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またもリッチな夜でした
その4
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エレベーターを下りてすぐの場所は、壁に広い窓を配した小さな展望スペースのような間取りとなっていた。
梅雨の切れ目の、まして午後の眩い日差しが照らし出す景色は実に鮮やかなものであった。
元々が坂の上に建つ病院である。建物内の高所から望む景色は遠方まで良く見渡す事が叶い、傾斜に沿って建ち並ぶ諸々の民家から、駅前の商店街に掲げられた大小様々の看板の数々、それらを貫くようにして水平に伸びる高架までを容易に一望する事が出来た。
「思えば遠くへ来たもんだ……」
通り掛かる人の姿が認められないのを良い事に、美香は窓辺に佇んでぽつりと呟いた。
先月に自分が入院した別の市立病院は宅地に隣接して建てられた所であった故、尚更細部の差異が意識を引くように感じられた。
そもそもは結核の療養を目的として建てられた病院であったと言う。
その為なのか、市街の中心を離れ、むしろ自ら孤高を保とうとするかのように郊外に聳える建物は内部も悠然とした間取りが多く、訪れた者に格別大きな緊張感などは抱かせなかったのであった。
「正に白い巨塔か……」
独白した後、美香は肩に掛けたバッグを担ぎ直すと窓辺を後にする。エレベーター前から右手に少し歩いた所に、廊下と一般病棟を仕切るガラス戸が設えられていた。ドアの前に置かれた消毒液で手を洗い、そして美香は病棟へと足を踏み入れたのだった。
病棟に入ってしまえば最早他の病院と何がどう異なる訳でもない。昼食や外来の時間も過ぎ、静かなばかりの廊下を暫し進んだ後、美香は足を止めた。
四〇二とのプレートが掲げられた一室の前での事である。
病室の手前で美香は一度深く息を吸うと、その敷居を跨いだのであった。
「あっ、姉ちゃん!」
「おう、生きてたか、コラ」
こちらに気付くまでベッドに仰向けに寝たまま漫画を呼んでいた弟へと、美香は実にぞんざいな口調で挨拶を遣した。六つのベッドが並べられた病室の、出入口のすぐ右手の壁際に、青柳達也様とネームプレートの掛けられたベッドは置かれていたのであった。
そのベッドの主は仕切りのカーテンを除けて入って来た姉の姿を認めるなり、緩々と上体を起こす。
「あれ? 何? 姉ちゃん一人で来たの?」
「父さんは仲間とゴルフ、母さんは料理教室の発表会。土曜は皆忙しいんだってさ。御陰であたしが皺寄せのパシリだ」
実に億劫そうに言いながら、美香は肩に担いで来たバッグをベッドの端の方に下ろした。
その最中、彼女は弟の容体にちらと目を向ける。
パジャマ姿でベッドに身を起こした達也の右脚には、脹脛を覆うように包帯が巻かれていた。患部を固定する程でもないのだろう。他にこれと言った異常も見受けられない。
十四の誕生日も近い達也は、体格も徐々に大人びた所を覗かせるようになっており、ベッドに対して体が小さく見えると言う事も無かった。誰しも気付かぬ所で日々成長しているらしい。
弟の容体を大雑把に確認した後、美香はやおら眉根を寄せて見せた。
「まあ、大事無さそうで良かったけど……肉離れだっけ?」
「そうそう。程度の軽い奴」
「ふーん……雨の日の屋内練習で肉離れねぇ……」
ベッドの傍らから何やら含みのある冷めた眼差しを遣して来る姉に、達也も細めた目を向け返す。
「何だよ……それだけ熱心にトレーニングしてたって事なんだよ。んな、鍛え方が足りないみたいな目ェ向けて……」
「いや別に鍛え方がどうとかなんて一言も言ってないじゃん。ただ他の友達も同じ練習してる中で、一人だけ怪我するってのもどうなのかなー、って思っただけで」
「同じ事じゃねえかよ!」
