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今宵もリッチな夜でした
その26
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それより幾らかの時を経た頃、美香の囚われた一室の下方で幾つかの影が忙しなく蠢いていた。
薄暗い埃だらけの廊下を進むのは、サーシャに率いられた屈強な男達の一団である。彼らは客室の扉が並ぶばかりの無人の廊下を音も立てずに歩きつつ、一方で四方に油断無く視線を散らせていたのであった。
一団を指揮し、壁伝いに慎重に廊下を進むサーシャの顔には、焦りと恐れとが入り混じっている。ほんの二十分程前、フェドセイが美香の一室に足を運んでいる間、彼らもまた別の客室に集まり、独自に協議を進めていたのであった。
『……だが、ここを出て何処へ行こうって言うんだ?』
月明かりの差し込む薄暗い一室で、ミーシャは声を抑えてサーシャへと問うた。
『何か当てがあるのか?』
『いや、全く無い』
ミーシャの問いにサーシャは短く答えた。
その部屋もまた他所と同じく家具が散らばり床も煤け放題であったが、集まったロシアンマフィアの男達はベッドやソファなどに腰を据えるでもなく、皆立ったまま話を続けた。
それ程までに今の彼らには落ち着きが無く、取りも直さず余裕が無かったのである。
この場に集まった十人程の仲間の顔を見回して、サーシャは言葉を続ける。
『だからいっそ、警察に保護を求めようかとも思う。たとえ身柄を拘束されても、まさかそのまま死刑台送りにはされんだろう。当面の命は保証される筈だ』
『しかし、それじゃ大した解決にはならないんじゃないのか?』
壁の窓から差し込む蒼い月明かりを背に浴びて話すサーシャへ、その隣からミーシャが苦言を呈した。
一方のサーシャは、緊張した面持ちを浮かべる仲間達へと顔を向けたまま、神妙な表情で説得する。
『当面の命を繋ぐ事が今は何より重要なんだ。考えてもみろ。奴は上からの指示でここに来たとか抜かしていたが、あんなのに指示や命令を下せる人間がいると思うか? あんな化物に……』
そこで一度言葉を切り、サーシャは眉間に皺を寄せる。
『奴は飽くまで自分の意志に基づいて行動している。このまま行けば、俺達はどんなに良くても捨て駒扱い、悪けりゃ大した理由も無しに殺されるぞ。ワーニャと同じにな』
サーシャの言葉に、ミーシャを含め居合わせた男達は険しい顔を覗かせるのみであった。
『俺達は今、地獄の釜の縁に立たされてるんだ。一刻も早くここを離れた方がいい。先の事はその時になってから考える。撤退する時には余計な事を考えるな。決して振り向かずにただ駆け抜けろ……それが俺の中の鉄則だ。もっとましな意見があるなら言ってくれ』
重々しい沈黙がそれに答えた。
そして彼らは今、一路外界を目指して夜の行軍に従事していたのだった。
照明の消えた暗い廊下を足音を立てぬよう慎重に慎重を重ねて進んだ彼らは、やがて廊下の端の階段まで辿り着く。幾度か階を下った後、階段の果てが仄かな光に照らされているのをサーシャは確認した。
建物の正面玄関から差し込む外の光がここまで届いているのだろう。
ふと息をついたサーシャの後ろでミーシャが彼へと囁く。
「それで、このまま手近の警察署へ皆して出頭するのか? 日本の留置場は飯も美味いといいんだが……」
「そうだな……」
残り数段となった階段を下りつつ、サーシャは苦い薬を飲み下そうとするかのように顔を顰める。
「……思ったが、いっそ、あのリウドルフって奴に助けを求めてみるのもいいかも知れん」
「おいおい、憑り殺されに行きたいのか? 前にあれだけ酷い目に遭ってるってのに?」
ミーシャが心底呆れた口振りで囁いた先で、だがサーシャはやおら微笑を浮かべた。
「そりゃ、奴も似たような化物ではあるだろうさ。だが、どう言うんだろうな……あっちの方がまだ血の一二滴は流れてるような気がする。単なる勘だがな」
