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またもリッチな夜でした

その2

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 適度に湿り気を含んだような水色の空が、車窓の外には広がっていた。
 梅雨の合間にのぞく空は心なしか元気の無い色合いにも見えたが、一方で降り注ぐ日差しはすでに夏のものと化しており、車道に眩い照り返しを生じさせるのと一緒に、節々に濃い影を刻み付けていた。
 市バスの最後尾の席で、流れ去る道々の景色をして面白くもなさそうに眺めていた青柳美香(あおやぎみか)は、ややあって息を一つついた。
 駅前の商店街を離れ、宅地を横切り、しかる後、美香を乗せたバスは緩やかな坂道に差し掛かっていた。道の左右に民家が立ち並んではいるものの、道路を行き交う車の数は明らかに減り始め、路肩を往来する人もまた少なくなっていた。
 坂道を低速で進むバスの車内には、猪のいびきのような低い駆動音が鳴り響き、空調から吹き出るひんやりとした冷気がそれを重ね塗っていた。
 週末とは言え昼時のバスに、それも終点間際に差し掛かっては乗客も少なく、美香は空席が大半を占める車内の端で日差しの照らす景色へただ視線を泳がせていたのだった。
 程無く車内に放送が流れた。
 終点に近付いたらしい。
 実に億劫そうに腕を持ち上げた美香の見つめる先で、壁に取り付けられた降車ボタンが点灯した。前の方の席に座った、年配の女が押したようであった。何やらばつの悪い思いを少しばかり抱きつつ、美香は降車ボタンを押そうとした手を緩々ゆるゆると戻した。
 そうこうする内にバスは坂道を登り切り、にわかに景色が開けた。
 車道の左右を囲んでいた民家は遠ざかり、何処かの広い敷地の一角にバスは入り込む。車道沿いに並んだ街路樹が降り注ぐ日差しを浴びて、深緑に覆われた梢を何処か自慢げに広げていた。
 降車口から降りた美香へ、むせるような湿気と暑さが即座にまとわり付く。それらに顔を少々しかめつつも、少女は終着点に降り立った。今はノースリーブの白いワンピースを着た美香は、軽快な服装とは対照的な大きなバッグを肩に担いで、バス停の上屋(うわや)の影から辺りを見回した。
 坂の上の開けた場所に、彼女は立っていた。
 目の前に広がるバスロータリーでは、美香を下ろした市バスが別のバス停の前まで移動し行き先を駅前へと変更した所であった。
 辺りに人影は相変わらず疎らで、家々の屋根も電線も目立たぬ若干の高地では、水色の空が狭い街中まちなかでの鬱憤を晴らすかのように悠々と広がっていた。
 そして、その青い空を背にして、白い巨塔がたたずむ少女の前にそびえ立つ。
 御簾嘉戸みすかと市立点綴てんてい病院。
 直方体の実に堅牢そうな、悪く言えば面白みのまるで無い外観を晒す建物は夏の日差しを浴びて、白亜の威容を眩いばかりに輝かせていた。
 威圧的とまでは行かぬものの、訪れる者にわずかな緊張をもたらす巨大な建物を仰ぎ見て美香は鼻息をついた。
「……ったく、あの馬鹿……人に面倒ばっか掛けて……」
 バス停の端で漏れ出た呟きは誰に聞かれる事も無く、湿気と熱気の間に溶け消えて行った。

 その五日前の午後、美香はいつも通りに教室で帰り支度を整えていた。
 外では、昼前から空を覆った灰色の雲から、雨が淡々と降り続いていた。
「はい、今日はここまで。何分にも期末試験が近いので、各自準備は怠らないように。授業内容の質問に関しては、SNSでも可能な限り受け付けるから。しかし、だからと言って、テストの問題まで聞き出そうとしないようにね」
 うっすらとチョークの跡が残った黒板を背に、教壇の上から担任の月影司(つきかげつかさ)が朗らかに告げると、教室の各所で小さな笑いが起こった。
 今日も身だしなみに隙は無く、つややかな頭髪を綺麗にまとめ、丸眼鏡の奥で目元を緩めて、司はクラスの全員に呼び掛ける。