終始冷ややかに指摘した姉へ不満を露わにした後、達也はベッドに伸ばした右脚へと視線を這わせた。
「大体、俺今すげー不安になってんだぜ? この分だと夏の大会、出れるかどうか怪しくなって来てるから。幾ら軽傷だって言われてもさ……」
声を少し沈ませた弟へと、美香は多少の憐憫を乗せた眼差しを送った。
中学の部活動も二年目、体格も体力も備わって来た頃であれば、試合に抜擢される機会も増え始めるのだろう。美香はこれまで弟の試合の様子はあまり目にした事が無かったのだが、それなりの自負や期待を抱くに至るまでの成長を既に遂げていたと言う事であろうか。
こっちが出来なかった事をすんなりやってのけられるってのも面白くないなぁ、と美香は思うのと一緒に、眼差しに先程とは幾分異なる冷たさを纏わせて実弟の有様を凝視した。
とまれ、肉親の不幸に際しては支えとなるのが人として取るべき姿勢ではある。
そう結論付けてから、美香は自分がここまで担いで来た荷物へと目を移した。
「そんで、これ母さんからの差し入れね」
言いながら、美香はベッドの端に置いたバッグを開いて行く。
途端、達也も表情を明るいものへぱっと切り替えて、姉の持ち込んだ荷物を覗き込んだのであった。
「え!? 何何!? ケーキ!? 漫画!?」
テメーの頭にゃその二択しかねーのか!?、小学生か!?、と内心で悪態を吐きながら美香は達也の足元にバッグの中身を重々しく置いた。
ベッドが微かに揺れ、数秒に渡る緘黙が姉弟の間に差し込んだ。
学校の教科書とノート一式、他に各種の参考書や例題集が、期待に満ちた達也の眼前に堆く積まれていたのであった。
「……何、これ……?」
「見ての通り勉強道具一式よ。あー、重かったー」
半ば呆然とする達也へ、肩を解き解した美香は冷え切った口調で端的に答えた。
「どうせ退院したらすぐに期末なんだから、今の内にみっちり復習しときなさいって、母さんから。入院してるからって四六時中ダラダラ漫画なんか読んでないで、検査とリハビリの間にしっかり勉強しろって事よ、要するに」
「何だよ、それぇー!?」
満面に失望を露わにして、達也は非情な仕打ちを遣した家族へと失意の眼差しを向けた。
他方、美香は面持ちを曇らせる事もせず、能天気な弟へと囃し立てるように言い募る。
「いいじゃん、別に。折角腰を据えて勉強出来るいい機会なんだから。あんた、さっきみたいな様でテストに臨んで赤点なんか貰った日にゃ、たとえ怪我が全快してても速攻戦力外だよ? そりゃそうでしょ? 学業を疎かにしてるような奴をレギュラー起用なんてしたら周りに示し付かないし。仲間内は勿論相手校からも馬鹿にされたりしてね。やーい、赤点ベンチウォーマー」
「何言ってんだよ!? 俺そこまで成績悪くねーよ!」
「んじゃ更なる高みを目指して頑張って頂戴。こっちだって期末前の慌ただしい時期に、わざわざ時間を割いてお使い頼まれてやったんだからね。くれぐれもあたしの慈悲と厚意を無駄にしないように」
「何が慈悲だよ、偉そうに! どっかの星の王様みたく説教垂れられる程、そっちに人徳があんのかよ!?」
「だったらオメーも出来の良さだけで周りをビビらせるぐらいしてみろよ! 勉強もスポーツも一目見ただけでマスター出来るぐらいに!」
午後の日差しが注ぐ病室の一角に、翳りも実りも無い会話は暫し続いたのであった。
それからおよそ二十分後、美香は階下に設けられたコンビニへ買い出しに出向いていた。
病院内の二階に開店しているコンビニは美香の他には二三人程の来客しか認められず、音量を抑えて流れる最新曲が白い床に撥ね返っていた。
「全く、何であたしがこんな事……」
口中でぶつくさとぼやきながら、美香はスナック菓子の陳列棚を物色する。