「はっ、お前の勘もたまには外れる事だって……」
ミーシャがそこまで言った時の事であった。
「ふーん……そうやって怖気付いた挙句、敵前逃亡の集団脱走までしようってのかい。近頃は軍人の質も落ちたもんだねぇ」
冷ややかな声は一同の頭上から唐突に降り掛かった。
サーシャら一行が驚愕と戦慄の眼差しを真上へと向けた先、小さな人影が階段の裏側から逆様にぶら下がっていたのであった。
さながら深い洞の天蓋にて、静かに目を光らせ続ける蝙蝠の如くに。
その蝙蝠は対象を穿つような細く鋭い眼差しを、正に肉食獣のそれのような眼差しを下方へとじっと遣すのだった。
「少しでも目を離せば、これだ。御屋形様が御存命の頃は兵士と言えば皆が皆、祖国を守る為に必死で戦ってたもんだが。あの忌まわしいオスマン帝国にも徹底抗戦を貫いて……」
全身に赤黒い影を纏わせたフェドセイは、腕組みをした姿勢で眼下の男達を見下ろす。
「……それで、折角標的も近付いて来てくれている最中だと言うのに、お前らと来たらこの期に及んで一体何をしてるんだ? つくづく使い道の無い奴らだな。頭が痛くなって来るよ、全く」
自分達の頭上にぶら下がり平然と非難を遣して来る少年を仰いで、サーシャら一同はすぐに言葉も漏らせぬまま立ち尽くしていた。
「化物……」
サーシャの後ろで、辛うじてミーシャが呻くように呟いた。
直後、そのミーシャの下へフェドセイは身動ぎする間も与えず降り立つなり、吠え猛るように口を大きく開いたのであった。
体格にまるでそぐわない、太く鋭い無数の犬歯が薄明かりにぎらりと輝く。
そしてフェドセイは緋色の瞳を輝かせ、ミーシャの襟首に猛然と噛み付いたのであった。
「がぁぁぁぁああああああああああああああああああああッ!!」
絶叫を上げて全身を激しく痙攣させたミーシャの体から、生気が急速に抜け落ちて行く。
否、吸い上げられていたのであった。
彼の首筋に噛み付いた、この世のものならざる魔性の存在によって。
屈強で少し肥満気味でもあったミーシャの体躯はものの数秒で無惨に干乾び、がっくりと膝を折るとそのまま階段を転がり落ちて行く。
引き攣った悲鳴や打ち鳴らすような絶叫が、狭い階段に忽ち充満した。
男達が相次いで逃げ惑う中、フェドセイは大きく広げた口元から大量の鮮血を滴らせ、双眸をそれと同じ色に爛々と輝かせる。
「お前達に最後の役目と力を与えてやる……有難く受け入れろ……!」
そして無数の断末魔の叫びが、折り重なるようにして薄暗がりに木霊した。
星の無い夜空にはその日、両端を鋭くした三日月が昇っていた。
まるで細身の曲剣のような蒼白い月を見上げ、リウドルフはふと息をつく。
彼の前には明かりも消え解体を待つばかりと言った風情の、放置されたラブホテルが暗い空を背に物言わず建っていた。
数年前に経営に行き詰まって廃業を余儀無くされ、それでいて解体もすぐには進められず、結果として放置されて来たという寂れた建造物をリウドルフは少しの間仰ぎ見ていた。今は市内の風俗企業の管理下にあるというこの廃棄された建物が、市内に潜伏するロシアン・マフィアの塒として使われている可能性が高い事を彼は今日の昼休みに司から既に聞かされていたし、彼をここまで見張り導いて来た『もの』の口からも同様の結論が遣されたのだった。
今や従業員も支配人も去り、真っ当な客が訪れる事も無い巨大な廃屋に本来ならば人影が認められる筈も無い。
しかし建物の玄関に近付いたリウドルフの向かう先、煤けたガラス扉の向こうから、この時一個の人影が近付いて来るのだった。
随分と怪しい足取りで、しかしまるで泥濘を掻き分けるかのように必死の様相で建物の奥から現れた人影は、サーシャであった。
