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またもリッチな夜でした

その7

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 その日も、窓の外に広がる景色は何処までも雨模様であった。
 ベージュの床と壁と天井が何処までも続く市立病院の一画にて、ガラス一枚を隔てた外の鬱屈とした様子をしばし仰ぎ見てから、巽泰彦たつみやすひこはまた歩き出した。緑色の術衣スクラブを着込み、小脇にタブレット端末を抱えて進む姿はベージュの景色の奥へ奥へと吸い込まれるかのようである。
 頭髪を綺麗に分けて整えアンダーリムの眼鏡を掛けた巽は、人通りの乏しい静かな廊下を無言で歩いて行く。
 午後を大分回った病棟は、内も外も様相の大した変化をのぞかせなかった。外来の受付もすでに終わり入院患者の面会時間に入っていたが、何処の病室もその前を通り過ぎる限りでは至って静かなものであった。
 坂の上に広がる閑静な住宅街、小雨の降りしきる中でそこに鎮座する市立病院もまた内外に静けさをたたえていた。
 少なくとも、この時点では。
「何だか物騒ですねぇ」
「そうそう。場所が近いだけにねぇ」
「だけど、あれでしょ? 別に薬の類はやっていなかったんでしょ?」
 そして今、すぐ隣から流れて来る看護師達の声を、巽はいささか億劫そうに聞き流していたのだった。
 病院の西棟三階に置かれた食堂での事である。
 すでに午後三時を回った頃、一般的な昼食の時間からは大きくずれていたが、巽と同じく病棟業務に一区切りの付いた看護師や医療事務員達が窓辺の席を埋めており、外の空模様とは対照的な調子で話に花を咲かせていた。
「何処だったっけ? 市内のIT企業に勤めてる人だったんでしょ? よっぽどの激務だったのかしら?」
「SEはキツいって昔から言うものねぇ。体は動かしてなくても気は張り詰めっ放しで、そりゃ遅くに帰る頃には集中力も途切れてるのかも……」
「でも、だからって事故は起こさないで貰いたいものよねぇ。運転中に意識を失って路肩にぶつかるなんて……もう少し早い時間帯での事だったら運転手一人が大怪我するだけじゃ済まなかったでしょうね」
 六人が座れるテーブルの一つに陣取り、四人の女達が遅い昼食を取るまにまに歓談を続けている。時刻が時刻故か食堂内に他に人影は見当たらず、会話も自然とはかどるようだった。
 どうやら昨晩に町内で起きた交通事故の話題で、彼女らは盛り上がっているらしい。
 眼鏡の端から同じ席の様子を他人事のように垣間見つつ、巽は蕎麦そばすすった。これと言って味も香りも腰も無い、その癖、歯に絡み付くような独特のぬめりと粘り気のある、いつも通りの蕎麦そばであった。
 それを作業的に飲み下しながら、巽はぼんやりと考える。
 間が悪い、と言う言葉はこうした状況を指すのであろうか。
 巽が食堂の敷居を丁度ちょうどまたいだその時に、窓辺のこの席に着いていた看護師の一人が彼の姿に気付いたのである。後は緩やかながらも決して抗えぬ流れに従わざるを得ず、こうして彼女らの席の端に腰を落ち着ける運びとなったのだった。
 外来の診察に病棟業務と、兎角見たり聞いたり話したりを延々と繰り返して来た手前、食事の時ぐらいはそれのみに没頭したい所であったが、そうも行かぬのが世の常であるようだった。
 とまれ、これも職務の一環なのだと巽は自身に言い聞かせた。
 際限無く繰り返される日常の中では些細な事ではあろうが、こういう場面で素気無い態度を取れば、以降の業務に確実にね返って来る。相互信頼が絶対条件となる職場にいては小さな愛想を振り撒き続ける事が後の実りに繋がるのである。
 とは言え、巽自身はこうした井戸端会議に加わる事が、昔からどうにも不得手なのであった。
 巽は周囲に気付かれないよう緩やかに鼻息をついた。
 別にグループ内で上手くコミュニケーションを取る事が出来ないと言う訳ではない。そうではなく、恣意しい的に選抜された訳でもない雑然とした集団の中に置かれ、ある意味混沌とした状態で止め無く続く雑談の中で出し抜けに意見を述べると言う事が、どうしてもままならないのである。