痛みが引いて来た頃とは言え、未だ自由に歩けない弟に代わって買物に行くのは自然な流れではあったし、前以って母から諸経費は預かっていたのだが、実際に弟に顎先で使われるような状況が美香には面白くなかったのであった。
「人が入院した時には何もしなかった癖に……」
口元で極小さな声で呟きつつ、美香はポテトチップスの袋を籠へと入れる。
何かに付けて、姉と言うのはつくづく損な役回りだ。
胸中に蟠る湿った感慨を押し出すように、美香は長い溜息をついた。
そして少々前屈みになって菓子の袋を摘み上げていた美香は、その時、むっくりと体を持ち上げた。
途端、その背が何かにぶつかる。
いや、恐らくは『何か』ではなく『誰か』であろう。偶々スナック菓子の棚の前で屈んでいた美香の後ろを通り過ぎようとした誰かに、折悪しく体をぶつけてしまったのだ。
「あ、済みませ……」
咄嗟に謝罪しようとした美香は、だが、そこで自分の背後に立っていた相手を瞳に収めて俄かに目を見張ったのだった。
「いえ、こちらこそ不注意で……」
実に丁寧な口調で詫びつつ、相手も同様に頭を下げていた。癖っ毛の目立つ相貌は普段と変わらぬ、一人の少年の姿がそこに在った。
「……宮沢、君……?」
「え……?」
美香の漏らした言葉につられるようにして、その少年、宮沢亮一も表情に驚きを覗かせたのであった。店内に流れる女性ボーカリストの透き通った声が、店の奥で向かい合って立ち尽くす両者の間を通り抜けて行った。
「……えっと……あの……」
「……ああ、ええと……」
美香も亮一も、互いに言葉を詰まらせていた。
正に奇遇。
予期せぬ邂逅に、二人共困惑の極みと言った体を互いに晒した。
尤も、動揺しつつも美香の察するに、亮一の場合はこちらの名前がすぐに出て来ないばつの悪さも含まれているのだろうと思われた。何分にも転校して日も浅い内の事である。こちらの顔は知れていても、それ以上の事は向こうには判らないのだろう。
そうした事情も慮って美香は何とか笑顔を浮かべると、膠着状態にある状況を打破しようと試みる。
「……や、やあ。こんな所で奇遇だね。ほら、あたし、青柳美香って……」
「ああ……」
些かぎこちなくも自己紹介を遣されて、亮一も安堵の色を少し浮かべた。
と、その時、店の出入口が開かれ新たな来客が店内へと入って来た。
「あ~、や~っと一息入れられるよ~。おばさ~ん、お好み焼きパンまだ残ってる~? あと芋けんぴ~」
唐突に店内に響いた緊張感のまるで欠けた間延びした声を耳に入れるなり、美香は怪訝な表情を浮かべたのであった。そうして美香が首を巡らせてみれば、棚の向こうに揺れる赤い頭髪が確認出来た。
「……って、まさか……」
美香が呟いてから殆ど間を置かず、美香と亮一の横合いから菓子の陳列棚へと長身の人影が姿を覗かせた。
今は緑色の医療用術衣を纏い、髪も短く結ってあったが、それでこの相手を見紛う筈も無い。起伏に富んだその体型も、他と取り違えようも無かった。
「……アレ姐? どうしてここに?」
「へっ? あれ、美香ッチじゃ~ん」
驚いた美香の前で、赤毛の女、アレグラ・ジグモンディも目を丸くした。
「奇遇だね~。何何、どしたの、こんな所で?」
「いや、ちょっと弟の見舞いに……」
面白そうに相好を崩したアレグラの向かいで、美香は驚きを収めつつ答えた。
次いで、アレグラはその美香の傍らに佇む、何やら事態を呑み込めていない少年へも目を向けた。
「おや~? こっちの子は?」
「え……」
こちらは事態が完全に呑み込めていない様子で、亮一は美香とアレグラとに交互に視線を移していた。
その時、三者の後ろでまたしても店の扉が開いた。
間を空けず、億劫そうな声が店内に入って来る。
「おい、休憩に入るからってあまり羽目を外すなよ? 戦地じゃないとは言え、いつ何時急患が運ばれても対処出来るように……」
美香が三度驚きに目を見張った矢先、新たな人影が陳列棚の合間へと顔を覗かせた。