鏖殺の場となったホテル内から這う這うの体で逃げ延びて来たのか、大柄の体躯はあちこちが血に塗れ、髪も乱れ放題で表情は憔悴し切っている。それでも外界に佇む人影を認めたからか、彼はホテルの正面玄関のガラス扉へと殆ど倒れ込むような勢いで駆け寄ったのだった。
「たっ、助けてくれっ……頼む……」
そうして懸命に呼び掛ける相手が、かつての標的である事を向こうが察していたのかどうかはリウドルフにも判断は付かなかった。
不意に風が唸りを上げた。
次いでホテルの内外を隔てるガラス扉に大きな亀裂が走り、一瞬の間を置いて粉々に砕け散る。
月明かりに煌めくガラス片の向こうで、サーシャが前のめりに倒れ込んだ。
その額に小さな穴を穿たれて。
リウドルフが目元を大きく歪めた。
砕けたガラス扉の残骸が地面に撒き散らされたのと時をほぼ同じくして、耳障りな羽音を撒き散らしながら銀色の甲虫がリウドルフの下へと戻って来る。サーシャの額を打ち抜き、その勢いのまま半円を描いて『虫』は来客の肩へと舞い戻ったのであった。
『見苦しい所を見せたね。今回遣された兵隊というのが、どいつもこいつも使えない役立たずばっかりだったんだ。この一件が片付いたら、こんなクズ共を回した組織の連中にもきついお仕置きを据えてやらないといけないね』
「……お前は周りの人間を何だと思ってるんだ?」
まるで悪びれもせずに言ってのけた銀色の甲虫へ、リウドルフは鋭い眼差しを送り付けた。
それでも当の『虫』は一向に気にする素振りも覗かせず、至って軽い口調で断言する。
『虫の群さ。這いずり回って喚くばかりの虫の群。どうした所で僕らとは異質な存在だもの。君も本当はそう思ってるんじゃないのかい?』
「……一緒にするな」
そう切り捨てつつも、もう一方の人外者は視線を脇へと逸らしたのだった。
そのリウドルフの肩口から今一度飛び立つと、銀色の甲虫は破られたガラス扉の奥へ、暗闇が支配する廃屋の中へと緩やかに飛んで行く。
『さあ、おいでよ。愛しのあの子はこの奥だ。早く君に会いたいって、涙目になって待ってるよ』
「……何が愛しのあの子だ。俺はただ、教師としての責務を果たしに来ただけだ」
不満げに吐き捨てつつも、リウドルフはホテルの内部へと足を踏み入れて行く。既に事切れたサーシャの遺体を脇に寄せ、彼は正面玄関を越えて屋内へと入ったのであった。
かつては来店したカップルを艶やかに照らし出したのだろう天井に据え付けられたシャンデリア型の照明も、今は微かな明かりを灯す事さえ無く、光源と呼べる物が一切見当たらないロビーは静けさと暗闇が折り重なっているばかりである。
しかし、そこに蠢く無数の影があった。
起き晒しにされたソファやテーブルの陰からよろよろと立ち上がり、よろめきながらも動き続けるのは既に屍と化したロシアン・マフィアの男達であった。いずれも皮膚は干乾びて皺が走り、目は白濁して焦点も定まってはおらず、口は半開きで擦れた喘ぎ声のような音声がそこから絶えず漏れ出ている。
生前の記憶も意識も殆ど留めていないように見えるそれらは、しかし、屋内に足を踏み入れたリウドルフを認めるなり、銘々に呻き声を上げて侵入者の方へと歩き出したのであった。
死人の群、と言うよりはむしろ死する事さえ許されずに彷徨い続ける、それは奪えるものを一切余さず奪い尽くされた奴隷の一群であった。
その様子を俯瞰するように天井近くを飛び回りながら、銀色の甲虫が軽い声をまた発する。
『さて、試験という訳ではないんだがね、君が本当に目当ての人物なのかどうか、ここで確かめさせて貰うよ。まさかとは思うが、こんな奴らにあしらわれるようでは僕の願いも叶いそうにはないからね。こっちも無駄手間は踏みたくないんだ』
リウドルフが不快そうに顔を顰めた前で、躯の一体が進路上にあったテーブルを片手で掴み、そのまま頭上高くまで持ち上げる。見掛けとは裏腹の強靭な膂力を見せ付けたそれは、右腕一本で掲げた木製のテーブルを離れて立つリウドルフ目掛けて投げ付けたのであった。
