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またもリッチな夜でした

その8

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 梅雨の合間の晴れた空から、夏の気配を逸早くまとわせた日差しが降り注ぐ。
 見つめているだけでもじんわりと汗のにじみそうな日差しの下で、今日も御簾嘉戸みすかと二区高校の教室の一つでは、意気に大幅に欠ける声が漂っていた。
「ダイヤモンドが炭の一種だってのは有名な話だけども、これを専門用語で同位体と言うのよ。んで、あのキラキラしたダイヤと真っ黒な炭との間に何の違いがあるかってーと、前にも言った価電子、こーれが関係して来る訳ね」
 教壇に昇ったリウドルフはいつもと変わらずしわだらけの小汚い白衣をまとい、強さを増す外の日差しとは正反対の気勢のはなはだ乏しい声で試験前の最後の授業を行なっていた。
「よーするにダイヤモンドは外側の電子四個を全部使って、他の炭素原子とがーっちり結合してる訳よ、がーっちり。もー、お互いに手四つみたいな感じで、ぐあーってね。その為、原子同士がサイコロみたいな正四面体を何処までーも形作る事となり非常に硬くなる。一方、皆のシャーペンの芯に使われてる黒鉛は、こいつは結合に使う価電子を一つ余らせて、三つだけで結合してる訳。言わば手ェ抜いた状態で互いにしがみ付いてるもんだから、硬さではダイヤに大きく劣る。たかが一個の価電子を使わなかったってだけでね」
 自分の席に座って、美香は黒板に書かれた内容とリウドルフの発言とをノートに手早く書き写していた。
 期末試験前と言う事もあって、リウドルフの力の抜けた声が漂う教室内の空気は、それでも粛としたものであった。もっともこの教師特有の絶妙な力の抜け具合が、ものを覚えるにはむしろ都合が良いとの評判があるのも事実である。理数系の友人に言わせれば、ぬるま湯が胃から全身へ即座に染み渡るように、と言う感覚であるらしいが、美香にとっては、全身に染み渡る前に矢継ぎ早に注がれる煮え湯を口から絶えずあふれ出させているような感覚であった。
 やっぱり相性悪いのかなぁ、と美香が内心で愚痴をこぼす前で、リウドルフは少女一人の胸の内なぞ露知らずの様相で、飄々と授業を進めて行った。
 窓辺のカーテンを透かす日差しが少し勢いを落とした頃、リウドルフは机の上で教科書を閉ざした。
「はい。では一学期の授業はここまでー。後は各自テストに備えとくようにねー」
 授業の終わりを締める号令が掛かった後、教室内は途端にざわめきに包まれた。
 リウドルフも去った後、美香は浮かない面持ちで教科書を片付けていたが、その彼女の横手にふと影が差した。
 美香が顔を上げて見れば、机の右手に亮一が立っていた。
「や、どーも」
 癖毛をわずかに揺らして片手を上げた亮一を、美香は億劫そうに見上げた。
 カーテンを透かして入り込む日差しの影響か、相手の表情は一層明るく見えた。目元を快活に広げ、口には嫌味にならない微笑をたたえて、亮一は席に座った美香を見つめていた。
 銘々に教室を出入りし、歓声の絶え間無く続く教室では目立つ程でもない声で、亮一は美香へと話し掛ける。
「さっきの先生ってさ、病院にもいたあの人だよね?」
 訊ねながら、亮一はリウドルフのすでに去った出入口へ首を巡らせた。
「何か凄くない? 医者と教師を一緒にやってんの、あの人? いや、凄いでしょ、これって?」
 亮一は戸口の方へ視線を向けたままはしゃいだ声を上げた後、美香の方へと顔を向け直す。
「先生だけに先生もやってんだ。面白おもしれぇ。てか皆は知ってる訳、この事?」
「いや、知らないと思うよ。少なくとも生徒の側はね」
 三時限目の科目である現代文の教科書を机から取り出しつつ、美香は答えた。
 次いで美香は机の木目の一点に、やおら眼差しを固定する。
 そう、恐らく、あの人の裏の顔まで熟知しているのは、校内では月影司只一人なのだろう。先月の一件の際には、互いに随分と親密そうな関係をのぞかせていた。
 あの時は詳しく聞き出せなかったが、うちの担任は担任で、一体どういう来歴の持ち主なのだろうか。
 かすかに小首をかしげる美香の横で、亮一は目元をふと持ち上げる。
「でもさ、あの先生、あんな変な喋り方してたっけ? 病院で見掛けた時は、普通に喋ってた気がすんだけど。あがり症とか?」
「そうじゃないだろうけど……大体人の事言えるの?」
 相手のからかうような口調に対し、反射的にむっとした表情を浮かべて美香は切り返した。
「そっちこそ、もっと普通に喋ればいいんじゃない?」
 そうして、彼女はかたわらにたたずむ亮一を改めて見つめる。
「……叔子としこちゃんの前で喋ってたみたいに」
 美香に指摘された途端、亮一も面持ちをにわかに硬くしたのであった。
 相手の微妙な変化を視界に収めながら、美香はその前面に先週末の景色を重ね合わせる。
 今日と同じように日差しの照らしていたあの日、美香は開かれた個室の敷居をまたいだのであった。
 ほぼ立方体の間取りの病室は清潔そのものであり、廊下と同じベージュの色彩によってのみ構成された簡素な空間であった。窓から差し込む昼の光と相まって、まるで影の無い小世界がそこには広がっていた。
 透明な宝石が一面に敷き詰められたような、輝きと静けさに満ちた小さな鳥籠。