「……何だぁ?」
姿を現して開口一番、相手は驚いたような呆れたような声を漏らした。
アレグラと同じく緑色の術衣を着込んで、リウドルフ・クリスタラーは病院内のコンビニの一角に姿を現したのであった。
服装を除けばその外見はいつもと何も変わらない。金髪の鬘をだらしなく乱し、痩身の体躯は指先で突いただけでも容易く転げそうである。左右の眼窩に嵌め込まれた義眼からは実に億劫そうな意思の光を覗かせ、しかし、彼は目の前に佇む既知の少女の姿を認めるなり眉根を寄せたのだった。
「……ど、どういう状況だ、こりゃ?」
事態を俄かに呑み込めず、冴えない化学教師にして中世より活動する魔術師にして伝説多き錬金術師にして一人の医師は、脱力した面持ちを作り物の面皮に立ち昇らせた。
「センセまで!? どうしてここにいんの!?」
美香が驚きの声を上げた先で、リウドルフもまた困惑気味に答える。
「どうしてって、副業してるだけだが……いや、副業はむしろ教師の方か。俺の本職は飽くまで医者なんだし……」
そこまで述べた所で、リウドルフは美香とその後ろに佇む亮一へと改めて視線を据えた。
「……お前こそ何やってんだ? 病院をデート先に選ぶとは随分と変わった趣味だな……」
「はぁっ!?」
素っ頓狂な声を上げた後、美香は肩越しに亮一の方を振り返る。
亮一は先程からずっと黙ったまま、二転三転する状況にすっかり呑まれた様子で、半ば呆然と佇んでいた。これまで学校で見せて来た快活の良さなどは面影も無く、美香の後ろに今立っているのは、迷子のように所在無さげな一人の少年であった。
そんな相手の様子に若干の戸惑いを抱きながらも、美香は顔を前へと戻す。
「……いや、別にそういうんじゃなくて、あたしはただ弟の見舞いに……」
歯切れ悪く、美香は目の前の相手へ説明した。
店内に流れる流行歌が、銘々に佇む四人の頭上を擦り抜けて行く。
因果の糸の絶妙にして珍妙な絡まり具合によるものか、四者はこの日、こうして顔を合わせたのであった。
梅雨の切れ目の、まして午後の眩い日差しが照らし出す景色は実に鮮やかなものであった。
元々が坂の上に建つ病院である。建物内の高所から望む景色は遠方まで良く見渡す事が叶い、傾斜に沿って建ち並ぶ諸々の民家から、駅前の商店街に掲げられた大小様々の看板の数々、それらを貫くようにして水平に伸びる高架までを容易に一望する事が出来た。
「思えば遠くへ来たもんだ……」
通り掛かる人の姿が認められないのを良い事に、美香は窓辺に佇んでぽつりと呟いた。
先月に自分が入院した別の市立病院は宅地に隣接して建てられた所であった故、尚更細部の差異が意識を引くように感じられた。
そもそもは結核の療養を目的として建てられた病院であったと言う。
その為なのか、市街の中心を離れ、むしろ自ら孤高を保とうとするかのように郊外に聳える建物は内部も悠然とした間取りが多く、訪れた者に格別大きな緊張感などは抱かせなかったのであった。
「正に白い巨塔か……」
独白した後、美香は肩に掛けたバッグを担ぎ直すと窓辺を後にする。エレベーター前から右手に少し歩いた所に、廊下と一般病棟を仕切るガラス戸が設えられていた。ドアの前に置かれた消毒液で手を洗い、そして美香は病棟へと足を踏み入れたのだった。
病棟に入ってしまえば最早他の病院と何がどう異なる訳でもない。昼食や外来の時間も過ぎ、静かなばかりの廊下を暫し進んだ後、美香は足を止めた。
四〇二とのプレートが掲げられた一室の前での事である。
病室の手前で美香は一度深く息を吸うと、その敷居を跨いだのであった。
「あっ、姉ちゃん!」
「おう、生きてたか、コラ」
こちらに気付くまでベッドに仰向けに寝たまま漫画を呼んでいた弟へと、美香は実にぞんざいな口調で挨拶を遣した。六つのベッドが並べられた病室の、出入口のすぐ右手の壁際に、青柳達也様とネームプレートの掛けられたベッドは置かれていたのであった。
