幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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今宵もリッチな夜でした

その22

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 午後のまとわり付く暖気を、大勢の生徒達の人いきれが上塗りする。
 六時限目も終わり、放課後を前に掃除の時間が始まった。
 教室内でも廊下でも、多くの生徒がほうきやモップを動かし、清掃をとどこおりなく行なっている。
 徐々に赤みを帯びて行く西日の差し込む廊下を、リウドルフはいつもと何ら変わり映えせぬよれよれの白衣を羽織り、何処までやる気があるのかはなはだ怪しい足取りで進んでいた。
「あー、はいはい、君達ね、そうあからさまに手を止めてないでね。せめて見えない所でやんなさい」
 そう言って、リウドルフは階段の踊り場で談笑していた数人の男子生徒をたしなめる。
「決まり事に逆らうなとは言わないけど、いや言えないんだけども、少なくとも自分の世話を自分で見るって事には意義があるからね。大人になると兎角忘れがちな事だから、今の内によく憶えておきましょう」
 熱意に今一つ欠ける説教ではあったが、相手が相手である故か男子生徒達はそれぞれに渋々と掃除を再開したのであった。
 そうしてその場を後にしたリウドルフは、相変わらずふらふらとした足取りで廊下を進んで行く。
 教室内で机を動かす音、流しで雑巾を洗う音、そして多くの生徒達の話し声。それら響いて回る生活の音響の只中を、痩身の人影は足を止めるでもなく進む。
 西日に照らされるそれは、正しく影であった。
 音もにおいも後ろに引かず、『それ』が『居た』という痕跡を何一つ残さず、ただ通り過ぎて行くだけの影法師であった。
 そして人型の影は、程無くして廊下の突き当りで立ち止まる。
 無人の化学室が、彼の前にあった。
 他所よそよりも一足早く掃除が終わったらしい化学室は当然ひっそりとしており、長方形のテーブルが整然と並ぶ室内は余計に静寂が際立っていた。
 奥に置かれた教師用の机の席に腰を下ろし、リウドルフは無人の室内を眺め回す。座る者の誰もいない無数の丸椅子の向こうから、廊下を伝わって生徒達の歓声がかすかに漂って来た。
 窓から差し込む西日が、白い床をぼんやりと輝かせた。
 日陰の机からただ漫然と床の陽だまりを眺めていたリウドルフは、少しして顔を上げる。
 カメラのシャッター音が、静けさの中に差し挟まれた。
 リウドルフが机越しに眺め遣った先で、教室の敷居に美香が立ち、スマートフォンのレンズを彼に向けている所であった。担当の掃除場所からやって来たらしく、美香は片手に床箒ゆかぼうきを持ち、化学室の出入口の壁に寄り掛かるようしてたたずんでいる。
 廊下の掃除でもしていた際に、偶々たまたまこちらを見掛けて後を付けて来たのだろうか。
「……何やってんだ?」
「……心霊写真」
 美香がおどけるでもなく言ってのけると、リウドルフは気疲れしたような表情をのぞかせた。
「……よくよく暇な奴だよ、お前は……」
 美香はスマートフォンをしまうと、リウドルフの顔を上目遣いに見つめる。
「それって、ひょっとして馬鹿にしてんの?」
「いや呆れてるだけだ。割と真剣に」
 そう言い捨てて息を一つついたリウドルフの前で、美香はほうきを片手に化学室の入口から問い掛ける。
「何してるんですか?」
「別に何も……ここなら人も滅多に立ち入らないだろ」
「サボり発見」
たまには一人になりたい時もある」
 教師用の机の上で両手を組み、リウドルフが億劫そうに答えた向かいで、美香はおもむろに眉根を寄せた。
「けど先生って、結構勝手な所があるんじゃないですか? こないだは私達とお喋りしに近付いて来たのに、今日はこんな所で一人でいて……」
 何やら批判めいた意見を遣されたリウドルフは、肩を小さくすくめて見せる。
「割と昔からそんなもんだ。俺から気まぐれを取ったら後は骨と皮しか残らない」
「……って、もう骨しか残ってないでしょうが」
 美香が呆れた口ぶりでぼやいたが、リウドルフは構わず視線を脇へと逸らした。
 つくづく面倒臭い奴に付きまとわれたもんだ、と彼は後悔じみた感慨をこの時抱いたのであった。
 とは言え、『これ』をこのまま放置しておく訳にも行かない。
 それこそ何を仕出かすか知れたものではないからだ。
 テーブルを幾つか隔てた先、化学室の入口近くに美香は何処か所在無さそうにたたずんでいる。教室内に入って来るでもなく、かと言って立ち去ろうともせず、床帚ゆかぼうきに寄り掛かるようにして少女は一人、無人の教室の主と向かい合っていた。
 ややあってから、リウドルフはふと鼻息をついた。
「お前もここ何日か、今一落ち着きが無いな。言っとくが、事件の方はもうおしまいだ。先週取っ捕まった連中もそろそろあきらめて口を割り始めたそうだ。もう何日かすれば怖い大人達が大勢乗り出して悪い奴らをお縄に掛ける。そういう流れがもう出来てる」
「へえ……じゃあ、良かったじゃないですか」
 素直に感心したように言った美香へ、リウドルフは言い聞かせるように言葉を続ける。
「だから、つまらない事を気にしたり、変な期待を持ったりせずに自分のすべき事に集中しなさい。中間テストが近いんだから。これで俺の科目で赤点なんか取った日には、素顔で睨み付けるぞ」
「何それ、怖ーい」
 おどけた調子で、美香は声を上げて見せた。
