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今宵もリッチな夜でした

その30

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 そして、美香は再び目を覚ました。
 輝く三日月が遥か頭上に掛かり、辺りを蒼白く染め上げている。
 先程までと特に何が変わったでもない廃屋の屋上の片隅に、そこに置かれたリラックスチェアの上に美香は寝かされていたのだった。
 衣服に乱れは無く、感触からして首筋には包帯が巻かれているようである。
 仰向けに寝転んだまま首だけを回して辺りを見回した美香は、程無く、自分のすぐ隣にアレグラがたたずんでいる事に気付く。
 そのアレグラは美香が目を覚ましたのを認めて、ふと相好を崩した。
「意識が戻ったようです」
「……そうか」
 低い声は、アレグラの向こうより届いた。
 そちらへと首を巡らせた美香の横手に、リウドルフが近付いて来る。今も髑髏どくろの顔を月下にさらした彼は、リラックスチェアの上に寝かせた少女へ穏やかに語り掛ける。
「じっとしていろ。応急処置は済ませて造血剤も打った所だ。もうじき救急車も到着する」
「……ど、どうも……」
 ぎこちなく礼を述べた美香へ、リウドルフは首を横に振って見せた。
「礼など言う必要は無い。割を食わせて本当に悪かった。ああいう歳経た吸血鬼による咬傷というのは対処が面倒なんだ。幸い、市立病院には救命救急センターの助っ人に入ったりで色々と貸しがある。病院に付いたら俺が責任を持って治療に当たる。心配するな」
 そう告げると、リウドルフはリラックスチェアのそばから離れた。
 そこへ横からアレグラが問い掛ける。
「ところで、『こちら』は如何します?」
 そう言ってアレグラが差し出したのは、一個の古びた頭蓋骨であった。
「先程、『あれ』が消滅する間際、最後の力を振り絞って外へ放り出したようですが……」
 フェドセイの遺物をリウドルフは少しの間眺めていたが、ややあって骨だけの腕を差し伸べてそれを受け取った。
 月光の下に照らされるのは、眼窩がんかに暗い闇を淀ませただけの何処か小さく見えるただの遺骨である。左手に掲げたそれを、リウドルフはしばし黙して見つめた。
 小さな鐘を強く鳴らしたような高音域の澄んだ音が、月下に鳴り響いた。
 『常世とこよ』に満ちる力の万分の一にも足りぬ欠片を浴びて、それでもわずかな塵も残さず頭蓋骨は一瞬で消滅した。
 最早何も残っていない自身の左手を、リウドルフは尚も掲げ続ける。
「……祖国ワラキアから遠く離れた地で果てるのは不幸だったか、『神祖ドラクレア』? だが、きちんと『死ねた』だけでも貴様は幸運だったろうよ。戦うべき相手も打ち払うべき脅威もはっきりと見定められぬ昨今とあらば尚更に……」
 憐れむともなだめるとも付かぬ声音であった。
 促されるようにそちらへと首を巡らせ、美香はおずおずと問う。
「……あの子は、どうなったんですか?」
「死んだよ」
 闇色の衣を揺らす背中越しに、リウドルフは誇るでもなく詫びるでもなく、ただ穏やかに事実を告げた。
「……もっとも、ああいう手合いはずっと昔から死んでいたのと変わらんだろうがな。過去の死人しびとしか目に入らなくなった時点で、その者の魂はどんどん朽ちて行くものだ」
「そう、ですか……」
 呟いた後、美香はまた空を仰いだ。
 夜半の紺色の空は他の家々の屋根も見えない高所からでは何処までも深く広がっているように見え、眺める内に不思議と意識を吸い込まれそうになる。
 そんな広大な夜空へと、美香はフェドセイの面差しを投影したのだった。
 猛々しく、妄執に満ち、それでいて何処か切羽詰まったような鋭い眼差しを持った彼の顔を。