そのベッドの主は仕切りのカーテンを除けて入って来た姉の姿を認めるなり、緩々と上体を起こす。
「あれ? 何? 姉ちゃん一人で来たの?」
「父さんは仲間とゴルフ、母さんは料理教室の発表会。土曜は皆忙しいんだってさ。御陰であたしが皺寄せのパシリだ」
実に億劫そうに言いながら、美香は肩に担いで来たバッグをベッドの端の方に下ろした。
その最中、彼女は弟の容体にちらと目を向ける。
パジャマ姿でベッドに身を起こした達也の右脚には、脹脛を覆うように包帯が巻かれていた。患部を固定する程でもないのだろう。他にこれと言った異常も見受けられない。
十四の誕生日も近い達也は、体格も徐々に大人びた所を覗かせるようになっており、ベッドに対して体が小さく見えると言う事も無かった。誰しも気付かぬ所で日々成長しているらしい。
弟の容体を大雑把に確認した後、美香はやおら眉根を寄せて見せた。
「まあ、大事無さそうで良かったけど……肉離れだっけ?」
「そうそう。程度の軽い奴」
「ふーん……雨の日の屋内練習で肉離れねぇ……」
ベッドの傍らから何やら含みのある冷めた眼差しを遣して来る姉に、達也も細めた目を向け返す。
「何だよ……それだけ熱心にトレーニングしてたって事なんだよ。んな、鍛え方が足りないみたいな目ェ向けて……」
「いや別に鍛え方がどうとかなんて一言も言ってないじゃん。ただ他の友達も同じ練習してる中で、一人だけ怪我するってのもどうなのかなー、って思っただけで」
「同じ事じゃねえかよ!」
終始冷ややかに指摘した姉へ不満を露わにした後、達也はベッドに伸ばした右脚へと視線を這わせた。
「大体、俺今すげー不安になってんだぜ? この分だと夏の大会、出れるかどうか怪しくなって来てるから。幾ら軽傷だって言われてもさ……」
声を少し沈ませた弟へと、美香は多少の憐憫を乗せた眼差しを送った。
中学の部活動も二年目、体格も体力も備わって来た頃であれば、試合に抜擢される機会も増え始めるのだろう。美香はこれまで弟の試合の様子はあまり目にした事が無かったのだが、それなりの自負や期待を抱くに至るまでの成長を既に遂げていたと言う事であろうか。
こっちが出来なかった事をすんなりやってのけられるってのも面白くないなぁ、と美香は思うのと一緒に、眼差しに先程とは幾分異なる冷たさを纏わせて実弟の有様を凝視した。
とまれ、肉親の不幸に際しては支えとなるのが人として取るべき姿勢ではある。
そう結論付けてから、美香は自分がここまで担いで来た荷物へと目を移した。
「そんで、これ母さんからの差し入れね」
言いながら、美香はベッドの端に置いたバッグを開いて行く。
途端、達也も表情を明るいものへぱっと切り替えて、姉の持ち込んだ荷物を覗き込んだのであった。
「え!? 何何!? ケーキ!? 漫画!?」
テメーの頭にゃその二択しかねーのか!?、小学生か!?、と内心で悪態を吐きながら美香は達也の足元にバッグの中身を重々しく置いた。
ベッドが微かに揺れ、数秒に渡る緘黙が姉弟の間に差し込んだ。
学校の教科書とノート一式、他に各種の参考書や例題集が、期待に満ちた達也の眼前に堆く積まれていたのであった。
「……何、これ……?」
「見ての通り勉強道具一式よ。あー、重かったー」
半ば呆然とする達也へ、肩を解き解した美香は冷え切った口調で端的に答えた。
「どうせ退院したらすぐに期末なんだから、今の内にみっちり復習しときなさいって、母さんから。入院してるからって四六時中ダラダラ漫画なんか読んでないで、検査とリハビリの間にしっかり勉強しろって事よ、要するに」
「何だよ、それぇー!?」
満面に失望を露わにして、達也は非情な仕打ちを遣した家族へと失意の眼差しを向けた。
