分はどうだった? 空っぽの器を満たすのが貴様らの取り得ではなかったのか? いい機会だ。ここで是非とも実践して見せろ」
『馬鹿馬鹿な……』
『どうした事だ、ここれは!?』
 再び平然と姿勢を直したリウドルフの前で、叔子の内に潜むものも、想定外の事態に狼狽を俄然露わにする。
「センセ……」
 一方、安堵を表すよりもむしろ不安げに、美香は見知ったはずの相手へと呼び掛けた。
 二人の少女が寄せるそれぞれの眼差しの先で、リウドルフは眼窩がんかの光を強く輝かせるや否や、身を覆う闇色の衣を激しく波打たせた。
「今更出て行けとは言わん!! 欠片も残さず吸い込まれてしまえ!! 『あちら側』へ!!」
 直後、雨音を重ね塗るようにして複数の高い音色が辺りに広がった。
『ここ、こここれは……!?』
 リウドルフの面前で、叔子の体に宿る『群体死霊ワイト・レギオン』が浮付いた声を漏らす。
『ここの声声声は……!?』
「この歌は……」
 美香もまた、思わず辺りを見回していたのだった。
 何処から流れて来るのかも定かでない、澄んだ声によって織り成される、この世のものならぬ程に鮮やかな、そしてはかない歌声。時に甘く、時に激しく、律動を潮騒のように刻々と変化させながら鳴り響くのは、かつて聞いたあの歌声であった。
「『終焉の聖歌アポカリプティシュ・プサイメン』……彷徨さまよえる御霊みたまを始原の『無』へと呼び戻せ!」
 そう告げたリウドルフの全身から、常世とこよの歌声はにじみ出ていたのであった。剥き出しとなった黒い骨格の内側、その更に奥深くから、彼の内なる場所で大いなる『何ものか』の声は鳴り響く。
「……綺麗な、声だな……」
 小雨の中、巽がぽつりと呟いた。
 それまで呆然と立ち尽くしていた亮一も、ふと顔を持ち上げる。
 『それ』は誰の意識も引かずにはおかない、不可思議な呼び声であった。一本一本が色合いを異にする絹糸のように無数の歌声が絡み合い、混じり合い、そしてまた離れ行きながら常世とこよの歌声は複雑精緻な模様を絶えず生み出しつつ残響も無く虚空へと消えて行く。
 不意にリウドルフの胸から、露わになった胸骨の隙間から、黄色く濁った光が爆ぜるように飛び出した。
『ぎゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああああッ!!』
『消える!! 消え消え消えるぅうう!!』
『我々が消えてしまうぅ!!』
『ほ、ほほ、本本本当に消消えてしまう!! あ、あああ跡形も無く!!』
『消えたくない!! 消えたくなぁぁぁいぃぃぃぃぃいいいいいいいッ!!』
 常世とこよはかなくも美しい歌声を、現世うつしよの濁った叫びがき消した。
 だがそれも束の間、リウドルフは自分の内部から湧いて出る死霊の塊に身動みじろぎもせず、手にした赤と白の細剣を掲げたのであった。
「……今は無に帰せ。いつか新たに生じる為に!」
 その宣告の後に、場に満ちる歌声は強さを一気に増したのだった。
 リウドルフが高く掲げた剣が暗闇の中で様々な光彩陸離を晒す度、あふれ出す常世とこよの歌声もまた千変万化の音色を解き放つ。時に囁きのようにか細く、時に朗々と激しく、形無き歌声は実体無き色彩で夜空の一角を染め上げたのであった。
 斬り掛かると言うよりは舞を示すように、リウドルフは細剣の切っ先を眼前の少女へと向ける。
 途端、宵闇にほとばしる歌声は一斉に、驚愕の表情を浮かべた『叔子』へと、その内に潜む者達へと向けて躍動した。
 体からにじみ出た黄色い光共々完全に気を呑まれた様相で、叔子の体に潜む『群体死霊ワイト・レギオン』はリウドルフに背中を向けると屋上の外側へ向けて一目散に逃げ出した。花壇の芝生を踏み付け、生けられた草木の枝先を蹴飛ばし、所々に転がる今や抜け殻と化した小動物の死体を蹴散らしながら、少女の体に巣食う最後の悪霊はひたぶるに逃げ惑った。
『違う違違う、ちち違う!!』
『こんな事が、こんな「もの」が、在るはずが無い!!』
『ここれはな何かの間違いだ!!』
「全く同感だ」
 表情の無い髑髏どくろの顔をわずかに上下させて、リウドルフは敵の言い分を頭から肯定した。
 しかる後、彼は手元の剣の切っ先に眼窩がんかから放たれる鋭い眼差しを乗せる。
りとて、数え切れない『不条理』と『理不尽』とが逐一かえりみられる間も無く積み上げられて出来上がったのが、我らの立つこの『現世うつしよ』と言う場所なのだ!! 貴様らもそこに根付いて他者に『不条理』を強いて来た以上、『理不尽』な最期ぐらいは渋々でも受け入れろ!!」
 遥か遠い街の灯を背にして降り続く小雨の間に、常世とこよの歌声は朗々と鳴り響く。それは遥けき彼方よりあふれ出す大いなる力の奔流であり、万象の還る先に満ちる無窮むきゅうの波動でもあった。
 初めから抗いようの無い力より尚も懸命に逃れようと、ずぶ濡れの小さな体躯は、だが程無くして屋上庭園の縁を覆う柵にまで追い詰められた。
『いい嫌、嫌だだ!!』
『消消消消え消え、消えたくななない!!』
『死にたくないいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいッ!!』
 聞く者の魂魄まで揺らすような絶叫の後、柵にしがみ付いた少女の体から黄色い光が抜け出した。苦悶と悲痛の形相を形作る大小様々の人面が浮かんだ汚れた魂の塊は、迫り来る黄泉へのいざないから逃れるべく憑代よりしろすらもかなぐり捨てて夜空へと飛翔したのであった。
 針のように細い雨の隙間を黄色いもやが逃げて行く。
 だが、ものの数秒も立たぬ内、夜の闇より突如として突き出された無数の剣先が宙を泳ぐ濁った光を四方から刺し貫いたのであった。
 出し抜けに起こった不可解な、しかしそれは確かな事実であった。
「え……?」
 その様子を仰ぎ見た美香が眉根を寄せて呟いた。
 彼女の前方でも、リウドルフが眼窩がんかに灯った蒼白い光をちらと揺らめかせた。
 両者の見上げる先で『群体死霊ワイト・レギオン』の残党は、夜空の一点で無数の刃に刺し貫かれたまま断末魔の呟きに似た念を漏出させる。
『いい、嫌だ……』
『死死死死に死にたくない……』
『死にたく、な……』
 輪郭を震わせながら尚も何処かへ逃れようと試みるよどんだ思念の塊を、雨の雫より再度現れた金氣の刃が今一度串刺しにした。
『死……』
 末期の呟きは、付近の空気すらまるで揺らさずに消え果てた。
 そして黄色い光は雨中で蒸発するように、速やかに消滅したのであった。
 数秒の間を置いて、降り続く雨の音がまた全てを覆い尽くした。
 一切を覆い隠し、流し去って行くように。
 あるいは全てをその宵闇の懐深くへと包み込むように。
 夜の雨はただ淡々と降り続いたのであった。
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