 事実、席の端に着いてから、巽はずっと聞き役に回っていたのであった。
 これまでも、ずっとそうだった。
『きっと副交感神経が働き過ぎてんだろ。アドレナリンをもっとしぼり出せよ。色々楽しくなって来るから』
 大学時代の仲間達は皆笑いながらそうからかったものだが、巽本人にしてみれば何の足しにもなりはしない。
 鼻息を一つついて、巽はうなじいた。
 散髪に行ったのが一月ひとつき程前なので、後ろ髪が大分伸びている。ぼつぼつ床屋へ行かなければならないが、これであと二度も散髪を済ませた頃には三十二回目の誕生日が訪れる。同期の仲間達は各自の記念日を祝ってくれる家族を持つ者も徐々に増えている中で、自分はくだんの性分のお陰で未だに独り身である。
 医師仲間と共に合コンに出向いてみた事も幾度いくどかある。
 しかるに現状と同じく、見ず知らずの集団の中に突然据え置かれ、その中で弾んだ会話や気の利いた受け答えを発する事が、巽には中々に如意ならぬのである。
 会議や説明会のように、きちんと指名を受けた上で毅然と意見を述べるのならば何の問題も生じないと言うのに。
 ひょっとすると俺の交感神経は役所仕事をしているのかも知れないな。
 依然として歓談を続ける同僚の脇で、巽は眼鏡を直した。
 天井の照明の白い光を窓辺に置かれた観葉植物が照り返していた。
 巽が適度に相槌を打ちながら、ざる蕎麦そばと天麩羅のセットを食べ終えようとした頃、斜交いに座った壮年の女性事務員が不意に彼へと顔を向けた。
「ところで、巽先生はクリスタラー先生とは話した事がありますか?」
 出し抜けに訊ねられ、折悪しく茶をすすっていた巽はにわかにむせ返りそうになった。
 二呼吸の間を置いて、巽は好奇の眼差しと共に質問を遣した事務員へと顔を向ける。
「……え、ええと、どなたとですか?」
「クリスタラー先生。フルネームは忘れちゃったけど、二三か月ぐらい前からうちの病院に顔を見せるようになった外国の先生ですよ。ドイツからいらしたんでしたっけ? ほら、言葉も凄い上手で、痩せた感じの人……」
「ああ……」
 促されて、巽は視線をちらと脇へと逸らす。
 確かに言われてみれば、少し前から廊下で見慣れない人物を目に留める機会が増えたような気がする。こちらと同じ緑色の術衣スクラブを来た、妙に細身の人物であった。医者の不養生かどうかは知る由も無いが、あんな見るからに不健康そうな体付きで病院の激務がこなせるのだろうか、と遠目からいぶかった事を巽は思い出した。
 回想していた巽の左隣に座った若い女性看護師が、弾んだ口調で口を挟む。
「でもでも、凄いらしいですよ、あの人。こないだ内、伊東さんが褒めてましたよ。食道癌の手術に同席したそうなんですけど、リンパの郭清かくせいから食道の摘出、胃管の再建まで凄い手際良くやって、手術自体も六時間ちょいで終わらせたらしくて、それも当人は朝方からほぼぶっ通しで作業してたのに汗もかいてなかったとか……」
「へえ!? あんな細いなりしてるのにねぇ……」
 巽の斜め前で、壮年の女性事務員がおどけるように目を丸くした。
 一方で、巽は茶をすすりながら平淡に言う。
「まあ、私は内科医ですから、その辺りの凄さと言うのは良く判りませんがね……」
「でも、あの人、ここへ正式に勤めてるって訳じゃないんでしょ?」
「みたいですね。御見掛けするのは専ら夜間か休日ですし、何処からか特別に入って貰って事なんでしょうか?」
「頼りになる助っ人って所なのかしらね。結構な話じゃない。ただでさえ人手が足りないんだから」
 冷めた表情を浮かべる巽を置いて、周囲の女達は会話に再び熱を込めて行く。
「気になると言えば、一緒に連れてる若い女の人……ええと、ジグ何とかさんて言ったっけ?」
「ああ、あの赤毛のグラマーな人」
「どういう関係なのかしらね? お弟子さん? それとも娘さん?」
「もしかして奥さんとか?」
「それにしちゃ歳が離れ過ぎてるんじゃない?」