他方、美香は面持ちを曇らせる事もせず、能天気な弟へと囃し立てるように言い募る。
「いいじゃん、別に。折角腰を据えて勉強出来るいい機会なんだから。あんた、さっきみたいな様でテストに臨んで赤点なんか貰った日にゃ、たとえ怪我が全快してても速攻戦力外だよ? そりゃそうでしょ? 学業を疎かにしてるような奴をレギュラー起用なんてしたら周りに示し付かないし。仲間内は勿論相手校からも馬鹿にされたりしてね。やーい、赤点ベンチウォーマー」
「何言ってんだよ!? 俺そこまで成績悪くねーよ!」
「んじゃ更なる高みを目指して頑張って頂戴。こっちだって期末前の慌ただしい時期に、わざわざ時間を割いてお使い頼まれてやったんだからね。くれぐれもあたしの慈悲と厚意を無駄にしないように」
「何が慈悲だよ、偉そうに! どっかの星の王様みたく説教垂れられる程、そっちに人徳があんのかよ!?」
「だったらオメーも出来の良さだけで周りをビビらせるぐらいしてみろよ! 勉強もスポーツも一目見ただけでマスター出来るぐらいに!」
午後の日差しが注ぐ病室の一角に、翳りも実りも無い会話は暫し続いたのであった。
それからおよそ二十分後、美香は階下に設けられたコンビニへ買い出しに出向いていた。
病院内の二階に開店しているコンビニは美香の他には二三人程の来客しか認められず、音量を抑えて流れる最新曲が白い床に撥ね返っていた。
「全く、何であたしがこんな事……」
口中でぶつくさとぼやきながら、美香はスナック菓子の陳列棚を物色する。
痛みが引いて来た頃とは言え、未だ自由に歩けない弟に代わって買物に行くのは自然な流れではあったし、前以って母から諸経費は預かっていたのだが、実際に弟に顎先で使われるような状況が美香には面白くなかったのであった。
「人が入院した時には何もしなかった癖に……」
口元で極小さな声で呟きつつ、美香はポテトチップスの袋を籠へと入れる。
何かに付けて、姉と言うのはつくづく損な役回りだ。
胸中に蟠る湿った感慨を押し出すように、美香は長い溜息をついた。
そして少々前屈みになって菓子の袋を摘み上げていた美香は、その時、むっくりと体を持ち上げた。
途端、その背が何かにぶつかる。
いや、恐らくは『何か』ではなく『誰か』であろう。偶々スナック菓子の棚の前で屈んでいた美香の後ろを通り過ぎようとした誰かに、折悪しく体をぶつけてしまったのだ。
「あ、済みませ……」
咄嗟に謝罪しようとした美香は、だが、そこで自分の背後に立っていた相手を瞳に収めて俄かに目を見張ったのだった。
「いえ、こちらこそ不注意で……」
実に丁寧な口調で詫びつつ、相手も同様に頭を下げていた。癖っ毛の目立つ相貌は普段と変わらぬ、一人の少年の姿がそこに在った。
「……宮沢、君……?」
「え……?」
美香の漏らした言葉につられるようにして、その少年、宮沢亮一も表情に驚きを覗かせたのであった。店内に流れる女性ボーカリストの透き通った声が、店の奥で向かい合って立ち尽くす両者の間を通り抜けて行った。
「……えっと……あの……」
「……ああ、ええと……」
美香も亮一も、互いに言葉を詰まらせていた。
正に奇遇。
予期せぬ邂逅に、二人共困惑の極みと言った体を互いに晒した。
尤も、動揺しつつも美香の察するに、亮一の場合はこちらの名前がすぐに出て来ないばつの悪さも含まれているのだろうと思われた。何分にも転校して日も浅い内の事である。こちらの顔は知れていても、それ以上の事は向こうには判らないのだろう。
そうした事情も慮って美香は何とか笑顔を浮かべると、膠着状態にある状況を打破しようと試みる。
「……や、やあ。こんな所で奇遇だね。ほら、あたし、青柳美香って……」
「ああ……」
些かぎこちなくも自己紹介を遣されて、亮一も安堵の色を少し浮かべた。