 何とも親しげな口振りであった。
 そんな態度をのぞかせた少女へ、リウドルフは少し目元を細めて、穏やかに問い掛ける。
「……どうして俺の素性を包み隠さず明かしたか、判るか?」
 生徒達の歓声が、廊下を伝わってかすかに届く。
 窓から差し込む西日が、わずかに赤みを増した。
 美香は数秒の間黙考した後、眉根を少し寄せて眼前の大人を仰ぎ見た。
「……変な噂が立つのを防ぐ為、でしょ?」
「ほう……意外と利発な所があるじゃないか」
 リウドルフは机の上で手を組んだまま、口の端を吊り上げて見せた。
「普通高校に勤めるしがない教師が、実は五百年前の死人しびとだったなんて話、周りに触れて回った所で一笑に付されるのがオチだからな。事実を知ってしまえば、おかしな推測やデマを撒き散らす気も失せるだろうと、そう踏んだからこそ話したんだ」
「……やっぱ、あたしの事馬鹿にしてるでしょ、絶対?」
 そう漏らした美香の目元が、にわかに鋭くなる。ただし、それは怒りや苛立ちと言うよりは、むしろ悔しさや悲しさに近いものだった。
 やはり、やはりそうだったのか。
 美香は否応無しに確信させられたのであった。
 憤りよりもむしろ落胆の方が大きかった。
 所詮お前などが何も知る必要は無いのだと、知った所で何が出来る筈も無いのだと、誰かに傲然とささやかれているかのような錯覚を美香はこれまでも時折覚えた事があったが、如何に見え透いた事と言えど、はっきり形にして示されれば流石に澄ましてはいられないのである。
 こちらは所結局、その程度の扱いを受けるだけの端役に過ぎないのだ。
 だからこそ美香は悔しかったし、そんな態度を平然とのぞかせた相手へ僻むような恨むような感情を向けたのだった。
「どうせ、あたしなんかに何も出来る筈が無いと高を括って……」
「そうじゃない。これがお互いの為だ。一番ましな選択だった」
 相手から視線を一旦外して、リウドルフは事務的に言い放った。
「人との距離が軽々しく詰められるなどと思わない事だ。俺は死人でお前は生者、それもまだまだ未熟でひ弱な子供なんだからな。自分に出来る事をわきまえろ」
「……どうしてそんな事言うの?」
 表情を歪めた美香へと、リウドルフは殊更に冷淡に告げる。
「言っただろ。これが互いの為だ」
 そう、結局こうするのが一番なのだ。
 彼は頭の中で今一度念を押した。
 事実をそのまま告げれば、こういう手合いは必ず踏み込んで来るに決まっている。
 そちらの方が遥かに厄介なのだ。
「一連のドタバタもじきに終わる。全ては元通りだ。俺ももう何の関心も抱いていない。興味があるとすれば、『NCIS』の新シリーズが週末からスタートするぐらいかな。新メンバーがどんなキャラになるのか、今から楽しみで仕方が無いんだ」
 美香の顔をじっと見つめながら、リウドルフは冷やかすように言ってのけた。
 所詮は作り物に過ぎない面皮には、幾らでも表情を乗せる事が出来る。この時の彼の面立ちには、露骨に相手を見下ろす高慢さ、ある種の憐れみ、そして嘲りと言った諸々の負の感情が露わになっていたのであった。
 そしてそれを額面通りに受け取ったらしく、美香は矢庭に顔を逸らして吐き捨てる。
「じゃあ……じゃあ、勝手にすれば……!」
 教師用の机からリウドルフが冷ややかに見つめる先で美香は顔を一際歪めると、そのまま物も言わずに踵を返し、化学室を足早に去って行ったのであった。
 廊下の奥へと小さくなって行くその背を、リウドルフはしばらくの間、黙して見つめたのだった。
 その彼の後ろ頭に、のんびりとした声が掛かった。
『テオさん』
 三時間程前の昼休み、廊下を歩いていたリウドルフは後ろから司に呼び止められたのである。
『一応の中間報告と言う所ですが、拘束された例の襲撃者達がぽつぽつと供述を始めたそうです。背後関係と当初の潜伏先を割り出すまであと少しと言った所でしょうか。一斉検挙のいい機会ですから、公安当局も大分息巻いているようで、こちらは時間の問題と言った所でしょう』
 いつも通りの微笑をたたえて告げた司は、だが、そこで面持ちをいささか硬くする。
『……ただ、先程ロシア大使館から連絡が入りまして、あちらから一名、こちらへ新たに渡航した者がある可能性が高いとの警告が遠回しに遣されました。何でもバチカンやギリシャ正教会が長年動きを追っていた相手である恐れがあり、身辺に充分な警戒をされたし、と』
 後ろに撫で付けた髪を整えつつ、司は息をついた。
『ま、あの国の情報提供が遅いのはいつもの事ですからね。こうして警告が届いたという事は、すでに市街に入られたものと見て良いのではないでしょうか。つい先日、近場で血生臭い騒ぎも起こりましたし』
 そこまで思い返した後、リウドルフは双眸そうぼうを前方へと向ける。
 化学室の戸口には最早人影はなく、何処かだらしなさそうに開かれた引き戸の隙間が部屋の主人を見つめ返した。
 机の上で手を組み直し、リウドルフは一つ息をつく。
 立ち入らないで済むのなら、巻き込まれずに済むのなら、それが一番ではないか。
 どの道『こちら』に関わって、何か得られるもののある筈が無い。
 それどころか大切なものを失ってしまう危険性の方が遥かに大きいのだ。
 きっと、また『あの時』のように。
 日陰にその身を落ち着かせた者は、光射す廊下を見つめながら物憂げな面持ちを保っていたのであった。
 掃除の時間の終了を告げるチャイムが、校内に鳴り響いた。
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