「連日の雨で気分も下がっている頃だろうけど、梅雨明けと一緒に明るく夏休みを迎えられるよう、ここは一つ頑張って行きましょう。では、また明日」
 そして、その日最後の号令が掛かった後、教室内はにわかにざわつき始めた。
 外では風が出始めたのか、窓ガラスに雨粒が相次いで貼り付いた。
 美香が粗方の持ち物をかばんに仕舞った頃に、席の横手にふと影が差した。
「あー、終わった終わったー」
 頭上から嘆息を遣した相手の方へと美香が首を持ち上げて見れば、机の右側に髪を長く伸ばした細身の少女が立っていた。
「今日はどうするー? また図書館で勉強してく?」
「ああ……うん、どうしよっか……」
 友人、三田顕子みたあきこの提案に、美香は悩んだ面持ちを浮かべた。
 その美香の隣で、顕子は首を少しかしいで見せる。
「やァ、懐に余裕があんなら駅前のカフェでやってもいいんだけど?」
「そっちの余裕は……無い……」
 表情を少々苦々しいものへ変えて、美香は答えた。
 そこへ両者の斜め後ろから新たな声が加わる。
「何? 図書館行くって?」
 言いながら美香の席へと近付いて来たのは髪を後ろで結った、眼鏡を掛けた少女であった。
 新たに場に加わった友人、織部昭乃おりべあきのへと顕子は首肯しゅこうして見せる。
「うん。美香が金欠だって。安く済む所にしとこうかってさ」
「了解了解。んじゃ、プランBって事で」
 昭乃がさばさばと言う横で、美香も席から腰を上げた。
 そして一行は校舎の端に建つ図書館へと場所を移したのであった。
 雨は尚も淡々と降り続いていた。
 採光性の高い広い窓と点々と配された照明によって照らされる広々とした館内には無数の書棚が並び、白々とした光の下でそれぞれに重厚な沈黙を辺りに漂わせていた。
 期末試験まで二週間を切っての事であろうか。図書館内には先客の姿もちらほらと認められ、美香達は壁際の奥の席に腰を落ち着けて銘々に教科書や資料集を広げ始めたのであった。
 館内は、ひたぶるに静かであった。
 降り続く雨の音だけが、窓ガラスを透かしてかすかに室内へ浸透して来る。何かの鼓動のように規則的に続く穏やかな音は、場の静けさをかえって強調させるのだった。一方で、その様な環境下でも窓辺の席に座った上級生らしき男子生徒は、耳栓までめて卓上に広げた赤本に一心に見入っていた。
 室内のそうした様子を見回した後、美香は自身の手元に目を戻した。六人掛けのテーブルの一つに、美香は他の友人四人と席に着いてノートと教科書を広げていたのであった。
 即ち、最大の苦手科目である化学の教科書を。
 少しして美香がふと顔を上げて見れば、向かいの席に腰を下ろした顕子が酷く意地の悪い笑みをたたえてこちらを眺めていた。
 少々むっとした顔をしながら、美香はまた紙面に広がる化学式を注視した。
 なり振り構ってられないんだって、こっちは、と心中密かにぼやきながらにである。美香の見下ろす先で、教科書やレジュメに印刷された数々の数式は如何にも無味乾燥な字面を晒し、少女のすがるような疎むような眼差しを無為にね返すのだった。
 やっぱり相性悪いのかなぁ、と美香は胸中で嘆いた。
『……お前なぁ、赤点は避けろとは確かに言ったが、別に最低ラインで妥協しろって意味で言ったんじゃないぞ』
 美香の脳裏に、『あの男』の実に面倒臭そうな声が唐突に湧き上がった。
『そりゃ結果が全てだとは言わんし、そんな事言い出したらカンニングなんかやったもん勝ちになる訳だから点数や偏差値に固執すべきだとも思わんが、だからって、『自分はきちんと努力しました』って訴えるばかりじゃ、結局の所、只の自己弁護と自己満足に陥るだけだろ。そんなの、極め付けにたちの悪い独り善がりと開き直りに過ぎないだろうが。何事も主客のバランスが大事なんだよ、バランスが。だからこそ、要所要所では周囲に対して、きちんとした成果も見せられるよう心掛けなきゃならんのだ。それがこの社会にける最低限のルールと言うもんだ』
 中間テストのすぐ後に、何とも言えない眼差しと共に遣された、批判とも励ましとも付かぬ何とも言えない評価を。
 こっちだって一生懸命やってんだっつーの!!