「いやいやいや、好意を寄せ合えば歳の差なんて……」
 尚も続く女性同士の談話の外で、巽はテーブルに頬杖を付いて疲れた眼光を瞳に乗せていた。
 それから、彼は肩越しに窓の方へ顔を向ける。
 外では雨が降り続き、大き目の窓ガラスには大小様々な雨粒が雑な細工物のようにまとわり付いていた。今週中はぐずついた天気が続くとの予報を、巽はふと思い返した。
 雨は周囲の景色を霞ませて、ただ淡々と降り続いた。

 そしてその夜、巽は話題の人物と院内の廊下で実際に対面したのであった。
 遠目からでも一目で異端であると察せられる、よれよれのくたびれたスーツに身を包んだ痩身の男であった。
 夜も七時の半ばを回り、面会者も粗方帰った頃では院内にたたずむその姿からは少なからず違和感がにじみ出ている。初めから整える気のまるで無さそうな乱れ放題の金髪が天井の照明に照り返り、一対の碧眼がこちらに向けられている。
 巽が集中治療室を後にした直後の事であった。
 この時、巽が咄嗟とっさいぶかったのは、余所者の医師の姿を廊下に認めた事実の他にもう一つ別の理由があったのだった。例の細身の外国人医師の横に付き添っているのが、他ならぬこの病院の院長であった為である。
 御簾嘉戸みすかと市立点綴てんてい病院院長、山田治やまだおさむ
 確か、先月に還暦を迎えたと言っていただろうか。隣に立つ痩せこけた外国人とは対照的に丸々とした体型を術衣スクラブ越しにのぞかせ、如何にも好々爺然とした面持ちで相手と何やら親しげに言葉を交わしながら廊下を共に歩いている。
 怪訝けげんな面持ちを浮かべた巽の前方で、山田は隣を歩くリウドルフへと説明する。
「正に噂をすれば影ですな。彼が今話していた巽ですよ」
「ほう……」
 促され、リウドルフも集中治療室の前から歩き出した若手医師を見つめた。
「……彼がそのホープですか。成程なるほど、いい目付きをしている」
 リウドルフが首肯しゅこうした矢先、巽が彼のすぐ横にまで近付いたのだった。
 そのままかたわらを通り過ぎようとする巽へ、擦れ違いざまに山田が呼び掛ける。
「お疲れ、巽君。上がりかね?」
 問われた巽は、足を止めるのと一緒に、しかめた顔を上司へと向けた。
「いいえ。生憎と報告書がまだ上がってません。医局会グラカン(※グランドカンファレンス。所属科、時には病院全体の人員が集まって行なわれる大規模な会議)が長引いたんですよ。今しがたICUの記録を確認した所です」
「それはそれは。忙しい所を間が悪かったかね」
 全くだ、と内心で悪態を吐いた巽の横で、山田は体躯と同様の丸みを帯びた顔に人の良さそうな笑みを浮かべて言葉を続ける。
「しかし慌ただしい所へ突然で恐縮なんだが、何分にも良い機会なのでね。今ちょっとだけ、そう、ほんの少しだけ時間を取らせてはくれないか?」
 そう言ってから、山田はかたわらのリウドルフへ片手を差し出した。
「君にも是非こちらの方を紹介しておきたい。他は休日の昼食会なんかで顔を合わせているんだが、君だけはどうにも都合が付けられなくて」
「済みませんね、こちらも色々忙しくて」
 巽は不機嫌の色を濃くして言うと、山田の横手にたたずむリウドルフへ、ちらと眼差しを寄せる。
「……で、そちらの方が?」
「リウドルフ・クリスタラーです。よろしく」
 外国人とあまり係わった事の無い巽にとっては、いっそ不自然に聞こえる程の流暢な日本語で、その男は挨拶を遣すと共に右手を差し出して来た。一瞬躊躇ちゅうちょした後、巽は先方の手に自分の右手を重ねた。
 ひんやりとした、細い手だった。
 この季節になって冷え性でもあるまいに、慢性的に血行が悪いのだろうか。
「巽泰彦です。血液内科に所属しています」
 集中治療室と一般病棟を繋ぐ廊下の中程で交わされた握手は数秒後に解かれた。何処か釈然としない気持ちで手を戻すと、巽は今もこちらを見つめるリウドルフを改めて視界に収めた。
 改めて間近で観察すれば実に不健康そうな容姿の男である。頬も顎先も骨のラインがはっきりと確認出来て、病院内をくまなく照らす照明の下では尚更それは生気に乏しい顔形に見えるのだった。