唸りを上げて飛来するテーブルをリウドルフは首を傾いで躱し、標的を捉え損ねた投射物は床に落着するなりけたたましい音を立てて折れ砕ける。
正に人間離れした恐るべき力を備えた死人の群は、薄暗いロビーの奥より尚も続々と姿を現して一様にリウドルフの下へと迫るのだった。
『さあさあ、見事突破して見せてくれよ。くれぐれも僕をがっかりさせてくれるな。お前が噂に違わぬ人物だというのなら』
相変わらず頭上を飛び回りながら、銀色の甲虫は燥いだ言葉を遣した。
『僕は屋上にいる。今夜も月が綺麗だからね、あの女の子と一緒に鑑賞している所だよ。けど、早く来ないと、あの子を宴の肴にしようかな。腹が特段空いてる訳じゃないが、生娘の血はあれで中々美味いからねぇ』
「お前は……!」
リウドルフが眉間を歪めて頭上の『虫』を仰いだ。
『ほらほら、余所見なんかしている場合じゃない。観察するのは飽くまで僕なんだから。お前はまず僕を満足させる役目が……』
声は、そこで途切れた。
代わりに辺りに轟いたのは、吠え猛るような突風の音であった。
暗がりの中、リウドルフの背後で空気が不意に唸りを上げた直後、月光の照らす外界から薄暗い廃屋の中へと一陣の風が走ったのだった。そして銀色の甲虫はその風に呑まれるや否や、瞬時にして体を真っ二つに切り裂かれた。分割された虫の体は、しかし地面に落ちる事は無く、そのまま陽炎に覆われたかのように揺らいだ後に跡形も無く消失する。
「巧言令色鮮し仁……まあ、仁など最初から持ち合わせていないでしょうかね」
冷やかすような声は風が来たのと同じ方向、リウドルフの後ろより届いた。
「……つけられているだろうとは思ったよ」
言いながら、然して驚いた様子も表さず、リウドルフはゆっくりと背後を振り返る。
果たして彼の後方には、痩身長躯の人影が外から差し込む月光を背に佇んでいたのだった。
「お怪我はありませんか、テオさん?」
手にした扇子で顔の辺りを優雅に扇ぎつつ、月影司は冷めた眼差しを遣すリウドルフへ微笑み掛けた。
薄暗い埃だらけの廊下を進むのは、サーシャに率いられた屈強な男達の一団である。彼らは客室の扉が並ぶばかりの無人の廊下を音も立てずに歩きつつ、一方で四方に油断無く視線を散らせていたのであった。
一団を指揮し、壁伝いに慎重に廊下を進むサーシャの顔には、焦りと恐れとが入り混じっている。ほんの二十分程前、フェドセイが美香の一室に足を運んでいる間、彼らもまた別の客室に集まり、独自に協議を進めていたのであった。
『……だが、ここを出て何処へ行こうって言うんだ?』
月明かりの差し込む薄暗い一室で、ミーシャは声を抑えてサーシャへと問うた。
『何か当てがあるのか?』
『いや、全く無い』
ミーシャの問いにサーシャは短く答えた。
その部屋もまた他所と同じく家具が散らばり床も煤け放題であったが、集まったロシアンマフィアの男達はベッドやソファなどに腰を据えるでもなく、皆立ったまま話を続けた。
それ程までに今の彼らには落ち着きが無く、取りも直さず余裕が無かったのである。
この場に集まった十人程の仲間の顔を見回して、サーシャは言葉を続ける。
『だからいっそ、警察に保護を求めようかとも思う。たとえ身柄を拘束されても、まさかそのまま死刑台送りにはされんだろう。当面の命は保証される筈だ』
『しかし、それじゃ大した解決にはならないんじゃないのか?』
壁の窓から差し込む蒼い月明かりを背に浴びて話すサーシャへ、その隣からミーシャが苦言を呈した。
一方のサーシャは、緊張した面持ちを浮かべる仲間達へと顔を向けたまま、神妙な表情で説得する。
『当面の命を繋ぐ事が今は何より重要なんだ。考えてもみろ。奴は上からの指示でここに来たとか抜かしていたが、あんなのに指示や命令を下せる人間がいると思うか? あんな化物に……』
そこで一度言葉を切り、サーシャは眉間に皺を寄せる。
『奴は飽くまで自分の意志に基づいて行動している。このまま行けば、俺達はどんなに良くても捨て駒扱い、悪けりゃ大した理由も無しに殺されるぞ。ワーニャと同じにな』