 そんな感慨すら訪れた者に抱かせる程の、そこは隔離された『聖域』であった。
 個室の戸口近くにたたずむ美香の前で、先行した亮一が部屋の奥で足を止める。即ち、窓辺に置かれた医療用ベッドの前で。
「お帰りなさい、兄さん」
 軽やかな、そして柔らかな声が、光あふれる個室に放たれた。さながら、澄んだ水底から立ち昇った泡が弾けるように。
 亮一の後を追って室内に入った美香も、すぐに声の主と顔を合わせた。
 斜めに起こされたベッドに背を預けて、新たに近付いて来た美香を見つめるのは一人の少女であった。つややかな黒髪を肩の辺りで揃え、未だ丸みの残る顔にわずかな驚きと好奇を乗せて病室の主たる少女は美香を見上げていた。
 一見した所、歳の頃は達也と同じか、一つ二つ下であろうか。
 となれば、中学には上がっている年頃のはずである。
 確かに容貌の中には何処か大人びた部分も散見されるが、大まかな顔形は子供のそれと大差は無い。もっとも亮一がそうであるように、彼女もまた童顔の顔立ちであるのかも知れないが。
 咄嗟とっさにあれこれと勘繰りつつも、美香は少女へと挨拶した。
「初めまして。どうも御邪魔します。青柳美香です」
 途端、病床の少女もぱっと顔を明るくして、突然の来客へと挨拶を返す。
「初めまして! 兄さんのお友達の方ですか?」
 年頃相応の好奇心をあふれさせる妹の横で、亮一が困ったような笑顔を浮かべた。
「う、うん……まあ、そうだね……」
「え、ええ……まあ、友達、だね」
 先方の家族の手前、相手の相槌に合わせる形で美香もいささか歯切れ悪く肯定した。
 それからすぐに、亮一はベッドの妹を指し示す。
「……その、こっちが妹の叔子です。ほら」
宮沢叔子みやざわとしこです。よろしく」
 兄に促されて、ベッドの上から叔子は美香へと会釈したのだった。
 病院で寝ているのが少し不思議な程の、溌溂はつらつとしたかげりの無い所作であった。
 美香も相手につられて頭を下げる。
「こちらこそよろしく。お兄さんと同じクラスに通ってます。今日は偶々たまたま病院ここで鉢合わせしたんだけども……」
「えっ!? じゃ、同じクラスのお友達なんですか!?」
 驚いて見せた後、叔子はかたわらの兄の方へと首を巡らせた。
「良かった。兄さん、昔から友達を作るのが下手だったから。転校してすぐ友達を作れるなんてラッキーだったね」
 そう言って叔子が笑顔をのぞかせる先で、亮一はばつの悪そうな微笑を浮かべる。
「ま、まあ、そこまで付き合いが悪い訳じゃないよ、俺だって……そんな、小学生の頃じゃないんだからさ……」
「でも、昔はよく学校から泣いて帰って来てたじゃない。部屋でずっと独りぼっちでいたりして」
「だから、それはずっと昔の話だよ」
 妹からの無邪気な指摘に亮一は益々ますます困惑を広げつつ、少々むきになって言葉を返した。
 そうした遣り取りを、部屋の戸口を背にして美香は半ば流されるままに眺めていた。
 誰しも外向きの顔と内向きの顔とを持っているものである。ましてこの場合、学校でのぞかせていたうるさいまでの快活な顔とはまるで正反対の、何処かもじもじした及び腰の姿勢が美香に戸惑いを感じさせるまでの強い印象を与えていたのであった。
 その美香へと、亮一は微妙に硬い笑顔を向けて説明する。
「や、まあ、その御覧の通り、妹は昔からせりがちなもんで……昔から病院に出たり入ったりを繰り返してて、今もこうして入院してる訳で……」
「いや、結構お元気そうじゃないですか」
 美香が笑顔を返しながら言うと、病床から叔子が一礼を遣した。
「有難う御座います。こうして、わざわざ御見舞に来て頂いて」
「いえいえ、うちも馬鹿な弟が今入院してるもんですから」
 相手の調子に合わせて、美香も朗らかに答えた。
「そうなんですか?」
「そうそう。脚の怪我で。いや、大した事は無いんだけどね。て言うか、良い機会だからもっと痛い目を見ときゃ良かったのに」
 純粋に興味深そうに訊ねて来た叔子へ、美香はいく分砕けた口調で説明する。
「ほんとにねぇ、人間、病床に着くと誰でも聖人みたいになるとか言うけど、うちのなんか元々が横着で我儘わがままだから余計に酷くなってね。自分が動けないのを良い事に人を顎先で使ってばっかりで、まーったく身内を何だと思ってんだか」
 一切の忌憚きたん無く愚痴を漏らした美香の斜交いで、亮一が対応に困ったように目を逸らした。
 他方、美香は先程から明るい面持ちを保っている叔子の様子に気を良くして、またこれまでの鬱憤の裏返しもあってつらつらと言葉を並べて行く。
 そして病室の窓からのぞく太陽が西の空に大分傾いた時には、美香は個室の主と随分と打ち解けていたのであった。
 ベッドの端に腰を下ろして、美香は叔子と他愛も無いお喋りに興じる。病床に身を置く少女も、病室に家族や病院関係者が訪ねて来る事が珍しいのか、相手の様子が単純に面白いのか、些細な話題にも大きな反応をのぞかせた。
 潮騒のようにいつまでも続く、その様子を、亮一はベッドのかたわらから静かに眺め遣っていたのであった。優しげに、そして何処か所在無さそうに、兄である少年は妹の横顔へ、ただ穏やかな眼差しを送り続けた。
 窓から差し込む日差しは、徐々に黄味を帯び始めていた。
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