 何だか、作り物みたいな顔だな。
 眼鏡の奥でまぶたをぴくりと動かした巽の斜交いから、山田が紹介を始める。
「半年程前からうちで不定期に働いて貰っている。主に夜間の救急救命センターでだがね。最近では休日にも助っ人に来て下さっている。専門は一般外科だそうだ」
「お声を掛けて頂ければ何処へでも出向きますよ。リウマチ科でも脳神経外科でも産婦人科でも泌尿器科でも」
 リウドルフが威張るでもなく、むしろ慎ましやかに言葉を添えた。
「頼もしい限りですね」
 その向かいで、巽は他人事のように評した。
 ジョークを言う時ぐらい少しはにこりとしたらどうだ?、と呆れつつも巽は院長の方へ首を巡らせる。
「それで、以降は私にも御指導を賜って頂けると?」
「お望みとあらば」
 またも平淡な口調でリウドルフが答えた。
 山田がいささか困ったように口先を尖らせた横で、だが、リウドルフはふと息をついて見せる。
「……とは言え、私も人の職場に割り込んでまで先輩面をする積もりはありません。ま、この先、急患対応などで協力する場面も出て来るでしょうから、一先ずお見知り置きを、と言う所です」
 そう言ってこちらを値踏みするように見つめる痩身の男の眼差しを、巽はじっと堪えこらえて受け止めていた。多少は距離を隔てているにもかかわらず、何とも言えない居心地の悪さを巽は覚えざるを得なかったのである。
 事実、『得体の知れない』と言う言葉がこれ程似合う手合いも珍しいのではなかろうか。
 院内にける余所者の外国人であると言う点を差し引いても、この相手が絶えずにじませる空気、あるいは気配のようなものは巽の精神の表層を奇妙に毛羽立たせるのだった。
 顔同様に作り物めいた、胡散臭さすらまとわせる碧い双眸そうぼう
 しかるに、そこから漏れ出る眼光には抜き身の剣に布をまとわせたような強靭さが確かに含まれていた。
 押しの強さこそ帯びてはいるが、相手をさいなむような鋭さは抑えられている。ただしそれは意図して抑えられていると言うだけであって、当人が望めば容易たやすく相手の認識を打ち砕けるような剣呑さも内には秘められているように巽には察せられたのであった。
 蛇に睨まれた蛙と言う表現が、この場合は最も適切であるかも知れない。
 妙なぎこちなさを帯び始めた場の空気に気付いてか気付かずか、横から山田が合いの手を入れる。
「まあ、お互い職務の最中にいつまでも立ち話を続けるのも何ですな。いずれ改めて一席設けるとしましょう」
 そう言うと、山田は実に機嫌が良さそうな笑顔を部下へと向けた。
「巽君、時間を取らせてしまったね。報告書の作成に戻ってくれ。今日の所は取りえず簡単な御挨拶だけと言う事で」
「はい……」
 第三者に横合いから促されて初めて、巽は自分が緊張していた事に気が付いた。はっきりと威圧を寄せられた訳でもないのに、眼前に立つ如何にも頼りない外国人にいつの間にか気圧されていたのである。
 その事実に対する驚きと若干の悔しさも交えて、巽は先程の山田の言葉で引っ掛かった点をリウドルフへぶつける。
「……そちらも、今時分に職務で来られたのですか?」
「ええ」
 リウドルフは至って流暢に首肯しゅこうした。
「先日、食道再建手術を施した患者の経過を確認しに。縫合に問題は無さそうでしたが、術後の肺炎の心配はどうしても付きまとうので」
 先刻垣間見せた気迫など片鱗も残さず吹き流してしまったかのような、飄々たる言い草であった。
「では、また」
 簡潔に別れを告げて集中治療室の方へ歩き出した男の小さな背中を、巽はしばしじっと見送っていた。
 煌々こうこうと灯る照明の下で、険しい表情を浮かべながら。
 何故だろう。
 何故だかは判らないが、『あいつ』には必要以上に近付くべきではない。
 ベージュ色の廊下の中程で立ち止まる若手医師の見遣る先で、余所者の貧相な背中は集中治療室の扉の向こうへ程無く消えて行った。
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