サーシャの言葉に、ミーシャを含め居合わせた男達は険しい顔を覗かせるのみであった。
『俺達は今、地獄の釜の縁に立たされてるんだ。一刻も早くここを離れた方がいい。先の事はその時になってから考える。撤退する時には余計な事を考えるな。決して振り向かずにただ駆け抜けろ……それが俺の中の鉄則だ。もっとましな意見があるなら言ってくれ』
重々しい沈黙がそれに答えた。
そして彼らは今、一路外界を目指して夜の行軍に従事していたのだった。
照明の消えた暗い廊下を足音を立てぬよう慎重に慎重を重ねて進んだ彼らは、やがて廊下の端の階段まで辿り着く。幾度か階を下った後、階段の果てが仄かな光に照らされているのをサーシャは確認した。
建物の正面玄関から差し込む外の光がここまで届いているのだろう。
ふと息をついたサーシャの後ろでミーシャが彼へと囁く。
「それで、このまま手近の警察署へ皆して出頭するのか? 日本の留置場は飯も美味いといいんだが……」
「そうだな……」
残り数段となった階段を下りつつ、サーシャは苦い薬を飲み下そうとするかのように顔を顰める。
「……思ったが、いっそ、あのリウドルフって奴に助けを求めてみるのもいいかも知れん」
「おいおい、憑り殺されに行きたいのか? 前にあれだけ酷い目に遭ってるってのに?」
ミーシャが心底呆れた口振りで囁いた先で、だがサーシャはやおら微笑を浮かべた。
「そりゃ、奴も似たような化物ではあるだろうさ。だが、どう言うんだろうな……あっちの方がまだ血の一二滴は流れてるような気がする。単なる勘だがな」
「はっ、お前の勘もたまには外れる事だって……」
ミーシャがそこまで言った時の事であった。
「ふーん……そうやって怖気付いた挙句、敵前逃亡の集団脱走までしようってのかい。近頃は軍人の質も落ちたもんだねぇ」
冷ややかな声は一同の頭上から唐突に降り掛かった。
サーシャら一行が驚愕と戦慄の眼差しを真上へと向けた先、小さな人影が階段の裏側から逆様にぶら下がっていたのであった。
さながら深い洞の天蓋にて、静かに目を光らせ続ける蝙蝠の如くに。
その蝙蝠は対象を穿つような細く鋭い眼差しを、正に肉食獣のそれのような眼差しを下方へとじっと遣すのだった。
「少しでも目を離せば、これだ。御屋形様が御存命の頃は兵士と言えば皆が皆、祖国を守る為に必死で戦ってたもんだが。あの忌まわしいオスマン帝国にも徹底抗戦を貫いて……」
全身に赤黒い影を纏わせたフェドセイは、腕組みをした姿勢で眼下の男達を見下ろす。
「……それで、折角標的も近付いて来てくれている最中だと言うのに、お前らと来たらこの期に及んで一体何をしてるんだ? つくづく使い道の無い奴らだな。頭が痛くなって来るよ、全く」
自分達の頭上にぶら下がり平然と非難を遣して来る少年を仰いで、サーシャら一同はすぐに言葉も漏らせぬまま立ち尽くしていた。
「化物……」
サーシャの後ろで、辛うじてミーシャが呻くように呟いた。
直後、そのミーシャの下へフェドセイは身動ぎする間も与えず降り立つなり、吠え猛るように口を大きく開いたのであった。
体格にまるでそぐわない、太く鋭い無数の犬歯が薄明かりにぎらりと輝く。
そしてフェドセイは緋色の瞳を輝かせ、ミーシャの襟首に猛然と噛み付いたのであった。
「がぁぁぁぁああああああああああああああああああああッ!!」
絶叫を上げて全身を激しく痙攣させたミーシャの体から、生気が急速に抜け落ちて行く。
否、吸い上げられていたのであった。
彼の首筋に噛み付いた、この世のものならざる魔性の存在によって。
屈強で少し肥満気味でもあったミーシャの体躯はものの数秒で無惨に干乾び、がっくりと膝を折るとそのまま階段を転がり落ちて行く。
引き攣った悲鳴や打ち鳴らすような絶叫が、狭い階段に忽ち充満した。