 内心で反駁はんばくするのと一緒に、美香は荒々しく鼻息をついた。
 隣で友人がノートにシャープペンシルを走らせる音が、雨音の間に染み透った。
 ややあって、美香は目を少し細めると、自身の首筋におもむろに手を当てる。
 ショートボブの毛先を分けて振れた首の側面には、つるりとした皮膚がただ広がるばかりである。
 あれからもう一月ひとつきも経つのか。
 そう思うのと一緒に、美香は不可思議な感慨に囚われたのだった。
 月光の下に繰り広げられた、一対の人ならざる者同士の争い。
 虚空からあふれ出た常世とこよの歌声。
 おぼろな幻のようでありながら、あの時それは確かに目の前に在った。
 首筋に突き立てられた無数の牙の跡も消えた今となっては、あの夜の出来事はただ記憶の片隅に留まるのみである。
 数式の羅列にぼんやりと目を落としていた美香は、そこで、椅子に座ったまま腰の辺りへとやおら視線を移した。スカートのポケットの内側で、スマートフォンが小刻みに振動していた。
 周りの友人達に少し遅れて、美香がスマートフォンの画面をのぞき込んでみれば、斜交いに座った昭乃からメッセージが送られて来た所であった。
『そう言やさ、明日転入生が来るって話、知ってる?』
『あー、聞いた聞いた』
『ツッキーが何か言ってたっけね、確か』
 黙したままそれぞれに手元でメッセージを遣り取りする友人の間で、美香は少し驚いて目を広げた。
『へー、そうなんだ』
『そうそう。何か急な話だけどね』
『何? 夏休み前に滑り込み的に転入して来る訳?』
『そーなんじゃない? 入って来てすぐ期末ってのも大変だけども』
 先程まで赤本を凝視していた男子生徒が耳栓を付けたまま、参考書の収められた本棚へと歩いて行った。
 その向こうで一言も発さず、少女達は銘々に手元の小さな液晶画面を注視し指先をせわしなく動かし続ける。
『んで? 新しく入って来んのって男? 女?』
『男って話だけど、今の所は』
『男ねぇ……これ以上めんどいのが増えなきゃいいんだけど』
『そんな事言って、相手がイケメンだったらコロッと掌返すんじゃないの?』
『今日の出会いに運命を感じましたー!、みたいな感じで目ェ輝かせて?』
『あはは』
『在り得る、在り得る』
『ひっどーい! 人を開店前にダレてるキャバ嬢みたく言って』
『でも、男は顔でしょ、やっぱ』
『だよねー。あと体型』
『性格の方は後から何とでも修正利くからねぇ。まずは外見そとみが良くないと』
『賛成賛成。超々々賛成』
『大体、人格なんて体型に如実に反映される訳だし』
『うっわ、めっちゃ嫌な女共だわ、こいつら』
『つか、選り好み以前に人としてどうなの、そういう発想って?』
『なーに? 何か悪い? 美形の嫌いな女がこの世にいる?』
『カッコイイは正義!!』
『男を名乗っていいのは顔の細い男だけ!!』
『駄目だ、こりゃ』
『何でもいいけど、ホストに貢ぎまくるような人生だきゃ送んなよー』
 取り留めも実体も無い会話が図書室の片隅で繰り広げられる最中、美香はスマートフォンに顔は向けたまま横手の窓の方へちらと目を向けた。
 依然として降り続く雨は、しかし勢い自体は弱めて来ているのか、窓ガラスに水滴を貼り付かせるばかりで音自体は少し前から途絶えていた。
 徐々に暗くなりつつある灰色の空を垣間見て、美香はわずかに目を細めた。
 こっちの男は見てくれは最悪なんだよなぁ、と心中密かにぼやきながら。
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