と、その時、店の出入口が開かれ新たな来客が店内へと入って来た。
「あ~、や~っと一息入れられるよ~。おばさ~ん、お好み焼きパンまだ残ってる~? あと芋けんぴ~」
唐突に店内に響いた緊張感のまるで欠けた間延びした声を耳に入れるなり、美香は怪訝な表情を浮かべたのであった。そうして美香が首を巡らせてみれば、棚の向こうに揺れる赤い頭髪が確認出来た。
「……って、まさか……」
美香が呟いてから殆ど間を置かず、美香と亮一の横合いから菓子の陳列棚へと長身の人影が姿を覗かせた。
今は緑色の医療用術衣を纏い、髪も短く結ってあったが、それでこの相手を見紛う筈も無い。起伏に富んだその体型も、他と取り違えようも無かった。
「……アレ姐? どうしてここに?」
「へっ? あれ、美香ッチじゃ~ん」
驚いた美香の前で、赤毛の女、アレグラ・ジグモンディも目を丸くした。
「奇遇だね~。何何、どしたの、こんな所で?」
「いや、ちょっと弟の見舞いに……」
面白そうに相好を崩したアレグラの向かいで、美香は驚きを収めつつ答えた。
次いで、アレグラはその美香の傍らに佇む、何やら事態を呑み込めていない少年へも目を向けた。
「おや~? こっちの子は?」
「え……」
こちらは事態が完全に呑み込めていない様子で、亮一は美香とアレグラとに交互に視線を移していた。
その時、三者の後ろでまたしても店の扉が開いた。
間を空けず、億劫そうな声が店内に入って来る。
「おい、休憩に入るからってあまり羽目を外すなよ? 戦地じゃないとは言え、いつ何時急患が運ばれても対処出来るように……」
美香が三度驚きに目を見張った矢先、新たな人影が陳列棚の合間へと顔を覗かせた。
「……何だぁ?」
姿を現して開口一番、相手は驚いたような呆れたような声を漏らした。
アレグラと同じく緑色の術衣を着込んで、リウドルフ・クリスタラーは病院内のコンビニの一角に姿を現したのであった。
服装を除けばその外見はいつもと何も変わらない。金髪の鬘をだらしなく乱し、痩身の体躯は指先で突いただけでも容易く転げそうである。左右の眼窩に嵌め込まれた義眼からは実に億劫そうな意思の光を覗かせ、しかし、彼は目の前に佇む既知の少女の姿を認めるなり眉根を寄せたのだった。
「……ど、どういう状況だ、こりゃ?」
事態を俄かに呑み込めず、冴えない化学教師にして中世より活動する魔術師にして伝説多き錬金術師にして一人の医師は、脱力した面持ちを作り物の面皮に立ち昇らせた。
「センセまで!? どうしてここにいんの!?」
美香が驚きの声を上げた先で、リウドルフもまた困惑気味に答える。
「どうしてって、副業してるだけだが……いや、副業はむしろ教師の方か。俺の本職は飽くまで医者なんだし……」
そこまで述べた所で、リウドルフは美香とその後ろに佇む亮一へと改めて視線を据えた。
「……お前こそ何やってんだ? 病院をデート先に選ぶとは随分と変わった趣味だな……」
「はぁっ!?」
素っ頓狂な声を上げた後、美香は肩越しに亮一の方を振り返る。
亮一は先程からずっと黙ったまま、二転三転する状況にすっかり呑まれた様子で、半ば呆然と佇んでいた。これまで学校で見せて来た快活の良さなどは面影も無く、美香の後ろに今立っているのは、迷子のように所在無さげな一人の少年であった。
そんな相手の様子に若干の戸惑いを抱きながらも、美香は顔を前へと戻す。
「……いや、別にそういうんじゃなくて、あたしはただ弟の見舞いに……」
歯切れ悪く、美香は目の前の相手へ説明した。
店内に流れる流行歌が、銘々に佇む四人の頭上を擦り抜けて行く。
因果の糸の絶妙にして珍妙な絡まり具合によるものか、四者はこの日、こうして顔を合わせたのであった。
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