男達が相次いで逃げ惑う中、フェドセイは大きく広げた口元から大量の鮮血を滴らせ、双眸をそれと同じ色に爛々と輝かせる。
「お前達に最後の役目と力を与えてやる……有難く受け入れろ……!」
そして無数の断末魔の叫びが、折り重なるようにして薄暗がりに木霊した。
星の無い夜空にはその日、両端を鋭くした三日月が昇っていた。
まるで細身の曲剣のような蒼白い月を見上げ、リウドルフはふと息をつく。
彼の前には明かりも消え解体を待つばかりと言った風情の、放置されたラブホテルが暗い空を背に物言わず建っていた。
数年前に経営に行き詰まって廃業を余儀無くされ、それでいて解体もすぐには進められず、結果として放置されて来たという寂れた建造物をリウドルフは少しの間仰ぎ見ていた。今は市内の風俗企業の管理下にあるというこの廃棄された建物が、市内に潜伏するロシアン・マフィアの塒として使われている可能性が高い事を彼は今日の昼休みに司から既に聞かされていたし、彼をここまで見張り導いて来た『もの』の口からも同様の結論が遣されたのだった。
今や従業員も支配人も去り、真っ当な客が訪れる事も無い巨大な廃屋に本来ならば人影が認められる筈も無い。
しかし建物の玄関に近付いたリウドルフの向かう先、煤けたガラス扉の向こうから、この時一個の人影が近付いて来るのだった。
随分と怪しい足取りで、しかしまるで泥濘を掻き分けるかのように必死の様相で建物の奥から現れた人影は、サーシャであった。
鏖殺の場となったホテル内から這う這うの体で逃げ延びて来たのか、大柄の体躯はあちこちが血に塗れ、髪も乱れ放題で表情は憔悴し切っている。それでも外界に佇む人影を認めたからか、彼はホテルの正面玄関のガラス扉へと殆ど倒れ込むような勢いで駆け寄ったのだった。
「たっ、助けてくれっ……頼む……」
そうして懸命に呼び掛ける相手が、かつての標的である事を向こうが察していたのかどうかはリウドルフにも判断は付かなかった。
不意に風が唸りを上げた。
次いでホテルの内外を隔てるガラス扉に大きな亀裂が走り、一瞬の間を置いて粉々に砕け散る。
月明かりに煌めくガラス片の向こうで、サーシャが前のめりに倒れ込んだ。
その額に小さな穴を穿たれて。
リウドルフが目元を大きく歪めた。
砕けたガラス扉の残骸が地面に撒き散らされたのと時をほぼ同じくして、耳障りな羽音を撒き散らしながら銀色の甲虫がリウドルフの下へと戻って来る。サーシャの額を打ち抜き、その勢いのまま半円を描いて『虫』は来客の肩へと舞い戻ったのであった。
『見苦しい所を見せたね。今回遣された兵隊というのが、どいつもこいつも使えない役立たずばっかりだったんだ。この一件が片付いたら、こんなクズ共を回した組織の連中にもきついお仕置きを据えてやらないといけないね』
「……お前は周りの人間を何だと思ってるんだ?」
まるで悪びれもせずに言ってのけた銀色の甲虫へ、リウドルフは鋭い眼差しを送り付けた。
それでも当の『虫』は一向に気にする素振りも覗かせず、至って軽い口調で断言する。
『虫の群さ。這いずり回って喚くばかりの虫の群。どうした所で僕らとは異質な存在だもの。君も本当はそう思ってるんじゃないのかい?』
「……一緒にするな」
そう切り捨てつつも、もう一方の人外者は視線を脇へと逸らしたのだった。
そのリウドルフの肩口から今一度飛び立つと、銀色の甲虫は破られたガラス扉の奥へ、暗闇が支配する廃屋の中へと緩やかに飛んで行く。
『さあ、おいでよ。愛しのあの子はこの奥だ。早く君に会いたいって、涙目になって待ってるよ』
「……何が愛しのあの子だ。俺はただ、教師としての責務を果たしに来ただけだ」
不満げに吐き捨てつつも、リウドルフはホテルの内部へと足を踏み入れて行く。既に事切れたサーシャの遺体を脇に寄せ、彼は正面玄関を越えて屋内へと入ったのであった。
かつては来店したカップルを艶やかに照らし出したのだろう天井に据え付けられたシャンデリア型の照明も、今は微かな明かりを灯す事さえ無く、光源と呼べる物が一切見当たらないロビーは静けさと暗闇が折り重なっているばかりである。