 狂気に蝕まれた悪鬼の形相と言えば、確かにそうであったかも知れない。
 だが、路地裏の袋小路に追い込まれた野良犬よろしく、それがたたえた眼光にわずかな余裕も、一片の安らぎさえも見出せなかった事実を美香は思い返してもいたのである。
 『過去』に囚われ過ぎた者は、いずれああいう眼光をみなぎらせるようになってしまうのだろうか。
 紺色の夜空を仰向けに見上げ、今にも溶けて流れ落ちてしまいそうな脱力感に身を浸しつつ、美香はぼんやりと考えた。
 廃屋の屋上を、涼やかな夜風が通り過ぎた。
 沈黙した美香の横手でリウドルフはやおら顔を上げ、頭上に広がる夜空を同じく見上げた。
 そして、彼は鼻先で歌うように言葉を紡ぐ。
「……それにしても何とも貧相な星空だ。俺が『生きて』いた頃は、たとえ街中でももう少しましな夜空を仰げたものだが……」
 黒い髑髏どくろが見上げる先には、小さな星の幾つかを地平の近くに配しただけの都会の夜空が広がるばかりである。街の光に押され、人々の絶え間無い活動に追い遣られ、太古から地表を照らして来た筈の星々は今はささやかな光を送ることすら叶わない。
「この五百年間に様々なものを見て来た……それまで想像も付かなかった速度で突き進む革新と発展、飛躍と繁栄の最中で……」
 星の無い夜空を見上げ、過ぎ去りし時の残像の如き亡霊ははかなげな言葉を漏らす。
「……そして、それまでは想像した事すら無かった規模で巻き起こる破壊と戦乱、蹂躙じゅうりんと殺戮の只中で……」
 眼窩がんかに灯る蒼白い光の奥に、数限り無い残像を過ぎらせながら。
 それらは哀惜であり悔恨であり、そして声無き叫喚であった。
「こんな夜空を見上げる度に思う事がある……人の世というものは何故にこうも成り立ってしまったのか、何故にこれで成り立っていられるのか……今更何を為せるでも無く、何故にこんな所を彷徨さまよい歩かねばならぬのか……歪んだ幻像ばかり追い求める輩に追いすがられてまで……」
「え……?」
 美香が弱い眼差しを向けた先で、リウドルフは肩越しに、かたわらの少女をゆっくりとかえりみた。
 黒い髑髏どくろ眼窩がんかに灯る蒼白い光が、潤むように揺れる。
「……俺には、君らの方が余程人間離れして見えるがね……」
 寂しそうに呟いた遠い日の賢者を、三日月が宵闇より淡く照らし出した。
 今や朽ち果てる事も叶わぬ骨だけの体躯は、足元に影を刻む事も無くただたたずんでいる。
「……せんせ……?」
 ぽつりと呟いた美香の前で、リウドルフは顔をまた前に戻した。
「……いや、何でもない……」
 近くて遠い、大きくて小さいその背を、少女は静かに見つめていた。
 その様子を、一同より距離を少し置いた場所、ペントハウスの陰から司が穏やかな面持ちで眺めている。
 少しして司は髪を撫で付けると、紺色の夜空へ細い眼差しを向けたのだった。
「……『我が心は昏い。早く竪琴をき鳴らせ。我にそれを聴く心が残されている内に』……」
 流れるような口調で、遠い日に刻まれたうたが紺色の夜空へと昇り行く。
「……『もしこの胸に希望を愛惜する心あるならば、その音にいざなわれ、再び生まれ出ずるであろう。もしこのまなこに涙が潜んでいるならば、流れ出でて心の炎を消し去るであろう』……」
 遠く街の灯の上で、小さな星が所在無さそうに瞬いた。
「……『楽士よ、私は泣かなければならないのだ……さもなくば、この重い心は張り裂けるであろう』……」
 ペントハウスの外壁に寄り掛かった長身の影は、自身の直上の天空をじっと見上げていた。
 遠くから救急車のサイレンの音が近付いて来る。
 幾重にも連なる街の灯は、いつもと変わらずきらびやかに瞬いていた。
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