しかし、そこに蠢く無数の影があった。
起き晒しにされたソファやテーブルの陰からよろよろと立ち上がり、よろめきながらも動き続けるのは既に屍と化したロシアン・マフィアの男達であった。いずれも皮膚は干乾びて皺が走り、目は白濁して焦点も定まってはおらず、口は半開きで擦れた喘ぎ声のような音声がそこから絶えず漏れ出ている。
生前の記憶も意識も殆ど留めていないように見えるそれらは、しかし、屋内に足を踏み入れたリウドルフを認めるなり、銘々に呻き声を上げて侵入者の方へと歩き出したのであった。
死人の群、と言うよりはむしろ死する事さえ許されずに彷徨い続ける、それは奪えるものを一切余さず奪い尽くされた奴隷の一群であった。
その様子を俯瞰するように天井近くを飛び回りながら、銀色の甲虫が軽い声をまた発する。
『さて、試験という訳ではないんだがね、君が本当に目当ての人物なのかどうか、ここで確かめさせて貰うよ。まさかとは思うが、こんな奴らにあしらわれるようでは僕の願いも叶いそうにはないからね。こっちも無駄手間は踏みたくないんだ』
リウドルフが不快そうに顔を顰めた前で、躯の一体が進路上にあったテーブルを片手で掴み、そのまま頭上高くまで持ち上げる。見掛けとは裏腹の強靭な膂力を見せ付けたそれは、右腕一本で掲げた木製のテーブルを離れて立つリウドルフ目掛けて投げ付けたのであった。
唸りを上げて飛来するテーブルをリウドルフは首を傾いで躱し、標的を捉え損ねた投射物は床に落着するなりけたたましい音を立てて折れ砕ける。
正に人間離れした恐るべき力を備えた死人の群は、薄暗いロビーの奥より尚も続々と姿を現して一様にリウドルフの下へと迫るのだった。
『さあさあ、見事突破して見せてくれよ。くれぐれも僕をがっかりさせてくれるな。お前が噂に違わぬ人物だというのなら』
相変わらず頭上を飛び回りながら、銀色の甲虫は燥いだ言葉を遣した。
『僕は屋上にいる。今夜も月が綺麗だからね、あの女の子と一緒に鑑賞している所だよ。けど、早く来ないと、あの子を宴の肴にしようかな。腹が特段空いてる訳じゃないが、生娘の血はあれで中々美味いからねぇ』
「お前は……!」
リウドルフが眉間を歪めて頭上の『虫』を仰いだ。
『ほらほら、余所見なんかしている場合じゃない。観察するのは飽くまで僕なんだから。お前はまず僕を満足させる役目が……』
声は、そこで途切れた。
代わりに辺りに轟いたのは、吠え猛るような突風の音であった。
暗がりの中、リウドルフの背後で空気が不意に唸りを上げた直後、月光の照らす外界から薄暗い廃屋の中へと一陣の風が走ったのだった。そして銀色の甲虫はその風に呑まれるや否や、瞬時にして体を真っ二つに切り裂かれた。分割された虫の体は、しかし地面に落ちる事は無く、そのまま陽炎に覆われたかのように揺らいだ後に跡形も無く消失する。
「巧言令色鮮し仁……まあ、仁など最初から持ち合わせていないでしょうかね」
冷やかすような声は風が来たのと同じ方向、リウドルフの後ろより届いた。
「……つけられているだろうとは思ったよ」
言いながら、然して驚いた様子も表さず、リウドルフはゆっくりと背後を振り返る。
果たして彼の後方には、痩身長躯の人影が外から差し込む月光を背に佇んでいたのだった。
「お怪我はありませんか、テオさん?」
手にした扇子で顔の辺りを優雅に扇ぎつつ、月影司は冷めた眼差しを遣すリウドルフへ微笑み掛けた。
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そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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